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覚書2018.12.30

2018年12月30日 | 覚書

覚書2018.12.30




 例えば、元号をいつ発表すべきかなんてささいなばかなことや日々のひどい政治・行政や日々生活苦であえいでいる人々や・・・何にも考えないわけではない。おそらく誰でも日々の自分やその周辺のことを重力の中心としているが、それだけでなく、ちらりとでも社会についても思い考えることはあるだろう。
 
 人は生命力盛んな成年期ばかりではない。社会以前の赤ちゃん時代も社会から一歩退いた老年期もある。また、人は、目覚めて活動している昼間の時間ばかりではなく、夜の眠りの時間もある。(夜間の仕事の人々は、昼夜が逆になるかもしれない) 同様に、人は外に表出される言葉だけではない。
 
 人は誰でも沈黙の中でも思い考えるものだ。その世界は、外に表現される言葉よりある意味重く深い。成年期中心、目覚めている時中心、外に表現される言葉中心で、―そのこと自体はいいとしても―その中にそれ以外のものが総体として意識されていないならば、それらから生まれる考えは人間総体を踏まえたものではなく部分的なものとならざるを得ない。
 
 また、若い時は―わたしもそうだったが―自分はこの世界の根幹や全てをわかったと勘違いしたり、横着になりやすい。しかし、例えば、社会に出る以前でまだこの世界を十分経験していない少年が、この世界を十分にわかることは難しい。思い込みを含めて少年期なりのわかり方はあるだろう。
 
 長く生きていればわかってくるが、この世界はわたしたちが年を重ねる毎にまた違った地平に違った顔つきで現れてくる。少しずつ世界は深みと表情を変えていくように見える。誰もがいくらかは見誤って、ああそれはまずかったなあと後から内省することがある。

 少年でも大人でもあり得ることだが、また誰でも多少はそれはあることだが、無意識的に自分が今いる場所のみをすべて思い込む感じ考え方は、人間存在を本質的に見誤ると思う。それは、自分を、そして他人をも見誤るだろう。もちろん、見誤っても現実は推移するだろう。しかし、それは見誤りに沿ってではなく、人間の無意識的な主流に沿ってであると思われる。


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