大倉草紙

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【岐阜】 奥の細道むすびの地

2009年02月07日 23時45分00秒 | 旅 - 岐阜県
8月27日(水)
当日の行程:(車) → 【問屋場跡】 → 【大垣宿本陣跡】【奥の細道むすびの地】 → 【奥の細道むすびの地記念館】【大垣城跡】【中山道赤坂宿本陣跡】【勝山】【南宮大社】【美濃不破関跡・壬申の乱史跡】 → 【関ケ原の戦いゆかりの地①東軍②西軍③傍観軍・反応軍④陣跡以外の史跡】 → (大垣泊)



元禄2年(1689)の秋、松尾芭蕉は「奥の細道」の旅を大垣で終えた。
大垣の水門川に沿った歩道には、芭蕉の句碑が数多く並んでいる。
芭蕉が始めて大垣を訪れたのは、貞享元年(1684))、「野ざらし紀行」の旅の途中に俳友である谷木因を尋ねたときのこと。
芭蕉と木因の像もある。


谷木因俳句道標
これは、「野ざらし紀行」の旅で大垣を訪れた芭蕉への歓迎の意を込めて木因が建立したと伝えられる道標のレプリカ。
実物は、「奥の細道むすびの地記念館」で保管している。
『南いせ くわなへ十り ざいがうみち』と、道しるべの方向を俳句であらわしている。
「くわなへ」は地名の「桑名へ」と季語の「桑苗」の掛詞。


「谷木因俳句道標」の後方には、芭蕉と木全の句碑が並んでいる。
向かって右側が蛤塚を呼ばれるもの。
『蛤のふたみに別行秋ぞ』
「奥の細道」のむすびの句である。
向かって左側が木全白桜塚と呼ばれるもの。
『惜むひげ剃りたり窓に夏木立白桜下』


芭蕉の句碑
『隠家や菊と月とに田三反』


投句箱も置かれている。
11月には、俳句相撲大会も開催されたそうだ。
日本の東西文化の接点地である大垣で、東と西に分かれて自慢の一句を競い合う大会だ。


これらの句碑が並ぶ水門川は、大垣市から南流し、揖斐川に合流する運河。
永禄4年(1561)に大垣城主・氏家直元が城池改築の際に開堀したものだという。
松尾芭蕉も、「奥の細道」の旅の後に、伊勢の遷宮参拝のために水門川を下ったそうだ。


大垣市総合福祉会館の一部が、「奥の細道むすびの地記念館」になっている。
松尾芭蕉と大垣のつながりが分かる資料や谷木因をはじめとした大垣の俳人に関する資料を目にすることができる。

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