コーディネーター研究会で、佐藤暁先生の話を聞いた感想の続きです。
佐藤暁先生の言う指導上のセオリーのもう一つに
「子どもに安心感を保障するための規律と形式」というものがあった。
規律は、子どもを縛るためのものでなく、子どもに安心感を与えるものだということだ。
これもとてもうなづける内容だった。
特に最近は強く思う。
規律、形式がなく、自分たちで考えながら行動できるようになることが理想であろう。でも、そこを目指すばかりに、安心感が得られず、逆に不安を抱いてしまうようなクラスになってしまうこともあると思う。
場合によっては、多少細かすぎるくらいの規律、形式がある方が、
逆に子どもたちが安心して過ごせることもあるのだということを、
強く感じている。
例えば中学校で、規律や規則を重んじることに好意的でなかったのに、
いざ、選択制が導入されると、
規則が緩くて、やや締まりがなくなってしまっている学校より、規則に厳しい学校の方を望んでいることがある。
教師から与える規律、形式は少ない方がいいと思う。
でも、それは、少なくても大丈夫という状態であるときだけだ。
その判断の要素を、自分は今、「教師の個性」「指導技術」「クラスの実態」の3つだととらえてる。
実態が不安定であって、教師の個性も指導技術も未熟なのに、
理想ばかりを追ってしまっては、かえって子どもたちが落ち着かなくなる。
それならば、規律、形式を重視したほうが、子ども達は安心し、かえって気持ちの自由がもてるようになると感じている。
ちょっと長くなってしまったけど、日頃のこんなふうに感じていたことを、佐藤先生が認めてくれたように思えた。
クラスの子どもたちの安心感があって、やっと特別支援教育が機能すると自分は思っている。
だから、誤解をされそうな表現だけど、ある程度
全体 > 個人 という考えでいかないと、学級での特別支援はうまくいかないだろう。
佐藤先生の「まわりの子どもたちが満足していないときは、特別支援教育は絶対にうまくいかない」という言葉に、強く共感した。
佐藤暁先生の言う指導上のセオリーのもう一つに
「子どもに安心感を保障するための規律と形式」というものがあった。
規律は、子どもを縛るためのものでなく、子どもに安心感を与えるものだということだ。
これもとてもうなづける内容だった。
特に最近は強く思う。
規律、形式がなく、自分たちで考えながら行動できるようになることが理想であろう。でも、そこを目指すばかりに、安心感が得られず、逆に不安を抱いてしまうようなクラスになってしまうこともあると思う。
場合によっては、多少細かすぎるくらいの規律、形式がある方が、
逆に子どもたちが安心して過ごせることもあるのだということを、
強く感じている。
例えば中学校で、規律や規則を重んじることに好意的でなかったのに、
いざ、選択制が導入されると、
規則が緩くて、やや締まりがなくなってしまっている学校より、規則に厳しい学校の方を望んでいることがある。
教師から与える規律、形式は少ない方がいいと思う。
でも、それは、少なくても大丈夫という状態であるときだけだ。
その判断の要素を、自分は今、「教師の個性」「指導技術」「クラスの実態」の3つだととらえてる。
実態が不安定であって、教師の個性も指導技術も未熟なのに、
理想ばかりを追ってしまっては、かえって子どもたちが落ち着かなくなる。
それならば、規律、形式を重視したほうが、子ども達は安心し、かえって気持ちの自由がもてるようになると感じている。
ちょっと長くなってしまったけど、日頃のこんなふうに感じていたことを、佐藤先生が認めてくれたように思えた。
クラスの子どもたちの安心感があって、やっと特別支援教育が機能すると自分は思っている。
だから、誤解をされそうな表現だけど、ある程度
全体 > 個人 という考えでいかないと、学級での特別支援はうまくいかないだろう。
佐藤先生の「まわりの子どもたちが満足していないときは、特別支援教育は絶対にうまくいかない」という言葉に、強く共感した。