若生のり子=誰でもポエットでアーティスト

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「ハートロッカー」在米約8年間からの視点

2010-05-06 | 映画
冒頭 「War is a drug」 -「戦争は麻薬だ」のテロップ

映画の初っ端で、主人公と思しき人物が、爆発物の処理中に吹っ飛んでしまう。
普通これまでの映画やテレビの時限爆弾もののストーリー展開では、ハラハラドキドキさせられるが、結末は寸でのところで危機一髪を免れるというのがお決まりの筋書きなのだが、この映画はのっけからそれを打ち破っている。
ストーリーはあるようでない。ドキュメンタリー映画のように次々に課せられる過酷なミッションを爆発物処理班(EOD)の3人の主人公達が生死をかけて遂行していく過程を描いているのである。
爆発物処理班の任務期間のタイムテロップが流され、次々と極限状況の多様な戦場(死地)に立ち向かう、
さながらノンフィクションの戦争記録映画を観る様である。
いつ何時炸裂があり、大爆音と共に総てが吹っ飛ばされるかも知れないという予測不可能な緊迫感の息もつかせないぎりぎりの展開に、最後の最後まで精神の極度の緊張が解き放されることが無かった。

観終わった直後「嗚呼ーシンドイ映画だった」
というのが第一声。
それと最後のシーンで主役のジェームズが、また次の新たな365日の極限の任務の死地に、
意気揚々とまるでその任務に挑戦するのが生きがい、愉しみであるかのように降り立つのである。
これには、暗澹たる気持ちにさせられた。

こういう死を恐れないロボットのような人間を作る「戦争」、人間性を総て奪い取る「戦争」

またまた、やり切れなさを!

このシーンが「ハートロッカー」の一番のメッセージだと理解した。


ジェームスの生きがいは、死と隣り合わせの危険極まりない爆弾の解除作業という仕事、
そして爆弾を解除したときの達成感、
そして、死地から脱したときに感じる快感である。
そこに彼の最高の精神的高揚があるのが見て取れた。
それ以外は、彼の「生」においての実感は乏しく。
彼が爆発で吹っ飛んで頓死するまで、それは続く。
それが、彼の「死」の危険をいとわない「生」の充実感。
いわゆる戦争中毒なのである。

アメリカという国の在り方が、ジェームスに象徴されるような人間を醸成しているのです。

「それは何かが狂っているよね。」「それはないよね。」と思わせる。

戦場において「死」は隣りあわせだけれど、その恐怖を感じない兵士はいない。
それが人間というものだと思う。
「私はこの任務を遂行し生きて国に帰りたい」ともう一人の同じ処理班の兵士が言う。
それは、普通の人間の感覚を持った兵士の本音であろう。

だがジェームスは違う。

妻子と居る日常の幸せを幸せとは感じられない彼の「生きる場」はもはや戦場以外に無い。

だが、彼にとって悲壮感などは、無縁のもの。
間違ってもそんな柔な湿っぽさは微塵も無い。
あくまでも、ハード、クール、ドライ。

もう既にご存知でしょうが、ハート・ロッカーの意味は、
ハートとは、
怪我.傷.負傷.被害.傷害.ひりひり.傷創.創傷.傷痍.創痕.癒しがたい傷.避けられない傷害
肉体的だけでなく癒し難い精神の苦痛

「過大な精神的苦痛、負荷を強いる相手や物」という意味のスラングだとか。

キャスリン・ビグロー監督は、日常ではあり得ない戦争の悲惨さや残酷さ殺戮を、直球で見せるのではなく、また声高に反戦を唱えるのでもなく、ひたすらジェームスたちの米軍爆発物処理班の戦場での日常のリアリティーを記録するように描いているのです。

そして「戦場では、ジェームスのような人間が英雄になるのだ。」

といっているのです。

空恐ろしさを感じない訳にはいきませんでした。

通俗の反戦映画ではない、違う角度からの切り込みを感じ取りました。

海原純子さん(心療内科医)の「緊張でしか生きられない」というコラム
(毎日新聞「日曜くらぶ」4月4日付)が医者の世界からのハートロッカーの主人公ジェームスの性格にに触れていました。
以下はそれからの抜粋
<* 今年のアカデミー作品賞を獲得した映画「ハート・ロッカー」は、ハーバード大の研究室で話題になっていた。なにが話題だったかというと、映画の主人公の性格傾向だ。
イラクで爆弾を処理する兵士が主人公。彼は死を恐れず、あえて危険な場面に自分を追い込んでいく。
* 彼の性格が、アメリカで最近問題となっている「センセーション・シーキング」という傾向だということだ。
この傾向は、絶えずハラハラ緊張していないといられない、ゆったり過ごすことができず、車を暴走させたり、酒やドラッグ(麻薬)におぼれ、死と隣り合わせのところに自分を追い込まないと生きている実感がわかない、というものだ。
*事故や犯罪につながることも多いので、「センセーション・シーキングで死に向かうのはやめよう」というキャンペーンがテレビ放送されているほどだ。
*ゆったりと時を過ごせない若者は、日本でも増えている。問題は根深い。
*一般社会では問題児だが、戦場では英雄であり、しかも戦争でしか生きた実感を味わえない。>

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9・11をはさんで8年近く向こうで生活をしていた経験で、かって在った筈のよきリーダーとしてのアメリカの幻影が、良質のアメリカ人たちの精神構造から大きく崩れだしたのを肌身で感じました。
キャピタリズムの象徴であったあのスカイスクレーパーのワールドトレードセンターが、(日本人の建築家の設計だったということも何かの因縁)まさかの白昼夢の如くバラバラと噴煙と大音響と共にもろくも壊れ、その理不尽な因縁で世界中(日本もあろう事か、憲法違反を犯してまでもを自衛隊を派遣)を巻き込んで中東アジアに原爆ぎりぎりの爆弾を湯水の如く金に任せて撒き散らし、殺戮をほしいままにした付けが、また国内ではPTSD(posttraumatic stress disorder)で立ち直れないでいる帰還兵士達のことが大きな社会問題となり、そして、莫大な軍事費が国家財政を圧迫し、強い大国アメリカの威信がぼろぼろ崩れはじめ、失墜してゆく様を日常的に感じ取る事ができました。

また、精神病医(a psychiatristーサイカイトリスト)との関係は日本では、まだまだ偏見があるようで、一般的、表面的には馴染みが薄いようです。が、アメリカ社会では、日常的に普通の人が精神病医(a psychiatristーサイカイトリスト)との関係を蜜に持っています。
内科医のホームドクターを持っているように。

こういう事からしても、日常的な現代アメリカの精神の闇、病みは、底知れない。

だがアメリカはまだいい、あらゆる問題が浮上し、そのことを追及する精神がまだ巷にも残っているから。

日本の方が深刻でその闇はもっと深い。

なぜなら、何事も「まーまーまー」で誤魔化し、はっきりさせない方が良いというような風潮がいまだに下から上まで蔓延してしまっているのだから。

国家的大問題の密約問題を考えてみれば、容易にそのことが分かると思う。

またアメリカの「センセーション・シーキング」の若者と、無気力化された日本の若者とどっちが精神の闇が深いかは、どちらともいえないのではないか。


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