いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<苺> 咲姫

2021-05-02 07:45:27 | 食品

 「咲姫」

●咲姫とは
◆「やよいひめ」×「さがほのか」
咲姫/さきひめ いちご イチゴ サキヒメ
 「咲姫(さきひめ)」は佐賀白石町のいちご農家、中村和好氏が「やよいひめ」に「さがほのか」を交配して生み出したイチゴで、2014(平成26)年に品種登録出願公表され、2017年に品種登録された新しい品種です。

 大果で香りがよく糖度が15度を超える甘いイチゴということで注目されています。


 
◆咲姫(さきひめ)の特徴
 「咲姫(さきひめ)」はかなり縦長の卵円形で特徴があり、果肉は硬く中の果肉もほんのり赤く、果心の空洞はほとんど見られないとされています。

 農林水産省の品種登録データベースには以下の通り記載されています。

『------

 果実の大きさは中、果実の縦横比はかなり縦長、果実の形は卵円形、

 果皮の色は赤、果実の光沢の強弱は中、そう果の落ち込みは落ち込み小、

 果実のがく片の付き方は水平、果径に対するがく片の大きさはやや大、

 果実の硬さは硬、果肉の色は橙赤、果心の色は淡赤、果実の空洞は無又は小、季性は一季成りである。 

 出願品種「咲姫」は、対照品種「やよいひめ」と比較して、たく葉のアントシアニン着色の強弱が強であること、果実の成熟期が早であること等で区別性が認められる。

 対照品種「濃姫」と比較して、頂小葉の基部の形が鈍角であること、果心の色が淡赤であること等で区別性が認められる。

 対照品種「山口ST9号」と比較して、たく葉のアントシアニン着色の強弱が強であること、花弁の重なりが重なるであること、果実の縦横比がかなり縦長であること等で区別性が認められる。

----』以上、抜粋。

◆実際に食べてみた咲姫の食味
 形は今回入手したものはかなり縦長のものでした。ひし形に近い感じのものが多かったです。

咲姫/さきひめ いちご イチゴ サキヒメ
 今回のものに関しては出始めということからか着色が首辺りまでのものが多く見られました。ただ、着色している部分はそう果も十分に赤く色付いているので未熟というわけではないのかもしれませんが、見た目的にはすこし残念な印象です。

 果肉は中も淡く色がついており、咲姫のサイトで謳われているような”クランベリーやサクランボのような香り”を強く発していて、食べてみると赤い部分は酸味が少ない上、かなり甘くジューシーでとても美味しく感じました。ただ、白い部分はやはり見た目通り未熟な味でした。

●咲姫(さきひめ)の主な産地と旬
◆咲姫の産地
咲姫/さきひめ いちご イチゴ サキヒメ
 「咲姫(さきひめ)」は今のところ生みの親である佐賀県白石町の中村氏のみが栽培出荷しているイチゴということで生産量が少なく、都市部の百貨店などでしか完売されておらず一般のスーパーなどには並んでいません。

◆咲姫の収穫時期と旬
 収穫は12月上旬ごろから始まり5月頃まで続きます。

*https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/Strawberry-Sakihime.htm より

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<言 葉> 春の言葉 惜春

2021-05-02 07:40:25 | 言葉

 「惜春」

 「惜春」には、「春の過ぎるのを惜しむこと、行く春を惜しむこと」といった意味を持つ言葉です。

 「惜春の候」は、「春が過ぎ去ることを惜しむ季節になりました」という意味になります。

 「惜春」は文字通り「過ぎ行く春を惜しむ」ということですが、「春惜しむ」の言葉もあります。

 四季がはっきりしている日本では、過ごしやすい春と秋がとても好まれてきました。その証拠に、「惜春」「惜秋」という言葉はありますが、夏と冬にはありません。

 昔の人はまた、春から夏へと季節が移っていく美しい自然の様子を詩歌で表現してきました。

 春を惜しむことを表す季語には、他にも「行く春」「春探し」などがあります。

*https://study-z.net/100011572/2 より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-大橋純子

2021-05-02 07:35:26 | MUSIC

 「大橋純子」

 1950年4月26日生まれの71歳

 大橋純子 歌手人生46年、「改めて歌への執着が高まった」圧巻のセッションで見せた、歌への情熱 田中久勝 2020/9/18(金) 12:18

 キャリア46年、その歌はさらに力強さを増し、凄みさえ感じさせてくれるが、しかしどこまでもしなやかで、説得力を持って聴く人全ての心の奥深くまで届く――大橋純子の歌だ。その大橋が『Sound Inn S』(BS-TBS/9月19日(土)18時30分~)に登場。「今年初の生ライブは奇跡であり、まさに至高の時でした」と語り、3人のアレンジャーと最高のミュージシャンと共にセッションを繰り広げた。

 重実徹アレンジの「シルエット・ロマンス」は、アンプラグドでの演奏で、歌をより引き立てる
 70年代後半から80年代に注目を集めた、日本の“シティポップ”への再評価が進み、AORを歌い続けてきた大橋純子の作品も脚光を浴びている。この日はオリジナル曲とカバー曲で、その圧巻のボーカルを披露してくれた。1曲目は代表曲のひとつ「シルエット・ロマンス」(1981年)を披露。アレンジは大橋とライヴ共演の経験がある重実徹。「大学生の時聴いていた大好きな曲」を、この日は「小編成でやったらどうかなと思った。実際この曲をアレンジしてみると、メロディラインは強いタッチの演奏の方がいいと思い、全部生楽器、アンプラグドでやりましたが、全員が力強く演奏することを心がけました。サビのストリングスの一、二小節目のストリングスはヨーロッパの古城や、古い街並の雰囲気を出したかった」と、色気のある歌の色気の部分と、歌をより際立たせるアレンジを聴かせてくれた。改めて大橋の、凛とした中に感じる情熱とクールさ、色々な感覚を感じさせてくれるしなやかな歌に引き込まれる。大橋はこのアレンジについて「新鮮でした。この歌をいただいて歌い始めた頃の気持ちになりました」と絶賛していた。

 シティポップブームの中で評価が高まる「テレフォン・ナンバー」を、十川ともじのアレンジで披露。「ノリがいいから今でも受けるのだと思う」(大橋)
 2曲目はアルバム『TEA FOR TEARS』(1981年)に収録されている「テレフォン・ナンバー」を披露。このアルバムは当時の最高のミュージシャンが集結し、アレンジは名匠・萩田光雄が手がけ、海外の“シティポップ”ファンからも特に人気の一枚だ。この曲も、萩田らしい美しく、心躍るようなストリングスとホーンのアレンジが印象的な、極上のAORミディアムナンバーだ。この日アレンジを手がけたのは十川ともじ。「原曲よりも少しブラック寄りにした」という、エレキシタールをスパイスにし、煌びやかなストリングスとホーン、リズム隊が太い極上のグルーヴを作り出し、体が自然とリズムを取る。久々にこの曲を歌うという大橋は音合わせでは「コーラスをもっと前面に出して歯切れ良くお願いします」と、その感触を楽しみながらもこだわり、素晴らしいパフォーマンスを披露した。歌い終えた大橋は「やっぱり生は楽しい。この曲はノリがいいから受けたのだと思う。40年前の曲とは思えない」と語っていたが、何年経っても瑞々しさを失わず、ときめくような感覚を想起させてくれるのが、シティポップなのかもしれない。「当時の日本の音楽はガラパゴスだったと思う。日本語ということもあり、NYでもLAでもない東京の音楽という感じ」(十川)だからこそ、今、注目を集めているのだと思う。

 「New York State Of Mind」を、斎藤ネコの映画音楽のような美しいアレンジで歌う。「キャリアを重ねるごとに力が抜け、声がどんどん伸び、歌が進化している」(斎藤)
 3曲目はビリー・ジョエルの「New York State Of Mind」(1976年)をカバー。「アメリカの音楽を聴いて育って、ずっとニューヨークに憧れていて、約2年間あの街で生活しました。当時は何を歌っていいかわからない状況でもあって、でもニューヨークでスティングのライヴを観て、また歌いたいという強烈な思いが湧いてきて、日本に帰ってきました」(大橋)という、まさに歌手人生を変えてくれた第2の故郷といえるニューヨークを歌ったこの名曲を、この日は斎藤ネコのアレンジで披露。厚く壮大なストリングスが感動を連れてくる。バンドの演奏がものすごい熱量を作り出し、どこかロマンティックかつ強くてクールで、スリリングな、まるで映画音楽のようなサウンドに胸を打たれる。その大編成のサウンドに負けない大橋の圧倒的なボーカル力と表現力には脱帽するしかない。素晴らしいセッションにスタジオ中に感動が広がっていった。スタッフから思わず「すごい!」という言葉が漏れるほどだった。大橋の歌について斎藤は「あの域にいくといい意味でモンスター。キャリアを重ねても声が伸びていて、それは力が抜けている、余計な力が入っていないからこそ出てくるものだと思う。本当に素晴らしいです」と語ってくれた。

 全てのパフォーマンスを終えた大橋は「改めて歌に対する執着が強まった。やっぱり歌が好き、歌うことが好きだと思った」と、久々の“ライヴ”を楽しむと共に、46年間歌い続けてきた今、歌手としての原点を見つめ直す時間にもなったようだ。

*https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakahisakatsu/20200918-00198849/ より

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<日本酒> 静岡 花の舞/花の舞酒造

2021-05-02 07:25:56 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(名古屋国税局)】
 〈静岡〉 花の舞/花の舞酒造

 花の舞のこころ
 創業元治元年の伝統と技術、そして新たな価値の創出

 花の舞酒造が地酒としての価値を追求した末に辿り着いたのが、静岡県産米を100%使用した酒造りです。お茶やみかんに代表する農産物の生産が盛んな静岡県では他県産に劣らない高品質な原料米の調達が十分に可能です。
静岡県産米の価値を存分に活かすため蔵の設備の充実に加え、杜氏と蔵人の技能の研鑽による卓越した技術が最高の静岡県の地酒を造り出します。

 一千年を超える試行錯誤の歴史を経て、世界に比類のない醸造法を確立した日本酒造り。この先人たちの築きあげた技術と精神を基本としながら新しい技術の導入も計り伝統だけに捉われることのない新たな日本酒の価値を創出します。


 花の舞の由来
 その名は天竜川水系に古来より伝わる奉納踊りのひとつ「花の舞」に由来します。「花」は命の糧となる稲の花を表し、五穀豊穣を祈願するものです。

 花の舞の歴史
 創業元治元年
 花の舞の創業者、高田市三郎が遠江国あらたま村宮口で清酒製造業を始めたのは江戸末期の元治元年、1864年です。
 元治元年はペリーが浦賀に来航した11年後、桜田門外の4年後、大政奉還の3年前に当たります。
 花の舞の銘柄は天竜川系に古来から伝わる奉納おどり「花の舞」に由来します。蔵の大屋根は今も創業当時の面影を残しています。

 

 花の舞酒造株式会社 静岡県浜松市浜北区宮口632

 ラインナップ

 「花の舞」限定小仕込み槽搾り純米大吟醸・至福の極み純米大吟醸・極み純米大吟醸・純米大吟醸・至福の極み大吟醸・大吟醸 など

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<伝統野菜> 青森 清水森なんば

2021-05-02 07:17:29 | 伝統野菜

 「清水森なんば」

 【生産地】青森県 清水森地区

 【形状】とうがらし。

 【食味】マイルドな辛みでししとうに近く、口に入れた瞬間は甘みを感じるほど。糖分を多く含み、ビタミンBやCも豊富な野菜。

 【来歴】津軽の在来とうがらしで、江戸時代後期に弘前藩の初代藩主・津軽為信(1550~1608)が京都からもち帰り、清水森地区で栽培させたのが始まりだといわれている。400年以上の歴史のある食材であるものの忘れられていたが、最近、地元の人々によって復活された。

 【収穫時期】8月中は青なんば、秋になると赤なんばと呼ばれ10月まで収穫が続く。

*https://tradveggie.or.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E9%87%8E%E8%8F%9C%EF%BC%8D%E9%9D%92%E6%A3%AE/#i-12 より

 

 清水森ナンバとは?
 清水森ナンバとは、津軽地方で古くから栽培されている在来種のトウガラシのことです。栽培の歴史は古く、津軽の初代藩主である津軽為信公が京都の伏見稲荷から持ち帰り、弘前の農家が栽培したのが始まりと伝えられています。昔は、弘前市清水森地区とその周辺の農家のほとんどが栽培しており、家の軒下に吊されていました。しかし、昭和40年代から輸入唐辛子が流通するようになると、姿を消す寸前まで生産量が激減しました。

 そんな伝統野菜を守り抜こうと、2004年に地元関係者や学識経験者など産学官・農商工連携による在来津軽「清水森ナンバ」ブランド確立研究会を発足させ、種子の確保や育苗、栽培体系の確立により、良品生産を進めています。(商標登録済・遺伝子解明済)

 清水森ナンバの特徴
 清水森ナンバは、なんといってもまろやかな甘味と豊かな風味が特徴です。
 辛味成分であるカプサイシンが通常よりも少なく、また他品種に比べて糖分やビタミンA・C・Eの含有率が高いこともあって、まろやかで風味豊かな味わいとなります。
 青ナンバは7~10月まで収穫、赤ナンバは9~10月まで収穫されます。

 清水森ナンバの「一味唐辛子」
 じっくり乾燥させ丁寧に粉砕すると、深みのあるマイルドな一味唐辛子が出来上がります。ラーメンなどの麺類はもとより、焼き鳥や野菜炒めにもピッタリです。 県内では、津軽藩ねぷた村や青森県観光物産館アスパムの地場セレクト他、都内であれば新富町の特産品センターでも購入することができます。

 さらに美味な食べ方「一升漬け」
 この地方の郷土料理で一升漬け・なんばん漬けがあります。青ナンバ・米麹・醤油を各一升ずつ混ぜてつくるもので、清水森ナンバでつくればより風味が増し美味しい一升漬けができあがります。
 作り方は、よく洗った清水森ナンバを小さく切り、材料を全部入れてまんべんなく混ぜるだけ。3か月程度置くと、味が馴染み風味豊かな美味しい一升漬けとなります。出来たてのご飯やお豆腐の上にのせたりすると美味しく頂けます。一升漬け・なんばん漬け
 横浜町「御なたね油」とのコラボ商品!
 横浜町のこだわりの菜種油「御なたね油」とのコラボ商品もあります。御なたね油をベースに清水森ナンバを加えた「御なたね辛味オイル」は、豆腐や餃子の他、カリカリのフランスパンにつけても美味しく頂けます。

*https://www.umai-aomori.jp/season-report/seasonal/shimizumorinanba_201209.html より

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<漢字検定> 1級 読み 66.回答 67.出題

2021-05-02 07:08:48 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 白皙  -はくせき-皮膚の色の白いこと。

 

 問2 門閾 - もんいき-門の敷居。

 

 問3 芥蔕  -かいたい-

 1 胸のつかえ。わずかな心のわだかまり。

 2 きわめてわずかなこと。

 

 問4 偃蹇 -えんけん-
 1 物が延び広がったり高くそびえたりしているさま。また、多く盛んなさま。

 2 おごり高ぶるさま。

 

 問5 誄詞 -るいし-「誄 (るい) 」に同じ。

  -死者の生前の功徳をたたえて、その死を悲しむこと。また、その文章。しのびごと。誄詞。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 石鹸  

 

 問2 慫慂  

 

 問3 島嶼  

 

 問4 空翠  

 

 問5 宸筆

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書 より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 長野 飯山仏壇

2021-05-02 06:59:17 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「飯山仏壇」

 Description / 特徴・産地

 飯山仏壇とは?
 飯山仏壇(いいやまぶつだん)は、長野県飯山市周辺で作られている仏壇仏具です。産地である飯山市は、古来より仏教信仰に厚い場所として知られていました。その信仰心の厚さが、今日の飯山仏壇の伝統の支えになっています。
 飯山仏壇の特徴は、美しい蒔絵や宮殿(くうでん)が良く見えるように作られた弓長押(ゆみなげし)です。立体感のある金箔であしらわれた蒔絵は、漆で何回も塗り重ねてひとつひとつ丁寧に作られていきます。また、宮殿の上にくる長押(なげし)は弓型にすることで、より宮殿が拝みやすくなり、信仰者に優しい作りになっているのです。このように繊細で、拝む側に配慮した仏壇は、飯山市の仏教への熱い思いが込められた工芸品と言えます。
 飯山仏壇は1975年(昭和50年)に国の伝統工芸品に指定されるまでになりました。現在でも、年間1,000ほどの仏壇が作られ、全国へと出荷されていきます。

 History / 歴史
 飯山仏壇の起源について、現在のところ明確な時期は明らかにされていません。一説として、1689年(元禄2年)に、寺瀬重高という人物が甲府(現在の山梨県あたり)から来て、素地仏壇をつくったという言い伝えが残っています。
 飯山市周辺は、室町時代に浄土真宗が伝来したことと、仏教への厚い信仰を寄せていた上杉謙信が戦国時代に築城を行い城下町として栄えた場所でした。また、当時は、現在の飯山仏壇の姿とは異なる素地仏壇が作られていたと言います。以上のことから、この地は、以前から仏教と深い馴染みのある地域で、自然に仏壇が盛んに作られるようになったということが読み取れます。
 現在のように漆が塗られ、重厚な作りとなったのは江戸時代になってからです。さらに江戸末期、稲葉喜作という仏壇づくりの名手によって、工芸品としての地位が確立されていきました。
 飯山市では、現在でも伝統がしっかりと引き継がれ、約150名もの職人を有した、全国でも有数の仏壇の産地となっています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/iiyamabutsudan/ より

 お客さまに感謝される喜び 飯山仏壇
 雪深く、信仰厚い飯山の地に育った飯山仏壇は、特徴ある意匠を生み出したこだわりの仏壇である。宮殿(くうでん)、弓長押(ゆみなげし)に独特の技法が生かされ、他の産地との違いがよくわかる。金仏壇の静かな輝きはが拝む人の心にやすらぎを与えてくれる代々受け継がれる一品。

 
 塩の道に根付いた、先祖と浄土を祀る調度品づくり
 飯山は天正7年の上杉謙信による築城以来、城下町として栄えてきた町である。千曲川沿いに位置する当地は、山地で不足しがちな塩を運ぶ“塩の道”として舟便の起点となる要所であった。ここ飯山で仏壇が作られるようになった理由はよくわかっていないが、京仏壇の流れを汲むことは確かなようだ。飯山に伝わる小唄には36のお寺が出てくる。古くから信仰心の厚い土地柄なのだ。そんな飯山で代々仏壇販売を手掛ける、飯山仏壇事業協同組合副理事長の上海一徳さんに話を聞いた。


  特徴ある概観と永く使ってもらえる工夫
 「仏壇の産地はいろいろありますが、飯山仏壇は一目してわかりますよ。」肘木組物(ひじきくみもの)で作られる独特の宮殿(くうでん)と、宮殿がよく見えるように工夫された弓長押(ゆみなげし)は、伝統的工芸品として指定された時の条件でもある。拝む人の目に装飾がよく見えるよう配慮がなされている。
 「合理的な作り方も特徴です。古くなってくすんでも、簡単に分解して“せんたく(再塗装)”して再び輝きを取り戻します。」子孫に引き継ぎながら代々使われることをはじめから考えた作りになっているのだ。


 ご先祖に感謝するためのものだから
 飯山には数多くの仏教宗派が共存している。宗派ごとに厳密には仏壇のつくりは異なるのだが、あまりうるさいことは言われないようだ。
「明治の頃のことですが、ある村に同じ仏壇を毎年一軒ずつ納めたこという話を聞いています。村の方が講を作られて助け合いながら買って頂いたそうです。」金仏壇は確かに値の張るものである。最近では比較的安い仏壇もあるが、元々は農家の一年分の収入に相当するという高価な品だった。信仰心の厚い飯山の人たちは互いに融通しながら、価値ある品にお金をかけてきた。

 平安時代から受け継がれてきた技術
 「基本的な金具加工の技術は平安時代からあると言われています。しかし、伝統だけにこだわってはならないと思います。現に飯山の仏壇はさまざまな技術を取り入れることででき上がってきたものです。」そう語るのは金具づくりを担当する伝統工芸士、鷲森誠さんだ。銅板をたがねで叩きながら語ってくれた。「この打ち方を“蹴彫り(けりぼり)”といいます。蹴りつけるように模様を刻むことから名付けられました。」細かなリズムでたがねが叩かれると、たがねの通った跡に小さな半菱形の刻みがついていく。「簡単そうにやってるけどあれがなかなかできるものではないのですよ。」と傍にいた上海さん。
 「毎日拝んでもらうものを作っているのですからね。感謝されるものを作る喜びは大きいですよ。」と鷲森さん。上海さんも隣で頷く。


 いい物、永く使えるものに価値を求める
 最近はかつてほど家が大きくないので、住宅事情に合わせ小さい仏壇も作られている。最も売れた時代には作るのが追いつかず、正月には仏壇商が職人の家に来て、代わりに餅をついたことがあるという。「飯山仏壇は末永く使って頂くことができるつくりになっています。今は簡単に物が使い捨てにされる時代ですが、再び永く使えるものに価値が求められる時代になれば改めて仏壇の良さがわかるのではないでしょうか。」と上海さん。


 仏壇は単にご先祖や亡くなった方を祀るためのものではなく、目に見えない浄土や阿弥陀如来を形にし、お祀りするところでもあるのだという。ご先祖が守ってきた山から材料を取ってできた仏壇は、子々孫々まで受け継がれて拝まれ続ける。意匠を凝らした荘厳な飯山仏壇は、拝む人の心にご先祖と風土への感謝の気持ちを育ててくれる心のより所でもあるのだ。

 職人プロフィール

 鷲森誠

 「仏壇金具の技術を活かした作品づくりにも取り組んでいます。展示会に出展するなど、目標を持って作ってますよ。」

 十代続く仏壇商、「上海本店」専務。「普通の商品を売るのとは感謝のされ方が違いますね。」と仏壇販売の魅力を語る


 こぼれ話

 高度経済成長と仏壇

 伝統的工芸品に指定されている飯山仏壇は、さぞ昔は売れていたのだろうと思いきや、仏壇が最も売れたのはそれほど遠い昔でもない昭和40年から50年代にかけてなのです。
 昔は金額の張る仏壇を家に置くことができるのは、わずかな豪商に限られていました。では、農家はご先祖を敬う気がなかったのか、というとそんなことはありません。高度経済成長期に入り、日本が豊かになっていくと、それまで買いたくても買えなかった仏壇が買えるようになった、しっかりとご先祖をお祀りしたかったのに十分できなかった、その思いを果たせるようになったのが昭和40、50年代。お金が手に入ってまず買ったのが仏壇だったようです。
 今でも土地を売るなどしてまとまったお金が入ると、まず最初に「ご先祖さまからの土地が売れた。」と仏壇を買う人が多いとのこと。信仰の厚さが伺えます。次の世代にご先祖を敬う気持ちを残していきたいですね。

*https://kougeihin.jp/craft/0805/ より

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