いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<苺> とちおとめ

2021-05-15 09:11:04 | 食品

 「とちおとめ」

■とちおとめ(トチオトメ)とは
●とちおとめの来歴
 「とちおとめ」は栃木県農業試験場栃木分場において「久留米49号」に「栃の峰」を交配して選抜・育成された品種で、1996年 11月に品種登録されました。 栃木生まれで関東の主流品種


 かつては「女峰」などが作られていたところがどんどんこの品種に切り替えられ、現在では栃木県の主要品種となっています。

 とちおとめは全国的に見ても現在最も多く作られている品種ですが、主に関東で消費され、関西では「あまおう」の方が多く、「さちのか」や「さがほのか」など九州産が多いようです。

 2018年産の全国のいちご出荷量で栃木県が30年連続全国1位となりましたが、その大部分を「とちおとめ」が占めています。栽培面積で見ても少なくとも平成22年まで全国の3割以上を占めトップとなっています。

●とちおとめの特徴
 「とちおとめ」の果皮の色は鮮赤で果形は女峰の特徴を受け継いで比較的整った円錘形をしています。果実の大きさは大,果肉色は淡紅,果心の色は紅赤,果実の光沢は良,果実の溝はかなり少ないです。

 物によってややばらつきがありますが、比較的甘味酸味のバランスがよく、果肉も締りがある割りに果汁は十分にあって美味しいイチゴです。香りも収穫後間もないものは甘く強い香りが立っています。

 農林水産省の品種登録データベースには以下の通り記載されています。

『-----

 果皮の色は鮮赤,果形は円錘,果実の大きさは大,

 果肉色は淡紅,果心の色は紅赤,

 果実の光沢は良,果実の溝はかなり少である。

 果実の硬さはかなり硬,

 無種子帯はほとんどなし,そう果の落ち込みは落ち込み中,そう果のアントシアニン着色は淡,そう果数は中,

 果実の香りは中である。

 季性は一季成,開花始期はやや早,成熟期は中,

 可溶性固形分含量はかなり高,酸度は中,日持ちは長である。

  「女峰」と比較して,葉の厚さが厚いこと,果心の色が紅赤であること,そう果のアントシアニン着色が淡いこと等で,「とよのか」と比較して,果肉色が淡紅であること,果心の色が紅赤であること,果実の硬さが硬いこと等で区別性が認められる。

-----』以上、抜粋。

◆実際に食べてみたとちおとめのの食味
 「とちおとめ」は一般に広く栽培され、スーパーなどでもよく見かける品種ですね。

 果肉はやや硬めではありますが、完熟果はやや柔らかく完熟果は輸送性があまりいとは言えませんが、食味はとても良いので、イチゴ狩りや直売所で買うのがお勧めです。

 今回撮影試食したものは栃木県「那須高原農園 いちごの森」から取り寄せたものです。完熟した美味しい状態のものを送っていただいたと思うのですが、残念ながら無傷の果実は数個しかなかったです。

 イチゴはどれもヘタの部分まで綺麗に着色し、とても甘い香りがたっていました。果肉は柔らかくとてもジューシーで、甘味が強く、適度な酸味もあってとてもバランスの良い味わいでした。糖度を計ってみると15度前後ありました。

●とちおとめの主な産地と旬
◆主な産地
 「とちおとめ」は栃木県をはじめ茨城県や千葉県など主に関東で多く作られています。観光農園でのいちご狩りでも主流品種となっています。

 近年、各地でオリジナル品種が次々と登場し、そういった新品種に切り替えも進んでいますが、まだとうぶんは主要品種として普通に食べられるでしょう。

◆とちおとめのの収穫時期と旬
 「とちおとめ」は生産者が多く、産地も関東から東北地方にまで及ぶため、市場に出回る期間も長いです。

 早い所では11月下旬ごろから出荷が始まり、5月一杯まで続きます。収穫の最盛期は2~4月にかけてで、その期間が旬と言えます。

*https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/Strawberry-Tochiotome.htm より

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<言 葉> 夏の言葉 三社祭

2021-05-15 09:03:17 | 言葉

 「三社祭」

 毎年5月に行われる東京都台東区浅草の浅草神社の例大祭である。

 かつては観音祭・船祭・示現会に分かれていたが、1872年から5月17・18日に行われるようになった。現在は5月第3週の金・土・日曜日に行われる。名前は浅草神社の旧名である三社大権現社または三社明神社(檜前浜成・竹成の兄弟と土師真中知の3人を祀ってあるためこの名だった)に因む。正式名称は「浅草神社例大祭」。奉納される田楽「びんざさら舞」は古式に則ったものとして有名(室町時代頃と言われる)。

 浅草神社は明治時代に入るまでは浅草寺と一体であり、この時代には浅草寺の祭りとして行なわれていた。神仏分離によって浅草寺と分離してからは浅草神社単体での祭りとなり発展したが、これは明治に入って以降のことである。

 このことを表すかのように、江戸時代から謳われている江戸の大きな祭りを謳った狂歌「神輿深川(深川祭)、山車神田(神田祭)、だだっぴろいは山王様(山王祭)」の中には含まれていない。

*Wikipedia より

 

 「浅草祭」は、初夏の季語。

 子季語に「三社祭」「びんざさら踊」がある。
 東京都台東区の浅草神社の祭礼。江戸第一の荒祭という伝説の神輿渡御で知られる。百余基の町内神輿が出揃うのは圧巻。他に「びんざさら舞」の奉納など。東京に夏を呼ぶ祭である。

*http://kigosai.sub.jp/kigo500c/804.html より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-近藤房之助

2021-05-15 08:55:26 | MUSIC

 「近藤房之助」

  1951年5月4日生まれの70歳

 プロフィール
 ゴードン・エドワーズとの共演をはじめ、日米英を股にかけたさまざまなプロジェクトで活動するブルース・ミュージシャン。76年結成のブレイク・ダウンで長らくインディ活動を行ない、90年アルバム『ハート・オブ・ストーン』でソロ・デビュー。同年アニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディング曲「おどるポンポコリン」の国民的大ヒットを放ったB.B.クィーンズの一員として一躍その名を知られる意外な展開も。国内外問わずセッションの幅は圧倒的。

 2012/08/30 (2012/08/30更新) (CDジャーナル)

*https://tower.jp/artist/287663/%E8%BF%91%E8%97%A4%E6%88%BF%E4%B9%8B%E5%8A%A9 より

 現在もライブを続けている。

 が、コロナの影響で「中止・延期」ばかり。

http://www.fusanosuke.net/index.html でチェックできます。

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<日本酒> 滋賀 喜楽長/喜多酒造

2021-05-15 08:46:00 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(大阪国税局)】
 〈滋賀〉 喜楽長/喜多酒造

 喜多酒造の思い
 たおやかな酒を醸す
 私どもが目指す酒質は「たおやか」であること。
 麹による深い味わいが滑らかに、そして柔らかに広がること。
 口にすると、心が優しくなるような、そんな「たおやか」な酒を目指しています。
 味わい深い麹で醸す
 味わいの中心となるのは、「味わい深い麹」。
 昼夜を問わない緻密な温度管理、米の吸水管理、そして、何よりも杜氏・蔵人の五感を信じ、熟練した蔵人の手でしか醸せない「味わい深いの麹」によって成り立っています。単なる甘みだけではない、舌の上を滑らかに滑り、奥行きのある味わいを生み出すことのできる、そのような麹が喜楽長の味わいを造ります。
 酒造りの心で醸す
 私共にとって、酒を造ることは、子を育てることと同義であります。
 しかしながら、私どもにとって酒とは、愛おしい我が子でありながら、同時に、畏怖の念を感じる、いわば神が宿るものとして考えています。
 人智を超えた何者かが造るものであると。
 私どもは「酒」をそのような相反する存在として考える、それが喜楽長の酒造りの「心」であります。

 社長挨拶 代表取締役社長 八代目蔵元 喜多 良道
 平素は、喜楽長をご愛顧いただき、誠に有難うございます。
 今日まで、二〇〇年もの間、酒造りを続けられたことは、ひとえに皆様方のご愛顧の賜物と心より感謝申し上げます。
 喜楽長の酒造りの心を受け継いでいくこと、それが私の使命であります。
 如何に時代が変わろうとも、私どもの酒造りの心は変わることはありません。
 日々、酒にたずさわれることに感謝し、より良き喜楽長を求め、今後も精進努力してまいりたいと存じます。
 変わらぬご支援を賜ります様、よろしくお願い申し上げます。

 喜多酒造株式会社 滋賀県東近江市池田町1129

 ラインナップ

 「喜楽長」大吟醸 敬いし・純米大吟醸 愛おし・純米大吟醸・大吟醸 など

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<伝統野菜> 岩手 早池峰菜

2021-05-15 08:34:38 | 伝統野菜

 「早池峰菜-はやちねさい」
 【生産地】岩手県遠野地方

 【形状】深緑色の丸葉をした葉野菜

 【食味】風味がよく、漬物や煮物に合う。根の部分も甘い。

 【来歴】遠野地域の伝統野菜で、早池峰山麓の山村の農家に密かに伝承されていた。絶滅寸前のところを発見された今まで未知の菜類で、早池峰菜の名は発見後名付けられた。本種は、採種元が保存のために少量採種しているだけの非常に貴重な品種。寒さや病気に強く、年3回収穫することが出来る。

 現在は遠野緑峰高校の生徒たちによって普及活動が行われている。

 【収穫時期】11月~翌年5月

*https://tradveggie.or.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E9%87%8E%E8%8F%9C%EF%BC%8D%E5%B2%A9%E6%89%8B/#i-15 より

 

 

 

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<漢字検定> 1級 読み 79.回答 80.出題

2021-05-15 08:24:04 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 堰堤 -えんてい-川水を他に引いたり、流れを緩やかにしたり、また釣り場をつくったりするために築かれる堤防。ダムより小規模。

 

 問2 掎角 -きかく-

 1 前後呼応して敵を制すること。

 2 両雄が、相対して争うこと。

 

 問3 直截 -ちょくせつ-ちょくさい-
 1 すぐに裁断を下すこと。また、そのさま。

 2 まわりくどくなく、ずばりと言うこと。また、そのさま。

 

 問4 懦弱 -惰弱-だじゃく-

 1 気持ちに張りがなく、だらけていること。意気地のないこと。また、そのさま。柔弱。

 2 勢力や体力などが弱いこと。また、そのさま。

 

 問5 斧鑿 -ふさく-
 1 おのとのみ。また、それで細工すること。

 2 詩文などに技巧を凝らすこと。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 懊悩

 

 問2 聊頼  

 

 問3 嘲罵  

 

 問4 剽窃  

 

 問5 爛発

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書  より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 愛知 名古屋黒紋付染

2021-05-15 07:47:57 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「名古屋黒紋付染」

 Description / 特徴・産地

 名古屋黒紋付染とは?
 名古屋黒紋付染(なごやくろもんつきぞめ)は、愛知県名古屋市周辺で作られている染織品です。婚礼や葬儀の際に着用されている衣類で、名古屋では江戸時代の頃から藩士から一般市民の間で親しまれてきました。
 名古屋黒紋付染の特徴は、家紋の型を使って染める「浸染(ひたしぞめ)」、または家紋をあとから手描きする「引染(ひきぞめ)」の2つの方法で作られる、鮮明な黒色です。
 「浸染」では名古屋特有の「紋当網付(もんあてあみつけ)技法」で、高温の染料に生地を浸けて染色を行います。「引染」では家紋を入れる部分に防染糊を施して、生地が染まっていない箇所にあとから紋を手描きします。
 History / 歴史
 名古屋黒紋付染の歴史は、1611年(慶長16年)まで遡ります。当時、尾張藩の呉服などを製造していた尾張藩紺屋頭の小坂井新左衛門は、染色技術を黒紋付染へと確立していきました。
 もともとは「紋糊伏せ(もんのりふせ)」と呼ばれる技法を用いていましたが、1830年~1843年(天保元年~天保14年)には現在の金網を使った家紋の染め抜きに通じる技法が生まれ、明治時代に入ってからはほぼ現在の製作技術になりました。
 1818年~1829年(文政元年~文政12年)には現在黒紋付染に従事している製造元の職人たちの祖先1,260名余りが存在していたことを、1848年(弘化5年)に著された「尾張・濃州紺屋惣帳」で確認できます。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/nagoyakuromontsukizome/ より

 

 「化けない黒」を持つ贅沢
 名古屋黒紋付染の特徴は、黒を染める段階から紋型紙を使って家紋の形を染め抜くことと、ゆっくりと時間をかけて染め上げることにあり、それによって年月を経ても色があせない堅牢度の高い黒色が得られる。注文を受けてからしか作れず、手間もひまもかかるが、この製作方法こそが高級品といわれるゆえんである。

 
 堅牢度抜群の名古屋黒紋付染
 天皇家の桐の御紋の輪郭は桐の葉の上に三つの花房がある複雑な形をしている。このような形の紋も、他の産地では、家紋の位置を丸く残して染めておいた黒生地を、最後の紋上絵(もんうわえ)の段階で輪郭に合わせて塗りつぶす。家紋の形に関わらずに地色の黒を染めることができるため大量生産には向くが、経年劣化して家紋のまわりが変色することがある。けれども名古屋黒紋付染は、最初から桐の葉と花の輪郭に合わせて作った型紙を当てて地色の黒を染めるため、紋のまわりの部分の色があせない。職人さんが「化けない」と表現する、抜群の堅牢度である。


 学生服でお得意さん回り
 大野さんは、江戸時代から続く染物屋の五代目だ。9歳の時にお父さんが亡くなり、数え年12歳で家業を継いだ。旧制中学時代は学生服で一宮や鳴海のお得意さん回りをしていたという。先祖代々のお得意さんの大きな呉服屋が何軒もあり、若い衆も6~7人かかえていた。まだ中学生の大野さんは必死だったという。「でも、今思っても、お得意さんには恵まれました。若い衆にも恵まれました。」それで、ここまでやってこられたという。大野さんが18歳だった昭和15年頃、奢侈(しゃし)品禁止令(庶民の贅沢を禁じた命令)が出て染物はできなくなった。20歳で出兵し、昭和21年5月に名古屋に戻ってきたとき、南桑名町(今の栄2丁目のあたり)にあった店は空襲で燃えてなくなっていた。


 戦地から戻って染物屋を再開
 その時、大野さんは25歳。それから、また再び染物屋を立ち上げた。以前大野さんのところで働いていた人が、焼け跡に一台だけ残っていた脱水機を保管していてくれて、大野さんが名古屋に戻ったときに持ってきてくれた。昔からのお得意さんが畳と自転車を融通してくれて再スタート。黒紋付染の着物は礼装用の衣装だ。世の中にゆとりがなければ売れる商品ではない。特に名古屋の黒紋付染は注文生産。再び商売が軌道にのるまでは大変な苦労があったのだろう。仕事のことを振り返って何が一番記憶に残っていますか、と伺って即座に出てきたのが戦争のことだった。


 黒の反物が並ぶ中でもひときわ目立つ黒
 大野さんの染めには特別の技がある。企業秘密だから詳しくは教えられないというが、浸す染料の温度に差をつけることによって黒に光沢を出すのだそうだ。多くの職人さんが黒紋付染を展示する展示会で、大野さんの黒はひときわ目立つという。「ウチの色を欲しがって、教えてくれってみんな来るんですよ。」と、大野さんは笑う。大野さんの秘伝の技は名古屋ではずいぶん広まったのだという。


 需要の減少からの後継者難
 けれども、黒紋付染をとりまく状況は厳しい。着物離れが進み、黒紋付染の主力製品の家紋入りの喪服や黒の羽織の需要は減った。他の商品に応用がききにくいのも弱点だ。「何とか後継者を育てたいね。今、組合にいる若い衆をこれからどうやって一人前にするか・・・。」大野さんの息子さんも黒紋付染の職人だったが、今は洋服の方をやっている。家紋の入った喪服は以前は嫁入り道具のひとつだったが、今、若い人で結婚する時に喪服を揃える人は少ない。それでも、和服の喪服を着る人を見た時には、その凛とした雰囲気に目をくぎ付けにされることがある。ブラック・フォーマルは10年もすると時代遅れで着られなくなるが、和服なら長く着られるし、と思ったりもした。


 職人プロフィール

 大野重信 (おおのしげのぶ)

 大正11(1922)年生まれ。
 江戸時代から続く染物屋に生まれ、数え年12歳で家業を継ぐ。以来、70年近く黒紋付染ひとすじ。

 こぼれ話

 家紋あれこれ・動物の家紋

 家を象徴する紋章は平安時代に使われるようになり、衣服や家具、牛車などにつけられました。後に武士の目印となり、江戸時代になって庶民の間にも広く普及しました。現在、日本全国で六千をこえる家紋があるといわれていて、その多彩さとデザインの面白さには驚かされます。
家紋には日本古来の動植物がいろいろ登場しますが、特に面白いのは動物の家紋です。

*https://kougeihin.jp/craft/0206/ より

 

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