若生のり子=誰でもポエットでアーティスト

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8月15日を前にして、 「愛を読む人」を観ての感慨と人間存在のシビアーさ

2009-08-07 | 映画
主人公のハンナは、「文盲」という死んでも明かしたくない秘密を抱えている。その秘密を隠し通すための強さとプライドが返って観る側に哀しさを呼び起こさせる。マイケルとの幸せな愛の時間にも、生真面目に働く日常の時間にもその陰が顔を覗かせ、ハンナが背負った人生の重さを感じさせている。笑うことを忘れたようにいつも険しい面持ちで、黙々と懸命に生きるハンナの孤独。
ハンナの大人の女の成熟した美しさに魅せられ、彼女とのセックスに有頂天になる初々しい15歳のマイケル。つかの間の二人の逢瀬であるがハンナの一生の中でも一番幸福を感じた一時ではなかったと思う。そして、突然の失踪。8年後の思いもよらぬ法廷での再会。
ハンナはホロコーストに関与した(SSの収容所看視員であった)戦争犯罪で裁かれているのだが、この映画では彼女を裁いている人たちを裁いているかのような視点も感じられる。

ハンナの問い「あなたならどうしましたか?」は裁判長に向けられる。

この重い問いは、また映画を観ている私たち観客にも向けられている。

ナチスを支持した戦前戦中世代のドイツ人とそしてナチス時代を深く反省することを教育された戦後のドイツ人、いやこの映画で描こうとしているのは、当事者になってしまった普通のドイツ人と、見て見ぬふりをすることができた普通のドイツ人かもしれない。
貧しくて文盲のハンナのような普通のまじめな人間が陥る、歴史の怖さ。

ここで日本人の私は、考えざるを得ないのです。
私達の国日本は第二次世界大戦の首謀国のひとつです。
一方的に「アジアの開放と大東亜共栄圏の建設」といった大義名分を掲げ、「大東亜」解放の「聖戦」として、アジアを欧米の列強から救うと言う欺瞞的名目で、堂々とアジアの国々を侵略し続け、2千万のアジアの人々を殺戮し続けたのです。

戦後日本とドイツとの戦争責任の意識の違いは、かの有名な「ヴァイツゼッカーの演説」のような認識を、日本政府が、また国民が一度ももったことが無いないという絶対的な無知と欺瞞です。

総てを軍部のせいにして、個々人の遣ったことを問わない欺瞞振りが横行しています。
戦争だったから仕方が無い、軍の命令だったから仕方が無かったと。

8月15日を前にして、
あの第二次世界大戦で日本人が遣ったことを、ドイツの大統領ヴァイツゼッカーが1985年のした演説を通して、真摯に我がコトとして受け止めたいと思います。
次のタイトルは、ヴァイツゼッカーの演説です。

話を映画の方に戻しますが
ハンナの過去に衝撃を受け悩む法科の大学生になったマイケル。
そこで法とは何かを問う。
その時々の国家のありようによっては法は変わる。
法は正義でもなければなんでもない。ただその国の為にあるだけのものである。

ハンナにとっては、戦争の責任をかぶることよりも、自分が読み書きの出来ない文盲であることを曝すことの方が、耐え難かったのだ。ハンナを救う為には、彼女のひた隠しにしている「文盲」を白日の下に曝さなければならない。結局マイケルは葛藤しながらもハンナの意志を尊重することに決めた。
判決は終身刑。
たとえ残りの人生を犠牲にしても隠し通したい秘密と、個人としてはあまりのも重過ぎる戦争の過去を背負ったハンナと彼女の慰みに再び「朗読者」として関わることを決めたマイケル。

ハンナの重すぎる過去に対して、マイケルの心もとなさが気になる。

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