大倉草紙

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【和歌山】 闘鶏神社

2009年07月07日 21時00分00秒 | 旅 - 和歌山県
2月8日(日)
本日の行程:(車) → 【熊野本宮大社】 → 【大斎原】【有間皇子の碑】 → 【白良湯】【南方熊楠記念館】【闘鶏神社】【南方熊楠顕彰館】【奇絶峡】http://blog.goo.ne.jp/okura-w/d/20090709【道成寺】【和歌山県立箕島高等学校】


允恭天皇8年、熊野権現(現・熊野本宮大社)を勧請し、「田辺の宮」と称したのが闘鶏神社のはじまり。


馬場
鳥居の手前には、幅約11メートル、長さ約230メートルの馬場がある。
江戸時代から流鏑馬や競馬が行われていたが、昭和39年(1964)に危険防止などの理由から中止されたそうだ。


拝殿


本殿
本殿裏には仮庵山(かりおやま)がある。
「仮庵山と南方熊楠
本殿裏の神山で、古代祭祀跡指定地。社伝によると竜神の信仰があり、又経塚も発見されている。
仮庵山は、うっそうとした自然林で巨大な楠が、大きく枝を広げていたというが明治の頃に枯損木と偽り切り倒されてしまい、これ以上の伐採を中止させようと南方熊楠氏は関係者を厳しく批判し抗議している。南方熊楠は、仮庵山を『クラガリ山』と呼び『当県で平地にはちょっと見られぬ密林なり』と評価し、多くの珍しい植物を採集している。」(案内板より)


湛増弁慶の像
「源平の戦いは一の谷の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向がその勝敗に大きな影響を与えることになり、熊野水軍の統率者である熊野別当湛増に対する源平双方の働きかけは激しさをきわめた。
義経の命を受けた弁慶は急いで田辺に帰り、父湛増の説得に成功、湛増は白い鶏七羽紅い鶏七羽を闘わせて神意を確かめ、湛増指揮のもと弁慶を先頭に若王子の御正体を奉持、金剛童子の旗をなびかせて総勢二千余人、二百余の舟に乗って堂々と壇の浦向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たした。
時に文治元年(一一八五年)三月のことであった。
 昭和六十二年五月三日
武蔵坊弁慶・熊野水軍出陣八百年祭実行委員会」


奉納されているお酒は「弁慶の里」。


弁慶社


藤巌神社
祭神は、安藤直次(藤巌公)。
「安藤直次公は幼少から徳川家康に近侍し、姉川合戦、長篠合戦長久手合戦などに従軍。のちに家康の側近として幕政に参画した。
 慶長十五年(一六一〇)家康の第十子頼宣の伝役となり、大阪の陣には頼宣に従って出陣。元和五年(一六一九)頼宣が紀伊に移ると、紀州徳川家の附家老としてこの田辺に封ぜられ、三万八千八百石を支配した。
 屋敷城(後の錦水城)の築城と城下町の整備が進められ、商業や文化面に力を注ぎ、以来田辺は明治に至るまで、安藤氏三万八千八百石の城下町として発展して行く。
 寛永十二年五月十三日没。 享年八十一歳。
 位牌は田辺市内の慈航山海蔵寺に安置されており、墓所は三河国蒼海郡(愛知県岡崎市大和町)桑子山妙源寺。法名が『藤巌院殿崇賢居士』であるため『藤厳公』とお呼びしている。
 明治十九年(一八八六)有志により、現在の田辺の原形を作られた藤厳公の功績に感謝し、遺徳を永久に崇敬する為、闘鶏神社境内に建立し、現在に至る。」


御神木 大楠
樹齢約1200年といわれる。
樹洞には人が住みついていて、大楠に火がついたところ中から火を消したという話が伝わっているらしい。
延命長寿・無病息災の信仰となっていて、楠の葉を歯痛の患部に付けると治るともいわれている。


闘鶏神社の御朱印