大倉草紙

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【兵庫】 赤穂 ③ 赤穂城など

2009年09月11日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
5月6日(水)
当日の行程:(車) → 【黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰之碑】 → 【平野國臣捕縛地】 → 【養父神社】 → 【大川藤蔵捕縛地】 → 【山口西念寺】 → 【山口護国神社】【生野銀山】【井筒屋】 → 【生野書院】 → 【延應寺】【息継ぎ井戸】 → 【花岳寺】【大石神社】 → 【大石良雄宅跡の長屋門】【赤穂城跡】 → 【赤穂市立歴史博物館】 

【赤穂城跡】
「赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した甲州流軍学の海岸平城である。
 本丸は、中央に藩主の屋敷(本丸御殿)、南東部には天守台、南に庭園などがあり、本丸門、刎橋門、厩口門の3門をもつ。天守台には天守閣は当初から築かれず、4箇所の櫓大のうち東北隅櫓台のみ隅櫓が築かれ、ほかは横矢枡形として配されていた。
  平成10年3月  赤穂市教育委員会」(案内板より)

本丸門


本丸門の上から
左手に天守台が見える。


大池泉


刎橋(はねばし)門跡


天守台


天守台から本丸門方面を望む


厩口(うまやぐち)門跡


東北隅櫓台


二の丸門跡
「ここは二の丸門のあった場所である。
 浅野長直に仕えていた軍学者山鹿素行が承応二年に赤穂へ来て、虎口の縄張りの一部を変更したことで知られている。
 赤穂城の二の丸の面積は一万七、二五九坪あり、二の丸門は櫓門で、口幅三間一歩、高さ二間、建坪九坪の大きさであった。
 また、文久二年(一八六二年)十二月九日に、赤穂藩主森家の国家老主税が、藩政に対して意見の異なる藩士たちに暗殺されたのがこの付近である。いわゆる『文久事件』である。この事件は、明治四年(一八七一年)二月の、日本最後の仇討ち『高野(こうや)の仇討ち』(和歌山県高野山)の導火線ともなった。
 ここに置かれている半畳くらいの二つの大きな石は、小石を持って叩くと『かんかん』という音をたてることから、誰言うとなく『かんかん石』と呼ばれている。
   赤穂義士会」(案内板より)


山鹿素行の像


【赤穂市立歴史博物館】

赤穂市立歴史博物館は、赤穂城米蔵跡に建てられている。


裏に回ると、土蔵風な建物になっている。
赤穂の塩、赤穂城や赤穂義士について展示されている。
城下町に上水道が整備されていたことには驚き、またそのしくみは興味深かった。