大川原有重 春夏秋冬

人は泣きながら生まれ幸せになる為に人間関係の修行をする。様々な思い出、経験、感動をスーツケースに入れ旅立つんだね

再び流民となりて 旧満州移民と原発避難(4)新しい古里/終着地のはずだった

2013-03-01 18:00:00 | 原子力関係
再び流民となりて 旧満州移民と原発避難(4)新しい古里/終着地のはずだった


<生きるために>
 生まれ故郷を貧困で去り、移民先の旧満州(現中国東北部)は敗戦で追われた。今、福島第1原発事故で家に帰れない。
 「つくづく古里と縁がない」。福島県浪江町南津島から二本松市に避難する大内孝夫さん(79)は考え込む。大内さんにとっての古里は単に移り住んだ場所ではない。ゼロから築いた精根の結晶だった。
 1946年9月、大内さんは九死に一生を得て帰国した。待っていたのは食糧不足にあえぐ敗戦国の厳しい現実。親類に身を寄せたが、いつまでも甘えられない。生きるために再び新天地を探さなければならなかった。
 家具職人などをした後、48年9月、父と旧津島村南津島に入植した。一面の深い森。自力で小屋を建てた。板は作れず、細い木を敷き、むしろを掛けて床にした。ササでふいた屋根は空が透け、雨が降ると大変だった。
 まきを売り、見よう見まねで炭焼きを覚えた。食べ物もろくにない。キノコ中毒で1週間起きられないこともあった。
 根っこだらけで、くわの入らない荒れ地との闘い。妻の五月さん(81)が嫁いできた51年には、ようやく5アールほどの畑を開くことができた。
 五月さんは鮮明に覚えている。「しゅうとさまが『育った』と喜んでいる。見ると指の先ぐらいのジャガイモ。気を付けて皮をむかないとなくなる。とんでもない所に嫁いだとがっかりした」

<安定した日々>
 子は53年、54年、58年、63年と4人生まれた。助産師もいない開拓集落での自宅出産。貧しく、7キロ先の医者に診てもらうこともなかなかできなかったが、みんな元気に育った。
 沢からてんびん棒で水を運び、雑穀や山菜で腹を満たす暮らしだった。それを体一つの努力で少しずつ整えていく。
 畑は3ヘクタールまで増やした。用水路は引けなかったが、離れた場所に水田40アールを買い求め、コメをたっぷり食べられるようになった。運送業にも携わり、現金を得た。
 子は下の3人が家を離れて独立。同居の長男は大工となり、自宅隣の作業場を木造建築では関東や北海道から仕事が来る評判の工務店に育てた。
 息子を手伝い、妻と土を耕し、孫と語らう。安定した日々がやって来た。家はササ小屋から新築を重ね、建面積260平方メートルの屋敷になった。ついのすみかだと、自他ともに考えていた。
 入植から63年。戦争で失った古里を大内さんは完全に取り戻したはずだった。
 2011年3月、25キロ離れた場所で福島第1原発が爆発した。
 福島県農地開拓課の「福島県戦後開拓史」によると、全農家のうち、旧津島村は50.7%、葛尾村は50.1%、飯舘村は34.7%が戦後の入植だった。県全体の比率は5%だから非常に高い。
 現在、そこは全て避難区域となった。開拓者の魂が放射能に古里を奪われ、さまよう。
 大内さんは二本松市岩代の仮設住宅で五月さんと暮らす。「津島にはもう帰れない。この年だ、諦めた。ここが最後の家になる」

2013年02月28日 河北新報

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