メモ2019.10.21 ―自己表出と指示表出へ ①
わたしたちは誰でも、無意識(的)の内にある表現(判断や考えの構成や行動)をしている面がある。子どもがそのことをわかっていても言葉(理屈、論理)でハッキリとは言えないように、わたしたちは誰でも言葉で感じ考え言葉を自在に操っているように見えるが「言葉とは何か」と聞かれてもはっきりと論理で答えることは難しい。
吉本さんは、『言語にとって美とはなにか』で、表現された言葉の解析の基軸を自己表出と指示表出という抽出された概念に置いて、表現された言葉の世界の解析に踏み出した。その時それまでに提出されている類似の基軸や概念がなかったわけではない。時枝誠記の「詞と辞」や三浦つとむの「客体的表現と主体的表現」というものがあった。しかし、それらの基軸や概念は、吉本さんが自己表出と指示表出という抽出された二つの基軸の織りなす構造として言葉や表現を捉えたのに対して、「二分概念」(『言語にとって美とはなにか』)として考えられていた。
吉本さんの場合、類似の基軸といってもその点が方法的に特異であった。さらに、自己表出と指示表出という概念には、言葉の起源からの歴史性という概念も内包されている。つまり、自己表出も指示表出も人間のある段階で生み出され、時代とともにその姿を変貌させてきたし、変貌させていくということ。このことは、『定本 言語にとって美とはなにか Ⅰ』(角川選書)のP38-P47にわたって述べられている。その中で、現在のわたしたちに通じる(3)の段階、すなわち「音声はついに眼のまえに対象をみていなくても、意識として自発的に指示表出ができるようにな段階」の以下のような図が挙げられている。
この図で、時間を遡って行けば、すなわち指示表出のベクトルと自己表出のベクトルを巻き戻して行けば、二つのベクトルは左の意識の方へ縮退していく。そうして、指示表出と自己表出の発生期の未分離の混沌とした状況に立ち会うことになる。
ところで、吉本さんは、『言語にとって美とはなにか』の自己表出と指示表出という基本概念を、マルクスの『資本論』の経済概念である使用価値と交換価値から着想したと語っている。しかし、途中からそれぞれの対応が逆の対応に変化している。
最初は、
自己表出≡使用価値
指示表出≡交換価値
というふうに対応させていたが、後には次のように逆に捉えられるようになった。
自己表出≡交換価値
指示表出≡使用価値
この件については、ネットで偶然出会った中村友三という方の文章(現在はリンク切れしている)で知った。それによると複雑な事情がありそうだから、今は備忘のためのメモにとどめておくだけにして、ここではそのことには触れない。中村さんの文章によると、
一番最初に読んだのは光文社の『日本語のゆくえ』で、ここでは指示表出は交換価値から、自己表出は使用価値から取ってきたと述べています。しかし最近ネット上で検索すると<指示表出は使用価値、自己表出は交換価値から>という関係で考えている人がたくさんいるのを知りました。『日本語のゆくえ』では次のように述べています。
「この使用価値という概念は、僕の芸術言語論でいうと、自分なりに自分が納得できる言葉である「自己表出」と、コミュニケーションのための言葉である「指示表出」に対応します。初めはそう考えて、使用価値に当たるのが「自己表出」で、交換価値に相当するのが「指示表出」であるとしておけばいいのではないかと思っていましたから、『言語にとって美とはなにか』でもそう書いたわけです。」このことから最初は「指示表出→交換価値、自己表出→使用価値」と考えていたことがわかります。
ここでは、自己表出と指示表出という基本概念をマルクスの『資本論』の経済概念である使用価値と交換価値との対応から考えるのではなくて、時枝誠記の詞と辞や三浦つとむの客体的表現と主体的表現という把握の流れから位置づけておきたい。それらは吉本さんの自己表出と指示表出という概念と対応するものとしてある。またここでは、問題が複雑になるのを避けるために、言葉を語や品詞に限定してそれらのことを考えてみる。
まず、時枝誠記が詞と辞について述べているところを取り出してみる。
構成的言語観に於いては、概念と音声の結合として、その中に全く差異を認めることが出来ない単語も、言語過程観に立つならば、その過程的形式の中に重要な差異を認めることが出来る。
即ち、
一 概念過程を含む形式
二 概念過程を含まぬ形式
一は、表現の素材を、一旦客体化し、概念化してこれを音声によって表現するのであって、「山」「川」「犬」「走る」等がこれであり、又主観的な感情の如きものをも客体化し、概念化するならば、「嬉し」「悲し」「喜ぶ」「怒る」等と表すことが出来る。これらの語を私は仮に概念語と名付けるが、古くは詞といわれたものであって、鈴木朗はこれを、「物事をさしあらわしたもの」であると説明した。これらの概念語は、思想内容中の客体界専ら表現するものである。二は、観念内容の概念化されない、客体化されない直接的な表現である。「否定」「うち消し」等の語は、概念過程を経て表現されたものであるが、「ず」「じ」は直接的表現であって、観念内容をさし表したものではない。同様にして、「推量」「推しはかる」に対して「む」、「疑問」に対して「や」「か」等は皆直接的表現の語である。私はこれを観念語と名付けたが、古くは辞と呼ばれ、鈴木朗はこれを心の声であると説明している。それは客体界に対する主体的なものを表現するものである。助詞助動詞感動詞の如きがこれに入る。右の概念語観念語の名称は、私が右の分類法を試みた当初に用いたものであるが、種々の誤解を招き易いので、古くより日本に於いて行われて来た詞(シ或はコトバ)及び辞(ジ或はテニヲハ)の名称を借用して今後これを用いることとしたいと思う。
(『国語学原論 ―言語過程説の成立とその展開』P231-P232 時枝誠記 岩波書店 初版は昭和16年)
※本文の旧漢字・かなは、現在の言葉に直しています。
次に、三浦つとむの客体的表現と主体的表現について述べている箇所を取り出してみると、
いま、一切の語を、語形や機能などではなく、対象→認識→表現という過程においてしらべてみると、次のように二つの種類に分けられることがわかります。
一、客体的表現
二、主体的表現
一は、話し手が対象を概念としてとらえて表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して、二は、話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを、客体として扱うことなく直接に表現した語です。悲しみの「ああ」、よろこびの「まあ」、要求の「おい」、懇願の「ねえ」など、〈感動詞〉といわれるものをはじめ、「……だ」「……ろう」「……らしい」などの〈助動詞〉、「……ね」「……なあ」などの〈助詞〉、そのほかこの種の語をいろいろあげることができます。
(『日本語とはどういう言語か』P77 三浦つとむ 講談社学術文庫)
江戸期の学者、鈴木朗を発掘し受け継いだ時枝誠記の詞と辞(概念語と観念語)という捉え方と三浦つとむの客体的表現と主体的表現という捉え方は、言語に対する考え方は同じではないとしても、対応した同じような考え方と言えるだろう。吉本さんの自己表出と指示表出という基本概念も、このような二人のすぐれた考察の流れの中に位置している。
そのことをもう少していねいに言えば、時枝誠記も三浦つとむも、そして吉本さんも、まずは自らの言葉の体験を内在的に踏まえながら、わが国の旧来の考え方を受け継ぎ、近代以降の欧米の大波を被った言葉、その概念や論理を駆使して、言葉(日本語)の実際の姿をシンプルな形で取り出そうとしたのだと思う。