いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

昨日のガンバ大阪-5/27

2021-05-28 08:39:24 | スポーツ

 昨日行われた「J1第16節 G大阪VS徳島」。

 試合前「19位」のG大阪。対する徳島は13位。

 G大阪は、第2節試合前にコロナ感染が発覚。

 昨日の16節を終えても、まだ3試合は未消化のまま。

 そろそろエンジンをかけなければ「降格圏内」をうろちょろすることになるかも?

 

 という心配をよそに・・・

 前半27分にパトリック、後半27分に宇佐美が得点し、2-1で勝利した。

 

 「18位」に1つランクアップ。

 総得点も「5」、勝敗は「2勝4分7敗」に。

 「17位 仙台」まで勝ち点差「3」。

 

 次節-17節まで「中2日」。

 対戦相手は「20位の横浜FC」。

 これを勝って勢いをつけたいところだ。

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<苺> ベリーツ

2021-05-28 08:25:49 | 食品

 「ベリーツ」

●ベリーツとは
◆ベリーツの来歴
 「ベリーツは」大分県が2010年に開発に取り組み、「さがほのか」に「とちおとめ」を交配して作られた大分県のオリジナル品種「ゆふおとめ」に、「かおり野」を交配してできた実生から選抜育成されたイチゴで、2017(平成29)年に「大分6号」として品種登録に向け出願公表されています。

 正式な品種名は「大分6号」ですが、流通上使用される名称「ベリーツ」は登録商標です。この名称は「ストロベリー」と「スイーツ」を合わせた造語でスィーツみたいなストロベリーという意味が込められ、ロゴのデザインにも記されています。

 2017年から販売が始まり、大分県オリジナル品種としてブランド化がすすめられているところで、苗は10年間大分県内の生産者に限定されています。

◆ベリーツの特徴
 「ベリーツ」の果実のおおきな特徴は下記の4つ。

1.全体に鮮やかな赤色に色付きやすい。

2.やや縦長の綺麗な円錐形になりやすい。

3.香りが良く糖度が高い。

4.果肉がしっかりとしていて輸送に強い。

 また、栽培においては、「さがほのか」よりも1~2割収量が多いそうです。


 
◆実際に食べてみたベリーツの食味
 今回入手したものは大分県杵築産、秀品3Lサイズのベリーツです。

 秀品だけあって形は全て綺麗な円錐形で、大粒で全体に良く色づいていました。

 食べた感じは、まずイチゴらしい香りがちゃんとあり、比較的しっかりとした食感です。果汁は十分にあり、甘味が強く酸味も程よく感じられなかなか美味しいイチゴでした。

●ベリーツの主な産地と旬
◆主な産地と生産量
 ベリーツは大分県オリジナル品種で、2027年頃までは大分県内に限定されています。正式な品種名は「大分6号」なので、もし、その後他府県で栽培出荷されるようになるとしても産地のブランド名で出荷されることになると考えられます。

  現在、大分県の主力品種は「さがほのか」ですが、今後ベリーツに切り替えが進んでいくと思われます。

◆ベリーツの収穫時期と旬
 ベリーツは極早生種とされ、ハウス栽培されたものはクリスマスよりも前の11月下旬頃から収穫が始まります。2018年の初競りは11月30日だったようです。その後春まで出荷が続きます。

 収穫の最盛期は12月下旬から3月上旬頃です。

*https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/Strawberry-Berryets.htm より

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<言 葉> 夏の言葉 風薫る

2021-05-28 08:16:33 | 言葉

 「風薫る」

 「薫風」と音読みで用いられることも多い。「クンプウ」という音の響きがはずむようで、いかにも5月頃の爽やかな風を感じさせる。「カゼカオル」というと、優しい感じになり、より情緒的な表現の句に似合うようである。「風の香」「南薫(なんくん)」という言い方もある。

 「風薫る」と言い、「薫風」と言い、つまり青葉若葉を渡って来る爽やかな風が初夏の香りを運んで来るようだ、という気分である。「風の香」はそのものずばりの表現であり、「南薫」はそういう薫りを運んで来る南風(みなみ)ということである。

 木の芽(山椒の若芽)などは別にして、若葉は実際にはあまり匂わない。柿若葉、椎若葉、欅の若葉、若楓などが俳句によく詠まれる若葉だが、むしって手で揉んだりしない限り、強い匂いはしない。樟若葉が時として独特の香りを漂わせるが、それとて気がつかずに通り過ぎてしまう程度である。つまり、こ

の「薫る」は直接的な嗅覚と言うよりは、視覚を通して感じ取る香りのようである。「目には青葉」というように、実に新鮮な感じで、目が洗われる思いであり、新樹を吹き渡って来た風が、いかにも匂うように感じられるということなのであろう。

 もともと平安朝あたりでは、この「風薫る」は梅や桜など花の香りを運んで来る風を表わす言葉だった。それが、時代が下るにつれて、「薫風南より来たる」といった漢詩の影響などもあって、夏の南風に乗って来る香しい気分を言う季語になったようである。

 松尾芭蕉は『奥の細道』の出羽三山のくだりで、「有難や雪をかほらす南谷」と詠んでいる。山形県大石田で、最上川下りをした時の名句「五月雨をあつめて早し最上川」を詠んだ後、芭蕉は6月3日に羽黒山に登り、南谷の別院に泊まり、翌4日、本坊で寺のお歴々とともに連句を行った。その時の発句である。

 句の意味は「なんとも有難いことだなあ、ここ南谷には、緑の木々の間を縫って吹いて来る薫風が、尊い羽黒山の残雪の香りを運んで来るようだ」といったところであろうか。南谷の南と「かほらす」の薫で、「南薫」という季語が隠された形になっている技巧的な句である。元禄2年の6月4日は、陽暦に直すと7月20日であり夏の真っ盛り。羽黒山の中腹の涼風に感激した様子がうかがえる。

 俳諧(連句)の発句は招かれた客が詠むのが通例となっており、客の方はそれに対して好意に謝する気持をこめて、そのあたりの景色や雰囲気を愛でる句を詠む。この句などそれが最大限に発揮されたもので、羽黒山の残雪を吹き渡り来る薫風が何よりのご馳走ですな、有り難いですなあと褒めている。一座の

坊さんたちは喜んだに違いない。

 芭蕉は「薫風」が好きだったらしく、この他にも「風の香も南に近し最上川」「風かほる羽織は襟もつくろはず」と詠んでいる。

 夏の風をストレートに言う季語としては「南風」がある。これは「なんぷう」とも使われるが、もともとは漁師言葉である「みなみ」と使われることが多い。これを西日本では「はえ」と呼び、梅雨入りの黒雲が覆いかぶさった中を吹く南風を「黒南風(くろはえ)」、梅雨明けの南風を「白南風(しろはえ・

しらはえ)」と言って、独立の季語になっている。黒南風はちょっと異質だが、一般的に「南風」は夏の心地よい風としてうたわれる。

 もう一つ、薫風に似た季語に「青嵐」がある。これも南寄りの風で、薫風よりは強い風である。やはり青葉を吹き渡って来る風だが、薫風が「かおる風」であるのに対して、こちらは「みどり(青)の風」で、より一層視覚に訴える度合いが強い。

 

  其人の足跡ふめば風かをる   正岡子規

 *http://sogyusha.org/saijiki/02_summer/kazekaoru.html より

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<日本酒> 兵庫 菊正宗/菊正宗酒造嘉宝蔵五番

2021-05-28 07:20:51 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(大阪国税局)】
 〈兵庫〉 菊正宗/菊正宗酒造嘉宝蔵五番

 江戸中期、神戸・御影の地で、酒造りを始める。

 万治二年(1659年)、徳川四代将軍家綱の時代。
 材木商として活躍していた嘉納治郎太夫宗徳が、当時、先端の製造業であった酒造業に手を広げ、本宅敷地内に酒蔵を建て、酒造業を本格的に開始。ここに菊正宗360余年の歴史が始まりました。

 江戸っ子に愛された灘の「下り酒」

 当時、まだ決して大きな銘醸地ではなかった灘がその名を轟かせるようになったのは、18世紀末、江戸送りのいわゆる「下り酒」(クダラナイという言葉の語源)の人気が高まったことから。中でも造った酒のほとんどを“下り酒”にしていた本嘉納家の酒は、最高品質の酒として江戸っ子にこよなく愛されました。
 良質な酒米と宮水という、六甲山系の自然の恵みを丹波杜氏の職人技で醸した辛口を携え、地の利を生かして港から遠くは松前(北海道)にまで取引に出かけたという本嘉納家。伊丹、池田といった先達を凌駕し、新興の酒造蔵としての名声を確かなものにして行きます。ちなみに、嘉納の姓については、約600年前、御影沢の井の水で酒を造り、これを後醍醐天皇に献上したところ、ご嘉納になったので嘉納の姓を賜ったとのいい伝えがあります。

※『嘉納』とは、「ほめ喜んで受け取ること」という意味です。

 近代醸造技術の礎づくり。

 本嘉納家は文化・文政(1804年~1829年)の数十年で石高を約3倍に増やし、幕府の御用商人とも言える立場を確立して隆盛を極めます。明治19年(1886年)には「菊正宗」ブランドを商標登録。海外への積極的な輸出や宮内省御用達拝命など、のちの発展の基盤がこの頃固められました。また、明治22年(1889年)には本嘉納家8代目秋香翁が「どうしても良い酒を造る」の信念でドイツから顕微鏡を購入し、西洋の学問を身に付けた技術者を招聘。断熱効果を高めたレンガの酒蔵やビン詰め工場など、最新鋭の設備投資で業界に先駆けた技術改善を敢行。「近代醸造」への足がかりを築きました。秋香翁は、私立灘高建学の祖(設立代表者) としても尽力しました。

 よりうまい辛口を、より多くのお客様に。

 昭和20年、阪神間をおそった爆撃によって菊正宗も大部分の蔵を焼失。わずか3蔵から復興を遂げました。昭和24年に業界新聞が行った6大都市での世論調査では、「売りたい酒」「品質のよい酒」で、菊正宗はいずれも3都市でトップ、総合でもトップの座を得ました。1988年には、業界で初めて主力商品の全てを本醸造化するなど、品質本位の姿勢を貫いてきました。

 また「♪やっぱり俺は~キクマサムネ~」で一躍有名になった昭和50年のテレビCFは、優秀なCFに贈られる広告賞を受賞。続く「旨いものを見ると、辛口のキクマサがほしくなる」編CFでは、食と日本酒の融合を提案するなど、日本酒の新たなポジションを切り拓き、魅力を発信し続けてきました。

 菊正宗酒造株式会社 神戸市東灘区御影本町1-7-15

 ラインナップ

 「菊正宗」嘉宝蔵 雅・秘蔵熟成酒・純米大吟醸 秘蔵酒三年貯蔵・純米大吟醸 など

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<伝統野菜> 宮城 荒町菜

2021-05-28 07:16:35 | 伝統野菜

 「荒町菜-あらまちな」
 【生産地】宮城県登米市登米町荒町地区

 【形状】つぼみ菜に似ている。香りがある。

 【食味】甘くてほろ苦い。茎の部分がとくにおいしいとされる。おひたしにして食す。その他、ごま和えや漬物。

 【来歴】来歴は不明だが、少なくとも70年以上前からつくられている。登米は宿場町で北上川の水運が栄えていたため、日本のどこからか、登米を行き交う人がこの地に持ってきたと思われる。多い時では十軒で栽培していたようだが、現在は七軒となっている。

 【収穫時期】3月下旬~4月

*https://tradveggie.or.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E9%87%8E%E8%8F%9C%EF%BC%8D%E5%AE%AE%E5%9F%8E/#i-15 より

 

 荒町菜
 生産地 登米市登米町荒町地区

 由来
 登米町の荒町という集落でのみ栽培されている「荒町菜」。生産者のお一人、佐藤政孝さんが戦後間もなく荒町に引っ越してきた際に、近所の方から種を分けていただいた、とのことなので、少なくとも70年以上前からつくられていることになります。多い時では10軒で栽培していたようですが、今は7軒になりました。ルーツは謎ですが、登米は宿場町で北上川の水運が栄えていたので、日本のどこからか、こうした登米を行き交う人がこの地に持ってきたのだと思われます。

 

 特徴
 見た目はつぼみ菜に似ており、甘くてほろ苦く、香りもあります。茎の部分がとくにおいしく、他の葉物は2日で飽きるが、10日食べても20日食べても飽きない味だと、佐藤さんは言います。

 荒町菜は肥沃な土壌を好むようです。この地区がかつて馬場だったためであるとか、堀にたまった泥をかき出したのがよかった等諸説あるものの、他の土地では同じように育たなかったため、土地の名前をとって「荒町菜」と呼ぶようになったようです。

 

 栽培方法
 種を播くときは、バラまきします。土はかけずそのままにしていると、1週間程度で芽が出てきます。3月末から4月にかけて収穫時期となります。収穫後は日持ちしないため、少しずつ摘んで新鮮な味を楽しみます。

 

 主な活用・料理方法
 ほとんどがおひたしにして食べています。その他はごま和えや、漬物にしており、味噌汁には入れないようです。荒町菜が食卓に上がると春が来たと感じるようで、毎年おすそわけしている人も、春になると佐藤さんから荒町菜が届くのを待っているそうです。

 

 生産者インタビュー佐藤政孝さん
 この荒町地区に古くから伝わっていて、この地にしかない野菜です。私自身、親から伝えられてきた種なので、私の代で絶やさないようにしてきました。栽培自体はそんなに難しいものではないので、子の代になっても作ってもらいたいと思っています。

 

 お問い合わせ 登米市産業経済部地域ビジネス支援課

*https://www.city.tome.miyagi.jp/business/dentoyasai/aramachina.html より

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<漢字検定> 1級 四字熟語 1.回答 2.出題

2021-05-28 07:07:58 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 


 問1 尸位素餐  -しいそさん-ある地位にありながら職責を果たさず、無駄に禄ろくをもらっていること。また、その人。「尸位」は、人がかたしろになって、神のまつられる所に就く意で、地位にあって動かない、位にありながらなんの責務も果たさないことをいう。▽「素餐」は何もしないでただ食らうこと。「素餐尸位そさんしい」ともいう。

 


 問2 豁然大悟  -かつぜんたいご-疑い迷っていたことが、からっと開け解けて真理を悟ること。▽「豁然」は、からっと開けるさま。「大悟」は大いに悟る、真理を悟ること。「豁然」は仏教用法のとき「かつねん」とも読む。「大」は「だい」とも読む。

 


 問3 不撓不屈  -ふとうふくつ-強い意志をもって、どんな苦労や困難にもくじけないさま。▽「撓」はたわむ意。転じて、屈すること。「不屈不撓ふくつふとう」ともいう。

 


 問4 竹苞松茂  -ちくほうしょうも-新築の家が完成したことを祝う言葉。
「竹苞」は竹の根のようにしっかりとした下部構造。
「松茂」は松の葉や枝のような上部の造りの見事さをほめ称える言葉。

 


 問5 扇枕温衾 -せんちんおんきん-両親を大切にすること。
夏は親の枕元で、扇で扇いで涼しくして、冬は自分の体温で親の布団を温めて、親が過ごしやすいようにするということから。
「枕を扇ぎ衾を温む」とも読む。

 

 今回の出題

 

 次の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 天真爛漫  

 

 問2 得魚忘筌  

 

 問3 風声鶴唳  

 

 問4 判官贔屓  

 

 問5 落穽下石

 


 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典オンライン より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 三重 伊賀くみひも

2021-05-28 07:01:49 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「伊賀くみひも」

 伊賀くみひもとは?
 伊賀くみひも(いがくみひも)は、三重県で作られている組紐(くみひも)です。主に絹糸を使い、組み糸に金銀糸を使用して作られています。
 伊賀くみひもの特徴は、色とりどりに染められた絹糸の1本1本が光に映え、交わりあって輝く美しさです。手組みひも、と呼ばれる手で組み上げるものが有名です。絹糸が織り成す「組み」独特の風合いや、絹糸が創り出す華やかな魅力を持っています。
 古来より伝承されてきた伊賀くみひもは、職人たちによって時代を超えて守られ進化してきました。伊賀くみひもには、たくさんの人々の想いと時間も共に綾なされており、深い風合いが生まれています。
 日本の伝統文化として海外からも注目される和装の帯締めなどの小物はもちろん、現在のライフスタイルに合ったストラップなど新たな伊賀くみひもも商品開発されています。キーホルダーやブレスレットなどの身近のアイテムが自分で製作できる体験教室も開かれ、伊賀くみひもの産地は身近な存在としての「くみひも」を発信し続けています。

 History / 歴史
 伊賀くみひも - 歴史

 伊賀くみひもの技術は、大陸から仏教と共に伝わってきました。当時は主に経典の装飾や袈裟(けさ)などに用いられていた、と言われています。平安京に都が移った後も、束帯(そくたい)という王朝貴族の装束(しょうぞく)に欠かせない装飾品に用いられました。組緒(くお)の帯(おび)は芸術性の高さから、時代が変わっても引き継がれています。
 鎌倉時代には武士の道具にも利用されました。室町時代には茶の湯の道具の飾り紐になるなど、幅広く認知されていきます。戦国時代になると、鎧(よろい)の装飾に用いられ、江戸時代は刀剣の飾り紐となりました。
 武具、装身具の職人たちは江戸幕府の保護の下、技巧を競いあうことになっていき技術が進歩します。組み方の種類が増えて、印籠(いんろう)や羽織(はおり)の紐、煙草(たばこ)入れの紐などにも、利用されるようになりました。
 明治時代に入ると廃刀令が発令されて、伊賀くみひもは衰退を余儀なくされますが、生活様式の移りかわりにも順応をし、様々な製品が開発され技術が守られています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/igakumihimo/ より

 

 四方を山に囲まれた忍者の里で発展した、伊賀くみひも
 伊賀くみひもの起源は古く、奈良朝以前に遡るといわれているが、伊賀の地場産業としての本格的な発展は明治中期に入ってからのことである。伊賀の地で生産される手組の帯締めは、全国の生産量のおよそ90%を占め、国の伝統的工芸品に指定されている。

 
 明治中期、和装の普及とあいまって広まる
 明治35年頃、広沢徳三郎(ひろさわとくさぶろう)が江戸のくみひも技術を習得し、故郷である上野市で糸組工場を設立。和装の本場京都に近いという地の利をいかして産業として発展、定着し伊賀の里に広まっていった。今回は祖父の代から数えて三代目のくみひも士、増井萌(ますいもゆる)さんにお話を伺った。


 わずかな幅のなかに無限の美が広がる
 東京の大学を出てしばらく名古屋方面でサラリーマンをしていた増井さんは、30歳で家業を継ぐために上野市にUターン。「家内には詐欺だと言われましたが、姉と妹が他家に嫁いでしまったので長男の私が家に帰らざるを得なくなったのです。」くみひも職人としてはかなり遅いスタートだったが、父の傍に黙って座りながら肌で技術を習得したという。「なんとか新しい斬新なデザインを考え出そうと挑戦していると、『帯締めだけが一人歩きしてはダメだ』と父によくしかられました。」

 職人さんを確保するためにまず自分が技術を磨いた
 「父は自転車で回れる範囲の、家の近くに住む組子(くみこ)さんにしか仕事を頼めなかったのですが、私は車に乗れたので、遠く奈良や滋賀にまで組子さんを探して走り回りました。」時代が変わり、主婦がパートで外で働くようになると安い工賃でもくもくとくみひもを組んでくれる人を確保するのが難しくなった。まったく初めての人たちに仕事を教えるために、増井さん自身も懸命に技術を磨いたという。当時は伊賀地方に3000人以上いた職人たちも、原料と工賃の安い外国製品におされて、いまは三分の一に激減。くみひもの伝統を守るために増井さんたちの苦労は続いている。

 伊賀くみひもの歴史
 元来くみひもは奈良時代、経典などの仏具や神具の紐などに使用されていた。平安期になると貴族たちの装束や室内を飾る紐として愛用され、鎌倉時代には武士の甲冑、刀の紐などの実用品として発展。伊賀では江戸時代に暗躍した忍者たちが紐の結び方で仲間に合図を送っていたとも伝えられている。しかし、実際に伊賀でくみひも産業が盛んになるのは近年に入ってからである。明治中期、手内職の相場が三銭だった頃、くみひも屋は十五銭だしたので近隣の主婦たちが続々と集まり技術を競い合って発展した。


 何度かの時代の波をかぶり生き延びてきた
 縄文時代以来、人々の生活様式の変化のたびに、くみひもはさまざまに形を変えて生き延びてきた。明治維新の時、政府が廃刀令を施行し、刀と共に組紐の歴史も幕を閉じるかと思われた。しかし江戸の亀戸天神に太鼓橋が完成。粋な深川芸者が太鼓橋をイメージして帯を背中に高く結んで、くみひも製の帯締めで帯を留めて渡り初めをした。これが今のお太鼓結びの始まりで、この時の帯締めが評判となり、くみひも製の帯締めが大流行。それ以来、くみひもは和装小物の必需品となり今日に至っている。


 若い世代に伝統を受け継いで行く
 「この伊賀くみひもセンターでは、初めてのひとでも20分で簡単にくみひもが体験できますよ。一度チャレンジされませんか?」増井さんはセンター内にある高台に上がって、50本~70本の美しい絹糸を巧みに操りながら気軽に誘ってくれた。伊賀くみひも組合では青年部の人たちが近隣の中学などで伝統産業としてのくみひもを学生たちに指導しているという。また、観光客にも丸台を使って、手軽にくみひも体験できるコーナーがある。実際に私も若い指導員について初めてくみひものキーホルダーを作ってみたが、コツさえつかめば案外簡単にできあがった。


 職人プロフィール

 増井萌 (ますいもゆる)

 1946生まれ。
 東京の大学を卒業後、しばらく名古屋方面でコンピュータ関係のサラリーマンをしていたが、30歳の時に帰郷。3代目として家業を継ぐ。伝統工芸士の資格を持つ。

*https://kougeihin.jp/craft/0302/ より

 

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