大倉草紙

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【兵庫】 生野義挙の史跡 ②

2009年09月08日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
5月6日(水)
当日の行程:(車) → 【黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰之碑】 → 【平野國臣捕縛地】 → 【養父神社】 → 【大川藤蔵捕縛地】 → 【山口西念寺】 → 【山口護国神社】【生野銀山】【井筒屋】 → 【生野書院】 → 【延應寺】【息継ぎ井戸】 → 【花岳寺】【大石神社】 → 【大石良雄宅跡の長屋門】【赤穂城跡】 → 【赤穂市立歴史博物館】 

【黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰之碑】(朝来市和田山町高田)

目印となる看板


黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰之碑


【平野國臣捕縛地】(養父市八鹿町上網場)

「見よや人嵐の庭のもみじ葉はいずれ一葉も散らずやはある」とある。


【養父神社】(養父市養父市場)

随神門


社殿


朱に塗られた美しい橋が架かっている。


社務所
生野義挙の農兵組立て会議は、普賢寺(現・養父神社社務所)で開かれた。


社務所の中の杉戸には、その時に描かれたという絵が残っている。
鶴の姿がうっすらと見える。


養父神社の御朱印


【大川藤蔵捕縛地】(朝来市山内)

大川藤蔵殉難之地の碑


【山口西念寺】(朝来市山口)

文久3年(1863)10月3日、南八郎らは生野代官所の本陣を出て、西念寺に陣を構えたという。


【山口護国神社】(朝来市山口)

山口護国神社


正義十七士之神霊


正義十三士自盡之址


墓所
「町指定文化財
 生野義挙志士殉難之地
   平成元年十二月十二日指定
 江戸時代の終わり、幕府を倒して新時代を開くべく、生野代官所を占拠した事件を生野義挙という。
 文久三年(一八六三)大和義挙が不成功に終わるとともに生野義挙も失敗に終った。その時の隊長が長州藩出身の南八郎(二十一才)である。
 戦いに敗れた南八郎以下十三人はこの地の山伏岩に『今月今日討死』と血書して八人は切腹し、他は附近で討死した。後に京都より送られて来た同志四人を加えて十七名の志士の碑が建てられている。
 中央に建っている『殉節忠士の墓』の文字は明治新政府の首相西園寺公望の揮毫である。『議論より実を行なへなまけ武士、国の大事をよそに見る馬鹿』の奉献額は南八郎が制札を削って書いた奉献歌の額(町指定文化財)であり、腹巻には『後れては梅も桜に劣るらん魁(さきが)けてこそ色も香もあれ』と書かれていた。
 町内にはこの他に義挙関係の事蹟として、原六郎の生家、神領制札(町指定文化財)、大川藤蔵の碑等多くのものが残っている。
  平成元年十二月  朝来町教育委員会」(案内板より)


【井筒屋】(朝来市生野町口銀谷)

井筒屋は、江戸時代の郷宿。
生野義挙後の取り調べのため、会津藩の広沢富次郎らが宿泊したという。
現在は、「生野まちづくり工房 井筒屋」となっている。
館内では、貴重な史料を目にすることができる。


神武必勝論
平野國臣が文久2年(1862)、獄中でこよりを文字にして著述した書。


沢主水正の檄文
文久3年(1863)10月に、生野代官所を占拠して挙兵した時の宣言文。


【生野書院】(朝来市生野町口銀谷)

生野書院は、材木商の邸宅を改修した史料館。
門は、明治初期に鉱山長だった朝倉盛明氏の官舎正門を移築したもの。
生野義挙や生野銀山に関する史料が展示されている。
『生野義挙日記』を購入。


生野代官所跡の松


【延應寺】(朝来市生野町口銀谷)

本堂


欅の大木
この欅の大木の梢に野火の難をのがれた観音が飛んできたという伝説がある。


欅の大木の前に建っている碑には、生野義挙前に志士たちがこの寺で過ごしたと記されている。


延應寺の御朱印

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