大倉草紙

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【兵庫】 篠山

2009年08月27日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
5月3日(日)
当日の行程:(車) → 【八上城跡】【篠山市立武家屋敷安間家史料館】 → 【篠山市立青山歴史村】 → 【篠山城大書院】 → 【篠山市立歴史美術館】【舞鶴引揚記念館】【赤れんが博物館】【海軍記念館】 → 【自衛隊桟橋】【田辺城跡】 → (倉吉泊)

篠山では、「4館共通入館券」を購入し、見てまわる。
【篠山市立武家屋敷安間家史料館】

武家屋敷安間(あんま)家史料館は、慶長14年(1609)に築かれた篠山城の御徒士町通りの一角にある。
篠山藩主青山氏の家臣・安間氏の武家屋敷を復元したもの。


中庭から見た安間家住宅


座敷


台所


かまど


水琴窟


【篠山市立青山歴史村】

旧澤井家長屋門
青山歴史村は、旧藩主青山家の篠山別邸だった。
青山家ゆかりの品、篠山藩校「振徳堂」の蔵書などが公開されている。


石造金櫃
藩政時代に使われていた石の金庫。
土蔵の下に埋められていたそうだ。


篠山城主青山家家紋入瓦
庭に銭をかついで生えてきた筍があり、それを切って馬標にしたところ出陣ごとに功績があったので、穴あき銭を家紋としたと伝えられる。


篠山城惜別の碑
最後の篠山城主・青山忠敏(ただゆき)は、明治2年(1869)の廃藩によって東京に去る際に、「今よりは学問に心をいたし、国の光をそえよ」との言葉を残した。
青山家家臣で、篠山町初代町長である安藤直紀は、それに感動し、後の世に伝えようとこの碑を建てたそうだ。


篠山出身の和算家・万尾時春の碑


この倉に様ざまな史料が陳列されている。
なかでも、『鼠草子絵巻』はかわいらしく、印象深い。


【篠山城大書院】

篠山城は、慶長14年(1609)徳川家康が築いた。
初代城として家康の子・松平康重が八上城から移り、その後は松平氏三家八代と青山氏六代が城主となる。


鉄門跡


大書院 上段の間


大書院
大書院は、明治維新後も残され学校の校舎や公会堂として使われていたが、昭和19年(1944)に焼失。
現在の大書院は、平成12年(2000)に再建されたもの。


青山神社
本丸跡には、青山神社が鎮座している。
祭神は、3代将軍・家光の養育係であった青山忠俊と篠山城主・青山忠裕。


天守台


天守台からの風景
丹波富士と呼ばれる高城山も見える。
朝一番に行った八上城跡は、この山の上にある。


【篠山市立歴史美術館】

篠山市立歴史美術館の建物は、篠山藩庁だった。
明治10年(1877)から昭和56年(1981)まで地方裁判所として使われ、その後、歴史美術館となった。
木造建築の裁判所としては、日本最古のものだという。


旧法廷展示室


東海道・中仙道・甲州街道図屏風
こういう図屏風を、地名をたどりながら見るのは楽しい。

美術館の近くで、丹波黒豆アイスを食べる。
あっさりとしていて、とてもおいしい。

【兵庫】 圓教寺

2009年08月26日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
4月29日(水)
当日の行程:(JR姫路駅…神姫バス・姫路駅前~法華山一乗寺) → 【一乗寺】 → (神姫バス・法華山一乗寺~姫路駅前…神姫バス・姫路駅前~書写駅) → 【圓教寺】


書寫山
圓教寺は、書寫山にある。
康保3年(966)、性空上人の創建といわれる。
山の上まではロープウェイもあるが、せっかく訪れたのだからと登山道を行く。


こんな風に岩だらけ。
道を歩くというよりも、岩を登るという感じだ。


振り返れば、景色は抜群。


慈悲の鐘


仁王門


石造笠塔婆
鎌倉時代に造られたもの。


護法石(弁慶のお手玉石)
この石の上に、乙天、若天の二人が降り立ち、寺門を守ったといわれる。
また、弁慶はこの石をお手玉にしたという伝説がある。


湯屋橋
姫路城主・本多忠政が修理したもので、「奉寄進 播州飾西郡書寫山圓教寺御石橋 願主 本多美濃守忠政」とある。


摩尼殿
岩山の中腹に舞台造りで建てられている。
天禄元年(970)建立。


姫路城主本多家の墓所


大講堂(重要文化財)
圓教寺の本堂。
大講堂、常行堂、食堂はコの字型に並び、「三之堂」(みつのどう)を形成している。
これら3つのお堂が建っている所では、『ラストサムライ』撮影も行われたそうだ。


常行堂(重要文化財)


食堂(重要文化財)
食堂の2階では、寺宝を見ることができる。
『書寫山縁起絵巻』も展示されていた。
全編が公開されるのは、初めてのことだという。
ほかにも次のようなものがあった。


弁慶の机
弁慶は書寫山で約10年間修業していたと伝わる。
この机は、その時に使ったものだという。


旧大日堂仏像群
これらの仏像は、廃仏毀釈の折、打ち壊しを免れるために姫路市夢前町にあった大日堂に安置されていたもの。


弁慶鏡井戸
昼寝をしている弁慶はその顔にいたずら書きをされ、この井戸に顔を映してそのことに気付く。
弁慶は激怒し、大喧嘩になり、山内の建物を焼き尽くしてしまったという伝説がある。


不動堂

ここより奥に開山堂があるが、修理工事のため、見ることができなかった。

  
左:摩尼殿の御朱印
右:根本堂の御朱印

帰りはロープウェイで。


姫路駅の駅そばは、中華麺に和風だし。
一度試してみたかったので、帰りに寄る。

【兵庫】 六甲山

2009年06月20日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
本日の行程:(阪急・芦屋川駅) → 【六甲山】 → 【有馬温泉・金の湯】

六甲山へ行く。
様ざまなコースがあるようだが、今日は山頂まで次のように歩いた。
【芦屋川駅】 → 【高座の滝】 → 【ロックガーデン】 → 【風吹岩】 → 【雨ヶ峠】 → 【本庄橋跡】 → 【一軒茶屋】 → 【六甲山最高峰】

暑くなる前に山頂に着きたいと思い、8時頃に芦屋川駅を出る。
けれどすぐに汗がダラダラと。


高座の滝(8:33)
高さ約10メートルの夫婦滝。


ロックガーデン(8:38)
先日の朝日新聞で、六甲山の登山コースにスプレーで勝手に記された矢印が間違っていて、道に迷う人が多いという記事を読んだ。
このあたりは、赤いスプレーの矢印があちこちにある。
どの矢印を信じてよいものやら。


風吹岩(9:10)
空が青い。
岩の上に腰をかけると、風が吹いてきて涼しい。

風吹岩の上からの景色もいい。


雨ヶ峠へ向かう途中には、こんなユニークな道もある。
鼻の穴みたい、と夫。


雨ヶ峠(9:58)
備え付けられたベンチに座って休憩。


本庄橋跡
今は、このような木の橋が架かっている。



一軒茶屋(10:59)
一軒茶屋までが遠かった。
「氷」の文字にひかれて店内に。
頭が痛くなるので、普段はかき氷を食べることはないのだが、今日のかき氷はなんと美味しいことか!
ここまで来たら、山頂までは300メートル。


六甲山最高峰931メートル(11:20)
おにぎりを食べて、休憩。
ふたりで500ミリリットルのペットボトルを4本持ってきたが、山頂に着くまでにほとんど飲んでしまっていた。
夏の登山はキツイ。

山頂付近には、美しい花が咲いていた。



下りは、魚屋(トトヤ)道を通って有馬へ。
かつて、魚崎で獲れた魚を有馬へ運ぶのに使われていた道らしい。


吉高神社(11:47)


六甲最古のトンネル跡(12:16)
今は崩れてしまっていて、トンネルはない。
明治7年に大阪-神戸間に鉄道が開通し、六甲超えの交通量が増え、トンネルができたのだという。


金の湯(13:00)
有馬温泉の金の湯へ。
長距離歩いたあとの温泉は気持ちがいい。


湯上りに、ありまサイダーを飲む。

帰りは梅田まで特急のバスで。
車中で、ぐっすり眠ってしまった。


今日の歩数:24,226歩

【兵庫】 城崎(温泉寺・一の湯)

2009年05月19日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
12月30日(火)
当日の行程:(車)→ 【鳥取砂丘】【鳥取城跡】【城崎(温泉寺・一の湯)】【智恩寺】【天橋立】【元伊勢籠神社】 


海岸沿いを走る道を通って城崎へ。


【温泉寺】

山門
温泉寺は、養老元年(717)、道智上人がこの地の鎮守四所明神に祈願し、神託を得て、養老2年(718)から4年間かけて開いたお寺。
道智上人は城崎温泉を開いたことでも知られる。


薬師堂


薬師堂の御朱印


本堂へは、薬師堂の脇の参道を登っても行くことができるが、城の崎ロープウェイを利用してみた。


本堂


鐘楼


多宝塔


本堂の御朱印


【城崎温泉街】



一の湯
江戸中期、温泉医学の創始者である後藤艮山の高弟・香川修徳が、「薬選」の中で天下一と賞したことから「一の湯」と名付けられたらしい。
冷たい雨が降っていたが、こちらの温泉に入ってポカポカになった。


三木屋
志賀直哉が「城の崎にて」を執筆したときに宿泊していた部屋が残っているそうだが、見学は宿泊客のみ。


つたや
蛤御門の変の後、桂小五郎が身を隠していた宿。
当時は「松本屋」といっていたらしい。
司馬遼太郎は、「竜馬がゆく」を執筆する際に、この宿に取材のために宿泊したのだそうだ。

【兵庫】 生野銀山

2009年05月10日 20時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
5月6日(水)
当日の行程:(車) → 【黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰之碑】 → 【平野國臣捕縛地】 → 【養父神社】 → 【大川藤蔵捕縛地】 → 【山口西念寺】 → 【山口護国神社】【生野銀山】【井筒屋】 → 【生野書院】 → 【延應寺】【息継ぎ井戸】 → 【花岳寺】【大石神社】 → 【大石良雄宅跡の長屋門】【赤穂城跡】 → 【赤穂市立歴史博物館】 

生野銀山を見に行く。
前日、大山から急いで生野に向かったが、ほんの数分の差で閉館になってしまっていた。
近くには竹田城もある。
雲海に浮かびあがる幻想的なその城の姿を写真で見て、ぜひとも訪れてみたいと思ったが、大山で足を挫いてしまったので今回は諦める。
あぁ、残念だ。

生野銀山に話を戻そう。
この銀山は、大同2年(807)に開坑され、天文11年(1542)に山名祐豊によって本格的な採掘が始まった。
織田・豊臣による支配の後、江戸時代には「銀山奉行」が設置される。
明治元年(1868)に政府直轄運営、明治22年(1889)に皇室財産となり、明治29年(1896)には三菱合資会社に払下げられ、昭和48年(1973)まで採掘が続けられる。
開坑から閉山までの約1200年間に掘り進められた坑道の長さは350キロメートル以上、深さは1000メートルに及ぶという。


菊の門
御料局生野支局だったことを示す菊の御紋が入っている。


代官所門


吹屋資料館
江戸時代には、製錬を「吹屋」と呼んでいたそうだ。
ここでは、銀を製錬する各工程が電動人形によって再現されている。


鉱山資料館には、生野銀山の歴史を知ることのできる様ざまな資料が並んでいる。


観光坑道入口(金香瀬坑口)
ここから入って、「金香瀬本坑」 → 「慶寿ひ(金へんに通)坑道」 → 「大丸ひ(金へんに通)坑道」 → 「滝間歩坑道」の約1000メートルを歩く。
坑道内には、江戸時代の採掘の様子と近代の採掘の様子が、それぞれ人形によって再現されている。


江戸時代、坑夫は「下財(げざい)」と呼ばれていた。
サザエに菜種油を入れて、灯りにしていたそうだ。


狸掘
坑夫がノミ1本で掘り進んだ狸掘があちこちにある。


近代の採掘現場の再現。


発破作業の様子


馬蹄形鋼枠二枚合掌
馬蹄に形が似ていることから、その名前が付いたそうだ。


観光坑道出口(滝間歩坑口)


観音岩
平成20年(2008)に発見された。
観音様の横顔が見える。


当日の歩数:12,151歩

【兵庫】 八上城跡

2009年05月07日 20時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
5月3日(日)
当日の行程:(車) → 【八上城跡】【篠山市立武家屋敷安間家史料館】 → 【篠山市立青山歴史村】 → 【篠山城大書院】 → 【篠山市立歴史美術館】【舞鶴引揚記念館】【赤れんが博物館】【海軍記念館】 → 【自衛隊桟橋】【田辺城跡】 → (倉吉泊)



「国史跡八上城跡 指定年月日 平成十七年三月二日
 八上城跡は、戦国時代に多紀郡〔現篠山市〕を支配した波多野氏の五代にわたる居城である。初代清秀は、応仁の乱〔一四六七~七七〕の戦功によって、室町幕府管領細川政元から多紀郡を与えられ八上へ入る。
 その後、波多野氏累代は、戦国時代を通して勢力を蓄え、大永七〔一五二七〕年に管領細川高国を放逐、天文七〔一五三八〕年に丹波守護代内藤氏を攻略、永禄年間〔一五五八~六九〕には三好長慶や松永久秀と戦いを繰り広げる。
 波多野氏は、まず奥谷城〔蕪丸〕を、続いて本城の八上城、さらに殿町にあった城下町を守るために支城の法光寺城を築き、一帯を一大要塞化し、大規模な戦乱に対応した城造りを進める。
 天下布武を目指す織田信長が上洛すると、五代の秀治はそれに従わず、信長が派遣した明智光秀の攻勢を受ける。光秀は八上城の周囲に付城を巡らし、八上城を徹底包囲する。天正七〔一五七九〕年六月、一年にわたる籠城戦の末八上城は落城し、秀治ら兄弟三人は安土城下に移され落命する。
 落城後の八上城は、前田茂勝ら豊臣氏に縁する大名の城として使われる。しかし、関ヶ原の戦い〔一六〇〇〕によって、徳川家康が天下を押さえると、豊臣秀頼の拠る大坂城を包囲するため、慶長十三〔一六〇九〕年に、江戸幕府から篠山城築城の命令が出され、八上城は百年余りにわたる歴史を終える。
   篠山市教育委員会」

八上城は、標高459メートルの高城山に築かれた。
登り口はいくつかあるが、なかなか見付けられず、地元の方に幾度も尋ねた。
ようやく見つけた春日神社口から登る。
春日神社口から本丸までは、1,190メートル。


春日神社の鳥居


春日神社の拝殿
拝殿の脇から、山頂への道が延びている。


主膳屋敷跡


八上城主前田主膳正供養塔


鴻の巣跡
鴻の巣は、北麓御前屋敷の堀と西麓の堀を警備した砦。


下の茶屋丸跡
下の茶屋丸は、西から近付く敵に備えた重要陣地。


中の壇跡
中の壇も下の茶屋丸同様に、西から近付く敵に備えた重要陣地。


右衛門丸跡
右衛門丸は、波多野秀治のときの屋敷跡。
西方を防備し、蕪丸にも通じ、全山の連絡や指揮にあたる場所。


右衛門丸の石垣


三の丸跡


二の丸跡
二の丸跡からは、門の礎石と屋敷の瓦の断片が見付かっていている。


岡田丸跡
東方や北方の防備陣地。
波多野氏の重臣・岡田某の屋敷跡。


本丸跡

この後で訪れた篠山市立青山歴史村に、明智光秀の11回に及ぶ八上城攻撃についての説明があった。
八上城がなかなか落城せず、信長にせきたてられた光秀は、自分の母親を人質にして講和を申し入れる。
和議のために波多野秀治・秀尚兄弟は安土城に赴くが、信長によって処刑されてしまう。
激怒した八上城の家臣らは、光秀の母を磔にし、本丸に火を放って自刃したという。
むごい話だ。
これが、光秀が本能寺の変に及んだ動機のひとつであるといわれている。


当日の歩数:17,449歩

【兵庫】 一乗寺

2009年04月30日 20時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
4月29日(水)
当日の行程:(JR姫路駅…神姫バス・姫路駅前~法華山一乗寺) → 【一乗寺】 → (神姫バス・法華山一乗寺~姫路駅前…神姫バス・姫路駅前~書写駅) → 【圓教寺】


一乗寺は、孝徳天皇の勅願で、大化5年(649年)に法道仙人が創建したと伝わる。
仙道仙人は、天竺から紫の雲に乗って飛来したといわれる伝説的人物。

一乗寺までは、神姫バスに乗って行った。
姫路駅から一乗寺までは約40分。
バスの本数が少ないうえに、午後から参拝すると一乗寺の前から出るバスがほとんどなくなるので、早めに出発した。


石造笠塔婆
正面に正和5年(1316)建立。
入山受付の手前に建っていて、金堂まで1町あると刻まれている。


金堂までは、このような石段をのぼっていく。


常行堂


三重塔(国宝)
承安元年(1171)建立。
日本でも10指に入る古塔だという。


鐘楼


金堂(重要文化財)
舞台造り。
白雉元年(650)建立、寛永5年(1628)に再建。


護法堂(重要文化財)


左:弁天堂(重要文化財)
右:妙見堂(重要文化財)


金堂の裏手に、奥の院への参道がある。


奥の院開山堂


賽の河原
開山堂の裏手の岩でごつごつした道を数十メートルのぼると、賽の河原がある。
あちこちに、石が積み上げられている。


放生池
社が崩れていた。
周囲もあまり手入れがなされていない様子。
山に囲まれて気持ちの良い場所であるだけに、残念に思えた。


一乗寺の御朱印

【兵庫】 多田神社

2009年03月11日 20時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
11月22日(土)
当日の行程:(車) → 【箕面の滝】【勝尾寺】【久安寺】【多田神社】【能勢妙見山】【妙見山奥之院】【賑-交わる街道と池田-(池田市立歴史民俗資料館)】

天禄元年(970)、源満仲が多田院を建立したのが多田神社の始まり。
神仏分離以前は寺院であった。
源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家を祀り、源家発祥の地である。
現在の建物は、徳川4代将軍家綱によって再興されたもの。


御社橋
多田神社の前を流れる猪名川。
朱色の御社橋が架かっている。
橋のたもとには、鳥居が見える。


南大門
多田院であった時には、仁王門と呼ばれていた。
かつて両脇にあった仁王像は、明治4年(1871)の神仏分離に際し、満願寺(兵庫県川西市)の山門に移された。


水戸黄門御手植銀杏


拝殿(重要文化財)


本殿(重要文化財)


御神馬


六所宮
旧多田院の鎮守社として、また多田荘72ケ村の総社として、鎌倉期に創建された神社。


田尻稲荷神社
旧多田荘の田尻より移築された神社。


厳島神社
市杵嶋姫命を祀る。
旧多田院では、弁財天女と呼ばれていた。


多田神社の御朱印

【兵庫】 谷崎潤一郎ゆかりの地

2009年03月01日 20時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
9月20日(土)
本日の行程:(阪神・三宮駅) → 【シュウエケ邸】 → 【山手八番館】 → 【うろこの家・うろこ美術館】 → (阪神・三宮駅~魚崎駅) → 【倚松庵(谷崎潤一郎旧邸)】 → (阪神・魚崎駅~芦屋駅) → 【谷崎潤一郎記念館】 → 【「細雪」の碑】

【倚松庵】

谷崎潤一郎は、昭和11年(1936)11月から昭和18年(1943)11月まで倚松庵(いしょうあん)に住んでいた。
そのころの倚松庵は、現在の位置より150メートルほど南にあったそうだ。


谷崎潤一郎が「倚松庵」の名を初めて使ったのは、昭和7年のこと。
当時住んでいた夙川の家のことをそう呼んだのだそうだ。
「倚松庵」とは、「松によりかかっている住まい」の意。
なるほど、この辺りは松が多い。
それだけでなく、「松」は松子夫人のことでもあるとのこと。
あぁ、いい話だ。
この文字は、倚松庵の復元を祝して、松子夫人が揮毫したものだそうだ。

倚松庵の敷地面積は133.39坪。
木造2階建ての建物の延床面積は45.04坪。
この家で、谷崎潤一郎が『細雪』の執筆に取りかかった。
松子姉妹や周辺の人々の日常を取材して描いたのだという。
倚松庵の部屋も登場している。
読みながら想像していたのと違ったり、似ていたり……倚松庵の見学には、そんな楽しみも伴う。


1階の応接間の一角は、「谷崎文庫」になっている。
貸出はしていないということだが、閲覧は自由にできる。


この食卓は、谷崎潤一郎の家族が、実際に使用していたものなのだそうだ。


庭園は、『細雪』に描写された樹木等を、忠実に再現したものだという。


【谷崎潤一郎記念館】

谷崎潤一郎記念館では、愛用の机、文具や身の回りの品々、美術品などが展示されている。


重さ約15トンもあるこの巨石は、かつて岡本の旧谷崎邸にあったもの。
昭和13年(1938)の大水害の際に旧邸内に流入したものを、庭石として置いていたのだという。


庭園は、谷崎潤一郎の関西で最後の住居である潺湲亭(せんかんてい)の庭を模しているという。
この梅の木は、潺湲亭の書斎の前にあり、谷崎潤一郎が愛でていたものだそうだ。


【『細雪』の碑など】

芦屋川沿い、阪急芦屋駅のそばには、『細雪』の碑が建っている。
「細雪」の文字は、松子夫人によるもの。


すぐ近くには、「阪神大水害 芦屋川決壊之地」の碑もある。
昭和13年(1938)年の、上にある巨石が岡本の谷崎邸に流れ込んできたあの大水害だ。
この水害の描写は、『細雪』のなかでも印象深い。

【兵庫】 三木城跡

2009年02月04日 20時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
8月26日(火)
当日の行程:(車) → 【明石魚の棚】【明石城】【第53回全国高校野球軟式野球選手権大会(明石公園野球場)】【三木城跡】 → (大垣泊)


三木城は、15世紀後半に別所則冶によって築かれた。
天正6年(1576)、5代目当主・別所長冶のとき、羽柴(豊臣)秀吉の軍に包囲され、20ヶ月もの間、兵糧攻めに遭う。
天正8年(1580)年1月17日、別所長冶は、領民の命を救うことを条件に、自刃したという。
このとき、別所長冶は23歳であったそうだ。
この「三木の干殺し」の話を知ってから、いつかは三木城跡を訪れたいと思っていた。
写真は、三木城跡にある「別所長冶公像」。
長冶公の武者姿をイメージして製作されたもので、史実に基づいた姿ではないようだ。


三木城本丸跡に残る唯一の井戸。
石を投げ込むと「カンカン」と音がすることから、その名が付いたそうだ。






城跡にある「三木城合戦図」


天守跡


天守跡には、「三木城主別所長冶公辞世之碑」がある。
「今はただ恨みもあらじ諸人の命に代わるわが身とおもへば」


別所家一族の辞世の碑


雲龍寺は、かつては三木城内にあったそうだ。
別所長治が自刃の席に招かれた住職は、後事を託され、「天目茶碗」と「唐子遊びの軸」を形見に贈られたという。
寺には、別所長冶夫妻の首塚がある。
兵糧攻めに遭い、城内の藁をも食べたとの言い伝えから、雲龍寺では、毎年1月17日の別所長治の命日に、藁に見立てた「うどん」が振舞われるそうだ。

さて、三木市内を車で走っていて、面白いものを見つけた。

「みっきいバス」、強烈な印象を受ける。


2008年3月末の運行を最後に廃止された三木鉄道。
偶然見つけた三木駅に感動。