若生のり子=誰でもポエットでアーティスト

文字さえ書ければ、ポエット
感覚次第で、何でもアート
日日を豊かに遊び心

死刑執行

2009-01-30 | 死刑問題
昨日4人の死刑囚が国家によって殺されました。

森英介法相の執行命令は昨年の10月28日(2人)以来2回目。
今まで何度も書きましたが:(右下のカテゴリーの死刑問題を参照)
鳩山邦夫元法相が07年12月に死刑執行して以降、執行はほぼ2カ月に1回のペースで続きました。
昨年の執行者数は15人に上りました。
今や世界の3分の2以上(137)の国が死刑制度を廃止し、国連は一昨年と昨年12月の2回にわたりすべての死刑存置国に対して死刑執行の停止を求め、これに応えて死刑存置国は死刑の執行を減少させる努力をしてきたのですが。しかし、誠に残念なことに唯一我が日本だけが、世論(80%存置支持)を盾にして、この世界の趨勢から、甚だしく逆行しているのです。

国連自由権規約委員会が昨年日本政府報告書審査に対して出した最終見解で、日本が未だに代用監獄制度や、捜査段階の自白強要に頼る態度に対して、「より近代的、科学的証拠によるべきである」と、また「世論の動向にかかわりなく、締約国は死刑の廃止を考慮すべき」とし、厳しい批判をしていました。(フォーラム90より)

世論を口実に死刑廃止など、はなから考慮する気の無い日本の態度は国際的に厳しく非難されてしかるべきです。

どんな罪を犯した人でも、それが殺人犯でも、人権の尊厳はあるのです。
「生命の絶対的尊重」です。
「死刑」はこの最も基本的な人権、「生きる権利を冒す刑罰」なのです。

法は、犯罪者を真に反省させ、矯正・更生させることが主目的たるべきで、何の解決にもならないどころか、いつか恐ろしい帰結となるやも知れぬ「国家が合法的に殺人を犯す」ことを国民は容認してはならないと思うのです。


考えてみてください、想像してみて下さい。

生きている人を、生きたいと思っている人を、殺されることの恐怖に足が動かなくなっている人を、泣き崩れる人を、殺されることに精一杯の抵抗、叫び、暴れている人を、こういう様々な人達を独房から絞首台の階段の上まで連れて行き、死の恐怖に慄いている人に、白布を被せ、首に縄を掛け、足下の踏み板をはずし、吊り下げて、宙ぶらりんにして殺すのです。
絞縄が的確に嵌らずに、コト切れるまで時間が掛り、苦しみもがく凄惨極まる状態になることだってあるでしょう。当然失禁も脱糞も射精もあります。目は飛び出し、口から泡を吹き、鼻血も垂れるでしょう。
そして、その場はスゴイ凄まじい臭いがしていることは想像に難くないことです。
そして地下に待機していた検死の医官が二人それぞれに補聴器とストップウォッチを持って、地上30cm位でぶら下っている死刑囚に取り付き、脈拍の停止の確認とその時刻を報告するのです。

もう一度言います、この筆舌に尽くしがたい残酷な情景を想像してみて下さい。

これが、日本の死刑・絞首刑の実相なのです。

そしてこれらすべてを仕事としているのが刑務官達なのです。
任務とはいえ「人を殺した」という自責の念に彼らは一生苦しみます
命令を下した法相でも無ければ、「死刑にせよ!」「死刑にせよ!」と無責任極まりなく言い立てる我々世間でもなく、、。
また彼ら刑務官達も死刑制度の犠牲者なのです

昨日前述の光景が、福岡拘置所(一名)、東京拘置所(一名)、名古屋拘置所(二名)で在ったのです。