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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

短歌味体Ⅲ 3658-3660 即興詩シリーズ・続

2019年10月23日 | 短歌味体Ⅲ-6
[短歌味体 Ⅲ] 即興詩シリーズ・続
 ―2019.10.22に
 

3658
景気づけに地元の小神に
どっかの大神
持つて来るクルクルクル 悲しい手品
 
 

3659
にぎやかにお祭り騒ぐ
それはいい
とは言わない それもいいさ
 
 

3660
何言っテンノウとは言わない
ただ心の内は
静かにフェードアウトの道遙か
 
 

3661
しずかに自分の内で
対話する
それ無しでは何にも変わらないさ

メモ2019.10.21 ―自己表出と指示表出へ ①

2019年10月21日 | メモ
 メモ2019.10.21 ―自己表出と指示表出へ ①
 
 
 わたしたちは誰でも、無意識(的)の内にある表現(判断や考えの構成や行動)をしている面がある。子どもがそのことをわかっていても言葉(理屈、論理)でハッキリとは言えないように、わたしたちは誰でも言葉で感じ考え言葉を自在に操っているように見えるが「言葉とは何か」と聞かれてもはっきりと論理で答えることは難しい。
 
 吉本さんは、『言語にとって美とはなにか』で、表現された言葉の解析の基軸を自己表出と指示表出という抽出された概念に置いて、表現された言葉の世界の解析に踏み出した。その時それまでに提出されている類似の基軸や概念がなかったわけではない。時枝誠記の「詞と辞」や三浦つとむの「客体的表現と主体的表現」というものがあった。しかし、それらの基軸や概念は、吉本さんが自己表出と指示表出という抽出された二つの基軸の織りなす構造として言葉や表現を捉えたのに対して、「二分概念」(『言語にとって美とはなにか』)として考えられていた。

  吉本さんの場合、類似の基軸といってもその点が方法的に特異であった。さらに、自己表出と指示表出という概念には、言葉の起源からの歴史性という概念も内包されている。つまり、自己表出も指示表出も人間のある段階で生み出され、時代とともにその姿を変貌させてきたし、変貌させていくということ。このことは、『定本 言語にとって美とはなにか Ⅰ』(角川選書)のP38-P47にわたって述べられている。その中で、現在のわたしたちに通じる(3)の段階、すなわち「音声はついに眼のまえに対象をみていなくても、意識として自発的に指示表出ができるようにな段階」の以下のような図が挙げられている。

 

 この図で、時間を遡って行けば、すなわち指示表出のベクトルと自己表出のベクトルを巻き戻して行けば、二つのベクトルは左の意識の方へ縮退していく。そうして、指示表出と自己表出の発生期の未分離の混沌とした状況に立ち会うことになる。

 ところで、吉本さんは、『言語にとって美とはなにか』の自己表出と指示表出という基本概念を、マルクスの『資本論』の経済概念である使用価値と交換価値から着想したと語っている。しかし、途中からそれぞれの対応が逆の対応に変化している。

最初は、
自己表出≡使用価値
指示表出≡交換価値
というふうに対応させていたが、後には次のように逆に捉えられるようになった。
自己表出≡交換価値
指示表出≡使用価値

 この件については、ネットで偶然出会った中村友三という方の文章(現在はリンク切れしている)で知った。それによると複雑な事情がありそうだから、今は備忘のためのメモにとどめておくだけにして、ここではそのことには触れない。中村さんの文章によると、


一番最初に読んだのは光文社の『日本語のゆくえ』で、ここでは指示表出は交換価値から、自己表出は使用価値から取ってきたと述べています。しかし最近ネット上で検索すると<指示表出は使用価値、自己表出は交換価値から>という関係で考えている人がたくさんいるのを知りました。『日本語のゆくえ』では次のように述べています。
「この使用価値という概念は、僕の芸術言語論でいうと、自分なりに自分が納得できる言葉である「自己表出」と、コミュニケーションのための言葉である「指示表出」に対応します。初めはそう考えて、使用価値に当たるのが「自己表出」で、交換価値に相当するのが「指示表出」であるとしておけばいいのではないかと思っていましたから、『言語にとって美とはなにか』でもそう書いたわけです。」このことから最初は「指示表出→交換価値、自己表出→使用価値」と考えていたことがわかります。



 ここでは、自己表出と指示表出という基本概念をマルクスの『資本論』の経済概念である使用価値と交換価値との対応から考えるのではなくて、時枝誠記の詞と辞や三浦つとむの客体的表現と主体的表現という把握の流れから位置づけておきたい。それらは吉本さんの自己表出と指示表出という概念と対応するものとしてある。またここでは、問題が複雑になるのを避けるために、言葉を語や品詞に限定してそれらのことを考えてみる。

 まず、時枝誠記が詞と辞について述べているところを取り出してみる。


 構成的言語観に於いては、概念と音声の結合として、その中に全く差異を認めることが出来ない単語も、言語過程観に立つならば、その過程的形式の中に重要な差異を認めることが出来る。
即ち、
  一 概念過程を含む形式
  二 概念過程を含まぬ形式
一は、表現の素材を、一旦客体化し、概念化してこれを音声によって表現するのであって、「山」「川」「犬」「走る」等がこれであり、又主観的な感情の如きものをも客体化し、概念化するならば、「嬉し」「悲し」「喜ぶ」「怒る」等と表すことが出来る。これらの語を私は仮に概念語と名付けるが、古くは詞といわれたものであって、鈴木朗はこれを、「物事をさしあらわしたもの」であると説明した。これらの概念語は、思想内容中の客体界専ら表現するものである。二は、観念内容の概念化されない、客体化されない直接的な表現である。「否定」「うち消し」等の語は、概念過程を経て表現されたものであるが、「ず」「じ」は直接的表現であって、観念内容をさし表したものではない。同様にして、「推量」「推しはかる」に対して「む」、「疑問」に対して「や」「か」等は皆直接的表現の語である。私はこれを観念語と名付けたが、古くは辞と呼ばれ、鈴木朗はこれを心の声であると説明している。それは客体界に対する主体的なものを表現するものである。助詞助動詞感動詞の如きがこれに入る。右の概念語観念語の名称は、私が右の分類法を試みた当初に用いたものであるが、種々の誤解を招き易いので、古くより日本に於いて行われて来た詞(シ或はコトバ)及び辞(ジ或はテニヲハ)の名称を借用して今後これを用いることとしたいと思う。
  (『国語学原論 ―言語過程説の成立とその展開』P231-P232 時枝誠記 岩波書店 初版は昭和16年)
 ※本文の旧漢字・かなは、現在の言葉に直しています。



 次に、三浦つとむの客体的表現と主体的表現について述べている箇所を取り出してみると、


 いま、一切の語を、語形や機能などではなく、対象→認識→表現という過程においてしらべてみると、次のように二つの種類に分けられることがわかります。
  一、客体的表現
  二、主体的表現
 一は、話し手が対象を概念としてとらえて表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して、二は、話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを、客体として扱うことなく直接に表現した語です。悲しみの「ああ」、よろこびの「まあ」、要求の「おい」、懇願の「ねえ」など、〈感動詞〉といわれるものをはじめ、「……だ」「……ろう」「……らしい」などの〈助動詞〉、「……ね」「……なあ」などの〈助詞〉、そのほかこの種の語をいろいろあげることができます。
  (『日本語とはどういう言語か』P77 三浦つとむ 講談社学術文庫)



 江戸期の学者、鈴木朗を発掘し受け継いだ時枝誠記の詞と辞(概念語と観念語)という捉え方と三浦つとむの客体的表現と主体的表現という捉え方は、言語に対する考え方は同じではないとしても、対応した同じような考え方と言えるだろう。吉本さんの自己表出と指示表出という基本概念も、このような二人のすぐれた考察の流れの中に位置している。

  そのことをもう少していねいに言えば、時枝誠記も三浦つとむも、そして吉本さんも、まずは自らの言葉の体験を内在的に踏まえながら、わが国の旧来の考え方を受け継ぎ、近代以降の欧米の大波を被った言葉、その概念や論理を駆使して、言葉(日本語)の実際の姿をシンプルな形で取り出そうとしたのだと思う。

詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ 100-102

2019年10月21日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ



100
「えっ?ぼくは何も言ってないよ」
「いやいや
きみの影がほら語ってるよ」



101
通りを歩いてゆく きみの
足取りは
木々などの配置に曲がる光束のよう



102
通りを眺めている
きみを見つめてる
視線にふと気づく きみは

詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ 96-99

2019年10月20日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ



96
秋の通路はひとつだけ
ビミョウに
時とともに姿形を変えてきた



97
開かれた言葉道から
真ん中や
端っこなどいろんな顔して来る秋



98
誰とも交換できない
秋の一部
誰もが背に負って行き交う



99
秋人が「秋はいらんかな」
とコマーシャル
秋の一部も抽出・販売される

「私」(語り手)の死の描写

2019年10月18日 | 作品を読むということ
「私」(語り手)の死の描写


 最近出た町田康の短編集『記憶の盆をどり』に、変わった題名の「エゲバムヤジ」という作品がある。その最後の場面がわたしの関心を引いた。

 この6頁分の短編は、次のようなシンプルな話である。「強風が吹き始めてから六ヵ月。なにひとつよいことがなかった。」「私」に、ときおり見かけるから同じアパートの住人とおぼしき女が、布の箱を持って私を訪れる。そして「あたし、もう無理だから。お宅で飼っていただけますう」と言って有無を言わせない感じで私にその箱を手渡して去る。そして、私はその箱の中のわなないている小さな白い塊を「エゲバムヤジ」とすぐにわかる。「こういうもののことをエゲバムヤジというのは、中三のときに死んだ叔父に聞いた」からだというのだ。

 そうして、私はエゲバムヤジの世話をする日々が続く。ある日、私はエゲバムヤジを連れて岩壁に出かける。そしてなにかの拍子にその岩壁から私とエゲバムヤジは落下するが途中の岩棚に引っかかって助かる。その後は、私はなぜかいろんなことがうまくいくようになる。そんなある日、先の女が悄然とした様子でまた現れてからエゲバムヤジを返してくれと言う。今では、私の大切な家族で守護天使のような存在になっているからふざけるなと私は思う。しかし、その女は十億円やると言う。


十億円。喉が鳴った。エゲバムヤジを抱く手に力が入った。エゲバムヤジは小刻みに震えていた。怯えたような目で見上げていた。
「お願いします。十億円で。残りは夕方までにとどけます」
 女が再び言った。身体が熱くなって汗が出た。吸い込まれるような感覚を覚え、震える手を女の方に差し出した。エゲバムヤジは、爪を出して腕にしがみついていた。
 次の瞬間、そのエゲバムヤジの爪の感触がふと消え、空中に放り出されたような感じがしたかと思ったら五体がごつごつした岩に叩きつけられて断裂して散らばり、波に洗われて消えた。断裂した直後、意識にエゲバムヤジの幸福な笑顔と悲しい哭き声が浮かんだが、それも直ちに消えて、後はただひたすらの虚無。
 (「エゲバムヤジ」、『記憶の盆をどり』 町田康 2019年9月)



 この作品は現代的な衣装の物語に見えてもその骨格は意外と古い。「花咲かじいさん」のような古い説話の形式を取っている。たぶんこの正体不明のイメージを背負わされた「エゲバムヤジ」という生きものは、「花咲かじいさん」の「犬」にあたっている。女が所持している多額なお金はエゲバムヤジのおかげで手にしたのではないだろうか。女は、エゲバムヤジの日々の世話を面倒に思って手放した後、精神的にも満たされない日々になり返してくれと来たのだろう。一方、エゲバムヤジとの日々になじんでエゲバムヤジを大切に思っていた私は、女の十億円に「身体が熱くなって汗が出た。吸い込まれるような感覚を覚え、震える手を女の方に差し出した。」と葛藤の末傾いていく。これはエゲバムヤジにとって裏切りである。私がお金に目がくらんだ瞬間にエゲバムヤジのもたらした幸は消える。たぶん先の岩壁からの落下はエゲバムヤジのおかげで助かったのではないか。だから、時間が戻って幸が取り消されて、私は今度は元のままに落下してしまうことになったのだろうと思われる。ということは、エゲバムヤジを手放した女にも何らかの不幸が訪れていたのかもしれない。こうしたことはよくある説話の形式である。
 
 現在のわたしたちにも依然としてこうした説話の形式に心引かれる面が残っているとすれば、それはこの人間社会の不如意な現実に誰もが出会うからである。そこから生み出される様々な願望のイメージが存在するからである。

 ところで上の引用は、この作品の末尾の部分である。通常でも、作品が終われば登場人物も語り手も作者も消える。しかし、この場面はたとえ現実離れしていたとしても主人公の「私」が死ぬ場面である。そして「私」=「語り手」となって物語は進行してきているから、「私」が死ねば「語り手」も消滅するはずである。したがって、「語り手」は「私」の死の場面と死の直後の場面を語ることはできないはずである。

 いや、そんなに固いこと言わなくても物語を楽しめればいいさ、という考え方もあり得るだろう。その場合は、表現の矛盾は稚拙な荒唐無稽さとして受け入れるということになる。しかし、荒唐無稽なものではなく生真面目に表現の本質から考えてみるとそれはどうなるだろうか。考えられるのは、「私」=「語り手」は、斜め上方からベッドなどに横たわっている自分を眺め話もきこえるという一種の臨死体験者の視線を行使しているのだと言えそうだ。あるいは、作者が臨時出張してきて「語り手」の代打をしたと見なすほかない。

詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ 86-89

2019年10月17日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ



86
木の葉散る 目が追ってゆく
心は
崖っぷちにキキッと止まる



87
その先はもう言葉の舟
に乗らないと
秋の情感には入れない



88
空気の感触が変わり
もう秋
の葉裏から秋の駅に入る



89
〈木の葉〉〈散る〉〈秋〉・・・いくつもの駅
を乗り継ぎ
秋の物語を突き進む

詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ 81-85

2019年10月16日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ



81
何気ない日々の風景から
暗転 うわっ
加速する うわわっ 加速する物語



82
追い込まれた主人公
車ごと
崖からダイブする ししっ 死のイメージ!



83
〈主人公〉なのにの疑念
死の峠?
を越えたイメージ流に乗る



84
物語は加速疾走する
イメージは
現世の倫理もバシャバシャ踏み倒して進む



85
主人公と彼の旅したイメージ流
何気ない日々の
積もる疲労に色褪せていく