大倉草紙

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【和歌山】 白浜

2009年07月04日 21時00分00秒 | 旅 - 和歌山県
2月8日(日)
本日の行程:(車) → 【熊野本宮大社】 → 【大斎原】【有間皇子の碑】 → 【白良湯】【南方熊楠記念館】【闘鶏神社】【南方熊楠顕彰館】【奇絶峡】【紀州備長炭発見館】【道成寺】【和歌山県立箕島高等学校】


有間皇子之碑
NHKの「日めくり万葉集」という番組で、有間皇子が詠んだ歌が紹介されていた。
「磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば またかへり見む」
番組の中で白良浜の近くに建つこの碑のことを知り、見てみたくなった。

碑の裏側には次のように書かれている。
「有間皇子は第三十六代孝徳天皇の皇子である。
三十七代斉明天皇の即位三年九月(千三百余年前)気保養と称ってこの地に遊び、其の風光絶佳なるに深く感嘆し帰りて帝に奏上した。帝はきこしめし悦びたまひて一度みそなわさむと、御言葉があって、其の翌年遂に牟婁温泉行幸となる。左大臣蘇我赤兄留守を守る。或日赤兄、時の失政を挙げて有馬皇子に語る。話しの最中に皇子の倚れる椅子が、故なく折れくづれたのでこれは不祥だと言って皇子は話しを止めて直に館に帰る。其夜、赤兄は、部下を率ひて市経第の皇子邸を囲み有馬皇子謀反したと帝に訴報する。皇子護送されて白浜の行在所に来り、天皇、皇太子の反状を問ふに、答へて曰く、『天と赤兄とのみ知る。吾は知らざるなりと』。のち、連国襲をして有間皇子を藤白坂に絞殺せしむ。と日本書紀に有り。時に、御年十九才であった。時の皇太子は中大兄皇子。赤兄は蘇我入鹿の従兄。当時最も厳しき皇位継承論議の渦の中に野心家赤兄の為めに計られ、千古の悲劇の御最期として史家は伝へている。」



白良浜は美しい。
白良浜というだけあって砂浜は白く、ゴミひとつ落ちていない。
この砂浜の砂がオーストラリアから運ばれたものだと知ったのは、つい先日のこと。
自然にできたものではないんだ、と少しがっかりしたが、これだけの美しさを保っているのはスゴイ。

白良浜に向かう車中、浜辺を走る姿を写真に撮るよう夫に頼まれる。
いったいどうした訳でそんなことを言うのか私には理解できない。
訊けば、ボクシングの雑誌に白良浜を走るボクサーの姿が載っていて、自分もいつかは白良浜を走ってみたいと思っていたそうだ。
それを聞いても、私には理解できない。
たいていのスポーツは好んで観るが、ボクシングには全く興味がないのだ。
本当に走っている姿を写真に収めるのだろうか、と半信半疑のまま浜辺に出る。
真剣な表情で走り出したものだから、驚いた私はシャッターを切るタイミングを逸してしまい、何度かやり直し。
良いトレーニングになったはずだ。


すぐ近くの白良湯でゆっくりする。


円月島
海岸沿いの道を行くと、円月島が現れる。
目に入ってきたときは、写真で見たあの島だ!と嬉しくなった。
海触洞と沈む夕日が重なる光景の美しさは有名。

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