アカショウビン
>彼の性格が、アメリカで最近問題となっている「センセーション・シーキング」という傾向だということだ。この傾向は、絶えずハラハラ緊張していないといられない、ゆったり過ごすことができず、車を暴走させたり、酒やドラッグ(麻薬)におぼれ、死と隣り合わせのところに自分を追い込まないと生きている実感がわかない、というものだ。
★これは多人種国家で生じ引き摺る文明病の如きものと思います。文明とは人間にこのような変化を強いるというのでしょうか。我が国も米国ほどではなくとも、ゆるやかにその流れを辿っているように思います。それが突発的に秋葉原事件のような仰天する事件となって噴出します。
>だがアメリカはまだいい、あらゆる問題が隠蔽されず浮上し、そのことを追及する精神が巷にもまだ残っているから。その点日本の方が深刻でその闇はもっと深い。
★そこのところを更に深く考えていかなければならないですね。金満国家の経済的備蓄は精神的な逆の弊害を生みます。米国とは異なる土壌で日本だけでなく文明の弊害が生じているように思います。
ワコウ
アカショウビンさん
お返事が大変遅くなり申し訳ございませんでした。
決して無視していたわけではありません。
それどころか、ご示唆いただいたことをわたくしなりに咀嚼して、
「近代とは、文明とは、進歩とは何か」を本棚から取り出して以下の本をぱらぱらとひもどきながらつらつらと拙い頭で考えていたものですからすっかりお返事が遅くなりました。
今村先生から教わりました:
アドルノ
「啓蒙の弁証法」(ホルクハイマーとの共著)西洋文明=近代的合理性が必然的にもたらす非人間的側面(その行き着く果てがアウシュビッツである)をするどくあぶりだし、根本的批判を展開。
アーレント
「全体主義の起源」「人間の条件}「イェルサレムのアイヒマン」ナチズムやスターリニズムを生み出した現代社会=大衆社会の病弊を究明し、本来、労働・仕事・活動の三つから成るべき人間生活のうちから、近代にいたって労働だけが突出し、人間的意味をもった仕事と活動の役割が見失われ他ことに危機の根源を見出した。さらに、アリストテレス的・ポリス的な意味での公共世界、対話的共同体の意義を再発見した。
ウェーヴァー
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
資本主義のエートスを「職業人」の倫理にもとめ、それがプロテスタンティズムの「世俗内禁欲」に淵源することを論証し、宗教が合理化の推進力であることをあきらかにした。同時にかれは合理化過程・官僚制の進展はいつしか独自の運動をはじめ、管理社会化、内面的価値の喪失を招き寄せることを予見していた。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の結語の一節「精神なき専門人、心情なき享楽人」はそのことを示している。
フーコー
「狂気の歴史」「監獄の誕生」「性の歴史」
第一近代というべき17世紀~18世紀末にかけて、西欧ではそれまで寛容に共存してきた狂気が施療院のなかへ隔離されるようになる。それは形成しつつあった近代社会への適格条件に照らして、労働できない者、新しい家族・隣人関係を結べないものとしての狂気の排除であった。こうして狂気の排除によって初めて成立する近代的理性の本性をあばき、そのような理性は、本質的に抑圧的性質を有し、権力への迎合的服従が不可避であることを論証した。
これらから考えて、少しはましで、まとまったことを書こうかと思ったのですが、正直申しまして、それはわたくしには荷が重過ぎます。(笑)
ただ、思考した軌跡はそれほどずれていないと自負します。
>彼の性格が、アメリカで最近問題となっている「センセーション・シーキング」という傾向だということだ。この傾向は、絶えずハラハラ緊張していないといられない、ゆったり過ごすことができず、車を暴走させたり、酒やドラッグ(麻薬)におぼれ、死と隣り合わせのところに自分を追い込まないと生きている実感がわかない、というものだ。
★これは多人種国家で生じ引き摺る文明病の如きものと思います。文明とは人間にこのような変化を強いるというのでしょうか。我が国も米国ほどではなくとも、ゆるやかにその流れを辿っているように思います。それが突発的に秋葉原事件のような仰天する事件となって噴出します。
>だがアメリカはまだいい、あらゆる問題が隠蔽されず浮上し、そのことを追及する精神が巷にもまだ残っているから。その点日本の方が深刻でその闇はもっと深い。
★そこのところを更に深く考えていかなければならないですね。金満国家の経済的備蓄は精神的な逆の弊害を生みます。米国とは異なる土壌で日本だけでなく文明の弊害が生じているように思います。
ワコウ
アカショウビンさん
お返事が大変遅くなり申し訳ございませんでした。
決して無視していたわけではありません。
それどころか、ご示唆いただいたことをわたくしなりに咀嚼して、
「近代とは、文明とは、進歩とは何か」を本棚から取り出して以下の本をぱらぱらとひもどきながらつらつらと拙い頭で考えていたものですからすっかりお返事が遅くなりました。
今村先生から教わりました:
アドルノ
「啓蒙の弁証法」(ホルクハイマーとの共著)西洋文明=近代的合理性が必然的にもたらす非人間的側面(その行き着く果てがアウシュビッツである)をするどくあぶりだし、根本的批判を展開。
アーレント
「全体主義の起源」「人間の条件}「イェルサレムのアイヒマン」ナチズムやスターリニズムを生み出した現代社会=大衆社会の病弊を究明し、本来、労働・仕事・活動の三つから成るべき人間生活のうちから、近代にいたって労働だけが突出し、人間的意味をもった仕事と活動の役割が見失われ他ことに危機の根源を見出した。さらに、アリストテレス的・ポリス的な意味での公共世界、対話的共同体の意義を再発見した。
ウェーヴァー
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
資本主義のエートスを「職業人」の倫理にもとめ、それがプロテスタンティズムの「世俗内禁欲」に淵源することを論証し、宗教が合理化の推進力であることをあきらかにした。同時にかれは合理化過程・官僚制の進展はいつしか独自の運動をはじめ、管理社会化、内面的価値の喪失を招き寄せることを予見していた。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の結語の一節「精神なき専門人、心情なき享楽人」はそのことを示している。
フーコー
「狂気の歴史」「監獄の誕生」「性の歴史」
第一近代というべき17世紀~18世紀末にかけて、西欧ではそれまで寛容に共存してきた狂気が施療院のなかへ隔離されるようになる。それは形成しつつあった近代社会への適格条件に照らして、労働できない者、新しい家族・隣人関係を結べないものとしての狂気の排除であった。こうして狂気の排除によって初めて成立する近代的理性の本性をあばき、そのような理性は、本質的に抑圧的性質を有し、権力への迎合的服従が不可避であることを論証した。
これらから考えて、少しはましで、まとまったことを書こうかと思ったのですが、正直申しまして、それはわたくしには荷が重過ぎます。(笑)
ただ、思考した軌跡はそれほどずれていないと自負します。
若生さんが挙げられている上記の思想家は西洋哲学史のなかで大きな仕事を残した人々です。しかし更に西洋哲学を相対化した視角を切り開いていかねばならないと私は考えます。私は精読しているわけではありませんがパレスチナ人で確かアドルノの弟子でもあった筈のE・サイードの仕事は一覧する必要があるように思います。そして我が日本ではどうなんでしょうか。私も世に棲む間にそのサインぐらいは確認してみたいと思いますが。
美術の世界はどうなんでしょう。アーティストの若生さんはそれを自らの作品で回答していかれることでしょう。陰ながらご精進を期待しております。
<私にも荷が重すぎます(笑)。>
イエイエ、アカショウビンさんでしたら、急所を外さず描かれることと思います。
私など偉そうにカッコよく「荷が重過ぎます」なんて書いてしまいましたが、トンでもハップンのことでした。
<吉本氏が、思想でなく「倫理」と言う理由が何であったのか忘れてしまいましたが恐らく世界のどこかでそれは準備されているものと思われます。>
それが出て来るのを切望します。
<西洋哲学を相対化した視角を切り開いていかねばならないと私は考えます。私は精読しているわけではありませんがパレスチナ人で確かアドルノの弟子でもあった筈のE・サイードの仕事は一覧する必要があるように思います。>
あの時やはりサイード、チョムスキー、ソンタクらはいち早く9.11にコミットメントしました。
「オリエンタリズム」をちゃんと読んでみます。
<そして我が日本ではどうなんでしょうか。>
其処が問題です。
だから、保田與重郎や三島由紀夫等を掘り起こしていらっしゃるのでしょう。
<美術の世界はどうなんでしょう。>
アメリカでは、キャピタリズムへの表面的な跳ね返りや、多様な揶揄が多いですが、真っ向勝負の美術家はまだ現れていません。
ドイツでは、ボイス亡き後キーファーなどが頑張っているようですがある意味で一面的だと思います。イタリアの3Cなどもそれぞれの個としての頑張りはあっても、、、です。
<それを自らの作品で回答していかれることでしょう。>
トンでもございません。
それは理想で希望ですが、遥か遠くイムジン河です。(笑)
私などはゴマメノ歯軋り程度の事です。