いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<苺> さちのか

2021-05-05 07:40:41 | 食品

 「さちのか」

■さちのか/幸の香とは
●「とよのか」×「アイベリー」
さちのか(サチノカ)
 「さちのか」は旧野菜・茶業試験場久留米支場(現農研機構九州沖縄農業研究センター野菜花き研究施設)において「とよのか」に「アイベリー」を交配して育成された促成栽培向きの品種で、2000年2月に品種登録されました。

 「さちのか」は長崎県や佐賀県などを中心に2019年現在も多くの生産者がおり、市場でもよく目にする品種の一つです。


 
●さちのか/幸の香の特徴
 「さちのか」の果皮の色は濃い鮮赤で、果形は長円錘、果実の大きさはやや大きめです。

さちのか(サチノカ):いちご
 果肉の色は淡紅色で、果心も淡赤色をしているの出、ジャムやピューレにすると綺麗な濃い色のものが作れます。その分、熟しすぎると黒ずんだ赤になりやすいです。これはさちのかの特徴でもある酸化による黒化で、熟したものは収穫後時間と共に黒ずんだ濃い赤に変色してきます。

 また、果肉はかなり硬く、輸送性、日持ち性に優れています。

 香りはやや強く、味は酸味が穏やかで、甘みとのバランスが丁度良い感じ。もちろん好みや栽培環境によって違いはあります。

 他のイチゴに比べ、ビタミンCが多く含まれているとされています。

さちのか(サチノカ):いちご
 農林水産省の品種登録データベースには以下の通り記載されています。

『-----

 果皮の色は鮮赤、果形は長円錘、果実の大きさはやや大、果肉色は淡紅、果心の色は淡赤、果実の光沢は良、果実の溝は少である。

 果実の硬さはかなり硬、無種子帯はほとんどなし、そう果の落ち込みは落ち込み小、そう果のアントシアニン着色及びそう果数は中、果実の香りはやや多である。

 可溶性固形分含量はかなり高、酸度はやや低、日持ちは長である。

 「とよのか」と比較して、小葉が小さいこと、果形が長円錘であること、果実が硬いこと等で、「女峰」と比較して、小葉が小さいこと、果肉色が淡紅であること、果実が硬いこと等で区別性が認められる。

-----』以上、抜粋。

●ステビア農法で作られた「さちのか」も登場
 千葉県では「さちのか」をステビア農法によって栽培し、「紅つやか」という商標で出荷しています。

*https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/Strawberry-Sachinoka.htm より

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<言 葉> 夏の言葉 立夏

2021-05-05 07:37:43 | 言葉

 「立夏」

 5月5日は「立夏」。

 二十四節気のひとつで、暦の上ではこの日から立秋の前日までが夏になります。
 また、このころはゴールデンウィークの時期。レジャーに出かけるにも、よい気候ですね。


 いまも残るお田植え神事
 旧暦では6月に当たっていたため、梅雨入り前に豊作を願う祭りが多く行われており、いまでも全国各地でお田植え神事が行われています。田植えの神様は男性なので、女性が主役の祭りが多いのが特徴です。

 昔は、稲を田んぼに植え付けるのは女性の仕事でした。今はほとんど機械化されていますが、当時の神聖な行事を後世に残すため、そして豊作を祈るため、各地で神事が行われています。天候を占ったり、田楽(でんがく)※を舞ったり、お田植えの神事は郷土色豊かです。
 また、お田植え神事は端午の節供と深い関係があります。

※田楽は、田植えのときに笛や太鼓を鳴らして歌い踊った芸能。平安時代にはじまりました。

*https://www.i-nekko.jp/meguritokoyomi/nijyushisekki/rikka/ より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-久石譲

2021-05-05 07:27:13 | MUSIC

 「久石譲」

  1950年12月6日生まれの70歳

 

 作曲家、指揮者としての道のりを語る
 久石譲が続けてきた音楽を未来につなぐチャレンジ 2020.10.30

 作曲家として数々の魅力的な作品を世に送り出し、最近では新日本フィルハーモニー交響楽団のコンポーザー・イン・レジデンス&ミュージック・パートナーを務める久石譲さん。ベートーヴェンの交響曲全集をリリースし、2021年4月からは日本センチュリー交響楽団の首席客演指揮者に就任するなど、指揮者としての活動にも注目が集まっています。さまざまな角度から活動を展開する久石さんの音楽人生におけるターニングポイントを探り、その目に見ている「音楽の未来」を伺いました。

 取材・文 小室敬幸 
 小室敬幸 作曲/音楽学
 東京音楽大学の作曲専攻を卒業後、同大学院の音楽学研究領域を修了(研究テーマは、マイルス・デイヴィス)。これまでに作曲を池辺晋一郎氏などに師事している。現在は、和洋女子大学で非常勤講師、東京音楽大学 ACT Projectのアドバイザー/情報科目のTA、インターネットラジオOTTAVAのプレゼンター(ラジオDJ)、一般社団法人Music Dialogueの事務局を務める他、フリーランスの音楽ライターとしてもクラシックやジャズを中心に楽曲解説やインタビュー取材などで幅広く活躍している。音楽理論/楽曲分析/作編曲を教える個人レッスンは常時開講中。

 クラシックに「本籍」を戻す——指揮で感じた体験を作曲に
——ロンドン交響楽団で自作のミニマル・ミュージックを指揮したアルバム『ミニマリズム』(2009)を出された頃から、久石さんは、明らかにクラシック音楽路線をとられるようになりましたよね。どのような心境の変化があったのでしょう?

久石: ムクワジュ・アンサンブルのためのアルバム『ムクワジュ』(1981)を作曲した30代の初めころまでは、コンテンポラリー(=現代音楽)の作曲家でしたが、その世界の理屈っぽさが嫌になってしまって……。

だから映画音楽や、エンターテインメントの音楽をつくってきましたが、作曲する上ではずっとミニマル・ミュージック的な手法も使っていました。それをある程度続けてきたときに、エンターテインメントの枠を超えてしまっていると感じるようになりました。それでもう1回、ベースとなる「本籍」をクラシックに戻そうと決めました。

——おっしゃる通り、ミニマル的な音楽はずっと書かれていましたけれど、自作ではなくクラシック音楽だけを指揮したアルバム『JOE HISAISHI CLASSICS』シリーズ(2010~11)を出されたりしたのは、「本籍」を戻されてからですよね。指揮に力をそそがれるようになったのは、なぜなのですか?

久石 クラシックの世界に戻るとなれば、自分の曲ぐらいは自分で振れないといけないなと思ったわけです。でも僕の曲は細かい音符がごちゃごちゃ書いてあるから、指揮の技術がかなり必要。指揮者 久石としては、作曲家 久石の曲が一番嫌なんですよ。本当に振りたくない(笑)。

——作曲する時点では、自分で指揮するなんて思っていないですもんね(笑)。

久石 ええ(笑)。それで、秋山和慶先生に就いて学び直すことにしました。けれども、どうせだったらせめて《運命》《未完成》《新世界》くらいは振れる技術はあったほうがいいんじゃないかと思ったんですね。実際のところ、クラシックが大好きですし、時代が違うので僕が使っている音は全然違いますけど、先人たちが残した音楽に対しても心の底からリスペクトしていますから。


久石 作曲というのは「コンポーズ(Compose)」——つまり「構成する」という意味です。作曲家としては大きいものを書きたいわけですが、4楽章ある40分のシンフォニー(交響曲)を作曲する場合、1楽章あたり平均10分の曲を4つ書けばシンフォニーになるわけですが、そればかりではありません。主題となるモティーフをどのように扱って、40分間を構成していくのか?……ということが問題になります。

——たくさんのメロディを書くのではなく、主題を変奏したり展開したりしながら構造をもった楽曲を組み上げていくわけですよね。

久石 クラシック音楽にはそういう時に役立つ沢山のヒントがありますが、ただ演奏を聴いたり、スコアを見たりする勉強だけで入ってくる情報は、もの凄く少ない。ところが実際にベートーヴェンやブラームスなどをオーケストラで指揮すると、何故こう書かれているのか? どこに問題があるのか? ということがわかるようになりました。

——だからこそ貴重な創作時間を割いてまで、熱心に指揮されるようになったと。

久石 学生時代は、ベートーヴェンを分析している暇があるなら、自分の曲を書いていましたけどね(笑)。

それで思い出したんですけど、2016年6月にフィリップ・グラスさん(ミニマル・ミュージックの巨匠)が日本にいらしたとき、彼のピアノのためのエチュードを演奏するので、僕にも演奏してくれという依頼が来たんですね。

折角、ミニマルの大先輩であるグラスさんご本人からお話をいただいたので引き受けましたが、本当は自分の曲以外はピアノで弾きたくなかったんです。毎日、何時間も練習する時間があったら作曲したいというのが本音ですから。でも一生懸命に練習しましたし、コンサートも無事に終わりました。

問題はコンサート後のトークで、司会者の方が「他の曲は弾かないんですか?」とグラスさんに聞いたら、「そんなピアノの練習する時間があったら、俺は曲を書くよ」って答えたんですよ(笑)。そりゃ、僕だって同じだよ! と思いましたね(笑)。

——グラスさん、あんまりです……(笑)。でも今の話と違って、久石さんにとってベートーヴェンなどを指揮する経験は、時間を費やす価値があるわけですよね。

久石 分厚いスコアを1曲分析して指揮する暇があるのなら、自分のシンフォニーを1曲書けるような気もするのだけど、指揮することで得られる感覚は、学問のような論理ありきの作曲ではなく、観客に聴いてもらう実践に即した作曲をするのに非常に役立つんです。そうした肌で感じる実体験を味わってしまうと、指揮はやめられなくなります……本当にやめられなくなるんですよ!

例えば(セルゲイ・)プロコフィエフの曲は大概、調性がありますけど、どこかで不協和音が鳴りますよね。スコアを読んでいる段階では、なんでこうなるんだろう? と思うところがあっても、指揮をすると、この不協和音がなかったらつまらないことが凄くよくわかる。こういう実体験というのを、昔の作曲家はみんな持っていたはずです。

なぜミニマルなのか? クラシックを伝統音楽にしないために
——久石さんがおっしゃっている「クラシックに本籍を戻した」というのは、そういう部分も含めてということなのだと、よくわかりました。そして、2014年からスタートされた「久石譲 presents ミュージック・フューチャー」シリーズで毎回、初演されている新作などに、指揮で得た感覚が活かされているのですよね。

久石 ありますね。ミュージック・フューチャーの話をする前に、そもそも日本の作曲家はヨーロッパの作曲家のやり方を追いかけてきたんですよ。僕自身もそうでした。

——久石さんが師事されていた島岡譲先生(1926~ )はパリ音楽院で学ばれた方ですし、日本に12音技法を持ち込んだ先駆者である入野義朗先生(1921~1980)のレッスンも受けられたりしていたんですよね。

久石 僕に限らず、(12音技法を生み出した)シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、ブーレーズ、シュトックハウゼン、クセナキスなどから学んだり、無伴奏の独奏曲を書くならベリオの《セクエンツァ》シリーズから影響を受けた楽譜を書いたり……。今の若い人が作曲コンクールに出す曲も、その流れを汲むものが多いように思います。

——評価する審査員に、そういうものを評価する世代がまだまだ多いという理由もあるかもしれません。

久石 自分も最初はヨーロッパ的な現代音楽を書いていたのに、ミニマル・ミュージックに衝撃を受けて、何年もかけて体質を変えながら対応できるようにしてきたわけです。

ところが日本の現代音楽シーンでは、ヨーロッパを見習い、追いかけていくのが正統なあり方だ……としてしまったがために、アメリカから始まったミニマル・ミュージックの影響が限定的なんです。世界的にみれば大きな潮流になっているのに、日本では「小さい音楽」として排除されてきてしまった。


——日本だとミニマル第1世代ともいえるテリー・ライリー、スティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラス、そして第2世代(ポスト・ミニマル)ともいえるジョン・アダムズぐらいまでは、ある程度紹介されてきましたけど、それ以降は確かに、体系的な紹介がなされてこなかったですね。

久石 (本格的なクラシックの)作曲を学ぶ日本人でヨーロッパ、特にドイツやフランスに留学する数に比べると、アメリカへ留学する人はとても少ないことにも表れているのではないかと思います。

じゃあ、こういう音楽が演奏される機会がほとんどないのなら、いまの自分の立場から紹介する催しがあってもいいんじゃないか——それがミュージック・フューチャーを始めた最大の理由です。

——実際、ミュージック・フューチャーのなかでは、Bang on a Canのデヴィッド・ラング(1957~ )、ブライス・デスナー(1976~ )、ニコ・ミューリー(1981~ )といったアメリカのポスト・ミニマルの系譜に位置する作曲家に加え、ロンドンを拠点にクラブカルチャーとクラシック音楽を結びつけるガブリエル・プロコフィエフ(1975~ )(※セルゲイ・プロコフィエフの孫)などを取り上げてきました。

久石 なぜ僕がヨーロッパの伝統ではなく、主にアメリカへ目を向けているかというと、「今日の曲目」と「今日の演奏法」が未来につながっていかないと、クラシック音楽は伝統音楽になってしまうと思っているからです。日本のアプローチを変えていかなきゃいけない。

ところが、職業指揮者だと少ないリハーサルのなかで、オーケストラの人たちに気に入ってもらえないと、次の仕事がこなくなります。自分が新しいことをしてみたいと思っていても、やりすぎてしまうと反発されてしまうし、リハーサルの時間も少ないので自然と、オーケストラがやりやすい環境を作り、器用にこなすことばかりに気持ちがむいてしまう。そうすると、まだ答えの見つかっていない実験的な試みはできなくなってしまいます。

僕は職業指揮者ではありませんし、そういうことを気にしないので楽なのでしょう。とにかく誰かが何かをしていかないと、未来につながらなくなってしまう。作曲の歴史と同じように考えているからこそ、演奏スタイルも変えようとしているんです。

——作曲の歴史の方も、ヨーロッパの前衛音楽とアメリカのジョン・ケージらによる実験音楽の勢いがなくなってからは、未来へと繋がっていく感覚が弱まってしまいましたよね。その代わりとなるミニマルの系譜を、久石さんが日本で繋ごうとされているわけですが……。

久石 20世紀の後半までは幸せだったと思います。音楽に限らず、映画も文学でも、物事の既成概念を壊すことが、イコールで表現として認められていたわけですから。でも1980年代以降、もっといえば21世紀になると完全に、壊すべき王道(メインストリーム)がなくなってしまったんですよ。戦後の前衛芸術のような考え方は、もう通用しない。だから僕は「クラシック音楽に戻る」ことにしました。

現代音楽に夢中だった学生時代は、クラシック音楽を否定することで自分の曲を書こうとしていました。でも、今は違います。クラシック音楽の延長に自分がいることを認めるところから、作曲をするようになりました。

——現代音楽の作曲家でも晩年のリゲティが、クラシック音楽に立ち戻ることをかなり強く主張したり、日本では吉松隆さんが反・現代音楽というスタンスで一世を風靡しましたが、現代音楽自体の影響力が弱まり、壊す対象でなくなってしまいました。だからこそ久石さんがおっしゃるように壊すのではなく、過去を踏まえた上で新しく歴史を築いていく必要があるわけですね。

楽しめる音楽の範囲が大きいほどいいと思いませんか?
——久石さんの音楽にとってベースとなるミニマル・ミュージックについて、もう少しだけうかがいたいのですが、ミニマルとの最初の出会いはテリー・ライリーの《A Rainbow in Curved Air》(1969年録音)だったそうですね。


ライヒでもグラスでもなく、ライリーの電子オルガン・サウンドから、ポップスの世界へと移った1980年代の久石さんのオリジナルアルバムや、『風の谷のナウシカ』の音楽が生まれたのだろうなということが感覚的に伝わってきます。

久石 人生ってわからないもので、予測のつかないことが多いですね。同じシチュエーションでなかったら、影響は受けなかったかもしれませんし、上手くいかなかったかもしれません。どの世界でもそうですけど、エンターテインメントで続けていくのはとても大変です。誰にでもわかりやすいメロディがあって、調性があって……などというと誰でも書けそうな気がしますけど、誰もが一流になれるわけじゃないですから。


——ところが80年代と21世紀以降では、表面的なサウンドだけじゃなく、ミニマルといってもまったく違う路線になっていますよね。

久石 2008年10月に「Piano Stories 2008」という、チェロ12人に、ハープやマリンバ、コントラバスという編成でツアーをしたときに、前半は映画音楽を演奏したのですが、後半にまとまった作品が欲しくて《The End of the World》という曲を書きました。

——2007年にニューヨークを訪れた際、同時多発テロの現場であるグラウンド・ゼロから着想した作品ですね。

久石 それが『Another Piano Stories ~The End of the World~』(2009)というアルバムに収録されています。その後、同じ曲を3管編成ぐらいの合唱付きオーケストラに直す作業の途中で「もうエンターテインメントの枠にいれるのは難しいだろう」と思ったんです。もう自分は完全にミニマルの作曲家へシフトしているなと。

——この曲がインタビュー冒頭でもおっしゃっていた、きっかけだったんですね。クラシックの世界に戻ってきて、ちゃんと評価してもらえるかどうか、不安はなかったのでしょうか?

久石 もともと20代まで現代音楽を書いていた頃なんて、作曲家が5人集まってコンサートを開いても、作曲家の関係者しか来なかったから(笑)。それを若い頃にずっと経験してきているので、またそこに戻るんだなと。今は世界中で、大勢の観客に観に来ていただいていますが、コンサートの主催者からは、映画のあの曲を入れてくれという要望も多いので、毎回が戦いです(笑)。

もちろんジブリの音楽を嫌がっているわけではなくて、キチンと演奏してあげないといけない。知られているから、受けるから……というだけで演奏すると、楽曲が死んでしまいます。

だからシンフォニック・スイート(交響組曲)として20分ぐらいで、オーケストラがしっかりと演奏できるバージョンを、いままでにジブリで音楽を担当した10作品中、6作品ほど作っています。

比べるのはおこがましいですけど、チャイコフスキーが《白鳥の湖》や《くるみ割り人形》を組曲にしているのと同じ行為だと思っていて。オーケストラの能力を発揮できるコンサート・ピースとして成立できれば、凄く幸せですね。

——バレエやオペラの組曲と同じようなものであるはずなのに、残念ながら映画の組曲はなかなかオーケストラの定期演奏会で取り上げられるレパートリーに組み込まれないですよね。

久石 クラシック音楽を聴く理由が、「聴くことで自分が幸せになるから」なのか、それとも「こういう趣味をもってその場所に行っている俺っていいね」と思っているのか、という問題が出てくるんですよ。加えて、後者の人間は映画音楽を馬鹿にすることが多いように感じますね。

でも、海外のオーケストラを指揮して、プログラム前半に映画音楽ではない45分ぐらいかかる自作品、そして後半にジブリの交響組曲を入れると、両方喜んでくれるんです。パリでもメルボルンでも、世界中で「色々聴けて得した!」みたいな感じで盛り上がるんですけど、日本だけ違います(笑)。もったいないなぁと思ってしまいます。

——確かに、どちらか一方しか楽しめない人が多そうなのは容易にイメージできます……。

久石 楽しめる音楽の範囲が大きいほどいいと思いませんか? そして「音楽を楽しむ」ということを根底に置かないと、日本の音楽教育にも弊害があると考えています。正しい音程、正しいリズムを間違えないように弾かせることばかりに注力しがちだから、ある程度上手くならないと楽しくならない。このメンタリティを小さいころから叩き込まれているから、オーケストラでも正確さを追求する人が多い。でも、スケール感が小さくなってしまいます。

日本と比べると、例えばフランスのオーケストラなどはリズムが揃わなくて苦労しますけど、ソロを吹かせると上手い……。色っぽい歌い方をしたり格好をつけたり、こういうのは逆に、日本のオーケストラでは難しいと思いました。国民性もあるのかもしれませんが、子どもたちに「音楽を楽しむ」感覚を丁寧に伝えていかないと、スケールの大きな子は出てきづらいでしょうね……。


指揮、作曲ともに未来へつなぐチャレンジは続く
——最後になるのですが、久石さんは今後、新日本フィルハーモニー交響楽団と日本センチュリー交響楽団で新たなポジションにつくことが発表されています。基本的には室内オーケストラであるフューチャー・オーケストラ・クラシックス(旧:ナガノ・チェンバー・オーケストラ)と、どのように活動内容が変わってくるのでしょうか?

久石 基本的な考え方はどのコンサートでも一緒で、現代曲と古典を組み合わせるプログラムにします。色んなものが聴けて楽しかった!……という感覚が、現代曲に対するアレルギーを減らせると思うのです。そういうプログラミング自体は結構あるように思われるかもしれないですが、現代曲を現代曲として演奏し、古典を古典として演奏してしまいます。

そうではなくて、現代曲でリズムをきっちり合わせるアプローチをしたら、そのやり方で古典も演奏して欲しいです。ここまではフューチャー・オーケストラ・クラシックスでも同じことをしています。


フルオーケストラでは、マーラーやストラヴィンスキーなど大きい編成の作品をやる……つもりだったんですが、コロナの影響で難しくなってしまいました。

でも、どのオーケストラもモーツァルトやベートーヴェンばかりに集中してはいけないと思うので、今まさに小さい編成で演奏できる現代曲を発掘中です。現代の作曲家が書いたオーケストラ作品は、3管編成以上の100名規模が多くて、2管編成の65名程度で出来る曲が、まあ見事にありません。

だから世界中の作曲家たちが、2管編成にちょっと鍵盤打楽器を増やしたぐらいの大きさのオーケストラ作品にチャレンジしてほしいと思います。コロナが落ち着いた後、その中の何曲かが残って、世界中のオーケストラが演奏するレパートリーになったら本当にいいなと思います。

——その編成による久石さんの新作も楽しみにしています!

久石 チャレンジはしますけど、砂丘で金を探すようなものですからね。この時代を生きる皆が一緒に挑戦する、そんな世界であってほしいですね。

*https://ontomo-mag.com/article/interview/joe-hisaishi-202010/ より

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<日本酒> 愛知 ほしいずみ/丸一酒造

2021-05-05 07:17:34 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(名古屋国税局)】
 〈愛知〉 ほしいずみ/丸一酒造

 未来へ継ぐ、歴史と伝統。
 阿久比米と蛍の里として知られる知多郡阿久比町に酒蔵を構える丸一酒造株式会社は、大正6年の創業の蔵元です。 阿久比町は古くから良質な米の産地として知られ、現在も阿久比米はそのおいしさを高く評価されています。 また蛍の里といわれるように、豊富で清らかな地下水に恵まれ、夏の夜には、蛍の群舞が見られます。
 よい水は酒造りには欠かせないものです。 良質米と名水を使い、芳醇で喉ごしがよく、すっきりとしたあじわいの酒作りを目標にしてきた丸一酒造は、昔ながらの酒蔵で工程の細部に至るまで、杜氏・蔵人の手仕事によって酒造りが行われています。
 これからも、お客様のお褒めの言葉を一番の勲章と考え、よりいっそうおいしい酒造りに励んでまいります。

 創業 大正六年
 丸一酒造株式会社は、阿久比米と蛍の里として知られる知多郡阿久比町に酒蔵を構える大正6年の創業の蔵元です。

 阿久比町は古くから良質な米の産地として知られ、現在も阿久比米はそのおいしさを高く評価されています。
 また蛍の里といわれるように、豊富で清らかな地下水に恵まれ、夏の夜には、蛍の群舞が見られます。

 よい水は酒造りには欠かせないものです。
 良質米と名水を使い、芳醇でのどごしがよく、すっきりとしたあじわいの酒作りを目標にしてきた丸一酒造は、昔ながらの酒蔵で工程の細部に至るまで、杜氏・蔵人の手仕事によって酒造りが行われています。

 酒名の「冠勲」は冠や勲章を与えられるような立派な酒になるようにとの願いをこめて付けられた名前です。

 平成3年・12年・19年・21年全国新酒鑑評会金賞受賞、新潟県の清酒品評会で首位新潟県知事賞受賞、
 愛知県の清酒品評会本醸造酒部門で3度の首位愛知県知事賞、吟醸酒部門・純米酒部門でそれぞれ1度の首位愛知県知事賞を受賞しています。
 これからも、お客様のお褒めの言葉を一番の勲章と考え、よりいっそうおいしい酒造りに励んでまいります。

 こだわりの酒造り
 良質な水、肥沃な大地に恵まれた阿久比で育った丸一酒造の清酒。
 豊かな土壌と風土を生かした昔ながらの酒造りに取り組んできました。

 水へのこだわり
 酒どころ知多・阿久比に生まれた丸一酒造
 知多の酒造りは、元禄元年に尾張藩御用商人の木下仁右衛門が保命酒と呼ばれるお酒を作り、壺にて献上したのが始まりと呼ばれています。元禄十年頃から江戸への出荷が始まったことで、より知多は酒の一大産地へと発展していきました。
その最中、初代当主新美一郎により丸一酒造は創業され、現代にいたるまで阿久比の肥沃な大地と水質を生かした酒造りを続けております。

 創業時より伝わる井戸水を使用
 昔から阿久比町は蛍の里と言われるように、豊富で清らかな地下水に恵まれています。夏の夜には、蛍の群舞が見られるほど清らかな水に恵まれている地域です。よい水は酒造りには欠かせないものです。
 丸一酒造を代表する「冠勲」と「星泉(ほしいずみ)」は、冠をいただくような勲章のお酒をテーマに「冠勲」、仕込み水に使われている井戸に映る星から「星泉」、という名前が付けられました。

 米へのこだわり
 阿久比米の里で作られる酒
 当社酒蔵のある阿久比町は、温暖な気候・肥沃な土・良質な水など、美味しいお米を作る条件が揃った土地です。昔からおいしいお米と評判の「阿久比米」で知られた場所です。

 伝統の米、水、酒造り
 阿久比の良質な米と名水を使い、芳醇でのどごしがよく、すっきりとしたあじわいの酒作りを目標にしてきました。昔ながらの製法で工程の細部に至るまで、杜氏・蔵人の手仕事によって酒造りが行われています。
 これからも、お客様のお褒めの言葉を一番の勲章と考え、よりいっそうおいしい酒造りに励んでまいります。

 丸一酒造株式会社 愛知県知多郡阿久比町大字植大字西廻間11番地

 ラインナップ

 「ほしいずみ」大吟醸・純米大吟醸 滔々・純米大吟醸 夢吟香40% など

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<伝統野菜> 青森 糖塚きゅうり

2021-05-05 07:11:40 | 伝統野菜

 「糖塚きゅうり」

 【生産地】八戸市、新郷村、七戸町などの県南地方

 【形状】きゅうり。ずんぐりとし、短くて太く、半白に近い黄緑色の果皮に黒いイボがあるシベリア系在来きゅうり。

 【食味】肉厚でやや苦味がある。果肉がかたく、メロンのような香りがある。皮をむいて味噌をつけて生食するほか、酢の物、味噌漬けなどで食べられている。

 【来歴】糠塚きゅうりの来歴は明らかでない。シベリア系のキュウリで藩政時代に、現在の青森県八戸市糠塚地域にもち込まれて栽培されたのが始まりとの説がある。地元でも「幻のきゅうり」といわれ、自家用や朝市のために栽培されている程度。

 【収穫時期】収穫7~8月 地元だけで流通

*https://tradveggie.or.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E9%87%8E%E8%8F%9C%EF%BC%8D%E9%9D%92%E6%A3%AE/#i-15 より

 

 糠塚きゅうりとは
 糠塚きゅうりは、八戸市糠塚地区で江戸時代から作られている伝統野菜です。太さは、大きいもので一般的なきゅうりの3倍に当たる直径7cm、重さは約500グラムにもなります。皮はやや固く、表面色は白っぽく脱色した素朴な色合いで、伝統野菜ならではの風格があります。1株あたりの収穫量は、一般的に流通している白いぼ系きゅうりが100本であるのに対して10本程度と少なく、6月下旬から収穫がはじまり7月に最盛期を迎え、8月中旬頃まで収穫されることから、八戸市の夏の風物詩となっています。昔懐かしいパリパリした食感や、ほのかな苦みが一般的なきゅうりとの違いです。

 歴史と現状
 糠塚きゅうりは、藩政時代に参勤交代の途中で種子を持ち帰り、当時野菜の供給を担っていた糠塚村(八戸市糠塚地区)に植えたことが始まりと言われています。
 昭和30年代頃まで、八戸市できゅうりといえば糠塚きゅうりを指すほど身近な野菜で、中心市街地に近い糠塚地区を中心に栽培されていましたが、料理に使いやすい白いぼ系きゅうりの登場や、収穫翌日には薄緑色の皮が黄変し、見栄えが悪くなるといった理由から販売業者が敬遠し、生産者が減少したとのことです。また、ほかの品種のきゅうりの近くに植えると自然交配してしまうことから、種子そのものが無くなりかけていました。
 そこで、八戸の伝統野菜「糠塚きゅうり」の純粋な種子の継承と生産技術の伝承を図るため、平成26年2月に市内の生産者による「八戸伝統野菜糠塚きゅうり生産伝承会」が設立されました。
 生産伝承会が立ち上げられてからは徐々に生産量が増え、旬の時期には、八戸市内の小売店等でも販売されるようになりました。

 
 伝承に向けた取組
 「八戸伝統野菜糠塚きゅうり生産伝承会」には、現在9人の生産者が参加しています。事務局である八戸市農林水産部農業経営振興センターの石丸隆典所長にお話を伺いました。
 石丸所長によると「生産伝承会で使用している種子は、糠塚地区で唯一生産を継続している金濵一美氏のものです。金濵氏の畑の近くに朝市があり、収穫後すぐ販売できる環境にあったこと、周辺が宅地で、種が別な品種と交雑されなかったこと、主に自家消費用としていたので収益を考えずに栽培が継続されたことにより、100年近く種が守られていました。これからは糠塚きゅうりを通じて、地域の食文化を受け継いでいこうと思っています。種を受け継いでいくために、まずは需要を増やしていくことが必要です。需要が増えれば、生産の担い手も増えます。そのため、糠塚きゅうりの存在を知ってもらい、需要拡大に繋がるよう、情報発信に取り組んでいきます。」とのことです。
 今後は、飲食店による糠塚きゅうりを使用したメニュー開発や、子ども向けの料理教室など、需要拡大に向けた取組を広げていくとのことです。

*https://www.umai-aomori.jp/season-report/seasonal/cucumber_201708.html より

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<漢字検定> 1級 読み 69.回答 70.出題

2021-05-05 07:02:18 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 鹵莽  -ろもう-
 ① 塩分を含んだ土地と草の多い野原。土地の荒れ果てていること。また、そのさま。
 ② 軽率で、粗略なこと。また、そのさま。粗略。粗忽。

 

 問2 孵化  -ふか-卵がかえること。また、卵をかえすこと。卵内で発生した胚 (はい) が、卵膜または卵殻を破って出てくること。

 

 問3 勿怪  -物怪-もっけ-

 1 思いがけないこと。不思議なこと。また、そのさま。

 2 けしからぬこと。不吉なこと。また、そのさま。

 

 問4 薙髪  -ちはつ-髪を切ること。髪をそり落とすこと。剃髪 (ていはつ) 。

 

 問5 鼎坐 -鼎座-ていざ-三人が向かい合ってすわること。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 彷彿  

 

 問2 譎詐  

 

 問3 耄耋  

 

 問4 勿論  

 

 問5 虧盈

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書 ・精選版 日本国語大辞典 より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 岐阜 飛騨春慶

2021-05-05 06:54:56 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「飛騨春慶」

 Description / 特徴・産地

 飛騨春慶とは?
 飛騨春慶(ひだしゅんけい)は、岐阜県高山市周辺で作られている漆器です。初期に作られた作品の色目が茶器の名品「飛春慶(ひしゅんけい)の茶入れ」に似ていたことから、「春慶」の名がつけられたと伝えられています。
 飛騨春慶の特徴は、自然な木目が持つ素朴な美しさと、透漆(すきうるし)塗り特有の透きとおった深い色調とが織りなす調和です。また、使えば使うほど色つやが出てくる飛騨春慶は、実用の美を追求していると言えるでしょう。
 飛騨春慶には、盆、花器、重箱、茶道具などの日用品がそろっており、実用の美を味わうことができます。
 飛騨春慶を印象付ける透きとおった深い色合いを出している透漆は、塗師(ぬし)それぞれが独自の製法で作っている秘伝中の秘伝です。したがって、塗師によって微妙に色調が異なっています。
器を見たり使ったりする際に、塗師の名前を確認しておくと、飛騨春慶をさらに楽しむことができます。
 History / 歴史
 飛騨春慶 - 歴史 
 17世紀初、大工の棟梁・高橋喜左衛門が、サワラの木目の美しさに心を打たれ、その木で盆を作り、高山藩主・金森重頼の兄・宗和に献上しました。その盆を気に入った宗和が、塗師の成田三右衛門に盆を塗り上げさせたのが、飛騨春慶の始まりとされています。
その盆の色目が、鎌倉時代の陶工・加藤景正の名作「飛春慶(ひしゅんけい)の茶入」に似ていたことから「春慶塗」と名づけられ、将軍家に献上されたとのことです。
 以降、自然のままの木目を活かした飛騨春慶は、まず茶道具として重用され、その後、重箱や盆などの実用品が多く作られるようになりました。明治時代や大正時代には、問屋が中心となって漆器産業の振興を図り、海外の万国博覧会に出展したり、飛騨春慶の大衆化を進めたりし、広く知られるようになります。
 第二次世界大戦中は漆の入手難から衰退しましたが、高度経済成長期には贈答品として広く利用され、近年は観光土産としての需要も増えています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/hidashunkei/ より

 

 木地師と塗師の技が生み出す飛騨春慶
 「春慶には飛騨の伝統工芸が集約されている」という言葉通り、飛騨春慶は「木地づくり」と「塗り」が二者一体となって完成される。異なる工法で木地をつくる木地師2名と塗師、合わせて3人の職人にお話を伺った。

 
 板を加工してつくる「板物」師、野口茂さん
 まず訪れたのは、木地師のなかでも「板物」をつくる野口茂さん。野口さんは、サワラの祝儀盆の製作中で、木目のやわらかい年輪と年輪の間を刃物で彫りおこす「批目(へぎめ)」をつくっていた。漆が塗られる前のサワラの木地は白くてやわらかそうで、完成品とはまたちがった「批目」の美しさが印象的だった。
  
 材を見極めるのが木地師の技
 「おこす材料によって、年輪の間隔もちがうし、柔らかさもちがうからね。それを飲みこむのに時間がかかるんです」と野口さん。木の性質を見分けて、その材にあった乾燥や木取りをしなければならない。長い年月の経験と磨き上げた技術が必要とされるところだ。
 決まりごとを守り伝えていくのも木地師の役目
 茶器に始まった飛騨春慶には、決まりごとがたくさんあるのも特徴。 曲物(まげもの)の合わせた箇所は、ニカワで接着した後、ヤマザクラの皮を使って補強する(かんばさし)。茶道では偶数を嫌うため、一つ差し、三つ差しなど奇数で差していく。隅切(すみきり)も奇数で切る。 また細工を施すのは「木表(きおもて)」のみ。いかに美しい木目を木表に持ってくるかというところにも長年の経験が必要なのだ。「最近は型にはまらないやり方をする職人もいるが、400年も受け継がれてきた伝統を守っていくことが大切」と野口さんは言う。
 「買う立場に立って品物をつくろうもう一研ぎ、もう一鉋、気をつけよう」
 これは野口さんの信念。「手をかければそれだけのものができあがる、儲けよりもそっちを大事にしろと自分を戒めとるんです」。塗師やお客さんとの信頼関係を第一に考える木地師の心意気が、終始変わらぬ穏やかな表情に表れていた。
ロクロで木をくりぬいて作る「挽物」師、川上憲一さん
 木地づくりは、「板物」とロクロで木をくりぬいて作る「挽物(ひきもの)」にわかれる。続いては組合に所属する挽物師7名のなかでもっとも若い川上憲一さんを訪問した。
 挽物師の仕事は道具をつくるところから
 作業場には「かんな」や「しゃか」を中心に約50種類の道具が並んでいる。「道具づくりに3年以上、材料を見極めるのに5~7年。一通り仕事ができるようになるには10年。私はそれを目安にしてきました。だけど新しい品物の注文が入れば、また一から勉強しなおさないといけないし、これで終わりということはないな」と川上さんは言う。
  ごまかしのきかない木地づくり
 苦労するのはふしの部分が使えないこと。ふしには木地の他の部分にくらべて、油分が多くふくまれているため、漆をはじいてしまうのだ。30年のキャリアを持つ川上さんでも、50枚つくれば5枚から10枚はそういうものが出てくるという。 また、透明な漆を塗る飛騨春慶は、中の木地の善し悪しがすべてわかってしまう。ほんの小さな刃こぼれ一つあっても木地として塗師には回せない。「木地師の手腕が問われるだましのきかない仕事ですね。うその効かない良さがあります」川上さんはこう語ってくれた。
 創始者の流れを次ぐ塗師、鈴木年文義賢(よしかた)さん
 木地師によって仕上げられた木地は、塗師のもとへと回される。「いい木地はがんばって塗らなという気になりますね」そう語るのは、成田流宗家15代、鈴木年文義賢さん。 塗りの仕事は、始めてから仕上げるまでに3~4カ月かかる。何度も漆を重ねて摺(す)りこみ、最後に仕上げ塗りをし、美しく丈夫な漆器に仕上げられる。
 塗師それぞれが自分に合った漆をつくる
 上塗りに使う漆は、塗師自身がブレンドしてつくる秘伝のもの。「自分にとって最高の漆を他の人に持っていくと、ひどい漆やと言われるというようなこともあるんです」と鈴木さん。その家の風向きや日当たり、気温、湿度などが大きく影響するので、それぞれ自分の家に合う漆を精製するのだ。黒められ(水分を抜く)精製された漆は5~6年寝かされる。じっくり寝かすと、きめが細かくなり、塗り肌がより一層美しくなるという。
生きている漆を生かして使う
 そうして精製された漆を季節やその日の湿度によって使いわける。「漆と向き合っていると、漆が助けてくれる、カバーをしてくれることがある」と鈴木さんは言う。そういう時、漆は生きものだということを実感するそうだ。
 木目の美しさを引き立てる塗り
 木地師によって醸し出された木目の美しさが、塗師に手に渡ってさらに引き立てられる。「1つ1つ全部ちがう木の表情を最大限生かして、お客さんに伝えたい。そういう塗ができればいいと常に思っています」と語る鈴木さん。 3人の職人さんを訪問して強く感じたのはお互いへの信頼感と仲の良さ。繊細な木目と独特の光沢に近寄りがたい雰囲気を感じていた飛騨春慶が、いつのまにか温かみのある身近なものになっていた。

 職人プロフィール

 野口茂

 1930年生まれ。 2000年には秋の叙勲を受賞された。

 「漆器もかしこまらず、柔軟に使いこなしてもらいたい」「飛騨春慶を使った食事は、味も全然ちがいます」

*https://kougeihin.jp/craft/0516/ より

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