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覚書2022.3.12 ― 経済的な範疇の概念から普遍的な概念へ

2022年03月12日 | 覚書
 覚書2022.3.12 ― 経済的な範疇の概念から普遍的な概念へ


「趣味の農業」をしていてふと思うことがある。時間給って何だろう、わたしのこの作業は、仕事と呼ぶのも少し違うようだし、時間給ということとも関係なさそうだ。

「ノルマ」は悪しきソビエトロシア由来と聞いたことがある。では、「時間給」はどこの由来だろうか。素人考えを進めてみる。労働はなされなければ何かを生み出す(生産)ことも、それを享受(消費)することもできない。すなわち価値を生み出すことはない。

すると、その価値の源泉は労働の有り様にも左右されはするだろうが、シンプルに抽出すれば時間ということになる。このさらなる細分化から「時間給」も来ているのだろう。それがあいまいな拘束の労働時間からの解放の面もあれば労働の密度の強化などにもなっているのかもしれない。いわば、労働の牧歌性の解体・再編、そして心的には張り詰めた労働ヘの転位を意味していると思う。

ところで、労働の「価値」は、生産-流通-交換-消費の経済的な範疇に限れば、労働主体にとっては生活の再生産につながる「労賃」として現象するだろう。生活の再生産には、消費する主体として労働で得たお金(貨幣)を用いてこの社会に生み出される商品やサービスを享受する(消費)することも含まれる。

しかし、例えば趣味の農業においてはこれらの概念はうまく成り立たないように見える。ただ、「労働」「生産」「消費」は成り立っても、「労働時間」や「時間給」という概念は成り立たない。また、「価値」も経済的な範疇を越えた精神的な充実の度合として主要に量れるように思う。現在のところは、この社会の経済的な範疇の労働と趣味の労働(活動)は断絶している。

ところで、全社会や人間の存在や活動の総体性から見れば、部分に過ぎない「労働」「生産」「労働時間」「生産性」「賃金」「消費」「価値」などのその社会内の経済的な範疇の概念を絶対化すれば、よくあることだがそれらのものさしで人を計ったり、あるいは極端になると「相模原障害者施設殺傷事件」の植松聖のような考え方にもなり得る。

人間の生涯で活動的な壮年期という部分があたかも全体で中心と見なされやすいように、この社会では社会の表舞台を動かす経済的な範疇の現在的な主流の概念が主人公のように見なされやすい。しかし、全人間的な活動について思い巡らせ内省してみたらわかるように、それは誤解だ。

ほんとうは、労働-生産-価値、生産-流通-交換-消費などの経済的な範疇の部分的な諸概念は、一方で、部分的であることの自覚の下に現在のように行使されつつ、他方で、わたしたちの精神的な活動も含めて全社会と人間総体の視座からの普遍的な概念として再構成されなくてはならないと思われる。

最近知ったが、小林秀雄は、山下清には確固とした内面もなく美に対する感動もなく、山下清の絵は評価不能だと述べたことがある。(註.1)これは人間の歴史にとっては部分的な、近代的な個や個の内面や芸術という西欧的な思想から来ている。ここでもまた、個や個の内面や芸術などの概念が、人類史から見て普遍的な概念の方へ解体され、再編成されなくてはならないことを示している。


(註.1)
松本孝幸さんの「たかちゃんの豊浦彩時記四月号」の最後に、「小林秀雄と山下清」という見出しの下に、小林秀雄の山下清評の文章が引用されている。小林秀雄の生きた時代性と人間観の限界が出ている文章だ。
 http://matumoto-t.blue.coocan.jp/21saijiki04.html


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