大倉草紙

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【兵庫】 生野義挙の史跡 ①

2009年09月07日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
5月5日(火)
当日の行程:(車) → 【大山(大神山神社奥宮・大山寺)】【生野代官所跡】 → 【生野義挙址】 → 【掛屋】 → 【山田顕義終焉之地】 → (朝来泊)

【生野代官所跡】(朝来市生野町口銀谷)

「天文一一年(一五四二)山名祐豊(すけとよ)は生野銀山経宮の拠点として生野城を築城しました。三層の天守閣、隅櫓、外堀をそなえた城で、侍屋敷、町屋、寺社も整い繁盛したと記録に遺されています。
 その後、銀山の経営は太田垣、織田、豊臣と変わり、関ヶ原の戦いを経て徳川氏に帰属し、この城の本陣を代官所としました。寛永六年(一六二九)には天守及び隅櫓を取り崩しましたが、二七〇年にわたって銀山経営の中心でした。
 明治維新により銀山は政府直轄となり、明治二年(一八六九)生野県設置とともに、代官所を県庁舎としました。
 明治四年(一八七一)生野県が豊岡県に統合されると同時に建物は除去され、城壁と外堀のみが残りましたが、大正末期には全部が取り壊されました。
  平成四年三月  生野町教育委員会」(案内板より)


【生野義挙址】>(朝来市生野町口銀谷)

「生野義挙址の碑」は、生野代官所跡の向かいに建っている。


【掛屋】(朝来市生野町口銀谷)

佐藤家住宅別邸。
江戸時代後期の建物。
生野銀山の掛屋は、銀を金銭に替える銀掛屋。
文久3年(1863)の京都守護職の生野義挙の取り調べでは、掛屋にも役人が宿泊したそうだ。


【山田顕義終焉之地】(朝来市生野町小野)

生野銀山のそばに建っている。
明治25年(1892)、生野義挙で自刃した従兄弟の河上弥市を弔いに山口護国神社を訪れ、その後に立ち寄った生野銀山で倒れ、死去したという。

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