大倉草紙

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【和歌山】 藤白神社

2009年07月24日 21時00分00秒 | 旅 - 和歌山県
2月14日(土)
当日の行程:(車) → 【藤白神社】【和歌山県立海南高校】【紀三井寺】【雑賀城跡】 → 【鈴木孫一の墓(蓮乗寺)】【大阪府立近つ飛鳥博物館】 → 【敏達天皇陵】 → 【用明天皇陵】 → 【推古天皇陵】 → 【小野妹子の墓】 → 【科長神社】 → 【孝徳天皇陵】 → 【竹内街道歴史資料館】【上宮太子高校】【道明寺】【葛井寺】


藤白神社は、斎明天皇が牟婁の湯に行幸の折、この地を訪れて創建したといわれる。


ここは、熊野三山の入口とされる。
上に挙げた写真の鳥居とは別の、駐車場に面して建っている鳥居の傍らには、このような石碑がある。
「三熊野一の鳥居
 これより熊野路のはじめ」と刻まれている。


社務所
この奥に、拝殿がある。


残念ながら、ウチは「鈴木さん」ではない。
社務所で、鈴木さんへのお土産として「鈴木さんせんべい」を購入。


拝殿


藤白王子権現本堂


聖皇三代重石
宇多・花山・白河三上皇の熊野御幸を記念して建てられたもの。


御歌塚
建仁元年(1201)、後鳥羽上皇の熊野御幸の際に催された藤白王子和歌会の熊野懐紙が納められているという。


芭蕉翁藤塚


子守楠神社
樹齢1000年といわれる大きな楠の手前に小さく見えるのが、子守楠神社。
古くから、子守の宮として信仰されていた。
南方熊楠のように、この神様から楠・熊・藤等の名前を授かる人が多いという。


有間皇子神社
「今から千三百数十年前、孝徳天皇の皇子であった有間皇子は皇位継承をめぐる複雑な争いの中で、十九才の若さで散っていった悲運な方です。政敵であった中大兄皇子が蘇我赤兄をさそい有間皇子に天皇に謀反をすることをすすめました。うまく、わなにかかった皇子はその釈明のため牟婁(白浜)の温泉にいる斉明天皇のところに参り、その帰路この藤白坂で絞殺されてしまったのです。
 途中で皇子の詠まれた
『家にあら(れ)ば笥(け)に盛る飯(いい)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る』
『磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む』
の二首が万葉集にのせられていますが絶唱としてひとびとの涙をさそいます。
 ここから二〇〇メートル西の藤白坂の上り口に、皇子之墓と佐佐木信綱博士揮毫の歌碑がありますが、有間皇子神社はその御魂をお祀りしています。(以下略)」(案内板より)


藤白神社の御朱印


有間皇子が絞殺されたという藤白坂へ行ってみた。



有間皇子の墓と歌碑
「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」


藤白神社を挟んで、藤白坂とは反対の方角には、鈴木屋敷が残っている。

「ここは、鈴木姓の元祖とされる藤白の鈴木氏が住んでいた所です。
 平安末期ごろ、上皇や法皇の熊野参詣がさかんとなり、熊野の鈴木氏が、この地に移り住んで、熊野三山への案内役をつとめたり、この地を拠点として熊野信仰の普及につとめていました。
 なかでも、鈴木三郎重家や亀井六郎重清は有名で、源義経の家来として衣川館(ころもがわのたて)で戦死を遂げたと伝えられています。
 また、重家・重清らが幼少の頃、牛若丸(源義経の幼名)が熊野住還には必ずこの屋敷に滞在し、山野に遊んだとも伝えられています。
 平成十六年十月 海南市教育委員会」

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