いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

第34回 サラリーマン川柳

2021-05-29 14:56:25 | 米屋の親父のつぶやき

 第34回 サラリーマン川柳 ベスト10が発表された。

 

 「コロナ禍」において特徴のある川柳が多数あった。

 

 第1位 会社へは 来るなと上司 行けと妻

 「コロナ」を象徴する川柳。お見事!

 

 第3位 リモートで 便利な言葉 “聞こえません!”

 「リモート」を象徴する川柳。面前では言えない本音ってか?w

 

 第5位 お父さん マスクも会話も よくずれる

 サラリーマン川柳では「働くお父さん」は格好の標的。いつも「ダサい」「くさい」「ヘボい」など格好が悪いのがお父さん。情けないねw

 

 「サラリーマンお父さん」はなんとも可哀そうだw 

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昨日のサッカー日本代表-5/28

2021-05-29 11:13:07 | スポーツ

 昨晩行われた「W杯アジア2次予選VS ミャンマー」。

 グループFの日本は、試合前 5戦5勝で1位。ミャンマー戦に勝てば3次予選に進出決定。

 

 ミャンマーはFIFAランキング 139位。

 最低 4-0がノルマとも。

 

 終わってみれば、10-0。

 前半でノルマの 4-0を達成。

 南野 先制点、大迫がハットトリックと順調。

 後半は、大迫、守田、南野、鎌田、大迫、板倉と。

 GK(日本)はいたのか?と思えるほど画面には映らなかった。

 

 このあと6月7日 タジキスタン戦、6月15日 キルギス戦と続く。

 その間に、6月3日 ジャマイカ戦-国際親善試合、6月5日 U-24ガーナ戦-国際親善試合。

 6月11日 セルビア戦-国際親善試合、12日 U-24がジャマイカ戦-国際親善試合と日程が詰まっている。

 特にU-24は五輪の前哨戦だけに大事に戦ってもらいたい。

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<苺> まりひめ

2021-05-29 10:17:16 | 食品

 「まりひめ」

■まりひめとは?

●和歌山県のオリジナル品種
まりひめは和歌山県が開発したオリジナル品種です。イチゴ市場の近年の傾向として、より早い時期に出荷が求められるようになっています。和歌山県ではこれまで「さちのか」を中心に栽培されていましたが、「さちのか」は収穫が始められる時期が遅く、それに代わる早生種の必要性が高まっていました。

そこで、県が主導となって開発が行われ、2003(平成15)年に、「章姫」を子房親とし、そこに花粉親として「さちのか」を交配てできた実生から選抜育成し、新しいオリジナル品種が生み出されました。これが「まりひめ」です。2008(平成20)年3月品種登録出願、2010(平成22)年3月品種登録されました。

名称は和歌山県の郷土工芸品「紀州手まり」のように親しまれるようにという意味がこめられているそうです。

●まりひめの特徴
果実の形は章姫ゆずりの縦長の円錐形で粒揃いがよく、比較的大き目のものが多く収穫できるようです。

そう果の窪みはやや浅めでそう果の色は黄色から赤です。

果皮の色はやや明るい鮮赤で、ガクの下も含め全体によく色付いています。

果肉は固めで、「章姫」と「さちのか」の中間くらいとされ、色は中心部分が薄い橙赤で、まわりは結構濃い赤色をしています。果心の空洞は小さめです。

味は、酸味よりも甘味が強く、口に含むと濃厚な甘さが広がる感じで、いい香りが鼻に抜けていき、とても美味しいです。この香りの強さもこの品種の特徴のようです。果肉の色も濃く、形が揃っているので菓子の材料にも使いやすい品種といえます。

■まりひめの主な産地と旬
●主な産地と生産量
まりひめは和歌山県のオリジナル品種として、県内でのみ栽培されています。本格的に栽培出荷が始まったのが2011年頃からで、現在生産量は増えつつあるようですが、他府県での流通量はまだまだ少なくあまり見かけることはありません。

●まりひめの収穫時期と旬
まりひめは「さちのか」と比較して、収穫開始が2週間以上早い12月上旬からとなっています。食べ頃の旬の時期は1月~3月となります。

収穫開始時期は12月上旬で「さちのか」に比べて2週間以上早い

*https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/Strawberry-Marihime.htm より

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<言 葉> 夏の言葉 滴り

2021-05-29 09:54:41 | 言葉

 「滴り」

 夏の季語

 山の日陰の道などの岩や苔を細く糸のように伝い落ちる水をいう。
山道へ分け入り、しだいに疲れを覚えた身にはそれは玉の如き水。
思わず手に受けて頂いたりする。

*https://kigosai.sub.jp/kigo500a/266.html より

 類語に、滴る・山滴り・苔滴り がある。

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-ブレッド&バター

2021-05-29 08:42:03 | MUSIC

 「ブレッド&バター」

 メンバー
 岩沢幸矢(いわさわ さつや)
 1943年7月11日生まれの77歳
 岩沢二弓(いわさわ ふゆみ)
 1949年2月23日生まれの72歳

 デビュー50周年! 湘南育ちの兄弟デュオ「ブレッド&バター」って、どんな人たち?前編 2020年01月16日ライター:山本航
 デビュー50周年を迎えた、兄弟デュオグループのブレッド&バター。

 戦後初の国民的ヒット曲と言われている『りんごの唄』が主題歌の映画『そよかぜ』の脚本家としても有名な映画監督である、岩沢庸徳(いわさわ・つねのり)を父に持つ。幼少から茅ヶ崎で育ち、茅ヶ崎の海を見守ってきた彼らが奏でるのは、まさに茅ヶ崎の海のような爽やかでロマンティックなハーモニー。長く湘南を代表するアーティストとして愛されてきたが、そのキャリアと自然な生き方から音楽業界にもファンが多い。

 1969(昭和44)年にデビュー後、現在までにシングル41枚、オリジナルアルバム24枚をリリース。茅ヶ崎をベースにマイペースな活動を続け、加山雄三(かやま・ゆうぞう)とサザンオールスターズとともに、「湘南サウンド」御三家と呼ばれてきた。
 70年代の活動停止中には、茅ヶ崎の仲間と手作りで「カフェ・ブレッド&バター」を開業し、多くのミュージシャンと交流を深める。

 インタビュー中もさまざまなアーティストの名前があがり、日本音楽界の重鎮とのエピソードから、Suchmos(サチモス)など若者に支持される層まで幅広く語られた。そしてボブ・ディラン、スティービー・ワンダー、B.B.KINGといった超大物レジェンドのビッグネームが飛び出すのは、彼らの魅力が引きつけた証。
 今回は、その生い立ちから現在までを茅ヶ崎の風景の変遷とともに振り返って頂き、湘南が育んだ彼らの魅力を紐解いてみた。

 
 加山雄三さんは飾らなくてバンカラな方でした

――まずお父様が東京の方で、幸矢(さつや)さんが東京生まれ。引っ越しをされて、二弓(ふゆみ)さんが横須賀生まれ。ご兄弟が大所帯になったので、茅ヶ崎に引っ越したとか。何才頃ですか?

幸矢さん(以下S)僕が2歳くらいのときに横須賀に引っ越して、幼稚園後半からは茅ヶ崎ですね。日本橋で生まれたから、小さい頃は橋の下で生まれたってよくからかわれました。
 
――日本橋だから(笑)。普通は地方から東京に引っ越してきたらからかわれるのに、逆だったんですね。

(S)僕らは東京から引っ越してきたし、父が映画人だから、ハイカラな服を着ていたりして、雰囲気が違ったんですよね。

(S)茅ヶ崎の子どもたちは、農家や漁師の子とかが多かったし。方言も全然違うしね。「違かんべよー」とか。まあ、そういうのは覚えてしまったけど。でも、慣れるまではいじめられたりしましたね。

――神奈川県って東京の隣りなのに、独特のローカルな文化が根付いていますね。

(S)当時の茅ヶ崎は東京の人や大使館関係者の別荘がたくさんあって、その周りは農家や漁師さんも生活し、さらにはベッドタウン化で湘南から東京に通勤している人たちがいて、その3種類の生活スタイルが混在していたんです。それが混ざり合って、独特の文化が誕生したんですよね。

――今の湘南文化のルーツですね。

(S)東京から越してきた僕らには、漁師とか憧れでしたね。冬の荒々しい海に飛び込んでいく姿とか見ていると、雄々しくてかっこいいなーと思いました。無い物ねだりというか。そんな中、加山雄三さんも茅ヶ崎で育ったんです。
彼は若くして映画スターになったけど、飾らなくてバンカラな感じでした。いわゆるドカベン(大きな弁当箱)をかっ喰らっていたり、下駄で撮影に出かけたり、地元でも豪快で目立ってましたね。

――もともと加山さんのお父様の上原謙(うえはら・けん)さんが有名人なので、地元では名の知れたファミリーですよね。

(S)そうですね。ほかにもうちのすぐ近所に岩倉邸(岩倉具視〈いわくら・ともみ〉の家系)があったんで、うちのオヤジとつきあいがあったりとか。
歌手の尾崎紀世彦(おざき・きよひこ)さんは、中学の時、水泳部の先輩でした。一緒に県大会に出場しましたね。

――岩倉家といえば、一族が経営に関わっていた湘南のシンボル的存在だった「パシフィックパーク茅ヶ崎(パシフィックホテル、1965〜1988年営業)」を思い出します。ユーミン(松任谷由実)がのちに『Hotel Pacific』という曲の歌詞をおふたりにご提供され、今でも代表曲のひとつになっている思い出のホテルです。世間一般では共同オーナーの上原謙さん、加山雄三さんのイメージも定着されていますね。サザンオールスターズもこのホテルをモチーフとしたヒット曲『HOTEL PACIFIC』を生み出し、今でも茅ヶ崎市民の脳裏に残るホテルですよね。

(S)大人の社交場で、憧れだったよね。僕も学生時代はあそこでアルバイトをしてたんです。海でライフセイバーをしていたから、モテたくてプールの監視員で応募したけどもう募集はいっぱいで、ホテル客室のベッドメイキングに回されちゃったんだよな。
でもそこでの経験が充実していて、ホテルマンを目指すようになったほど楽しかった。それが元で、ニューヨークのヒルトンホテルに就職しに渡米したほどでした。

――その頃のパシフィックホテルは、まさに地方の海沿いにそびえ立つおしゃれな南フランス風のホテルという印象だったらしいですが、海辺はどんな雰囲気だったんですか?

(S)茅ヶ崎駅から、僕らの家があった東海岸9丁目あたりまでは徒歩で15分くらいなんですね。東京に出掛けて帰りが遅くなったときとかは母と兄弟で輪タク(自転車タクシー)に乗って帰ったんですが、窓から景色を眺めてるとなーんにもなかったです(笑)
田舎道に電信柱が立ってるだけで、そこに街灯が100メートルおきとかでポツポツと点いているだけ。夜は真っ暗。あの頃は、国道134号線もアスファルト舗装されていなかったし。

――当時の江の島周辺も、写真を見ると波打ち際からすぐに国道134号線のデコボコ道と切り立った崖や山道だったようですね。

(S)国重光熙(くにしげ・みつひろ、冒険家)さんは知ってます? 彼も茅ヶ崎出身で、彼の家は駅の反対側の本村だったらしいんだけど、そこからも海岸が見えたそうで。それくらいあのあたりは何にもなかったんだよね。

――藤沢駅からも、昔は江の島が見えたようですね。藤沢駅や辻堂駅周辺は随分と発展しましたが、茅ヶ崎駅周辺は今でものんびりしたローカル感があって、駅前をアロハと短パンとビーサンで缶ビール飲みながら歩いてるおじさんとかを普通に見かけます。

(S)もう今はどの駅前も賑やかになってるけど、例えば8月に開催された「茅ヶ崎ロックンロールセンターAGAIN」の会場だった柳島スポーツ公園や今宿のあたりは、それこそ何もないイモ畑ばっかりの田舎だったよ。あの辺に住んでた人から、芋団子をいつも食べていたって聞いたことがある(笑)

(S)ウチの近所も、農家や漁師が多かったし。たまたまウチのあたりが3軒くらい並んでいろんな職業だったけど。お隣りさんは竹屋さん、その隣は女優さんが住んでいたね。で、ウチが映画監督でしょ。映画人やアート系の人もかなりいましたね。

――お子さんのときはどんな遊びが流行っていたんですか?

(S)俺と二弓は歳が離れてるから少々違うだろうけど、俺の頃はやっぱりベーゴマとかビー玉とかかな。そのあたりは東京とかと変わらないけど、あとはやっぱり海! 家から歩いて7〜8分で海だったから、毎日行ったね。裸足で歩いてそのまま飛び込んだり、夜も毛布を持ってそのまま明け方まで寝ちゃったり。とにかく毎日、一日中海にいたね。

――二弓さんも海が中心の子ども時代でしたか?

二弓さん(以下F)小学校まではね。中学からは、ローラースケートに夢中になってた。

――全国的にブームになっていた頃ですね。

(F)そうそう。茅ヶ崎はあの頃、ずーっと砂丘だったのね。一中(茅ヶ崎市立第一中学校)のあたりなんかは全部。それを整地して殖産住宅にしたり、宅地が増えたんで公道が整備されたりして、そこでローラースケートをみんなでやってた。外の世界なんか知らないから、そればっかりやってたよ。兄とは6歳離れてるから、遊びも随分違いますよ。高校は東京に通っていたんで、池袋が中心だったし。

――日本の文化やライフスタイルが大きく変わった時代ですよね。それにしても、おふたりから男の子の定番だった虫捕りや野球とかのお話しが一切出てこないですね。

(S)あー、そうね(笑)。でも、トンボはすごいいましたよ。いろんな種類がいたね。茅ヶ崎弁では、「オンジョ」とか「ナーコイ」と呼んで、捕まえたりしてた。オンジョはオスの銀ヤンマのことで、ナーコイは、その尻尾の色が濃いやつのこと。橋の下に行くと、壁中べったりとトンボだらけだったよ。
(S)昔は水がきれいだったから、川に鯉がいっぱい泳いでた。海沿いには、ヒバリがいっぱいいたし。そこら中で卵を探したりしたよ。もうヒバリなんか全く啼き声を聞かなくなったよね。
そうそう、美空ひばりの大ファンのおじさん知ってる?

当時、茅ヶ崎には地元で有名な人がいてね。自叙伝にもある話なんだけど、テーちゃんって呼ばれてた人がいて、いつも腕に時計の絵を描いていてね。夕方には消えかかってたりして。それを子どもたちがからかって、「今何時!?」と聞くといつも「んーと、だいたい3時」と答えてた、名物男(笑)。

(S)桑田(桑田佳祐)くんも当然知ってたから、確認はしてないけど、『勝手にシンドバッド』のあの「今何時!?」「そうねだいたいね」のフレーズは、テーちゃんがモデルだと思うよ(笑)
ほかにも、変わった有名な人はいたな。いつも腰におもちゃのチャンバラ刀をぶら下げて、夕方になると電柱にある電灯のスイッチを右手で居合抜きでバチーンって叩いて、左手でスイッチを入れて点灯させていたサダちゃんとかいたのね。そういう人って、昔はどこの街角にもいたでしょ。

――当時ならではの茅ヶ崎のピースフルな雰囲気が伝わりますね。世間的には加山さん、ブレバタのおふたり、サザンが湘南という名前とイメージを全国的に有名にさせ、憧れの場所になったと言われていますが、ご本人としてはどんな気分ですか?

(S)んー。どう?(二弓さんに振る)
(F)えー!? どうでもいいかなー(ふたりとも笑う)

 無関心だったビーチクリーン活動が全国で行われた

――以前から東海岸ヘッドランドビーチでビーチクリーンのフリーライブをしてますが、そういった地元を盛り上げたり、これからも茅ヶ崎をこうしていきたいというものはありますか?

(S)1990(平成2)年からヘッドランドではベアフット(幸矢さんが会長を務めるNPO法人)のフリーイベントを開催しているんだけど、来年が30周年なのね。それに向けていろいろと考えてはいます。

――子どもの頃から見てきた海が汚れてきて、活動を始めて目に見えて改善されたことはありますか?
(S)意識はみんな高くなってきましたよね。今では全国でビーチクリーン活動が開催されるようになったし。最近ようやく、マイクロプラスチックの影響がヤバいと認識されてきた。
僕らはずっと言い続けてきたのに、今まで社会は全然無関心だった。タバコの吸い殻も、被害は何十年も残ったままになるのにね。それが今ようやく、みんな考えてくれるようになってきたよね。

――いつ頃から、海が汚れてきたと感じるようになりましたか?

(F)ベアフット運動は1981(昭和56)年に辻堂で始めているので、その頃にはもうひどかったね。

(S)81年の初開催のときからムッシュ(かまやつ・ひろし)さんとか、友人のミュージシャンを呼んで。で、裸足で砂浜に立って、安全に楽しく無料でコンサートを体験しようと呼びかけて。「君の汗と集めたゴミが入場料だよ」とね。それで行政が協力してくれてきちんとした形になったのが1990年で、そこから30周年を迎えるのね。

――そういう背景だったんですね。当時はそれだけ環境破壊が気になる状態でしたか?

(S)当時はゴミで砂浜を歩けるところがないくらいでしたよ!  76〜77年くらいは、ひどかったな。あの頃はサーファーが海に入るのに、砂浜を歩くたびに足を切ったりしたくらいでした。浜降祭もみんな裸足で神輿を担いで海に入るから、危なかったですよ。

ボブ・ディランとビートルズが音楽に目覚めたきっかけ

――そういえば、幸矢さんは、パシフィックホテルでアルバイトをしたことでホテルマンを目指すようになり渡米されたということですが、どこでミュージシャンになりたいという気持ちに傾いていったんですか?

(S)それはもう、ボブ・ディランですね。彼がニューヨークへ出てきて、フォークロアセンターという場所で寝泊まりするようになったの。
で、彼がそこを離れた後、1967年に僕が同じ部屋に3ヶ月ほど寝泊まりしてたんだけど、そのディランが毎晩寝ていたベッドで僕が寝ていたというのを、そこから出て行くときに聞かされたんだ。
それで、そうだったのかー! と衝撃を受けて。なにか運命的なものを感じて、そこからもう「ホテルマンになってもしょうがないや、俺は音楽の道に進もう」と決心しちゃった。
で、オヤジがいつも言っていた言葉があって。それが、「好きなように生きなさい」という言葉。だからもう、音楽しか見えなくなっちゃいましたよね。

――それはもう、座右の銘ですね。二弓さんは音楽を生業にしようとしたきっかけは、何だったんですか?

(F)いやー、何にも考えないで今になっちゃいましたよ(笑)。いつのまにかってやつですね。

(F)まあ、東京で暮らしていたし、兄の影響もあるでしょうしね。アメリカからいろんな手に入らないレコードをたくさん送ってくれたので。でも一番は、ビートルズでしょうね。あれを聞いたら、もうその気になっちゃった(笑)

――ビートルズを初めて知ったときの衝撃ってどんなものでした?

(F)きっかけは、映画館で『ビートルズがやってくる!ヤア!ヤア!ヤア!』だったんですよ。あれを観て、こんなカッコいいことやってみたい! と思ったんですね。武道館のライブも見ました。誰かに譲ってもらったり連れてってもらったんじゃなくて、自力で抽選で当てました(笑)

(F)前座で日本人の演奏もあったけど、当時はまだあんな風にプロになろうとも決心してなかったな。客席にも有名な人はいましたね。さっちゃん(幸矢さん)は、つきあいある人いたんじゃない? ACB(老舗の有名なライブハウス)に出入りしてたし。

(S)ああ、モップス(鈴木ヒロミツなどが在籍した人気GSグループ)とかはね。陽水(井上陽水)がモップスと仲良くて、僕は陽水と仲が良かったから。

――日本のポップス史の源流ですね。おふたりは50年やってこられたし、誰よりも交友関係が広いので、出会ったアーティストの方々との時系列やお互いのキャリアの長さ、年齢差などバラバラですよね。長年ご一緒することが多い、歌手の南佳孝(みなみ・よしたか)さんも、後から茅ヶ崎に越して来られたんですよね?

(S)そうですね。確か、活動休止中にカフェ・ブレッド&バター(地元の若者たちで手作りで建てたカフェとライブのショップ。以下、Cafe B&B)をやっているときに東京から近所に越してきて、たまたまカフェにやって来たお客さんだったんだよね。

(S)ユーミンは、アルファレコードに移籍してからだね。同じプロデューサーの村井邦彦(むらい・くにひこ)さんを介して。でも、ユーミンとは1972〜73年くらいの、彼女のデビュー直後あたりで一度、共演してるんだよね。渋谷のライブハウス「ジァンジァン」で。

(F)当時からすごい人気で、会場がぎゅうぎゅう詰めの満席だったからジァンジァンのスタッフらも驚いてたね。ユーミンに誰の客だろうねと話したら、「私の」とサラッと言ってた(笑)
Cafe B&Bは2〜3回しか来てないけど、彼女もサーフィンや湘南の感じが好きだったんで、作品に反映されたり逗子マリーナのライブを続けていたり、茅ヶ崎の影響は大きかったんじゃないかな。

 取材を終えて

 昭和ののどかな田園風景が浮かぶ思い出、環境破壊によるビーチクリーン活動、そしてたくさんの大物アーティストとの交流お宝話しなど。50年の歴史が生み出した、深く広いお話しの数々。それら日本の音楽史にも残る秘話を、世間話しのようにさらっと語られる。このナチュラルさが、長きに渡って愛されてきた所以なのだろう。
 そして、自分たちが育った湘南の海が汚染されていくことに真剣に立ち向かい、未来の子どもたちのために取り組む姿勢に、アーティストである以前にひとりの人間であり、茅ヶ崎で生まれ育った住民である、という凛とした生き方に強く感銘した。

 次回、1月17日更新の後編では、桑田佳祐さんとの仰天秘話が飛び出したり、50年間の音楽活動でのオフコースや細野晴臣(ほその・はるおみ)さんなどとの交流、そしてスティービー・ワンダーとの友情秘話、ビージーズやB.B.KINGなど海外レジェンドの前座などなど、驚きのエピソードを語っていただく。

 

 デビュー50周年! 湘南育ちの兄弟デュオ「ブレッド&バター」って、どんな人たち?後編 2020年01月17日 ライター:山本航
 加山雄三(かやま・ゆうぞう)、サザンオールスターズとともに湘南の名を全国区にしたブレッド&バター。前編では、おふたりの生い立ちからデビューまでの青春時代と、茅ヶ崎の海や街の変遷を辿った。


 後編では、茅ヶ崎の土地柄が育んだデビュー後の多種多様な交流を振り返りながら、これからの茅ヶ崎への思いを語っていただく。

 

 桑田佳祐が恋のキューピッド

――桑田佳祐(くわた・けいすけ)さんと知り合ったのはどんないきさつだったんですか?

幸矢さん(以下S)サザンがデビューするかしないかくらいの時期に鵠沼でライブがあって、僕がたまたま犬の散歩で通りかかったのね。で、僕もお世話になっていたアミューズ(芸能事務所)の大里さんが、新人がやるから誰か誘って遊びに来てくれって呼ばれたのが知ったきっかけ。
茅ヶ崎繋がりだしね。彼も確か、一中(茅ヶ崎市立第一中学校)でしょ? それで鎌倉学園だよね。学園に行っていた友達からも話しは聞いたことあるし。
(S)で、Cafe B&Bの2号店がGODDESS(つるの剛士さんの回にも登場した、湘南の草分け的サーフショップ)の店内にあって、そこから桑田くんがラジオ(ニッポン放送『オールナイト・ニッポン』)の中継を、同じアミューズだったウチのカミさん(MANNA、歌手)とやってたのね。
それで桑田くんと飲みに行ったのがつきあいはじめだね。桑田くんが、僕と彼女がお似合いだから結婚しちゃえば? と言ったのが、カミさんとの結婚のきっかけなんです。

――すごい逸話! 桑田さんがキューピットだなんて素敵ですね。オフコースとも深いエピソードがあると聞いたのですが。

(S)オフコースとはデビューが近いし、横浜と茅ヶ崎というのもあってね。それで僕らが一時期音楽活動を休止していたとき、小田和正(おだ・かずまさ)くんと鈴木康博(すずき・やすひろ)くんのライブが横浜で行われたので、楽屋に会いに行って。
それで、もう一度活動再開しようと思うんだけど、できるかなーと相談したの。そしたらふたりが「大丈夫だよ、君らならやれるよ」と言ってくれて、勇気づけられてまた始めた記憶があります。

二弓さん(以下F)休止する前は、辞めるとか休むとか考えなかったし。アルバムを6枚くらい作って、やりたいことはやりきったような気持ちだったんだよね。その時期にカフェを始めたから、そっちが楽しくなって、歌わなくてもいいかなって思ってた。ソロを作ろうかなとも思ってたけど、毎日飲んでて結局作らなかったね(笑)

――Cafe B&Bでの青春の日々は、連ドラと映画(連続テレビドラマ『サンシャインデイズ』、同名映画も2008〈平成20〉年に公開。舞台はそのまま「Cafe B&B」)のモデルにもなりましたね。そこから復帰後のアルファレコード時代の3枚は、今でも代表作ですよね。

(S)まさにね。あの3枚がなかったら、その後は続けていなかった。カフェはミュージシャンだけでなく、モデルの卵やサーファーなど多くの仲間たちと、一から手作りで仕上げて、マイペースで音楽活動を続けられたから。まあ、いろいろあったりもしたけど、そこでまたたくさんの交流があって、音楽シーンに戻る気持ちが芽生えたね。
オフコースに励まされたり、ユーミンがカフェでの日々を基に復帰作『あの頃のまま』を書いてくれたりして、「再デビューだ!」ってね。

 海で育った環境が音楽となった

――今の若い世代でも、この時代の曲はたくさんカヴァーしてますよね。これだけ長いキャリアで続けていると、デビュー当時から音楽性がずいぶん変わったりいろんな冒険をすることが多いですが、ブレバタはデビューから一貫して茅ヶ崎の香りがする音楽を続けているイメージが確立されている印象です。そのあたりは意識されてきましたか?
(F)1979年頃のアルファでの3枚は、プロデューサーがかなり意識してました。むしろそれ以前はあまり考えてなかったよね。海が出てくる歌詞もそんなにないし。でも、周りはいつも僕らが歌うと海を感じるとは言ってましたね。
1969(昭和44)年のデビュー曲だって、設定は軽井沢だけどやっぱりリゾート地でしょ。だから曲を書いてくださった橋本淳(はしもと・あつし)さんと筒美京平(つつみ・きょうへい)さんも、そういう匂いを感じて書いたんでしょうね。

(S)デビューからずっと僕らはカテゴライズされてなくて。それでアルファで有賀さんというプロデューサーが初めて海というカテゴリーを打ち出したんだよね。それが僕らの看板となったんだよ。

――それが外部から押しつけられたという反発心ではなく、そもそも生まれ育った環境だったから受け入れやすかったんですね。

(S)そう。だからそういう育まれたバックボーンがしっかりあるのに、なんでそれをちゃんと表現しないんだ、と指導されたんだよ。

――なるほど。再始動した今はもう、茅ヶ崎をベースにマイペースにやっていくようなお気持ちですか?

(F)どうなんだろうね。歳も歳だしね。今さら急に忙しくなることもないしねー。

――Cafe B&Bをもう一度、何らかの形でやってほしいという声が上がっているようですが、どうですか?

(F)あれは時代が良かったよね。今やろうとすると、すごいお金がかかるよ。当時だって全部自分たちで資材を調達して組み立てたけど、もうそういうのは難しいでしょ。

(S)数年前に、銀座で1週間くらい限定でやったかな? ゲストとか呼んで。ああいう期間限定で、誰かが企画してくれればやれそうだよね。

 

 和製サイモン&ガーファンクルと呼ばれたルーツ

――はっぴいえんどやYMOなどで知られる細野晴臣(ほその・はるおみ)さんとは、いつ出会ったんですか?

(S)アルファレコードに移る頃だったね。彼は復帰後にアレンジしてもらっただけじゃなく、実現しなかったけどいろんな構想でいっしょにやろうと思ってたんだよ。
僕らはノンジャンルで活動していたから、昔からいろんなミュージシャンと付き合いがあるんだよね。エイプリルフールの小坂忠(こさか・ちゅう)とかはフォークと接点がないけど、僕は『旅立ちの歌』で知られる、当時のフォークユニットを代表する「六文銭」に参加したので、フォークの人ともつきあいがあるしね。
それで、フォーク・クルセダーズの加藤和彦(かとう・かずひこ)くんとも繋がっていたり。彼は人一倍、音楽性も人脈も幅が広かったね。ロンドンでレコーディングしていたとき、道でバッタリ会ったんだけど、背が高くてオシャレな着こなしをしていて、すぐにわかった(笑)
そんなこんなで、ビリーバンバンから南佳孝(みなみ・よしたか)やムッシュまで、それぞれが交わらないようなとこが全部繋がっていたよね。

――六文銭のときはこの音楽をずっとやるとか、別の表現を模索したとかありましたか?

(S)あんまりそういう考えは持っていなかったけど、フォークの世界はメッセージ性を重要視するから、メロディやリズム的にもっとこういう音楽をやろうよと言っても、あまり興味を持ってくれなかったな。練習するのに、みんなで集まっても、楽器をケースから出さないで一日中いろんな議論をして終わったりとか、しょっちゅうだったよ。

(S)そういう人たちとも付き合ってたし、同じようにその後もスティービー・ワンダーとかニューヨークの連中とか海外のミュージシャンとも繋がって、海外の大物ミュージシャンの前座も経験できた。いろんな音楽の影響を受けて、いろいろな大物アーティストの前座ができたのも大きいよね。

――すごいラインナップですよね。ビージーズやフリーなど。どういういきさつなんですか?

(F)フリーは、ベーシストの山内テツさんとおつきあいがあったんで。ビージーズは、当時所属してた渡辺プロダクションのブッキングだったのと、同じレコード会社のポリドールだったから。

(S)B.B.キングともやってるんだよ。サンケイホールだったかな?

 スティービー・ワンダーとのかけがえのない友情

――海外との交流で最も有名な、スティービー・ワンダーとのエピソードを改めて教えてください。

(S)1973(昭和48)年にロンドンでレコーディングしたときのプロデューサーが、スティービーのエンジニアだったんで、会わせてもらえました。
そこで自分たちがレコーディングをしている間に、彼がLA(ロスアンジェルス)へ帰ってしまったことを聞いて、後からお礼を兼ねてLAまで追いかけてスタジオ訪問したんです。そしたら、「今録っている曲を聴いて感想を聞かせてよ」と言われて、聴かせてくれたのがあの名曲『You Are The Sunshine of My Life』でした。
(S)で、毎日通いつめてタイミングを見計らって、曲を書いてとお願いしたら、いいよって。その後、活動再開の頃にスティービーから曲が届いて、ユーミン作詞、細野くんアレンジで復帰作として出す予定だったんだけど、「この曲が映画の主題歌に決まったから発売しないでくれ」と連絡が来て、急遽、発売中止になっちゃった。
それでユーミンが代わりに、『あの頃のまま』を作ってくれたの。

――ユーミン自身も、数ある提供曲の中で最も好きなのが、『あの頃のまま』とおっしゃってますね。
そしてそのスティービーがプレゼントしてくれた曲こそが、ジーン・ワイルダー監督・主演の1984(昭和59)年公開映画『ウーマン・イン・レッド』の主題歌『I Just Called To Say I Love You』ですね。全米1位になり、アカデミー賞を獲得した名曲。

(S)まあその後、無事に発売できたし、スタジオに行けたおかげでスティービーとスティーブン・スティルシュと3人でコーラスできたしね。

――すごい財産ですね。今まで見てきたアーティストで、スティービー・ワンダー以外で最も影響を受けたのは誰ですか?

(S)僕はサイモン&ガーファンクル(以下、S&G)かな。渡米して彼らのステージを生で観て感動して、それからあのボブ・ディランのくだりがあって、もう自分には音楽しかないと決心したきっかけだから。でも、アメリカでプロ活動が出来るとは思っていなかったから、帰国してS&Gのような音楽をやろうと決めたの。

――1969(昭和44)年のメジャーデビューが決まったとき、日本のS&Gと謳われていましたが、それも割と合点がいってたんですね。デビュー曲『傷だらけの軽井沢』も垢抜けたものではなく、ノスタルジックなタッチですよね。

(S)まあ、和製S&Gというのはプロデューサーらが決めたことだけどね。あのデビュー曲も、どちらかというとメロディラインがロシア民謡っぽいよね。

――二弓さんは、ビートルズに衝撃を受けてからはどんな影響を受けましたか?

(F)自分の中で強く残っているのは、トラフィックですね。兄と一緒にライブを観たんだけど、ステージ袖で観ることが出来て。いや、すごかったですね。それにスティーブン・ウインウッドは、何をやっても上手いねー! キーボードだけじゃなくて、ギターはエリック・クラプトンより上手いと思えるし、歌も白人離れしてるよね。

(S)今度、シカゴのドキュメンタリー映画をやるよね。あれ、楽しみなんだよね。

(F)エルトン・ジョンの『ロケットマン』も良かったけど、エイミー・ワインハウスのドキュメンタリーがすごい良かったね。ドキュメンタリーだから、作りものじゃなくてなおさらよかった。こないだ、テレビでウッドストックのドキュメンタリーもやってたけど、すごい時代だったよね。

――ウッドストックは今年、おふたりと同じ50周年なんですよね。あれだけいろんなジャンルやスタイルのミュージシャンがひとつのイベントに集まるなんて有り得ないですもんね。

(F)有料だったのが、オーディエンスが殺到しすぎてフリーライブになっちゃったんだよね。すごいよねー。日本の音楽界は、ジャンルが違うと交流が少ないよね。日本はロックフェスも偏ってるから、みんながみんな楽しめないよね。

――そういう意味では、茅ヶ崎とか湘南界隈って、いろんな音楽や文化が混在してて、老若男女や家族で楽しんでますよね。

(F)ホントにそう! ロックもサーフミュージックもレゲエもDJも何でもありで、誰もがそれを楽しんでるよね。だからキマグレンやSuchmos(サチモス)みたいな、若いけど80年代のようなテイストの音楽も生まれるんだよね。

――では最後に、はまれぽ読者に一言お願いします。

(S)自分は海のそばで育って、庭が海のようなものだったから一年の半分以上を海で過ごしていたので、あの頃のブラックサンドビーチでゴミのないきれいな海をとても強く覚えてます。だから、茅ヶ崎があの頃のきれいな海に戻ってくれればいいなと思っています。
これからもみなさん、海をきれいにしないと、という気持ちをなくさないでもらえると嬉しいです。

(F)地元出身歌手の宮手くん(TEMIYAN)が最近、森戸におせっかい食堂というお店を作って、料理人をやってるんですよ。ほかにも逗子のSurfers(サーファーズ)とか、友人が鵠沼にお店を作ったんで僕もそこで内装を手伝ったりとか、湘南のあちこちでそういう横の繋がりが広がってきたんで、そこからいろいろ何か新しいものが生まれてきたらいいなと思っています。

――50周年なのに、おふたりとも全くご自分たちの活動のPRがないんですね(笑)

(F)ほんとだね(笑)
(S)あはは、いいんじゃない(笑)

 取材を終えて

 今までの音楽活動や奏でてきた音楽のように、終始、肩の力を抜いてリラックスした和やかなインタビューとなった。
半世紀以上共に生きてきた兄弟ならでの阿吽の呼吸による掛け合いが、通常のインタビューとは異なる楽しい取材で、まるで海にいるかのような穏やかな時間だった。
次から次へと出てくる、日本を代表する超大物アーティストの名前と逸話! さらには海外レジェンドとの交流。
そんな話しもサラッと流してしまう、自然体の姿こそが、彼らの魅力なのだろう。名だたるアーティストやディレクターの方々も、そんな人間性に惚れ込んだのだと思う。
数年間のソロ活動を経て、50周年イヤーを駆け抜ける。まだまだ今後もマイペースにライブの予定が決まっているので、ぜひゆったりと波音に耳を澄ませるように、彼らの音に触れに出かけてみては。

*https://hamarepo.com/top.php?page_no=1

*https://hamarepo.com/story.php?page_no=2&story_id=7443 より

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<日本酒> 兵庫 松竹梅/宝酒造白壁蔵

2021-05-29 08:33:38 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(大阪国税局)】
 〈兵庫〉 松竹梅/宝酒造白壁蔵

 白壁蔵の理念

 本当に旨くてよい酒とは何か。

 わたしたちはまず、蔵造りから始めました。

 昭和29年から神戸市東灘区のこの地で清酒を造り続けてきた宝酒造灘工場が、平成13年11月に、「白壁蔵」として生まれ変わりました。 本当に旨くてよい酒とは何か。酒造りの初心に戻り、それを具現化するために、わたしたちはまず、蔵づくりから始めました。

 「白壁蔵」は、伝統的な手造りの原理を再現した新しい設備での酒造りと、それとは対照的にほとんどを人の手で行う酒造り、それら両方を併せもつ蔵で、主にデリケートな工程を経て造られる純米酒、吟醸酒を中心に製造しています。建築延床面積6338平方メートル、6階建て。かつての造り酒屋のイメージを残した近代建築のなかで、業界屈指の新しい設備が動き始めています。

 受け継がれて来た杜氏の技と勘
 「白壁蔵」の設備は、3年の月日をかけて、多くの技術者や杜氏の意見を十分に取り入れ、開発、導入されたものです。例えば、昔の「和釜」の原理を再現した連続式蒸米機、最適な温度と湿度が厳密に管理される自動製麹機、また、均一に温度管理ができる仕込タンクなどです。
また一方で、それらの新しい設備で手造りと変わらないよい酒を造るためには、人間の判断が必要となります。例えば、米を蒸しあげたときにどういう手触りにするのか、そのために浸漬時間をどの程度にするのか、それらは米を知っている人間ならではの判断です。

 あらゆる設備は、総合的な知識や経験を兼ね備えている杜氏がすべての条件を判断して造り手に指示をだし、機械の運転条件をその都度決めます。つまり、人間が的確な指示を機械にださなければよい酒は生まれないのです。そのために「白壁蔵」では、若い造り手たちに、受け継がれてきた杜氏の技と勘を、そして酒を造るよろこびを伝えていきたいと考えます。

 蔵として新しい挑戦をし続けていく
 そのような「白壁蔵」の、人と設備へのこだわりが、常に安定した酒造りを実現し、それはまた、多くの消費者の方たちに本物の旨い酒を知っていただくことを可能にすることでもあります。だからこそここは、人が携わる「手造りの蔵」なのです。

 「白壁蔵」が追い求めるものは、飲んだ瞬間にその酒を造った人たちの顔、その酒が生まれた蔵の姿を想いめぐらすことのできるような酒を造ることです。

 それは、飲みごたえがあって、飲み飽きのしない、飲み続けることのできる酒を、飲み手の顔を想いめぐらしながら、連綿と造り続けるということです。伝統や技術を守り、流行に惑わされない酒が、時代を超えて愛されていく酒であるということも事実ですが、人びとの嗜好の変化も踏まえて、蔵として新しい挑戦をし続けていくこともまた忘れてはならないと考えています。

 宝酒造株式会社 京都市伏見区竹中町609番地

 白壁蔵 神戸市東灘区青木2丁目1-28 

 ラインナップ

 「松竹梅 白壁蔵」純米大吟醸・大吟醸 無濾過原酒 など

 「澪」松竹梅白壁蔵スパークリング清酒・松竹梅白壁蔵<DRY>・松竹梅白壁蔵<BRUT辛口> など

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<伝統野菜> 宮城 石森の垣まめ

2021-05-29 08:18:59 | 伝統野菜

 「石森の垣まめ」

 【生産地】宮城県登米市中田町石森桑代

 【形状】スナップエンドウに似ている。紫のきれいな花が咲く。

 【食味】風味がとても強く、個性的な味。味噌汁に入れて食す。

 【来歴】現在は、中田町石森桑代の佐藤家のみで栽培。その年初めて収穫した石森かぎまめは、畑から比較的大きめなジャガイモを採り、あぶらげなどと一緒に炊く変わりご飯を炊きます。佐藤家ではこれを「いもっこごはん」と呼んでおり、一年に一回、最初の収穫時にきまって食べているそう。

 【収穫時期】6月

*https://tradveggie.or.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E9%87%8E%E8%8F%9C%EF%BC%8D%E5%AE%AE%E5%9F%8E/#i-16 より

 

 石森の垣まめ
 生産地 登米市中田町石森桑代地区

 由来
 石森かき豆1中田町石森桑代にお住まいの佐藤澄子さんが40数年前に佐藤家に嫁いできたときには、姑がこのかぎまめをつくっていましたが、澄子さんに代替わりしてからもつくり続けてきました。近所で同じかぎまめをつくっていた人もいましたが、みんなやめてしまい、今では佐藤さんだけになっています。

 

 特徴
 石森かき豆2スナップエンドウに似ていますが、風味がとても強く、個性的な味がします。スナップエンドウは白い花を咲かせますが、石森かぎまめは紫のきれいな花が咲きます。

 

 栽培方法
 石森かき豆3毎年12月15日前後に種まきをします。種を播くときは、ねずみ対策として、播いた種の上に杉の葉を敷き詰め、その上に土をかけています。土は厚めに5cmぐらいかけています。

 また、種はさやから出さず、さやごと播くのが特徴。発芽率があまり高くないので、多めに種を播いています。

 

 主な活用・料理方法
 石森かき豆2ほとんどは味噌汁にいれて食べています。6月になり、その年初めて収穫した石森かぎまめは、畑から比較的大きめなジャガイモを採り、あぶらげなどと一緒に炊く変わりご飯を炊きます。佐藤家ではこれを「いもっこごはん」と呼んでおり、一年に一回、最初の収穫時にきまって食べているそうです。

 

 生産者インタビュー佐藤澄子さん
 石森かき豆5おばあさんがこのかぎまめを作っていたのを引き継いで、何十年も当たり前のようにかぎまめを作り、種を採ってきました。今回の伝統野菜復活プロジェクトのお話をもらい、大事なことだったのかと気づきました。他の野菜は種を買って更新してますが、かぎまめだけは他の作物にない味なので、これからも地種で作り続けていきたいです。

 

 お問い合わせ

 登米市産業経済部地域ビジネス支援課

*https://www.city.tome.miyagi.jp/business/dentoyasai/ishi_kakimame.html より

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<漢字検定> 1級 四字熟語 2.回答 3.出題

2021-05-29 08:05:43 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 天真爛漫  -てんしんらんまん-飾らず自然のままの姿があふれ出ているさま。生まれつきの素直な心そのままで、明るく純真で無邪気なさま。▽「天真」は純粋な性格、「爛漫」は自然のままに輝き現れる様子。

 

 問2 得魚忘筌  -とくぎょぼうせん-魚を捕ってしまうと、その道具の筌やなのことなど忘れてしまうということ。転じて、目的を達すると、それまでに役立ったものを忘れてしまうことのたとえ。▽「筌」は水中に沈めて魚を捕る竹かごのこと。一般に「魚を得て筌を忘る」と訓読を用いる。

 

 問3 風声鶴唳  -ふうせいかくれい-おじけづいて、わずかなことにも恐れおののくことのたとえ。▽「風声」は風の音。「鶴唳」はつるの鳴き声。わずかな物音にもおびえるたとえ。「鶴唳風声」ともいう。

 

 問4 判官贔屓  -ほうがんびいき-弱者や薄幸の者に同情し、味方したり応援したりすること。また、その気持ち。▽「判官」は官職の名で、ここでは検非違使の尉(判官)の職にあった源義経のこと。「贔屓」は目をかけること。源義経が兄の頼朝よりともにねたまれて滅んだことに、人々が同情を寄せたことからいう。「判」は「はん」とも読む。

 

 問5 落穽下石 -らくせいかせき-人の弱味につけ入って、さらに害を与えること。落とし穴に落ちた人に、さらに上から石を落とす意から。▽「穽」は落とし穴。「穽に落ちて石を下す」と訓読する。「穽」は「井」とも書く。

 

 今回の出題

 

 次の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 危言覈論  

 

 問2 鄒魯遺風  

 

 問3 独立不撓  

 

 問4 麻姑掻痒  

 

 問5 緊褌一番

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典オンライン より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 三重 四日市萬古焼

2021-05-29 07:47:06 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「四日市萬古焼」

 Description / 特徴・産地

 四日市萬古焼とは?
 四日市萬古焼(よっかいちばんこやき)は、三重県四日市市で作られている陶磁器です。古くより、茶碗や皿などの日用品、壺などの芸術品が作られてきました。
 現在では、紫泥(しでい)急須や土鍋が代表的な生産物となっており、特に土鍋においては国内生産の土鍋の8割から9割が萬古焼と言っても過言ではありません。
 四日市萬古焼の特徴は、使用される陶土から生まれる優れた耐熱性です。土鍋の陶土には、葉長石(ようちょうせき、別名ペタライト)と呼ばれる熱に強いリチウム鉱石を40%ほど混ぜています。それにより強度が増し、直火や空焚きにも耐える耐熱性が生まれます。この技法は、四日市萬古焼の特許となっており、他では見ることができません。
 また急須は、鉄分を多く含む土「紫泥」を用いて焼き上げます。含まれる鉄分が炎によって独特の色合いを生み出し、また使うほどに味わいのある光沢が増していくのが魅力です。
 毎年5月中旬には、四日市市の萬古神社周辺において「萬古まつり」が開催されます。地元の窯元から出展される陶芸家の作品の数々と触れ合えるほか、手頃な価格で販売されることもあり、全国から多くの人が訪れます。

 History / 歴史
 萬古焼の歴史は、今から約300年前に遡ります。江戸時代の元文年間(1736年~1740年)、商人であり、茶が趣味であった沼波弄山(ぬなみ ろうざん 1718年~1777年)が、現在の三重郡桑名町に自ら窯を開き、茶器を焼き始めたのが始まりです。また、自身の作品に「いつまでも永遠に変わらぬ生命をもつ」という意味の「萬古不易」の印を押したことが、萬古焼の名前の由来と言われています。
 弄山の死後、一時期途絶えた萬古焼ですが、その約30年後、江戸時代後期になり、古物商であった森有節(もり ゆうせつ)・千秋(せんしゅう)兄弟により再興しました。抹茶に代わり、流行しはじめた煎茶のための急須が誕生したのがこの時期です。
 萬古焼は、時代とともに「古萬古」、「有節萬古」、「明治萬古」などと呼ばれ、それぞれに異なる点を有しています。もともと四日市が発祥ではなかった萬古焼が「四日市萬古焼」と呼ばれ四日市に定着したのは、明治時代に入ってからです。港があり、燃料である石炭を入手しやすかったこと、貿易港として流通に適していたこともあり、全国有数の陶磁器の産地として発展を遂げました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/yokkaichibankoyaki/ より

 伝統を「守る」から「作る」へ
 創始者沼波弄山が自分の作品が永遠に伝わるべく願いを込めて「萬古不易」の印を押したことからその名がついたという萬古焼。必要とされる機能と美しさは守りながら、新たな作品を産み出し続ける急須作家に話を聞いた。

 急須は雑器、用途性が大事
 伊藤さんが萬古焼にたずさわり始めたのは38年前。「親がやっとったから跡を継いで、気楽に始めた」という。それ以来萬古焼の代表的作品である急須を作り続けている。習うと言うよりは仕事の手伝いから見よう見まねで、最初は手や口、フタなどの部品を作ることから始まったそうだ。
 5年間親元で素地師(素地をメーカーに買ってもらい、焼成は別のところにまかせてしまう)の仕事をしたあと独立。自分の窯を持ったことで「丁寧にしやんといかん、いい品物を作らなあかん」と思うようになった。
 その思いは急須のつくりに現れている。萬古急須は軽ければ軽いほどよいので極限まで薄くし、注ぎ口は適度なカーブをつけることで注いだときにこぼれないようにする。急須本体の大きさは、茶碗をセットにする場合のバランスまで考え抜く。「急須は雑器だから用途性が大事」という。


 自分の色を求めて
 萬古急須の特徴は鉄分の多い陶土を用いた朱泥・紫泥にある。この陶土は酸化焼成する(焼成の際に十分な酸素を送り込みながら焼く)と鮮やかな朱色に、還元焼成する(酸素不足で蒸し焼きのような状態で焼く)と深みのある小豆色になる。酸素の量や温度、焼成時間、窯の大きさや形によって微妙に色合いが変化する。また陶土の配合によっても変わってしまう。伊藤さんも自身の色を出すために様々な努力をしたという。「形はそう変形できやせんしねぇ。焼きや土を変えてみた。長石を使って違う色を出したり色々とやってみたし、焼いてへたって(変形して)しまったこともあった。自分の色を出すためにやったけど、今のものが作りやすいし、ええ色になったと思う」という急須は美しく、形にはひとつの無駄もない。


 使えば使うほど色と艶が増す萬古焼
 萬古焼は使えば使うほど手の油分や茶渋でいい色合いになり、艶が出てくる。洗剤をつけたり、たわしでこすりすぎたりすると、表面が削れてしまい黒くなってしまう。伊藤さんの家にある器はよく訪問客に持っていかれるそうだ。時には「そっちの色の方がええ」とお茶の葉が入った急須をそのまま持ち帰られることもある、と嬉しそうに語られた。


 四日市で作られる焼物が「四日市萬古焼」
 伝統的な萬古急須の形と色がある。伊藤さんが修行を始めたころはそれが萬古焼だと学んだそうだ。しかし時代が変化するにつれ、様々なものが求められるようになった。だからこそ、色々なものを見て学び、新しい作風を生み出していかねばならないという。だから弟子(ご子息の伊藤美秀さん)には人とのつき合いを大切にすること、百貨店での展示や作陶展を見て回ることを勧めるそうだ。「作陶展などは最初はよく一緒に行っていたけど、最近は一人で行く方がいいと言われる。子離れもせぇなあかん(しないといけない)し」とこのときばかりは父親の顔を見せた。伊藤さんご自身の作品も型にとらわれていない。窯変(窯の中での温度変化でグラデーションのような文様を作る作品)や釉掛けの急須も作るし、香炉や大きな瓶も作る。それは「伝統を守るだけではあかへん(だめ)」と新たなものにチャレンジし伝統を作る、という姿勢によるものだ。

 一生修行、死ぬまで修行
 数々の作陶展で入選し、雑器でありながら芸術的な急須を作り続ける伊藤さんだが、今もなお修行中だという。「人のできやんことをしたいけど、なかなかできやんね(人のできないことをしたいけど、なかなかできない)。それはみんな一緒ちゃうかな」。人よりいいものを作り、みんなに使ってもらうのが一番よい、使っていただいているのが一番嬉しいと、笑いながら言われた姿が印象的だった。


 こぼれ話

 萬古焼歳時記

 例年5月の第2土・日曜に開かれる「萬古まつり」は、四日市に萬古焼をもたらした先人達の偉業をたたえる萬古神社の大祭に協賛して開かれる市。萬古焼業者がこぞって大安売りをすることで知られています。市価の3~7割引は当たり前で、15万人の人手で大にぎわいです。
 使い古した土鍋に感謝する「土鍋供養祭」は、萬古焼の土鍋が全国シェアの80%以上を誇ることから始められた行事です。萬古焼のさらなる発展、新たな創造をめざして開かれる「四日市萬古焼綜合コンペ」や、入賞作が実際に製品化され、市販される「四日市土鍋コンペ」。新たなる伝統を生み出そうという気概が伝わってきます。子どもを対象にした陶芸教室や陶芸コンクールには多くの子どもが参加しています。

*https://kougeihin.jp/craft/0410/ より

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