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「内村剛介ロングインタビュー 生き急ぎ、感じせくー私の二十世紀」に吉本隆明の激賞文

2010-07-29 | 時事問題
前述の石原吉郎と同じ戦争犯罪人として25年の刑で、シベリアに11年間抑留された、ロシア文学者で評論家の内村剛介は、著書『生き急ぐースターリン獄の日本人』などでスターリニズムを告発し続けてきました。
シベリア抑留の極限の体験をした両者ですが、告発を選ばず、自らの内に人間の本質を見ようとした石原とは対極にあります。

ネットで検索したところ

内村の「内村剛介ロングインタビュー 生き急ぎ、感じせく—私の二十世紀 」(2008/07 )に吉本隆明が、「真正面からの問いと、深い共感が導き出した稀有な記録」と激賞していますので、それを転載します。(石原の事にも少し触れています)

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吉本隆明
 この本は陶山幾朗がインタービュアとしてロシア文学者内村剛介に真正面から問いを発して、それにふさわしい真剣な答えを引き出すことに成功している稀有な書だ。周到な準備と確かなロシア学の知識・内村剛介への深い共感とが、おのずから彼の少年期からの自伝とロシア学者としての知識と見識の深い蓄積を導き出していて、わたしなどのような戦中に青少年期を過した者には完璧なものと思えた。わたしのような戦中派の青少年にとって日本国のロシア文学者といえば二葉亭四迷から内村剛介までで象徴するのが常であった。そして実際のロシアに対する知識としてあるのはトルストイ、ドストエフスキイ、ツルゲーネフ、チェホフのような超一流の文学者たちの作品のつまみ喰いと、太平洋戦争の敗北と同時にロシアと満洲国の国境線を突破してきた、ロシア軍の処行のうわさだった。中間にノモンハン事件と呼ばれるロシア軍と日本軍の衝突があったが、敗戦時のロシア軍の処行については、戦後になって木山捷平の作品『大陸の細道』が信ずるに足りるすぐれた実録を芸術化したものと思えた。あとは当時の新聞記事のほか何も伝えられなかったに等しい。
 太平洋戦争の敗戦とともにロシアの強制収容所について文学者が体験を語っているものは、内村剛介が時として記す文章から推量するほかなかった。わたしはおなじ詩のグループに属していた詩人石原吉郎の重苦しい詩篇をよんでそんなに苦しいのならロシアの強制収容所の実体をはっきり書いてうっぷんをはらせばいいではないかと批判して、その後詩の集りに同席したことがあるが、お互いに一言も口をきかずに会を終えたことがあった。彼にはわたしの批判が浅薄に思えたのだろう。わたしは彼の晩年の二つの詩「北条」「足利」をよんだとき、はじめて石原の胸の内が少しく理解できるかもしれないと感じた。
 陶山幾朗という無類の、いわば呼吸の出しいれまで合わせてくれるようなインタービュアを得て、この本は出来上っている。少し誇張ととられるかも知れないが、わたしには親鸞と晩年の優れた弟子唯円の共著といっていい記録『歎異抄』を思い浮べた。わたしなどには内村剛介が十一年のロシア強制収容所生活中だけでなく、帰国のあと現在にいたるまでロシア学についての専門的な研鑽を怠っていないことがわかって、たくさんの啓蒙をうけた。どうか健康であってもらいたいものだ。
 わたしがこの本につけ加えることは何もないに等しいが、この本がふれていないことと言えば、後藤新平満鉄総裁のもとで副総裁であった中村是公は夏目漱石の大学時代の心を許した悪童仲間で、是公から新聞を発行して助けてくれないかといって訪れている。漱石は胃病が思わしくないと断っている。それならただ見て歩くだけでいいから遊びにこいといわれて『満韓ところどころ』の気ままな旅を是公のおぜん立てでたのしんだ。公的な集りには一切かかわらなかったが、南満各地に散らばった悪童仲間に会い、二葉亭の故地も訪れていることがわかる。漱石のこの旅は『趣味の遺伝』に尾をひき、強いて言えば小説『こころ』につながっている。


是非読もうと思っています。

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石原が亡くなったのは、1977年11月15日。
内村は、1978年2月から「現代史手帖」に 「石原吉郎論」の連載を始め、12回に及び、後に「失語と残念 石原吉郎論」(1979)の題で出版された。
この「内村剛介ロングインタビュー 生き急ぎ、感じせく—私の二十世紀 」が出版されたのは2008年7月
吉本がこれに激賞文を書いたのは2008年ごろ。
そこに石原の事を<「北条」「足利」をよんだとき、はじめて石原の胸の内が少しく理解できるかもしれないと感じた。>とこのように書き込むということは、かれこれ30~40年の隔たりがありますのに、やはり、石原の事が、吉本氏の心の隅の引っかかりとしてはっきりとあったのだと思います。

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