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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 116-118

2020年02月03日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



116
どちらかの当事者だ
でも時には
ぐーんと退(ひ)いて等しく見渡さないと



117
ないとナイトnightには
片側で
石をつかんでは投げ続けている



118
当事者と観察者
二重の
体温が難しい綱渡りする

短歌味体、5年目を終わりまた明日へ

2020年02月03日 | 短歌味体Ⅲ-6
 5年目を終わりまた明日へ
                                   
                        2020.2.3
 
 「短歌味体な」→「短歌味体」→短い詩形へと名前とスタイルを変えながら、すなわち、詩意識(詩に対する意識)をわずかに変位させながら、2015年2月2日からほぼ毎日作り続けている。5年経った。今日から6年目だけど、今では書くことが習慣のように自然なものになってしまった。作品自体の中身の問題があるが、それはともかく毎日書き続けることを主眼にしてやってきた。最近ふと、吉本さんのあの言葉「10年、毎日続けたらいっちょまえになる」を思い起こしたり意識したりすることがあった。中身は別にしても、これくらいならわたしにもやれるかなと思ったりしている。これに何の意味があるのか、先のことはどうなるのか、わからないけど、また明日もやっていこうと思う。
 
 わたしは、文学や思想に入り込んでしまったけど、ブンガクなんて知らないよというのも良いだろう。そんな人は、他人(ひと)にはあんまり迷惑かけず、ハッピーな人生を送れたらそれに越したことはないと思う。吉本さんが娘よしもとばななとの対談で次のように語っていた。やっぱりこういう実感のこもった帰りがけの言葉は、思想性としては持っていたとしても吉本さんでも晩年にならないと出てこない言葉かもしれない。また、行きがけにがむしゃらの若い人々には、なかなか理解しがたい言葉かもしれない。
 
 
吉本 だけど、「そんなに大きな作家、大きな文学者になることは、そんなに大切なことなのか?」という思いも、もう一方であって・・・・・・。
 
ばなな そうですよね。正直言って、私もそう思います。
 
吉本 平凡でも、とにかく夫婦仲はいいし、まだ小さいけど、いい息子がいて、今が幸せでしょうがないんだという家庭だったら、もうそれでずっと通しちゃえって。
 
ばなな それは私に望むことですか?(笑)
 
吉本 僕だったら、そう考えると思うな。傍から見ても、そばへ寄って話を聞いても、「このうちは本当にいいな。いい夫婦だな。子供もいいな」という家庭を目的として、それで一生終わりにできたら、それはもう立派なことであって、文句なしですよ。もし、あなたがそうだったら、「それ悪くないからいいですよ」って、僕なら言いますね。
 それ以上のことはないんです。どんなに人が褒めようが貶そうが、そんなことはどうでもいいことだとも言えるわけで。漱石・鴎外は、確かに人並み以上に偉い人です。でも、それが唯一の基準かといったら、全然そうじゃなくて、俺のうちのことなんか、近所の人や肉親以外は何も言ってくれないけど、でも、俺のうちは一番いいんだよ、自慢はしないけど自慢しろって言えばいつでもできるんだよ、って言えるような家庭を持っていたら、それはもう天下一品なんですよ。「うちは夫も子供も申し分なく、並びなきいい家庭をつくりました。近くにお越しの際は、いつでも立ち寄ってくださいよ」と言えるような人生にできたら、もう他には何も要らないというくらい、立派なことなんです。
 それがいかに大切で、素晴らしいことかというのは、僕ぐらい歳をとれば、わかりますよ。生きるって、僕はまだわかんないけど、一生を生きるというのは、結局、そういうこと以外に何もないんだと思います。それだけは間違いないことだから。
  (「書くことと生きることは同じじゃないか」P16-P18『吉本隆明資料集179』猫々堂、初出『新潮』2010年10月号 ) (『データベース 吉本隆明を読む』、「言葉の吉本隆明②」項目546「晩年の言葉①」)