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『<鏡>としてのパレスチナ』刊行記念シンポジュウムに参加して

2010-07-08 | 中東問題
先日、マイミクの青い鳥さんから、ご自身の所属していらっしゃる「ミーダ-ン」のシンポジュームのお誘いを受け、参加してきました。

副題として
イスラエルへの対抗言説から、<別の現実>へ

第一部『<鏡>としてのパレスチナ』私はこう読む。
コメンテーター
浜邦彦(カリブ研究/早稲田大学)+大富亮(チェチェン・ニュース発行人)

第二部現局面における支援/連帯とは:ガザ自由船団襲撃から見えるもの
パネリスト
鵜飼哲(フランス文学・思想/一橋大学)
太田昌国(南北問題・民族問題研究/現代企画室)
早尾貴紀(社会思想史/ミーダ-ン)
田浪亜央江(司会:パレスチナ政治文化研究/ミーダーン)

中東のことは、映画や写真等、広河隆一氏の『パレスチナ1948・NAKBA]』と土井敏郎氏の『沈黙を破る』、綿井健陽氏のイラク、アフガン、ガザ地区の報道写真、中村哲氏の「ペシャワール」、などで少し知っておりましたが。
このミーダーンの活動はそれら個別に見える問題を地球的規模の広い視座で捉え、この中東の問題が、謂われている様な人種や宗教の歴史的背景と政治的各国の思惑、経済絡みとデアスポラ、シオニズム、アパルトヘイトそして帝国主義、植民地主義、強者の論理等等にコミットし、それらが、複雑に入れ子状態で抜き差しならないアポリアに陥っている現状をつぶさに検証・分析し、事細かに教えていただきました。
そして、鈍感で考えが及ばなかったことに、第一次世界大戦後のサンレモ会議において、太平洋の島々を日本の委任統治領として認めて貰うのと引き換えに、イギリスやフランスの中東の国分けシステムの構築と何よりイギリスのパレスチナ委任統治政策問題に賛成した我が日本であるということ、巷で言われているような『中東ではまだ手を汚していない遠い中立の国』というわけでは決してないということが分かりました。
表題の意味、『<鏡>としてのパレスチナ』の日本人としての<鏡>として先ず思いを致す一つの事は、蝦夷、琉球を征伐した植民地主義国家の日本であること、それは今も連綿と続いている差別的政策があること。
この一月に、以下の署名が来ました。
先住民族アイヌの権利回復を求める団体・個人署名の要請
アイヌ民族は同化に抗(あらが)い、先祖の累々たる犠牲の上で継承されてきた伝統文化と民族精神を大切にし、権利回復と差別撤廃の声をあげ続けてきました。私達はいま、その声に連帯して「保護」でも「お恵み」でもない、アイヌ民族に対する近代天皇制国家の歴史的責任を認め、宣言に明記された先住権・自決権の権利回復を政府に求めたいと思います。また政府が、その事を前提としてアイヌ民族が真に対等・平等な立場でチャランケ(話し合い)する権利を認めアイヌ政策の見直しを行うことを重ねて求めます。皆さんと一緒に政府を動かすべく別紙の団体・個人署名をお願いする次第です。

1.私達は、近代天皇制国家が先住民族アイヌの生得の権利である土地・資源・領域を一方的に奪い、植民地化・同化政策を行った歴史的責任を認め、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(2007年採択)に明記された先住権・自決権の権利回復を行うことを求めます。
以下略(このブログの1月14日参照)

また、今日本の大問題、普天間・辺野古移設に見るヤマトンチュウの加害意識のない反応。
イラクやアフガンへのアメリカ帝国の覇権主義に加担して、明かな違憲である自衛隊の派遣
など、経済問題だけでなく足元をしっかりと見つめなければ成らない大きな日本国家の国際問題が在り、何時までもアメリカの属国として卑屈にいるのではなく、平和憲法を持った日本独自の政策、路線を模索することが今問われていること。

また、ナゼ世界各国や国連がイスラエルに厳しい抗議や非難や制裁をしないのかということも。

等など色々と考えざるを得ませんでした。

また、確か鵜飼さんだったと思いますが処罰の問題ではなくて、全てを超越した世界的規模の、全ての人間が人間として生きる『倫理』の確立が必要不可欠だと仰ったのが心に響きました。

この「倫理」のことは、同じマイミクのアカショウビンさんも、吉本隆明氏の思索から言及されていました。以下コメントより
<吉本隆明氏はかつてマルクス主義を始末した後には世界には新たな「倫理」の確立が求められると語っておられました。マルクス(マルクス主義者でなく)の思想を更に乗り越える思想の出現が喫緊の課題と思われます。吉本氏が、思想でなく「倫理」と言う理由が何であったのか忘れてしまいましたが恐らく世界のどこかでそれは準備されているものと思われます。>
<しかし更に西洋哲学を相対化した視角を切り開いていかねばならないと私は考えます。私は精読しているわけではありませんがパレスチナ人で確かアドルノの弟子でもあった筈のE・サイードの仕事は一覧する必要があるように思います。そして我が日本ではどうなんでしょうか。>
ということで、今私は、平行して[オリエンタリズム」と「文化と帝国主義」(これは私の浅薄な知識では難しいなーと思っています。)を読んでいるところです。

また、一昨年同じく薦められて読んだ内田 樹 (著) 「私家版・ユダヤ文化論」を思い出します。

<[・・・] 実体的基礎を持たないにもかかわらず、ユダヤ人は二千年にわたって、それを排除しようとする強烈な淘汰圧にさらされながら、生き延びてきた。この事実から私たちが漠然と推理できる結論は、危ういものだけれど、一つしかない。
それは、ユダヤ人は「ユダヤ人を否定しようとしているもの」に媒介されて存在しつづけてきたということである。言い換えれば、私たちがユダヤ人と名づけるものは、「端的に私ならざるもの」に冠された名だということである。
私たちの語彙には、「それ」を名づけることばがなく、それゆえ私たちが「それ」について語ることばの一つ一つが私たちにとっての「他者」の輪郭をおぼつかない手つきで描き出すことになる。私たちはユダヤ人について語るときに必ずそれと知らずに自分自身を語ってしまうのである。>

1. ユダヤ人というのは国民名ではない。
2. ユダヤ人は人種ではない。
3. ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。

<私たちはユダヤ人について語るときに必ずそれと知らずに自分自身を語ってしまう>

ということで、他者とは自己の裏返しである。すなわち他者を認識することは自己照射なしにはありえないということ。
すなわち、[反ユダヤ問題」は、ユダヤの側に原因があるのではなく、「反ユダヤ主義」を提起し、再生産している非ユダヤ側に素地があるということ。
書かれていた[ペニーガム法」の人間の潜在的にもっている危うい資質で思うことは、関東大震災のときの朝鮮人狩りです。それと問題もそうです。

以上とりとめもなくこのシンポジュームから脳裏に浮かんできたことを感じるままに書きました。

このイベントに参加できたことに、青い鳥さんに感謝です。