虚空漂浪日記

魂の開放を求めて、右往左往。嫌われものの”宗教”の根本を捜し求める日記です。

仏教とキリスト教が同じだと貴方は信じますか?

2011-11-22 08:22:12 | 宗教
一昨日からが降っています。そろそろ根雪になるかも知れません。

さて、現実の世界について考えていると、気が滅入りますし、怒りが生じます。
そこで、ブログの本題に戻して、今日は宗教について考えます。

ところで、宗教とは、”あちら側の問題だ”と私は言いましたが、貴方はどうお考えでしょうか?
また、ゴータマさんとイエスは同じことを言ってるとも言いましたが、本当でしょうか?
ただ、2人の発言の仕方が、ゴータマさんはこちら(現世・この世)の視点からあの世について話し、イエスはあの世の視点からこの世について話しています。ですから、一見、違うように聞こえますが、言っていることは同じことを言ってます。

ちょいと、例を上げましょう。
新約聖書には、このように書かれています。イエスの言葉です。

「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。・・・あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その一日だけで十分である。」(マタイ6-31~34)

ゴータマさんの言葉。

「かれらは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである。
ところが、愚かな人々は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために萎(しお)れているのである。」(サンユッタ・ニカーヤⅠ・第Ⅰ編第一章 葦・第10節「森に住んで」より)

一見、違うようにみえますが、要は”<今日一日>を一生懸命生きろ!”といっているわけです。過去や未来のことでくよくよして悩むなと言っているのですね。
ゴータマさんは過去は戻ってこないし、未来のことは分からないのだから、そんなことに気を使わないで”今”を一生懸命に生きると生き生きと生きられると言っています。ゴータマさんは現世の視点で語っていますね。
イエスは、神は何でもお見通しなんだから、”今日一日”(=今)を一生懸命に生きれば、後は神が何とかしてくれると言っています。つまり、あちら(=来世・あの世)の視点から語っているのです。
しかし、言っていることは同じことなのです。

次の例は、全く同じです。
新約聖書のイエスの言葉。

「よく聞きなさい。あの貧(まず)しいやもめは、さいせん箱に投げ入れた人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏(とぼ)しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」(マルコ12-43~44)

ゴータマさんの言葉。

「落穂を拾って修行している人でも、妻を養っている人でも、乏(とぼ)しき中からわかち与える人は、法を実践することになるであろう。
千の供犠(くぎ)をなす人々の百千の供犠も、そのような行いをなす人の功徳の百分の一にも値しない。」(サンユッタ・ニカーヤⅠ・第Ⅰ編第四章 サトゥッラパ群神第二節「もの惜しみ」より)

ゴータマさんの言葉は少しわかりずらいですね。
ここで”法”といっているのは、功徳と同じ意味です。"供犠(くぎ)”というのは宗教行事をすることですから、金持ちしかできません。
つまり、貧乏人が人に分け与える行為は、金持ちが行う多くの宗教行事よりもより多く功徳を積んでいると言っているのです。
イエスと同じことを言ってますね。

もう一つ。

イエスはこのように語っています。

「からだを殺しても、魂を殺すことできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」(マタイ10-28)

この言葉は、”神を恐れよ”といっているのですが、「魂を殺すことができない者」(=現世の人間)とあるように、あの世は”魂=霊”の世界であることを語っています。

一方、ゴータマさんは次のように語っています。

「ひとが身体でなし、またことばや心でなすところのもの―それこそ、かれ自身のもである。人はそれ取って受けて、行くのである。」(サンユッタ・ニカーヤⅠ・第Ⅲ編第二章第10節「子がいない」より)

ゴータマさんは、「ことばや心でなすところのもの」があの世に「行く」と言ってます。

また、こうも言ってます。

「かれは、身体を捨てたあとで、天に行く。」(同上、サトゥットウバ群神第6節「信」)

この場合も「天」に行くのは、「ことばや心でなすところのもの」ですね。
日本人的には、「ことばや心でなすところのもの」を”魂”といいますけれども、ゴータマさんは特別な単語を使用していません。
何故、ゴータマさんが”魂”のような単語を使わないかということですが、常に、日常語で、わかりやすく人々に語りかけたからです。
そのことは、初期仏典を日本語に訳した苦労がにじみ出ていますし、日常語を多用しているので翻訳が難しいことからもわかります。
仏典が中国に渡り、中国風に変化し、日本に渡ってきましたから、かなりゴータマさんが語った本筋から外れていると考えていいでしょう。

さて、ゴータマさんが生きていた時代の宗教はバラモン教でしたから、それをベースに新しい宗教思想が展開されます。
サンユッタ・ニカーヤⅠ(ブッダ・神々との対話)の註によると、

「解脱とは霊魂が身体から脱出して束縛のない状態におもむくことであるという見解は、ウパニシャドからヴェーダーンタ学派に至るまで一貫して存するものであるが、ここでは通俗的な一般観念として受け入れているのである。」(同上・第Ⅰ編第三章剣第9節「四輪あるもの」の註より)

とされているように、「ことばや心でなすところのもの」=霊魂であることは自明のことだったのです。
それが、仏教教団ができ、教義学的になるとバラモン教などとの違いを強調するあまりわけのわからないことを言い出すようになります。
つまり、仏教では霊魂を否定するようになるわけです。
”ある”ものを”ない”とすることは、教義の退廃であり、キリスト教において”転生”を否定したことに通じます。
元々、キリスト教にも”転生”の理解はあったのです。そのことは以前に指摘しました。

こうして、仏教も教義学的になり、独自性をだそうとする堕落が始まり、出家者のみが理解でき、かつ、解脱できるとする教義が生まれるに至り、大乗仏教へと進んできたのでしょう。私は堕落の果てが、大乗仏教になったのだと思うのです。

こんなことを言うと、日本のお坊さんは怒るかもしれませんが、バラモン教の形骸化、堕落からゴータマさんの教えが生まれていることを考えると、仏教の堕落、形骸化から新しい宗教が生まれてきても良さそうなものだと思います。

形あるものは壊れるといいますが、組織化されたものは腐敗するというのも事実でしょう。
常に努力を怠(おこた)ってはいけないとゴータマさんは言っています。
努力を怠るとすぐ蛆(うじ)が湧く=腐敗するということなのでしょうね。

最後に、ウィキペディアと仏教の本質というHPを参考までにあげておきます。
暇がありましたら、お読みくださいw。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E4%BB%8F%E6%95%99 (初期仏教)
http://space.geocities.jp/mindmanipulate/bukkyou-honnshitu.html(仏教の本質)

ではまたお会いしましょう。


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2 コメント

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心配かけました。 (あやや)
2011-12-03 20:00:31
5年前突然パソコン壊れまして、なす術もなく過ごしておりました。華さんのところからリンク探しをしまして、拝み様をようやく見つけました。最初からのブログを読み二日かかりまして今日に至りました。北海道は雪ですか。今年は最悪でしたが、良いことにも巡りあいまして、ボランティアで来ていた、ヨガをやるかたで、拝み様と同じ考えなんです。君が悪いぐらい似てましたね。「本当にわずらうことなかれ」ですね。またパソコンに復帰できました。子供は社会人になり県外で暮らしております。県外で良かったと深く思っております。今後とも宜しくおねがいいたします。プログ私もやりたいと思ってます。いままでと違うものです。学会とかけ離れたものです。拝み様の息子さんは大きくなったでしょうね。ミーナさんや、ひつじさんのところでもお邪魔してたんです。

では挨拶まで、失礼いたします。
お久振りですw (拝 一刀斎)
2011-12-03 23:20:37
あややさん、元気でなによりです。突然、いらっしゃらなくなったので、どうしているかなと思っていました。あややさんは東北だったのですか><;色々と大変でしたね。
来年もまだまだ安心はできませんので、充分、ご注意くださいね。
そうそう、私のブログは拝 一刀斎と打ち込めば出てきますよw。
息子は現在18歳ですw。遊んでばかりで気になりますが、健康であればいいかとw
また、お寄りくださいね。

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