いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<苺> とちひめ

2021-05-16 13:07:31 | 食品

 「とちひめ」

●とちひめとは
◆とちひめの来歴
 「とちひめ」は栃木県農業試験場が大果で食味の良い「栃の峰」と大果で収量の良い「久留米 49 号」を交配して育成した、大果・多収で食味がよく、収穫の連続性に優れ、促成栽培に適応した観光農園向けいちご品種です。育成の過程は下記のとおりです。


 
1990(平成2)年 「栃の峰(「系511」×「女峰」)」に「久留米 49 号(「女峰」×「とよのか」)」を交配。得られた実生194株の中から「90-13-3」を選抜。

1991(平成3)年 系統選抜試験実施

1992(平成4)年 特性検定予備試験実施。

1993(平成5)年 系統名を「栃木 13 号」とし系統適応性試験実施、及び現地での栽培適応性検討。

1997(平成9)年 いちご狩り、産地直売用として試験栽培実施。

1998(平成10)年 「栃木 13 号」として種苗法に基づく品種登録出願。品種名を「とちひめ」と命名。

2001(平成13)年 品種登録された。 

 「とちひめ」という名称は「とちおとめ」の姉妹のイメージと姿・形の美しさを表現。また、観光いちご地域限定の「土地」と栃木県の 「栃」をかけている親しみやさに因んでいるそうです。

 「とちひめ」は大果で多収・そして食味が良いイチゴなのですが、果皮・肉ともに柔らかいため市場への出荷にはむかず、いちご狩りや直売所での販売向けの品種となっており、産地でないと食べられないイチゴとなっています。

◆とちひめの特徴
 「とちひめ」は「とちおとめ」よりやや大きい傾向があり、形は円錐形で粒ぞろいがよく、果皮の色は光沢のある濃赤色。

 果肉は果心とともに鮮紅色で、糖度は「女峰」と同じくらいとあまり高くはありませんが酸味がやや少なく多汁で食味が良いのが特徴となっています。

 栽培においては、花房の発生が良く、連続的に収穫ができ、収量性は高く安定しています。促成栽培での4月末までの収量は株当たり600g以上だそうです。

 ただ、果肉は「女峰」より硬いが、果皮は「とちおとめ」より軟らかいため、輸送性が低く、市場出荷には向かない品種となっています。

 農林水産省の品種登録データベースには以下の通り記載されています。

『-----

 果皮の色は濃赤、果実の光沢は良、果形は円錘、果実の大きさはかなり大、

 果肉色は鮮紅、果心の色は紅赤、可溶性固形分含量は高、酸度はやや低、

 果実の硬さはやや硬、無種子帯はほとんど無し、そう果の落ち込みは落ち込み中、そう果数及び果実の香りは中である。日持ちは中である

 季性は一季成、開花始期はやや早、成熟期は中、

 「女峰」と比較して、果皮の色が濃赤であること、果実が大きいこと、花柄長が短いこと等で、「とちおとめ」と比較して、果皮の色が濃赤であること、花柄長が短いこと、果実が軟らかいこと等で区別性が認められる。

-----』以上、抜粋。

◆実際に食べてみた「とちひめ」の食味
 今回入手した「とちひめ」は栃木県大田原市の(株)アサヒファームさんから送っていただいたものです。イチゴは一粒22~39gで、全体に赤く色付き艶やかでした。

 アサヒファームさんでの栽培の様子などをブログで紹介しています。

まぼろしのイチゴを求めて! ーいちご王国栃木紀行ー

 食べてみると、なるほど、果肉は柔らかくとてもジューシーで、口の中に甘みが広がり、酸味は控えめではありますが甘さを引き立てるには十分な感じでした。いくつか計ってみた糖度は11~13度でした。

 香りもしっかりとあり、果肉の色も濃いめに色が付いていてイチゴミルクにしても良い感じに色が付きそうです。

 果皮がとても柔らかく繊細で、輸送性が高くないという事もよくわかりました。

●とちひめの主な産地と旬
◆主な産地と生産量
 「とちひめ」は栃木県オリジナル品種として、県内でのみ栽培されています。また、果皮が軟らかく輸送性が低いため、用途は観光農園のいちご狩りや、産地での直売用となっており、通常市場出荷は行われていません。

 生産量は観光農園向けのため少なく、市場にも出回らないので、産地に行ってこそ味わえるイチゴとなっています。

◆とちひめの収穫時期と旬
 「とちひめ」の収穫は12月中旬頃から5月中旬頃までで、食べ頃の旬は2~4月にかけてとなります。

 イチゴは暖かくなってくると果実が柔らかくなり、輸送性が落ちてきます。もし、「とちひめ」を産直で取り寄せたいと考えるなら、まだ寒く果実に締りがある2月頃までに注文することをお勧めします。

*https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/Strawberry-Tochihime.html より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<言 葉> 夏の言葉 五月病

2021-05-16 13:03:19 | 言葉

 「五月病」

 心身の疲れが原因となる五月病
 早めに専門医を受診するようにしましょう。 令和元年5月更新

 学生や新入社員などが、新しい環境の変化についていけずに無気力になったり、眠れなくなったりする「五月病」。放っておくと、うつ病へ進行してしまうケースもあります。まずは気軽に医療機関に相談するようにしましょう。周りが早めに気づくことも大切です。

 ●五月病ってどんな病気?
 入学や就職にともない学校や職場で新たな生活がスタートします。新生活は、慣れないことも多く知らず知らずのうちにストレスがたまるものです。気づかないうちに無理をしてしまうことも少なくありません。また、仕事の内容や環境が自分に合っていないために、「適応障害」を起こしていることもあります。こうして1カ月が過ぎ5月になる頃に、身体のだるさ、疲れやすさ、意欲がわかない、物事を悲観的に考えてしまう、よく眠れない、食欲がないなどの心身の症状が現れることがあります。これを「五月病」といいます。五月病は、正式な医学用語ではありませんが、一般に、この季節に学生や新入社員に起こりやすいため、こう呼ばれています。

 ●こんな症状が出たら要注意!五月病の様々な症状
 無気力になったり不安感が強くなることが多いようです。「今までラクにできていたことができなくなった」「大好きだった趣味に興味が持てなくなった」「常に漠然とした不安があり落ち着かない」などの症状は要注意です。また、胃痛や食欲不振、頭痛、めまい、不眠などが起こることもあります。

 ●五月病を防ぐにはどうすればいいの?
 「ストレスは必ずあるもの」と認識して、ストレスと上手につきあう方法を考えましょう。十分な睡眠、休息を取るように心がけ、自分に合ったストレス解消法を見つけることが重要です。特に几帳面でまじめ、嫌と言えずに物事を引き受けてしまうといったタイプの人に五月病やうつ病が多いと言われていますので、注意が必要です。深刻に物事をとらえ過ぎず、新しい仕事や環境では失敗はつきものと考え、「できる範囲でいいや」と気を楽に持つことも大切です。ひとりで悩みを抱え込まずに、日頃から上司、同僚、家族などの身近な人に相談するようにしましょう。

 五月病は放っておくと、本格的なうつ病に進んでしまうこともあります。早めに心療内科や精神科で相談するようにしましょう。

 

 

 「五月病」は以前まで「大した事ないもの」として扱われてきたのだが、現在、「診療に値する病気のひとつ」として捉えられている。時代が変わればこうも変わるものかと・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-ボニー・タイラー

2021-05-16 13:01:38 | MUSIC

 「ボニー・タイラー」

 1951年6月8日生まれの69歳

 ボニー・タイラー 新アルバム『The Best Is Yet to Come』を2月発売 2020/12/18 15:07掲載

 「愛のかげり(原題:Total Eclipse of the Heart)」「ヒーロー(原題:Holding Out for a Hero)」などで知られるボニー・タイラー(Bonnie Tyler)。新アルバム『The Best Is Yet to Come』を2021年2月26日発売。

 スタジオ・アルバムのリリースは2019年の『Between the Earth and the Stars』以来。通算18作目。前作と同様、ボニーの最初の2枚のアルバムをプロデュースしたデヴィッド・マッケイがプロデュースを担当しています。

 この新作から新曲「When the Lights Go Down」のリリックビデオが公開されています。

 ボニーはこの曲について「ほとんどのロック・ファンと同じように、私はブルース・スプリングスティーンやロッド・スチュワートのレコードが大好きです。スティーブ・ウォマックが私のために特別に書いた“When the Lights Go Down”のデモを聴いたとき、私の好きなブルースやロッドの曲に聴こえる魔法のようなものを感じました」とUltimate Classic Rockに話しています。

*https://amass.jp/142589/ より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<日本酒> 京都 聚楽第/佐々木酒造

2021-05-16 12:55:31 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(大阪国税局)】
 〈京都〉 聚楽第/佐々木酒造

 ごあいさつ
 私は男3人兄弟の末っ子で、まさか酒屋を継ぐことになるとは思っておりませんでした。
 上の兄は「飲んで無くなってしまうものを造るのはいやだ」と言って建築の道に進んでしまい、二番目の兄が跡を継ぐべくして、神戸大学の農学部に行ってバイオテクノロジーの研究や酒米の研究っていうテーマで卒論書いたりして、着々と酒造家の道を歩んでいたのですが、突然「俳優になる」と言って出ていってしまいました。

 
 いつも自己紹介のところで佐々木酒造です、と言ってもあまり皆さんご存じない感じなのですが、最近は俳優の佐々木蔵之介の弟です、というと結構知ってくださる方があって、うれしいような複雑な気分です。
まあ、そんなことで、大学では中国文学科だった私が嫌々酒屋を継ぐことになったわけです。

 
 たまたまうちの蔵は、むかし豊臣秀吉が自分の家として建てた聚楽第のあった南端にあるのですが、秀吉がこの場所に聚楽第を建てた理由の一つとして「水の良さ」があったそうです。秀吉は茶道が趣味で、各地で茶会を開いていますし、聚楽第の敷地の中に千利休の茶室付きの家を建ててやって、そこで一緒にお茶を楽しんだという話も残っていますので大昔から水のよい地域であったことは確かです。

 
 関西大学の楠見教授の調べでは、京都の街の下にはラグビーボールを横向けで水平に切ったような形で、縦が33キロ、横が12キロ、一番深いところで水深800メートルの岩盤で出来た水瓶があるそうです。

 
 京都は三方を山に囲まれた盆地になっていまして、それぞれの山の岩盤を伝って地中に潜り込んだ水がその水瓶に溜まっていく形状になっているんです。また、普通ならそのまま海へ流れてしまうところなのですが、この京都の水瓶には出口が南西の天王山と男山の間の辺りに一本あるだけなので、少しずつしか流れていかない、という水の溜まる条件が揃っているんです。この水瓶には琵琶湖の水量の約8割の水が蓄えてられると楠見教授が発表されています。世界的に見てもこんな地形はめずらしくて、1000年もの間、都が京都に置かれたのはこの類い希なる地形、そしてこの豊富な水があったのが大きな理由だといわれています。現在でも良質で豊富な地下水は変わりなく、小川通りに並んでいるお茶の家元などはもちろんのこと、豆腐や湯葉、生麩など、水が命の産業はいまも洛中には多く残っています。

 
 うちの蔵は二条城の北側あたりにあるのですが、皆さん、京都の造り酒屋というと真っ先に京都の南の伏見を連想されることと思います。もちろんそれはその通りで、現在の伏見区ではあの狭い範囲に20軒ほどの蔵元が密集していまして、全国的に見ても灘に次ぐ全国第二位の生産量を誇る酒処として全国に知られています。
 ところが、京都の造り酒屋の起源は洛中、旧京都市内なんです。昔の資料などを見ていると、私どもの蔵の創業が明治26年で、その時点で131軒の蔵元がありました。この頃は伏見よりも洛中の方が蔵元の数も生産量も多かったんです。

 
 もっとさかのぼれば、室町中期には300軒あまりと、もちろん日本最大の酒処だったわけです。伏見の酒蔵さんは大手が多いですが、それに対して洛中の蔵元では、家内制工業的な小さな蔵元が多くて、都での小さな市場でのシェアの食い合いをしていたわけですから、自然と淘汰されていって減っていき、いま中心部ではうちだけになってしまいました。

 
 まあ、洛中のように、ここまで強烈に減った地域も珍しいのですが、全国的に見ても昭和48年をピークに毎年少しずつ清酒の生産量は減ってきて、現在は蔵元の数も生産量も半減してしまっています。今、全国では1500蔵ほどの蔵元がありますが、今後増える、ということは考えられない厳しい業種であることは確かです。

 「京都の商売は儲けることよりも続けることを考えろ」とか、「京都の老舗は100年150年は鼻たれ小僧、300年続いてやっと一人前」なんて言われます。うちの蔵は創業120年程度ではありますが、せっかく代々続いてきた商売ですし、酒蔵というのはまず新しく始められる商売ではありませんので、なんとか残していきたい、せめて次の代までは残していきたいと思っています。それに、こんなに水のいい場所でお酒造りができるということは本当に有難く、自然の恵みに感謝しておりまして、初めは嫌々ながらのスタートでしたが今では応援してくださる方々のおかげもあり、楽しくやらせていただいております。

 
 みなさまのご期待に添えるよう、規模は小さいながらもこだわりをもった良質の製品づくりをこころがけて、細々とでも事業継続できたらいいな、という気持ちで今後とも頑張ってまいります。

 佐々木 晃

 1970年4月1日生まれ。産業機械販売会社の営業を経て、25歳で蔵に入る。現在、日本酒講座やイベントを通じて新たな日本酒ファンを増やすことに務めている。趣味は格闘技などのスポーツ観戦。

 

 洛中伝承
 天正19年(1591)、関白秀吉は荒廃後の京の新しい町づくりに着手し、京の町全体を囲むように、御土居といわれる土塁の壁を作った。

 御土居の内側が洛中、外側は洛外と区分けし、数カ所の関所を設けて洛外から入ってくる者を検分した。京都の町中で「荒神口」「粟田口」「丹波口」など、「口」のつく地名は関所のあった名残で、それらを繋ぎあわせた円でかつての洛中の規模を確認することができる。

 その洛中の中でも上京は地下水の良さから、水が命である茶室や酒蔵が密集していたが、生産高が増え、東への運搬上の利便さで洛外の伏見に移り次第に企業化していった。

 「洛中伝承」とは、洛中における酒造りの伝統を守り続ける当蔵の、創業以来の精神を凝縮したものであります。当蔵では、この洛中での酒造りの伝統を、今後ともひたむきに継承してまいりたく考えております。

 佐々木酒造株式会社 京都市上京区日暮通椹木町下ル北伊勢屋町727 

 ラインナップ

 「聚楽第」 純米大吟醸リミテッド・エディション・大吟醸エクストラプレミアム・純米大吟醸レボリューション・ネオ・吟醸エクストラプレミアム 金賞酒・純米大吟醸 など

 「平安四神レッド」 純米大吟醸

 「古都」 大吟醸 など

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<伝統野菜> 岩手 二子さといも

2021-05-16 10:50:44 | 伝統野菜

 「二子さといも-ふたごさといも」

 【生産地】岩手県北上市二子町

 【形状】イモの形状は卵形に近い丸形で、1個の平均重は100g程度である。

 【食味】肉質は独特の粘りとまろやかな味、コクなどがよいと評価されている、地元では、いものこ汁の具、煮物、茹でて和え物などに使われている。

 【来歴】北上市を流れている北ヒ川の西岸に広がる二子町を発祥の地とするサトイモ。300年ほど前から子イモ用種として子イモの繁殖を繰り返し、できあがった品種で、地域特産の品種として受け継がれている。二子さといもは、赤茎系統の子イモ専用種である。2018年9月27日付で地理的表示(GI)法に基づきGI登録された。

 【時期】9月初旬~11月上旬

*https://tradveggie.or.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E9%87%8E%E8%8F%9C%EF%BC%8D%E5%B2%A9%E6%89%8B/#i-16 より

 

 「二子さといも」は、強い粘り気と味の濃さ、滑らかな食感が特徴の在来系統のさといもです。
 柔らかいが煮崩れしない美味しいさといもとして地域でも人気の産品となっています。
 「二子さといも」は、粒ぞろいの良い大玉な子芋を収穫出来る反面、種芋の保存が難しく、収穫量の2割以上を種芋用に保存することから、出荷量が限られ希少価値が高く、他産地のさといもに比べ2倍近い高値で取り引きされることもあります。

 「二子さといも」の品種は、地域の在来系統「二子さといも」を使用します。
 生産地である北上市で栽培され、出荷時には腐敗、変質、変形、傷害、病害虫被害、凍害低温障害などのものを除いて出荷します。
 なお、これらのうち、傷害等が軽微なものに限り、その部位を除去して規格外として出荷できることとしています。

 「二子さといも」の生産地は、北上川(1)の氾濫によって形成された水はけが良く肥沃な土壌で、耕土も深いことから、根を張るさといもの栽培に適している地域です。
 貯蔵が難しい種芋の保存技術を伝承するとともに、種芋の保存に失敗した場合には、生産者がお互いに種芋を融通する習慣が古くから定着しています。先祖から受け継いだ技術と種芋を脈々と受け継ぎ、地域全体で守り続けています。

 地域の歴史文献である「二子村誌」には、明治(2)末の農産物生産額で、米に次ぐのがさといもと記され、当時から重要な換金作物であったことがわかります。
 1980年に選果方法や出荷規格の統一、栽培技術の向上を図るために、二子さといも生産組合を設立し、以後、良質なさといもの安定生産を続け、東北最大のさといも産地としての地位を確立してきました。
 2016年現在、生産者は約98名、二子地域を中心に北上市内の34haで197トンの「二子さといも」を出荷しています。

 北上川:岩手県北部から宮城県北東部を流れる東北地方最大(延長249km)、日本では4番目の長さの河川です。北上川が文学に登場することも多く、東北地方出身の宮沢賢治(1896-1933年:詩人、童話作家)や石川啄木(1886-1912年:歌人、詩人)などの作品にも取り上げられています。
 明治:1868年~1912年。日本の時代区分の一つ。日本が幕府による封建制から近代化に移行した時代です。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/68.html より

*地理的表示(GI)産品に登録されています

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<漢字検定> 1級 読み 80.回答 81.出題

2021-05-16 10:46:11 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 懊悩 -おうのう-
 ①なやみもだえること。煩悶 (はんもん) 。
 ②悩みもだえるさま。

 

 問2 聊頼  -りょうらい-頼みにすること。たよること。

 

 問3 嘲罵 - ちょうば-あざけりののしること。

 

 問4 剽窃 - ひょうせつ-他人の作品や論文を盗んで、自分のものとして発表すること。

 

 問5 爛発 -らんぱつ-あざやかに現われること。また、そのさま。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 憫諒  

 

 問2 毫毛  

 

 問3 鹹湖  

 

 問4 剪裁  

 

 問5 澆漓

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・ 精選版 日本国語大辞典 より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<経産大臣指定伝統的工芸品> 愛知 赤津焼

2021-05-16 10:43:19 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「赤津焼」

 Description / 特徴・産地

 赤津焼とは?
 赤津焼(あかづやき)は愛知県瀬戸市の東部にある赤津町周辺で作られている陶器です。平安時代から鎌倉時代にかけて始まった代表的な窯にあたる、日本六古窯(にほんろっこよう)の1つになります。
 赤津焼の特徴は赤津焼が日本六古窯の中でも、最初に釉(うわぐすり)のかかった本格的な技法を始めたということです。伝統工芸品である釉薬(ゆうやく)は、平安時代に灰釉(かいゆう)からはじまり、鎌倉時代には鉄釉(てつゆう)、古瀬戸釉(こせとゆう)などが出現し、江戸時代初期には7種類が釉薬の技法として確立しました。また同時に、型押しで模様をつける「印花(いんか)」、波形や点線、渦巻きの模様を描く「櫛目(くしめ)」などの12種類の装飾技術も発展を遂げ、現在もなお一千年を超える赤津焼の伝統が続いています。
 その伝統の灯を絶やさぬように、伝統技法をしっかりと継承しつつ、新しい器を作ろうと二世らが情熱を燃やし切磋琢磨しました。美術工芸品、茶道具・花器などから一般食卓用品にいたるまで高品質な手作りの陶器として日本で浸透しています。

 History / 歴史
 赤津焼の起源は奈良時代(700年頃)に存在した須恵器からだと伝えられています。古墳時代に瀬戸の猿投(さるな)山山麓から始まった赤津焼は、平安時代以降日本最古である「灰釉」という「釉薬」の出現や、「張り付け」、「浮き彫り」等の多彩な技法に磨きがかかり、日本六古窯の一つに数えられるようになりました。
 桃山時代に入り黄瀬戸、志野、織部の釉薬の出現により、当時茶華道が発達していたこともあり茶陶を中心に重宝されるようになりました。優雅な桃山時代を思わせる鉄絵の装飾は、今もなお赤津焼の代表作品として作られています。徳川幕府が開幕し、江戸時代に入ると名古屋城を中心とした尾張藩が作られ始めました。尾張藩の御用窯として赤津焼は多くの高級茶器から日常的に使われる食器などを作ることになります。
 伝統を受け継ぐ窯は現在瀬戸市に60余り存在し、日本の窯業の一大中心地にまで発展しました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/akazuyaki/ より

 

 日本六古窯の一つ、赤津焼千年の歴史
 愛知県瀬戸市と聞けば、誰もが連想する「せともの」という言葉。幅広い分野の陶磁器が生産されるなか、市内東端にある赤津地区で作られる陶器の赤津焼は飛鳥・奈良時代にまでその起源がさかのぼるといわれ、日本六古窯の一つに数えられている。

 
 静かな風土に育まれた伝統
 尾張瀬戸駅から車で10分ほど、坂道の多い赤津地区はまさに「やきものの里」の名がふさわしい。多くの窯元が軒を連ね、傾斜を利用したかつての登り窯の名残もところどころに姿を見せる。弄月(ろうげつ)窯の梅村晴峰さんをたずねお話しを伺った。子どものころから「土が遊び相手」だったという梅村さんは、公務員として働いた後、昭和40年39才のときに江戸時代から続く由緒ある窯を継いだ。折しも時代は高度経済成長期。「いい時代に始めたと思っていますよ」。だが時代を味方につけただけでなく、自らの探究心と意欲を注ぎこんで赤津焼の伝統技法に取り組んできた。
 
 七つの釉薬の不思議
 赤津焼の特徴として「七つの釉薬、十二の技法」という言葉がよく使われる。本来釉薬は発色や焼成の状態によって名前が違い、数多くの種類がある。それを整理して七種類に統合したのは実は梅村さんの考えによるものだ。「レインボーカラーをイメージしたんですよ。」平安前期の灰釉をはじめとして、赤津は日本で一番早く釉薬を使用した産地。 「この地方は第一にいい陶土が採れます。鉄分の少ない白い土でね。それにいろいろな着物を着せるということですよね」。力強さを感じる黒褐色の鉄釉、明るく上品な黄瀬戸、深みのある緑色の織部、他に古瀬戸、志野、御深井と、どれもそれぞれに味わい豊かな色合いで、まさに七色の秘薬といったところだ。そして、バラエティに富んだ釉薬を際立たせる数々の装飾技法もまた、赤津焼の特徴である。ヘラ目、櫛目、印花、浮き彫りなど多くの技法がこの地で生まれ、他の産地へ伝えられた。
 これからの陶工には、トータルプロデュースが必要
 「赤津焼は総合職の仕事でね。」土を練るところから作業が始まる。釉薬もすべて自分で作るので、作者それぞれの特色が出る。「いかにいいものを作るかという観点で仕事をしています。自分ならこういうふうに作る、という意欲を持たなければ・・・。」焼きものは時代性の受け入れが簡単ではなく、新商品の開発は難しい。そのなかで時代感覚にマッチした造形のもの、生活様式の変化に伴う生活用品を考えていく必要がある。「もう大量消費の時代じゃない。何か付加価値をつけて、いいものを買っていただくということです。これからの陶工は、デザイナーであり、技術者であり、販売業者でもあることが求められます」。流通業者に頼らず、自分の作ったものをどうやって売っていくかが課題となる。「自分のファン、自分の顧客を作りなさい、といつも言っているんですよ。」赤津焼の将来を見据え、観光産業化やインターネット上でのPRも視野に入れるとともに、伝えていくためには、技術だけではなく学術的な裏付けや知識を持つことも重要だと主張し、若い世代への期待も大きい。「歴史のある赤津の地で、いつまでも焼き続けられて欲しいですからね。」

 火の魔力にすべてを預ける
 そう語る梅村さん自身も、まだまだ創作意欲は衰えていない。十数年前に鉄結晶釉の平茶碗を作った。面白いものが焼き上がり、それから何百回と挑戦したが同じものはできなかった。「一生のうちにもう一回、あれを作りたいね。あとはやはり後世に残る作品を作りたい」。焼きものの魅力のひとつは最後の重要な部分を、自分の能力を超えた「火」に預けるところだと言う。いい方向にも悪い方向にも変える力。火の魔力が七色の釉薬の可能性を広げていく。
  
 職人プロフィール

 梅村晴峰 (うめむらせいほう)

 1926年生まれ。 大量生産とは異なる独自性、質の良さにこだわる。


 こぼれ話

 お茶の流行と茶道具として親しまれる器

 赤津焼には千年を超える長い歴史がありますが、桃山時代には茶道の発展とともに、織部、志野、黄瀬戸などの茶陶が盛んに焼成されるようになりました。深みのある赤津焼は礼節作法を重んじるお茶の世界によく似合います。ところで、もっと最近にも習い事としてお茶が盛んになった時期がありました。それは昭和40年代。 記憶をたどると、小学生から主婦まで、多くの女性がお茶の教室に通うのがブームとなりました。外で習うだけでなく、家にもきちんと道具をそろえ、さらに結婚するときには新しい道具を買い揃えた人も多かったのではないでしょうか。この時期にはやはり抹茶茶碗をはじめとする茶道具の生産が盛んだったそうです。 今はめっきり正式なお茶の作法で客をもてなすという習慣が少なくなり、茶道具より多目的の器が多く作られています。 世の中のブームで、陶器の需要も変わりつつあるのです。

*https://kougeihin.jp/craft/0408/ より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする