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日本史総合図録(増補版)、山川出版社、2005年、68ページより
西軍の総兵力 約84,000
うち、
反応軍(小早川秀秋の兵力 約15,000、脇坂安冶・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠の兵力 約5,000)
傍観軍(吉川広家・毛利秀元・安国寺恵瓊・長塚正家・長曽我部盛親)の兵力 約30,000
【笹尾山 石田三成陣跡】
石田三成の兵力 約6,000
「国史跡
石田三成陣跡
ここ笹尾山一帯の石田隊六千余は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、前衛隊長の島左近らの指揮のもと、すさまじい死闘を展開しました。
小早川らの裏切りは、戦況を一変させ、西軍の実践兵力は三万五千前後に激減し、西軍の敗色濃厚となるや、最早これまでと三成は北国街道沿いに敗退していったのです。 関ケ原町」
笹尾山からは、左手に南宮山、右手に松尾山が一望できる。
【島津義弘(惟新)陣跡】
島津義弘の兵力 約1,000
「島津義弘(惟新)陣跡
戦国の雄・島津軍団千人を率いた義弘は、北国街道をおさえるため、ここ小池村に陣をかまえました。
西軍がことごとく敗退するなかで、『西軍に島津あり』の勇姿を家康に見せつけるため、義弘は最後の賭けに出たのです。「敗進」を最強の武器に変えたその決断こそ、現代にまで語りつがれる『敵中突破』なのです。 関ケ原町」
【鳥頭坂 島津豊久碑】
「鳥頭坂 島津豊久碑
ここは、養老郡上石津町大字牧田地内の鳥頭坂というところであるが、関ケ原合戦の際午後三時頃西軍は ほとんど、総くずれとなったので最後までよく頑張った島津勢も遂に敵中を突破して、ここまで来たが、東軍の松平忠吉、井伊直政、本多忠勝等がはげしく追撃して来たので島津惟新の甥、島津豊久がここで頑強にくいとめた、その間に島津勢は、多良時を経て、後 鹿児島へ帰ることができた、豊久の生死は、不明であるが、古跡保存会の手により此の地に豊久の碑を建てたのである、一説には、豊久は、多良まで落ちのびたが、手傷が重いため、自害してしまったともいう。 関ケ原町観光協会」
【小西行長陣跡】
小西行長の兵力 約6,000
「小西行長陣跡
小西行長は、ここ北天満山に六千余の兵を率いて参戦しました。
午前八時ごろ、戦闘開始の狼煙をあげ、味方に合図すると共に、西軍主力の一つとして勇戦しています。
しかし小早川らの裏切りの衝撃は小西隊の混乱を招き、それに乗じた本多隊の襲撃で、兵士たちが敗退しはじめたのは午後一時過ぎのことでした。 関ケ原町」
【宇喜多秀家陣跡】
宇喜多秀家の兵力 約17,000
「宇喜多秀家陣跡
西軍副大将の秀家は、一万七千の兵を配して中山道をおさえました。
午前八時頃東軍福島勢の猛攻から戦いは始まり、秀家の前衛明石全登の隊との衝突となりました。宮本武蔵が奮戦したのもこの辺りといわれています。
秀家は敗走中池田郡白樫村の矢野五右衛門に助けられ、その後八丈島へ流され、八十三才まで生き延びています。 関ケ原町」
【大谷吉隆(吉継)陣跡と墓】
大谷吉隆(吉継)・平塚為広・戸田重政・木下頼継の兵力 約4,000
「大谷吉隆(吉継)陣跡
親友三成の懇請を受けた吉隆は、死に装束でここ宮上に出陣してきました。
松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城をいわれるくらいの要害の地でした。
九月三日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で、浮田隊ら友軍の陣造りも進め、十五日未明の三成ら主力の着陣を待ったといいます。 関ケ原町」
大谷刑部少輔吉隆碑
「国史跡(昭六・三・三〇指定)
大谷吉隆(吉継)墓
吉隆は三成の挙兵に対し、再三思い止まるよう説得しましたが、三成の決意は変わりませんでした。
旧友の苦痛を察した吉隆は、とうとう死を共にする決意をし、死に装束でここ宮上に出陣してきたのです。
壮絶な死闘の末、吉隆は、首を敵方に渡すな、と言い残して自害しました。
これは敵方藤堂家が建てたものです。 関ケ原町」
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日本史総合図録(増補版)、山川出版社、2005年、68ページより
西軍の総兵力 約84,000
うち、
反応軍(小早川秀秋の兵力 約15,000、脇坂安冶・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠の兵力 約5,000)
傍観軍(吉川広家・毛利秀元・安国寺恵瓊・長塚正家・長曽我部盛親)の兵力 約30,000
【笹尾山 石田三成陣跡】
石田三成の兵力 約6,000
「国史跡
石田三成陣跡
ここ笹尾山一帯の石田隊六千余は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、前衛隊長の島左近らの指揮のもと、すさまじい死闘を展開しました。
小早川らの裏切りは、戦況を一変させ、西軍の実践兵力は三万五千前後に激減し、西軍の敗色濃厚となるや、最早これまでと三成は北国街道沿いに敗退していったのです。 関ケ原町」
笹尾山からは、左手に南宮山、右手に松尾山が一望できる。
【島津義弘(惟新)陣跡】
島津義弘の兵力 約1,000
「島津義弘(惟新)陣跡
戦国の雄・島津軍団千人を率いた義弘は、北国街道をおさえるため、ここ小池村に陣をかまえました。
西軍がことごとく敗退するなかで、『西軍に島津あり』の勇姿を家康に見せつけるため、義弘は最後の賭けに出たのです。「敗進」を最強の武器に変えたその決断こそ、現代にまで語りつがれる『敵中突破』なのです。 関ケ原町」
【鳥頭坂 島津豊久碑】
「鳥頭坂 島津豊久碑
ここは、養老郡上石津町大字牧田地内の鳥頭坂というところであるが、関ケ原合戦の際午後三時頃西軍は ほとんど、総くずれとなったので最後までよく頑張った島津勢も遂に敵中を突破して、ここまで来たが、東軍の松平忠吉、井伊直政、本多忠勝等がはげしく追撃して来たので島津惟新の甥、島津豊久がここで頑強にくいとめた、その間に島津勢は、多良時を経て、後 鹿児島へ帰ることができた、豊久の生死は、不明であるが、古跡保存会の手により此の地に豊久の碑を建てたのである、一説には、豊久は、多良まで落ちのびたが、手傷が重いため、自害してしまったともいう。 関ケ原町観光協会」
【小西行長陣跡】
小西行長の兵力 約6,000
「小西行長陣跡
小西行長は、ここ北天満山に六千余の兵を率いて参戦しました。
午前八時ごろ、戦闘開始の狼煙をあげ、味方に合図すると共に、西軍主力の一つとして勇戦しています。
しかし小早川らの裏切りの衝撃は小西隊の混乱を招き、それに乗じた本多隊の襲撃で、兵士たちが敗退しはじめたのは午後一時過ぎのことでした。 関ケ原町」
【宇喜多秀家陣跡】
宇喜多秀家の兵力 約17,000
「宇喜多秀家陣跡
西軍副大将の秀家は、一万七千の兵を配して中山道をおさえました。
午前八時頃東軍福島勢の猛攻から戦いは始まり、秀家の前衛明石全登の隊との衝突となりました。宮本武蔵が奮戦したのもこの辺りといわれています。
秀家は敗走中池田郡白樫村の矢野五右衛門に助けられ、その後八丈島へ流され、八十三才まで生き延びています。 関ケ原町」
【大谷吉隆(吉継)陣跡と墓】
大谷吉隆(吉継)・平塚為広・戸田重政・木下頼継の兵力 約4,000
「大谷吉隆(吉継)陣跡
親友三成の懇請を受けた吉隆は、死に装束でここ宮上に出陣してきました。
松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城をいわれるくらいの要害の地でした。
九月三日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で、浮田隊ら友軍の陣造りも進め、十五日未明の三成ら主力の着陣を待ったといいます。 関ケ原町」
大谷刑部少輔吉隆碑
「国史跡(昭六・三・三〇指定)
大谷吉隆(吉継)墓
吉隆は三成の挙兵に対し、再三思い止まるよう説得しましたが、三成の決意は変わりませんでした。
旧友の苦痛を察した吉隆は、とうとう死を共にする決意をし、死に装束でここ宮上に出陣してきたのです。
壮絶な死闘の末、吉隆は、首を敵方に渡すな、と言い残して自害しました。
これは敵方藤堂家が建てたものです。 関ケ原町」