若生のり子=誰でもポエットでアーティスト

文字さえ書ければ、ポエット
感覚次第で、何でもアート
日日を豊かに遊び心

ティッシュボックス'04-'09 (生徒の展示)

2009-09-30 | Weblog
生徒の一人、紺野千里さんが『東京展』に始めて出品し、奨励賞をいただきました。
この展示で美術家の仲間入りを果たした彼女にとって、この上なき良いデビューが飾れたことは、わたくしとしてもとても嬉しい限りです。

ティッシュボックスは、ワコウ絵画教室で、一等最初に描いていただく対象です。(もう30年以上も描かせています)
誰でも、初心者でも、美大出でも必ず描かせます。
それを描くことにおいて、どれだけ、造形の意味、パースぺくティーブを理解しているかが如実に分かるからです。
机の上に置かれている箱とはどういう情況、世界なのかの理解です。
すなわち、三次元(現実界)を二次元(キャンバス、紙)に創りかえる仕事です。
単なる箱を描く訳ですが、それが、普通に思うほどそんなに簡単で容易でないことが分かります。
「平面では平行線は交わる」ということです。
一般定理である『平行線はどこまで行っても交わらないから、平行線なのである』という観念から脱却しなければならないのです。
なかなかどうして、これは言葉で言うのは簡単なのですが、いざ描くとなると、永年刷り込まれた観念から、それをひっくり返さなければならないのですから、これは至難の業なのです。
これまで、生徒達の100%がティッシュボックス(単なる箱)を描くことに四苦八苦でした。

四角形というのは、球体や三角形と同じようには、ある意味で世界における永遠の形、究極の形で、最も重要な形のひとつです。(少し違いますがセザンヌが言った様に)
わたくし達の日常の周りにも、見渡して観てください、大変多くの四角形が反乱しています。球体や三角形よりもづーっと多くあります。特に我が日本建築はそうです。

それともうひとつの理由は、実にシンプルで、感情移入ができ辛い無味乾燥でチープな工場製品であり、日頃見慣れていて何処の家庭にもあり、現在の消費経済、使い捨ての最たるものであるということも視野に入れた選びです。

故、こういうニュートラルなモノを描くのは、作者の感性と力量、思索が問われるのです。

精一杯頑張った彼女の作品を観てください。
彼女のコンセプトについては、やや脈絡の無い短絡した箇所が随所に散見されますが、それは今後に彼女が一生掛けて追求する仕事だと思います。


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ティッシュボックス'04-'09

ステイとメント
世界と自分の感覚とを繋げさえすれば
後は木炭を手にとるだけ

世界に浮かぶ船をひとつづつカウントする
しかし船は何度数えても同じ数にはならない

楽しくてはじけちってしまう船がある
空間のねじれを通り抜ける船もある
誰の意識ともつながらず空間をさまよい続ける船もある

蝶の幼虫が誰にも知られずに蛹になるように
船も誰にも知られずに変形してゆく

葉の裏の小さな世界が蛹を守るように
船にも守る世界がある

光の中できらきらと輝く世界
繊細で迷いのないの闇の世界
鈍く呼応しあう世界
それら全てを抱えて船は霧の中を進んで行く

<ティッシュボックス'04-'09 コンセプト>

約5年間にわたって、ニューヨークでの学生時代からその存在を追求してきた。

ティッシュボックスとは何か?それはどの様に空間に存在し、私に関係しているのか?

1960年代に日本で初めて箱入りティッシュが発売されて以来、どこの家庭でも
見ることができる。私が幼かった1980年代初頭は、使っていくうちに中の空間が
半分以上になると、ティッシュが出にくくなるので底にあらかじめ付いている底上げを
使わなければならなかった。いつの間にか箱自体が低くなり底上げが必要なくなった。
今では、その頃の約半分の高さになっている。私が描いているのは最近よく見かけるものではなく、昔の厚いものでもない。その中間のタイプである。その方がよりティッシュ
ボックスらしいと感じるのは、両極端の形を知っているからかもしれない。

幼い頃より毎日見ているティッシュボックスだから当然描けるはずなのに、5年前に
初めて描いた時は、変にイビツで床の上にそれが存在しているという意識を全く
持っていなかった。信じたくはなかったがそれまで、見えていると信じていた世界が
180度ひっくり返る瞬間だった。それ以来、ティッシュボックスという物自体ではなくその周りの空間を描くという意識を持つよう心がけてきた。

描きつづけるうちにティッシュボックスの周りの空間が動き出すのを感じるようになった。そして、描いているうちに何故か学生時代に知り合った世界中の人々のこと、彼らの悲しみ、テロや戦争の記憶、記憶の底に沈めてきた差別の理不尽な思い出、私自身の駄目な
部分などが思い出され、ティッシュボックスを描くことが私にとって何処か遠くて深くて大きな世界への入り口であるように思えてきた。単なるティッシュボックスではなく船と感じる理由はそこにある。

箱を木炭で描くことの意味は何か?
色をつけてみたらどうかと言われることがあるが、それではこの絵の本質から少し遠ざかる。
木炭の良さが消えてしまうからだ。
木炭で描いていると、昔は小枝を森から拾ってきてそれを燃やした物で描いていたのだな、と実感することがある。そこまでして時間を掛けて絵を描こうとするその心は、一体何なのだろう。今のレディメイドの時代とは違いすぎて想像しにくいけれど、殺伐とした現代だからこそ何かそういう時間の緩やかな流れが欲しいと感じる時がある。

ティッシュボックスを描き始めたのは、ニューヨークで絵を真剣に追求しようと決心した頃。
毎日何かが起きる場所でいくつものリアルでない情報が行き交うなか、自分だけの目を持たなくてはならないと張り詰めていた。その頃描いたものはまだ習作で未熟だが、重くしっかりとそこに存在している。

日本に帰ってきてからは、何処か浮ついた感じのするよりリアルではない箱を描くようになった。この素晴らしい日本の平和や安らぎは、私にとっては緊張感の欠けた堕落へと
つながりかねない。そして、自分だけ幸せならそれでよいという考え方に陥りそうになる。
もっと大きな世界の楽しさ明るさ、そして苦しみや暗さを感じ表現してゆきたい。
その意味でティッシュボックスを描きつづけることが私の中で重みを増してくる。