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劇団阿彌 『青いクレンザーの函』を観てラーゲリ抑留者の詩人石原吉郎の事を考える

2010-07-26 | 映画
詩人石原吉郎は、敗戦後ソ連の捕虜となり、刑期25年の戦争犯罪人とされ、スターリン死後の特赦で開放される53年までの8年間極限状態のラーゲリに収容されていた。
フランクルの「夜と霧』と並び証される筆舌に尽くしがたい異常なラーゲリの体験から、石原は、戦争と人間存在の危うさを根源から見つめつきつめていった。
ラーゲリで死なないで生き延びるということは、<他者の死を凌いで生きる>ということにほかならないのであり、其処には、被害者と加害者の反転がいつもあった。
<「被害者の中から人間は生まれない。加害者がその意識を自己に向けた時に人間は生まれる」>
そして、生き残ったということは終生<どうしょうもない後ろめたさ>に苛なまされることになる。

1953年12月1日、時あたかも米ソの冷戦構造にあって赤狩りという政治状況の真っ只中の日本に引き揚げてきた。「シベリア帰り」という思いもよらない<骨身にこたえる迫害>を受け、それ故職も儘ならず、身内からも疎まれて、本来ならば戦争の深い深い傷を少しでも癒してくれるはずの「安堵の故郷」、強制収容所での仲間が次々死んでいく辛酸極まりない明日も知れない日常ので、希望の唯一だったその「望郷」にもいたたまれなくなる現実、日本の戦後の非常な情況が、さらに追い討ちをかけるように石原の心を、孤独と絶望の淵に追い込んだいってしまった。
石原は言う。
<私は、このような全く転倒した扱いを最後まで承認しようとは思いません。誰がどのように言いくるめようと、私がここにいる日本人ー血族と知己の一切を含めた日本人に代わって戦争の責任を「具体的に」背負ってきたのだという事実は消し去ることのできないものであるからです>

<新しい人間になりたい>というあまりにも重い言葉に、石原の苦悩と孤独を感じとる。

現在の世界を見ても明らかに解かるように、人間の原罪性「暴力性」「権力欲」「非人間性」から逃れられないという人間という存在であることを、今年の灼熱の夏、8月6日、9日、15日迎えるに当たって、身を引き締めて考えてみたい。

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石原吉郎

1915年、静岡に生まれる。

1938年、東京外国語学校ドイツ部貿易科卒業。大阪ガスに入社、研究部に勤務。姫松教会にて洗礼を受ける。

1939年、応召。静岡市歩兵第34連隊に入隊、歩兵中隊に所属。

1940年、北方情報要員第一期生として、大阪歩兵第37連隊内大阪露語教育隊へ分遣。

1941年、関東軍司令部、関東軍情報部に配属。1942年、応集解除。ひきつづき関東軍特殊通信情報隊(秘匿名称、満州電々調査局)に徴用。

1945年、ソ連対日宣戦布告、終戦。密告によりエム・ペ・デ(ソ連内務省)によって拘留され、ソ連領へ。

1946年、アルマ・アタ第三分所に収容(以後1953年まで中央アジア、シベリアの強制収容所を転々とする)。

1948年、カラガンダ市郊外の日本軍捕虜収容所に収容。

1949年2月、中央アジア軍管区軍法会議カラガンダ臨時法廷へ引き渡され、ロシア共和国刑法58条(反ソ行為)六項(諜報)により起訴される。判決は重労働25年(死刑廃止後の最高刑)。

9月、ストルイピンカ(拘禁車)でタイシェットのペレスールカへ。

10月、バム(バイカル‐アムール)鉄道(第二シベリア鉄道)を北上、沿線密林地帯の収容所(コロンナ33)に収容。森林伐採に従事。

1950年4月、コロンナ30へ移動。流木、土工、鉄道工事、採石などに従事。

9月、ハバロフスク市第6分所に収容。

1953年3月、スターリン死去。特赦により日本へ帰還。

1955年 、粕谷栄市らと詩誌『ロシナンテ』を創刊。

1963年 、第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』を刊行(H氏賞)。

1973年 、『望郷と海』を刊行(歴程賞)。

1977年11月14日、死去

はてなキーワード より

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