若生のり子=誰でもポエットでアーティスト

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日日を豊かに遊び心

W ・ライプ 「ミルクストーン」

2007-11-01 | 現代美術
1995/98年 大理石、牛乳 6×67×83.5cm

「…時間こそがミルク・ストーンのまさに本質的な要素です。一方に石があり、他方にミルクがあり、両者はほんの短い間だけれども一つになるのです。」
〔W.ライプのことばより〕

会期中毎朝、約2リットルの新鮮な牛乳を大理石のスクウェアーの器?に注ぎます。
ミルクは腐りやすく1~2時間でピュアーでなくなり美しくなくなります。
大理石は欧米社会では美や永遠などの象徴です。
ミルキー(乳白色)な大理石を使っていました。

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5 コメント

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Unknown (アサクラ(だはね))
2007-11-01 17:09:38
ライヴは雑誌などでちらっと見ただけなので良くは知らないのですが、こういった何かに没入する作家には憧れますね。
私は常に私がどこで何をしているのか確認してしまいます。私が私自身をわかるところ、すなわちフッサールのいう事実的自我の範疇でしか生きていないと。
作家というものは時として自身をソリッドに出現させる為には、自身の一般定立としての私というものを、まさしく「私」と括弧つけて放置せねばならないものかとも思いました。
私も斯く在りたい。
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Unknown (nw0515)
2007-11-03 02:01:14
アサクラさん

そうですか。
かって、ノエシスーノエマ論に引っかかったことがありましたが、
絵を描くことは、私 と「私」とは別位相の“watashi”を発明、創造することかなと思ったりしています。
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Unknown (アサクラ)
2007-11-04 02:40:23
なるほど。
ひとつ疑問なのは、watashiという自我?は何を基盤に形成されるものなのでしょう?
私はかつてある美術評論家より「人のやっていないな事をしなさい。新しいものを創りなさい」と教えられ、それを根拠に自身の作家スタンスを形成しようと試みたこともありました。しかし、最近は新しいモノを創り出す事や既成概念を崩す行為に対して懐疑的になりつつあります。そのこと自体に拘束感を感じたりしています。最近誰かが「芸術は死んだ」と言った気持ちもわからなくはない感じでしょうか。
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自我とは何か (nw0515)
2007-11-04 22:26:04
アサクラさん

アサクラさんにとって、美術をやっていくことはどういうことなのかが抜けています。
そして、拘束感を感じているなんて美術家としてとっても不幸なことです。
昨日、へーゲリアン達とスピノザやロラン・バルト研究者たちのお酒の席に呼ばれました。門外漢のnw0515
でしたが7時間ほど彼らと(10人)ざっくばらんな面白い話をしてきました。
その中でヘーゲルの「精神現象学」の話が出てきました。「意思」「自己意識」「自我」についての話も出てきました。そこにヒントがありそうです。
今ドタバタしていて、じっくりとアサクラさんの問いに答えることが出来ませんが、この問いは重要ですので、いずれやり取りをしたいと思います。
明日から一週間ほど東京を離れますので。
ゴメンナサイ。
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Unknown (アサクラ)
2007-11-06 16:57:04
nw0515さん、こんにちは。

私にとって美術をやっていくとは、ビンボウするという事ですね。冗談です(でも的を得ていますね)簡単に言いますと、自身の感性・観念・意識・無意識の表現でしょうか。そういった意味では、制御されている自我や欲動といったものが混在する自由な自己表現の場だと考えています。

そこで、私にとって問題なのは『芸術とは既成概念を崩し、新しいモノを作り出さねばならない』という『観念』です。これは現代において『固定的』なのかもしれません。そうであるならばパラドックスですね。そして、このような『~~でなければいけない』というような潮流とでもいいましょうか、考え方に私自身、圧迫感を感じていることは事実ですね。かといって、既存芸術に対して加重保護活動を行うのがよいと言っているのでは有りません。要は、自由の有り様にも自由が必要なのだということです。もっというならば、自由も強制すると自由を奪いかねないといったところでしょうか。
だから当然、『芸術とは既成概念を崩し、新しいモノを作り出さねばならない』という考え方に賛同されている方を否定するものでもありません。
そういった観点から、既成概念を崩し、新しいものを追い求める事とは何なのか・・。そもそも、その行為が精神の自由を求めるものならば、アプローチの多様性を認める自由性は存在しないのかと疑問を感じずにはいられません。

んー、ヘーゲルは苦手ですね。
ヘーゲルの考えの、現実の中での合理性というに所に自身を取り込ませることによってしか理想を果たせない、という考え方自体に私は違和感を感じるところが多いですね。おそらくヘーゲルの持つ合理的世界観がマイノリティーやアノマリーを受け付けないところから感じるところなのでしょう。それに、ヘーゲルの哲学全てを否定するものではありませんが、弱肉強食や人類淘汰論的なものの流れを加速させる契機にもなったのかなと思います。現に第二次世界大戦中にはヘーゲリアンからファシストを多く輩出しましたね。話しが脇道に逸れました・・。

高野山、如何でしたか?
小学生の頃に遠足で行った記憶があります。とはいえ、幼少の頃の記憶なので、キツイ階段の記憶しかありません。
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