いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<苺> さぬきひめ

2021-05-07 21:08:38 | 食品

 「さぬきひめ」

●さぬきひめとは
◆さぬきひめの来歴
「さぬき姫」は香川県農業試験場において、「食味」「大きさ」「高設式養液栽培」をキーワードに次世代のいちご栽培を担う新しい品種として「三木2号(「さちのか」×「とちおとめ」)」に「さがほのか」を交配し、得られた実生から選抜育成されたイチゴです。


 
ツル付き さぬきひめ,さぬき姫,いちご,イチゴ
 2005(平成17)年、香川県によって種苗法に基づく品種登録申請、2009(平成21)年2月に品種登録されました。

 「さぬき姫」の品種名は、さぬきの国香川県生まれの上品な味わいのかわいいいちご。たくさんの人に可愛がってもらいたいとの思いが込められています。

 ただ、流通する際の名称は「さぬきひめ」と全てひらがな表記にすると決められています。

◆さぬきひめの特徴
 「さぬきひめ」は果実はふっくらと丸みのある円錐形で、平均果重は18~19g前後の果実がつくとされています。(写真のものは37g前後あります)

 果皮は張りと艶があり、比較的しっかりとしていて日持ちが良いイチゴです。果皮の色は紅色系で艶があり、そう果(表面の種のように見えるもの)はあまり落ち込んでいません。

 果肉も薄紅色をしています。果肉はとてもジューシーで、甘みと共に酸味も少しあり、さわやかな甘さとして感じられます。

ツル付き さぬきひめ,さぬき姫,いちご,イチゴ
農林水産省の品種登録データベースには以下の通り記載されています。

『-----

 果実の縦横比は縦長、果実の大きさはやや小、果形は球円錐、

 果皮の色は鮮紅、果実の光沢は中、そう果の落ち込みは落ち込み小、

 がく片の着き方は離、果径に対するがく片の大きさはやや大、

 果実の硬さは硬、果肉色は淡紅、果心の色は淡赤、果実の空洞は小、季性は一季成りである。

 出願品種「さぬき姫」は、対照品種「さちのか」と比較して、果皮の色が鮮紅であること、果肉色が淡紅であること等で区別性が認められる。

-----』以上、抜粋。

◆実際に食べてみたさぬきひめの食味
 撮影試食したツル付き「さぬきひめ」は3月9日に仕入れたもので、一粒35g前後ある大粒のものでした。箱に5個×6列にツル付きの状態で綺麗に詰められていました。

ツル付き さぬきひめ,さぬき姫,いちご,イチゴ
 果形はあまり縦長ではない円錐形で、果面はやや凸凹した感じになっています。

 果皮は全体に赤く色付いていますが、完熟まではしていないような感じに見えました。

 半分に切った時の果肉の色はとても淡いうす紅色で、果実が大きいにもかかわらず空洞はわずかしかできていません。

ツル付き さぬきひめ,さぬき姫,いちご,イチゴ
 食べてみると食感は程よく、果汁がたっぷり含まれている感じで、甘味は特に強くはなく酸味も穏やかでさっぱりとした、良く言えば上品な味で、香りも中くらいといった印象でした。糖度を計ってみると10~11度でした。

●さぬきひめの主な産地と旬
ツル付き さぬきひめ,さぬき姫,いちご,イチゴ
◆主な産地と生産量
 「さぬきひめ」は香川県が生み出したオリジナル品種として香川県内だけで作られています。2018年の時点では、香川県で作られているイチゴ品種に占める割合は76%にも及び、1650トンが出荷されたそうです。ちなみに、残りのうち22%は「女峰」となっています。

 香川県内の主な産地は、高松市、丸亀市、観音寺市、さぬき市、東かがわ市、三豊市、三木町、綾川町、小豆島等となっています。

 香川県では、認定された生産者が栽培し、糖度など一定の品質基準を満たしたものを「さぬき讃フルーツ」として推奨しています。

◆香川県オリジナルのイチゴ養液システム「らくちん栽培」
 香川県では全国に先駆けて高設養液栽培の導入が進められ、2019年の時点では、平成8年に香川大学、香川県農業試験場、JA香川県が共同で開発した腰をかがめず立ったまま作業ができる独自の養液システム「らくちん栽培」が主流となっており、そうした高設栽培がイチゴ栽培の95%を占めているそうです。

◆さぬきひめの収穫時期と旬
 「さぬき姫」は、花芽の分化が早く、夜冷育苗をしなくても 11 月からの出荷が可能なのだそうです。収穫は5月頃まで続きますが、収穫の最盛期であり、旬の時期は2~4月にかけてです。

*https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/Strawberry-Sanukihime.htm より

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昨日の藤井二冠-5/6

2021-05-07 14:03:37 | 将棋

 2021/05/06(木)
 第69期 王座戦 挑決T 一回戦

 VS   深浦康市九段

 105手で敗戦

 途中「やや優勢」の局面もあったみたいだが、逆転負けに。

 

 次戦は

 第80期 順位戦 B級1組 1回戦(持ち時間:6時間)

 2021/05/13(木) 10:00開始

 VS 三浦弘行九段

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<言 葉> 夏の言葉 新緑

2021-05-07 07:24:02 | 言葉

 「新緑」

 初夏の目覚めるような若葉のみどりをいう。樹木によってみどりに微妙な違いがあり、明るい初夏の光の下、すべてがまさに夏来る想いを誘う。「新緑」がどっぷり夏に入ると「深緑」、ことどとく緑になった状態は「万緑」という。

*https://bunsho-de-kasegu.com/archives/50657992.html より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-和田アキ子

2021-05-07 07:13:25 | MUSIC

 「和田アキ子」

  1950年4月10日生まれの71歳

 

 和田アキ子が今も「恨み節」をこぼす紅白“大御所排除”路線 1/18(月) 7:02配信 FRIDAY

 ‘15年の出演を最後に、紅白歌合戦には縁がない和田アキ子。存在感は抜群だが…

 「私も紅白、自分で言って終わりたかったのに」

 1月16日、歌手の和田アキ子がパーソナリティーを務めるラジオ『ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回』(ニッポン放送)に生出演し、‘15年から出場できていないNHK紅白歌合戦についての恨み節をはいた。

 ラジオでは、3月26日の放送をもって22年の歴史に幕を下ろす『情報プレゼンター とくダネ!』(フジテレビ系)で、キャスターの小倉智昭について

 「本当に長い間お疲れさまでした。分かりやすく説明してくださって、おしゃれな終わり方でしたね」

 と労いの言葉をかけた。そして続けて

 「私も紅白、自分で言って終わりたかったのに…」

 と嘆いたのだ。和田は連続30回、紅組最多の39回出場という記録を持つが40回という節目を目前に紅白に出場できなかった。落選が判明した当時の和田は

 《事務所の威光が響かなかった》
 《紅白は見ない、とっとと日本を後にしたい》

 と不満を口に。そのことで物議をかもしたこともあった。

 「”事務所の威光”という言葉を使っていますがまさにその通りで、和田さんは超絶的な人気の反面、なかなかCDが売れないというのも事実。‘もはやライブ活動中心のインディーズバンドレベルしか売れていない。それでも39回も出場できことは、ある意味偉業でしょう。”自分で言って終わりたかった”というのは結果論で、紅白を自分から卒業をするとはなかなか言い出せない。芸能人にとってはそれほどのステータスなんです」(芸能レポーター)

 紅白といえば、北島三郎は50回という節目で卒業し、今回の出場で五木ひろしも50回で1位タイとなった。今年の大みそかも出場すれば日本一となる。

 しかし週刊新潮によれば、五木はNHKから50回という節目を機に卒業を打診されたそうだが、頑なに拒否している…という話も。意地でも日本一の称号を手に入れるということだろう。

 ちなみに和田アキ子と同じ年に細川たかしも40回という記録目前に紅白を卒業した。

 「NHKは視聴者層の若返りを意識し、出演者の世代交代を意識しているのでしょう。氷川きよしさんも今回は演歌を歌わず、ドランゴンボール超のテーマ曲を歌うなど昔の紅白とは明らかに質が変わってきました。

 それと同時に、当たり前のように何年も連続で出演することにも疑問の声が上がっている。昨年の北島さんのように、NHKは必要な場合にゲストとして出てもらうというスタンスにしていきたいようです」(テレビ局関係者)

 しかし案の定、年配者からは苦言が出た。俳優の黒沢俊雄は自身のブログで

 《年末の紅白歌合戦は理解に苦しむ最悪の歌番組だった…僕は。ただ騒ぎ立てふざけて進行する…他の歌番組も同じ構成。それにしても殆んど知らない曲が大ヒット…(すいません…僕の勉強不足)長い歌詞に大声で叫ぶだけで心に伝わってこない…》

 と昔ながらの紅白が好みという人もいるようだ。

 今回はコロナ禍ということもあり2部の関東平均視聴率は40.3%という大台に乗った。19年から3ポイントアップということで、数字だけを見れば良くなっている。

 今年からは嵐も出場しないとなれば、大御所歌手のリストラと人気歌手の積極的採用がさらに進んでいく可能性は高い。演歌歌手にとっては、ますます狭き門になりそうだ…。

*https://news.yahoo.co.jp/articles/ab9f086a34d15a8e1430cdba78872f28e91914db より

 

 

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<日本酒> 愛知 國盛/中埜酒造 國盛蔵

2021-05-07 06:54:42 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(名古屋国税局)】
 〈愛知〉 國盛/中埜酒造 國盛蔵

 銘醸地、尾州半田
 知多の地酒の歴史は古く、さかのぼること三百有余年。江戸初期寛文5年(1665年)には、知多全体で114軒、半田では10軒の酒造家が創業していました。

 江戸時代中頃には廻船により江戸への出荷も始まり(1723年)、知多が江戸と上方(現在の大阪)の中間に位置することから「中国酒」として親しまれ、18世紀末には江戸に入る酒の三割を担う大産地として成長しました。

 時とともに盛んな知多の酒造り。國盛のふるさと知多半田は酒の街として広く知れわたり、江戸中期ともなると醸造量は飛躍的に増加。天明8年(1788年)には約5万石もの酒米がお酒造りにあてられています。

 知多で酒造りが盛んになった背景には、地の利に加えて、年間平均気温15.5度と醪(もろみ)の発酵に適した気候風土と良質な酒米、清冽な湧き水に恵まれたこと。さらには、徳川御三家、尾張藩の奨励も酒造りを力強く後押ししました。地酒の旨さ、國盛の味わいには、はるかなる歴史が脈々と息づいています。

 弘化元年、國盛蔵創業
 昔に使用されていたラベル
 恵まれた自然環境、地酒に欠かせない尊い歴史と伝統、盛んな酒造りの勢いを得て、いよいよ國盛蔵が弘化元年(1844年)に創業します。

 「国の繁栄を願い、それとともに我が酒の盛んなること」を望む気持ちを込めて「國盛」と命名し世に送り出しました。明治に入り、國盛の醸造量は評判とともに増大。明治23年(1890年)に知多半島で第一回大日本帝国陸海軍合同の大演習が行われた際、國盛蔵の敷地内に大本営がおかれ、明治天皇をお迎えしました。

 この出来事は國盛に対して絶大な信頼が寄せられていたことを物語るものといえます。明治末期には「雪山(せっさん)」の蔵元と提携し、丸中酒造合資会社を設立、その後「雪山」「勲盃」の蔵を合併し、現在に至る基盤をより強固なものとしました。

 中埜酒造株式会社 愛知県半田市東本町二丁目24番地

 ラインナップ

 「中埜」超特撰國盛 純米大吟醸 

 「國盛」 超特撰大吟醸・特撰 純米吟醸・上撰 特別本醸造 など

 「半田郷」特撰國盛 純米吟醸・特撰國盛 純米吟醸 酵母1801・上撰國盛 純米 辛口 など

 「我逢人」純米大吟醸 など

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<伝統野菜> 岩手 阿房宮

2021-05-07 06:46:50 | 伝統野菜

 「阿房宮-あぼうきゅう」
 【生産地】岩手県久慈市

 【形状】食用花。花色が黄色で花肉が厚い。

 【食味】抜群の香りと甘みを持ち、シャキシャキとした食感が楽しめるのが特徴。

 【来歴】南部藩主が京都九条家の庭に芳香美麗に咲いている阿房宮を株分けし、藩内に植え付けさせたのが始まりで、藩政時代に観賞用菊「黄金株」の実生から生まれたと言われている。青森県の伝統野菜にもなっている。

 【収穫時期】収穫時期10月下旬~11月上旬。収穫された後その大半は保存がきく干し菊へと加工され、その美味しさと美しさを1年中楽しむことが出来る。

*https://tradveggie.or.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E9%87%8E%E8%8F%9C%EF%BC%8D%E5%B2%A9%E6%89%8B/#i-7 より

 王宮の名をもつ食用菊 「阿房宮(あぼうきゅう)」  2006-01-20 16:31

 南部地方を代表する作物に、秦の始皇帝が菊を愛でたという宮殿の名を与えられた食用菊があります。目に鮮やかな色合い。独特の芳香と甘味。そして歯ざわり。南部地方に古くから伝わる「阿房宮」です。

 王宮の名をもつ食用菊 「阿房宮(あぼうきゅう)」
 エディブルフラワーと言ってしまえば西洋文化のようですが、日本人はもともと花を食用としていました。江戸時代にはかなり大衆化していたようです。食用菊というと、関東以西では刺身と一緒に盛られる「つま菊」が一般的ですが、東北地方では大ぶりな花びらを野菜の一種として食べます。

 現在、食用として栽培されている菊は約60種。山形で「もってのほか」と呼ばれる淡紅紫の「延命楽」と青森県南部地方特産で黄色の「阿房宮」が代表的です。

 一説によると、江戸時代に南部藩主が京都の九条家から観賞用としてもらい受けたのがきっかけで、旧相内村(現南部町)で栽培してみたところ、花に苦みがなく、芳香と甘味があり、シャキシャキとした歯ごたえで実においしかったため、食用として藩内に広められたと伝えられています。

 「阿房宮」の花は、初霜が降りる直前の10月下旬~11月にかけて満開となり、その時、名峰名久井岳に向かうゆるやかな斜面は純黄色の絨毯に覆われます。
 菊の刈り取りは、太陽で蓄えられた甘味をいっぱい取り込むため、冷気に包まれる前の午後3時頃から始めます。菊の花はひとつずつ鎌で刈り取られ、農家に運んだ後は、花びらをむしる「菊ほかし」が続きます。花びらだけになった「阿房宮」は、蒸され、干し上げられて干し菊となります。

 生品が料理されることもありますが、大半が干し菊となるところに「阿房宮」の文化があります。冬の食膳にもこのあでやかな色香をあしらえることとなった干し菊づくりは、名川町東円寺の板橋太観住職が開発し、教え聞いた清光寺の高山恵輪住職が地域へ普及させたと伝えられます。今から百年あまり前の明治30年頃のことだそうです。
 南部の秋を閉じこめた干し菊は、さっと湯がくだけで鮮やかな彩りと味わいを取り戻し、一年中味わえます。この地方では、古くからさまざまな菊料理が食卓を飾っていますが、菊の風味を手軽に味わえるのはみそ汁。鍋のおろしぎわ花びらを散らすだけで趣のあるおいしいみそ汁になります。
 お酢との相性も良く、湯がいて水気を絞り、ダイコンおろしと混ぜて二杯酢などで和える「菊なます」も絶品です。
 伝統的な料理として見逃せないのは菊巻き。一夜漬けしたニンジンやダイコン、タカナなどを菊で巻きます。

 子供の頃には分からなかった、やさしくて香しい南部の伝統野菜です。

*https://www.marugotoaomori.jp/blog/2006/01/617.html より

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<漢字検定> 1級 読み 71.回答 72.出題

2021-05-07 06:35:53 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 筮竹 -ぜいちく-占いに用いる、50本の細い竹の棒。竹製のめどぎ。

 

 問2 進陟  -進捗-しんちょく-物事がはかどること。

 

 問3 推輓  -推挽-すいばん-人を、ある地位や役職に推薦したり引き上げたりすること。

 

 問4 羶血 -膻血-せんけつ-なまぐさい血。また、肉のにおい。転じて、肉食をする野蛮な人。西洋人。

 

 問5 冕旒 -べんりゅう-冕冠の前後に垂らす、珠玉を連ねた糸状の飾り。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 靄然  

 

 問2 旌表  

 

 問3 蹂躙  

 

 問4 弛緩  

 

 問5 諠譁

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書 ・精選版 日本国語大辞典 より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 岐阜 美濃和紙

2021-05-07 06:27:49 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「美濃和紙」

 Description / 特徴・産地

 美濃和紙とは?
 美濃和紙(みのわし)は、岐阜県で作られている和紙です。美濃は自然豊かな土地で、和紙の原料となる楮(こうぞ)も採取できる環境であることから和紙が奈良時代から作られており、その記録は奈良の正倉院にも残っています。
 薄さと丈夫さ、美しさの共存が美濃和紙の大きな特徴です。職人の高い紙漉(す)きの技術から、素材の良さを活かした美しさが引き出されています。江戸時代には、最高級の紙として徳川幕府も御用達でした。
 岐阜県で和紙の産地として有名なのは、関市寺尾です。水が違うと和紙の質も大きく変わってくるため、産地によって製品の風合いに微妙な違いが現れます。他にも、岩佐、谷口、牧谷などの産地で高品質な美濃和紙が生産されています。
 岐阜では、美濃和紙が発展したことから、美濃和紙から作られる岐阜提灯、岐阜和傘などの工芸品も生み出されています。

 History / 歴史
 美濃和紙 - 歴史

 奈良時代に始まり、1,300年以上の歴史をもつという美濃和紙が全国的に広がったのは、室町時代に入ってからです。美濃国守護の土岐氏は、地元産業を活性化させるために製糸業を保護し、六斉市(ろくさいいち)という紙市場の開催により生産を着々と拡大させていきます。また、土岐氏は文化人だったため、土岐氏と交流のある公家や僧侶が好んで美濃和紙を使用しました。これによって全国に美濃和紙が知られるようになったと言われています。
 江戸時代には、美濃が専売制度によって特産地に制定されたことから障子紙として確固たる位置づけを得ました。それまで高級和紙として地位を確立していましたが、町人からの支持を受けて美濃と聞けば障子のことを連想する程に生産が拡大しました。
 明治維新の頃には、更に国内の紙需要は増大し、戦時中には日用品のほか爆薬包装紙などの軍用品としても美濃和紙が使われました。
 戦後、石油化学製品が入ってきてからは和紙を日常で使用することはほとんどなくなりましたが、1985年(昭和60年)には経済産業省により伝統的工芸品に指定され、現代でも手漉き和紙の職人たちが美濃和紙の古くから続く伝統を受け継いでいます。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/minowashi/ より

 

 職人半生記~美濃和紙この50年~
 美濃和紙に書かれた大宝2(702)年の戸籍が奈良・正倉院に保存されている。日本最古の戸籍といわれるものだ。1300年もの間、美濃和紙は薄く丈夫で美しい最高級の紙としてその名を知られてきた。美濃に代々続く紙漉きの家に生まれ、職人として半世紀にわたって美濃の和紙を作り続けてきた石原英和さんにお話を伺った。

 
 紙に呼び戻され続けて
 「本当は先生になりたかったんですよ。」中学卒業後、高校へ進学しようと思ったが、お母さんの病気で家業の紙漉きを手伝うことになった。それが、石原さんの紙漉き職人としてのスタートである。薄く丈夫で美しいことで知られる美濃和紙の中でも、特に薄手のものを得意とする名手・石原さんの紙漉き人生は、けれども紆余曲折だ。20歳を過ぎた頃、紙を売る商売の方をやろうと東京へ出たが、今度はおじいさんが病気になり、美濃へ戻った。30歳代だった昭和40年頃には、紙漉きを廃業して当時需要の急増していたプラスチックの工場を始めようと思ったが、取引先に泣き落とされて続けることになった。「よく迷ったよ。迷わなくなったのはここ最近のことかな。でも他の道へ行こうとすると何かしらあって必ず紙の方に呼び戻される。紙の方が私を好きだったんじゃないかってときどき思うねえ。」石原さんはおっしゃる。


 作れば作るだけ売れた昭和30年代
 石原さんの家は代々続く紙漉きの家で、長良川の支流、板取川から少し山側に入った上野(かみの)にある。板取川沿いの地域は川がきれいで原料が豊富。また冬場の生業が他になかったこともあってか、昔から特に紙漉きが盛んだった。石原さんが15歳でこの仕事をはじめた頃も近所はみな紙漉きをやっていた。紙屋の息子が紙屋を継ぐのは当たり前の時代で、友達も紙漉き職人になる人が多かった。当時は毎朝、4時前に起きて仕事していたというが、作れば作るだけ売れた。サラリーマンよりも給料がよかった時代だ。


 背中も見えない
 当時は、集落ごとに薄物中心、障子紙中心などと作る傾向がおおよそ決まっていて、石原さんが住む上野は薄物が多い地区だった。石原さんが作ってきたのも非常に薄い紙が中心で、伝統的工芸品に指定されている岐阜提灯や、友禅染めに使う伊勢形紙などに使われてきた。
 金沢箔で使う「箔合紙(はくあいし・できあがった金箔がくっつかないようにはさんでおく紙)」を頼まれたときのことだ。「これは難しい紙でね、『早く先輩たちに追いつくように頑張ります。』って言ったら、『何言ってるんですか。とっくに背中も見えませんよ。』って言われたんです。」そうか、まだ先輩の背中も見えないのかと思ったという。でもお客さんは、まだ40代半ばの石原さんが、すでに並みいる先輩をしのぐ腕を持っていると言ってくれたのだった。「これはうれしかったです。真面目に一生懸命お客さんのことを考えてやっていればこういうこともあるんだな、って思いました。」

 手漉き和紙の需要の激減
 紙漉きの仕事は面白いと思いますか?と愚問してみた。面白いとか面白くないとか、仕事だからそんなことを考えたことはない、という。 「逆に、何が辛かったって、紙が売れなくなってみんなやめていくのが辛かった。」高度成長の頃からか、機械化とあいまって手漉き和紙の売り上げは激減していった。石原さんのところでも、最盛期には月に2万枚漉いていたのが今では月に2千枚。以前は隣近所、みな紙をやっていたのに、今作り続けているのは上野と隣の蕨生(わらび)・片知の集落を合わせて20軒ほどしかない。高齢化も進んだ。


 紙は素材
 でも幸いなことに、紙漉き職人を志望する若い人は少なくない。他府県から美濃に移り住む人もいて、現在、10人ほどが美濃で職人を目指している。「そういう若いやつらにぼくは言うんですよ。アーチストになるなって。紙は素材であって、それ自体で作品じゃないんです。」 「いい紙」の定義はないという。障子紙としていい紙、型紙にいい紙、「いい紙」は用途によってみなちがう。紙はそれを使うお得意さんが「いい」と言ってくれてはじめて「いい紙」なのだという。しかし、今、和紙は素材としての需要よりはむしろ、ちぎり絵やはり絵の材料やインテリアの素材のような趣味的用途としての需要の方が多い。かつて、素材として、産業の一部として手漉き和紙が使われていた時代は隆盛だった。でも今は違う。和紙はどうあるべきなのか、1300年の歴史を継承していく若い後継者たちに課せられた課題でもある。

 職人プロフィール

 石原英和 (いしはらひでかず)

 1935(昭和10)年生まれ。中学卒業後、家業の紙漉きを手伝いはじめ、以来50年。薄手の紙を得意とする。現在は組合の理事長として後継者の育成にも力をそそいでいる。


 こぼれ話

 手漉きハガキを作ろう!

 薄くて丈夫な美濃和紙の足下にもおよびませんが、手漉きをやってみませんか。牛乳の紙パックと市販の紙漉きセット(ハガキ大の枠と網)を使ってご家庭で簡単にできます。ちょっとご紹介しましょう。

 1.開いた牛乳パックを石鹸を入れた鍋で煮て、表面に貼ってあるラミネートをはがします。ラミネートをはがしたら、紙をよく洗って石鹸の成分を落とし、細かくちぎって水と一緒にミキサーにかけてどろどろにします。これが紙の原料です。
 2.紙漉きセットの枠に網をのせ、原料を流し込みます。(紙漉きです)
 3.網を引き上げてタオルの上に置き、別のタオルをかけてはさみ、水気をとります。網をはずしてアイロンをかければ出来上がり。

 葉っぱを漉きこんだり、絵の具を原料に溶かして色つきの紙を作ったりすることもできますよ。牛乳パックのリサイクルにもなりますね。

*https://kougeihin.jp/craft/0903/ より

 

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