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米海兵隊とはどういうところか。

2008-02-28 | 沖縄問題
米軍の海兵隊というのは、どういう人間の集まりか、米国の「タイム」誌と元海兵隊員のネルソンさんの講演から抜粋しました。

米国の「タイム」誌(1949.11.28)は、沖縄に駐留する米兵が「米軍の才能のないものや、のけ者のていのよいはきだめ米軍の才能のないものや、のけ者のていのよいはきだめになっていた。」と論述する。

元海兵隊員のネルソンさんの講演から抜粋
 今日、みなさんにお話ししたいのは、どんな人たちが軍隊を構成しているのか、彼らはどういう人たちなのか、なぜ軍隊に入ったのか、ということです。ほとんどの人たちは同じような境遇、すなわち私と同じ境遇の人たちが軍人になっているということをおわかりいただけると思います。
 海兵隊に入ったわけ
 私はニューヨークの郊外の貧困地域で母親に育てられました。母は4人の子どもがおりましたが、母一人で私たちを育てました。とても大変なことでした。母も、そして私も、子どもとしてたくさんの家庭内暴力を見、そのために私は怒りに満ちた人間になってしまいました。もう一つ、私を怒りやすい性格にしたのは、貧しい暮らしです。外出するときにも、汚い格好でいくしかありませんでした。
 16歳になると、私はこのような境遇から抜け出したいと考えるようになりました。何か、今までと違ったものを、自分のために欲しくなりました。テレビや映画で見るような素晴らしいところを見たくなりました。与えられた唯一の選択肢は海兵隊に入ることでした。海兵隊は大変暴力的な軍隊だということを知っていましたが、私にとってそれは問題になりませんでした。私のそれまでの人生そのものが暴力的でしたから。家の中で暴力は十分に見ていましたから、、。海兵隊に入ったときに暴力的なことをすることは、私にとってきわめて自然なことでした。それどころか私が「ニガー(黒人の蔑称)」でなくなるチャンスを海兵隊は与えてくれたのです。アメリカ社会においては黒人は「ニガー」でしかありません。しかし海兵隊員になるということは素晴らしいことです。人々に尊敬され、職を得ることができ、みんなから「ありがとう」と言われます。また、「海兵隊になればそういうものが得られる」と言われました。
 こんな話をしたのは、私がベトナムに行ったときは、とても怒りに満ちた人間であったということをわかってもらうためです。その怒りを誰にぶつけようと気にしませんでした。アメリカ海兵隊は、その怒りをベトナムの人たちにぶつける機会を与えてくれたのです。
 ベトナムへ
 海兵隊が最初に新兵におしえること、それは「命令に従うこと」です。「疑問を持つことなく命令に従うこと」です。洗脳された兵士は、いったん戦場に行けば、与えられた命令はどんなことでも遂行するように仕込まれます。考えることなしに、質問することなしに、疑問を持つことなしに実行します。海兵隊にはこういう言葉があります。
「考えるのはおまえの仕事ではない。おまえの仕事は、実行し、死ぬことだ」。
 命令に従うことを教え込んだ後は、「殺し方」を教えます。多くの時間を「殺し方」を習うのに費やし、海兵隊に入って18歳になるまでに、25種類もの人の「殺し方」を覚えました。有益で、役に立つ技術です。それこそが兵士が持たねばならない技術だからです。兵士というのは、平和を維持する人(ピースキーパ-)でもなければ、(ソーシャルワーカー)でもありません。兵士はピースワーカーとして訓練されていません。兵士は「殺す」コトを訓練しているのです。それが彼らの仕事です。「殺す」ことです。
 私はベトナムに着いたとき、とても興奮していました。アメリカという国に対して、私が価値ある人間で、いい仕事をし、教育もあることを証明し、私を黒人としてではなく、何をおいても国に対して奉仕した者として見てくれることを喜びました。だからベトナムに着いたことをたいへんうれしく思いました。ジャングルにいることは好きだし、私は速く走れるし、何が身の回りで起きているかといった観察力は優れているし、人を「殺す」ことも得意でした。
 私が初めて人を殺したとき、上官がやって来ました。上官はとてもうれしそうでした。というのも私がついに「敵」を殺したからです。私が「頼りになる」ことが証明されたからです。彼は私にナイフを渡して、「おまえの勲章を切り取れ」と言いました。「勲章」とは、耳のことです。海兵隊はベトナムで人を殺したとき、(勲章として)その耳を切り取る習慣があり、みんなそれをひもに通して首の回りに下げていました。
 私は自分が殺した男のところへ行き、耳を切り取ろうとしたときに、耳をぶら下げている兵士たちのまわりにはハエがぶんぶん飛んでいて、とても臭かったのを思い出しました。それで私は耳を切り取るのをやめ、その死んでいる男から立ち去りました。
 私はへんな気持ちになりました。自分のしたことが正しかったのか。なんか胃袋がキューっとなりました。上官がやってきて「どうかしたのか」と尋ねました。私は「へんな気がする」と答えました。上官は「初めて殺したときには、みんな同じような気分になる。気にしなくていい。すぐに良くなるさ」と言いました。しかし、「人を殺す」ことについて、その感情を克服することはできませんでした。私は、「人を殺す」たびにその感情を味わいました。気分が悪く、めまいのするような感じ…。「もっとたくさん殺せば、その『病気』は克服できる」と言う人もいますが、たくさん「殺す」ことによって、克服したり、慣れたりするということはありません。

アレン・ネルソン 
1947年生まれ。アフリカ系アメリカ人

 1966年、海兵隊員として、ベトナム戦争に従軍。ベトナムへの途上、沖縄のキャンプハンセンに駐留。 

 除隊後はボランティアとして、軍隊にはいるかどうかで悩む青年の相談相手を長年勤め、現在、ニュージャージー州、カムデン市で教育活動をしている。

 カムデン市はアメリカの中でも貧しく、犯罪の多い町だが、その中で黒人とヒスパニック(中南米系)の中学生や高校生に勉強できる場を提供し、大学進学への道をつくる。

 今年、2月、ニュージャージー州とコロラド州を中心に、沖縄にいた元宣教師や、教師、それに市民運動家が集まってつくった「沖縄駐留米軍をアメリカに連れ戻すネットワーク」の呼びかけ人の一人。今回、同ネットワークの活動で来日した。