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医科歯科通信  (医療から政治・生活・文化まで発信)



40年余の取材歴を踏まえ情報を発信

花の思い出

2015-03-26 07:55:22 | 雑記・断片・映像
こぶしの花や木蓮が咲く季節になると知人の歯科技工士(佐田さん・仮名)のことが思い出される。
その人は生真面目で研究熱心であった。
白衣姿は研究者や学者のような風貌でもあり、ラボでは社長ではなく「先生」と呼ばれていた。
ある歯科技工材料を開発したのに、なかなか薬事認可が下りなかった。
「いつになったら、認可が下りるのでしょうなね。何か問題でもあるのでしょうか」」と怪訝な顔をする。
頼まれたので、厚生省(当時)の開発課へ聞きに行く。
「どこからか、圧力がかかっているのですか」とズバリ聞いてみた。
「そのようなことは、ないよ」と歯科技官は否定した。
「こんなにあるんだ。簡単にいかないよ」と机上の書類を示す。
一人で裁くのに大変なのだろうと種類の厚さに目を留めた。
当時、参院議員をしていた木暮山人さんの会社が独占している歯科技工器材であり、類似製品に認可が下りないのを疑問視する人もいたのだ。
報告に行くと「まだ、時間がかかりそうですか」と佐野さんは落胆した。
佐野さんのラボの外にコブシと木蓮の花が見えた。
「来週、石神井公園で花見をするのですが、よければ来てください」と笑顔となった。
ラボの近くには作家・檀一雄の「火宅の家」があった。
「小説、読みましたか?」と聞かれたが、当方は小説をほとんど読まなくなっていた。
そして、「おもしろいですよ」と小説「火宅の人」を貸してくれた。
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映画「火宅の人」について: 家庭を捨て、新劇女優と同棲するなど、苦悩を抱えながらも自由奔放に生きた放浪の作家・壇一雄の自伝的同名小説を「蒲田行進曲」の深作欣二監督が映画化した人間ドラマ。

『火宅の人』は、檀一雄の長編小説で遺作である。
『新潮』1955年11月号より20年にわたり断続的に連載され、1975年に新潮社から単行本が刊行された。
没後に第27回読売文学賞と、第8回日本文学大賞を受賞した。



















川沿いの枝垂桜

2015-03-26 02:16:39 | 雑記・断片・映像
桜の季節である。
電車内では新聞、雑誌などを読んだりせず、車窓から景色を見る。
記憶にある桜の場所が脳裏に浮かんでくる。
確実に記憶の中の桜を目でとらえる。
公園の桜や川沿いの桜など。
河津桜がまだ咲いていた。
10日ぶりの東京であるが、途中下車して北松戸へ行く。
川沿いの枝垂桜が満開であった。
「あの鳥は、雁ですか?鴨ですか?」と橋の欄干に立つ70代と思われるご婦人に声をかけられた。
足が悪いのか、足どりが遅い。
当方が桜を見ている間、ほとんど歩みが進んでいない。
ご婦人は桜ではなく、水面に浮かんでいる鳥に目を向けていた。
「鴨でしょうね」と答えたが、雁であったかもしれない。
水面の鳥は取手の水路でも毎朝、見かけるが足音を聞いて10羽ほどの群れが鳴き声を立てていっせいに空へ向かって飛び立つので驚かされる。
午前5時ころだから暗いが、烏も鳴いている。
生ゴミを出す日は特に烏が集まってくる。
「桜が綺麗ですね」と当方が言ったがご婦人はやはり鳥を見ていた。
「鳥は育つと色が変わりますよね。鴨はあんな色でしたかね。頭だけが白いですね」
ご婦人は目がいいようで、約30㍍先の3羽の鳥の姿を目で追っていた。
小川を渡ると狭い道をトラックが左右から迫ってきた。
ご婦人は橋の階段を幼児のように降ってきた。
心配して振り返るとご婦人は階段に腰を下ろし、水面を見つめていた。


















誰にもできて、誰もやらないことをする

2015-03-23 07:11:49 | 雑記・断片・映像
昨日は、利根川の南側の小堀地区へ行く。
そこも取手市である。
知人の家へ集まったのは、5人で何時もの3分の1くらい。
先週は2名だけだったが・・・
集会では友人の体験談を聞く。
バブルが弾けたころを含め、3度の経営の危機に。
6000万円で建てた家を手放す手前まで追い込まれた。
だが人間、追い込まれてにっちもさっちも行かなくなった時、真剣となる。
人にも相談し、助言を求める。
率直に助言に従う。
もうダメだと思ったギリギリのところから打開策を必死に模索する。
1日5時間の奮闘。
「誰にもできて、誰もやらないことをする」
人の2倍、3倍努力をする。
スポーツの世界なら、かつてない練習をする。
勉強なら1日10時間。
相撲でも人の3倍稽古をする。
強くならないわけがない。
自転車なら1日200㌔を走る。
マラソンなら毎日40の㌔を走る。
70歳で東京マラソンに挑戦した八重洲町内会の役員の倉田さん(仮名)は毎日、10㌔~20㌔を走っていた。
元は出版社勤務であり、スポーツやマラソンとはまったく無縁であったが、定年退職後、散歩をはじめ、68歳になってからジョギングに切りかえたら、東京マラソンに出たくなった。
かつて勤務していた外堀通り沿いを走ってみたくなったのだ。
ともあれ挑戦し、何かを成し遂げることは素晴らしい。
経営危機を打開した知人の体験談に感動した。
今月で6000万円の家のローンも終わると言っていた。
会合を終えて知人の御夫妻に案内され、古利根を見に行く。
古利根は何と歩いて1分ほどの近い位置にあったのだ。
午後は牛久方面へ4人で行く。
友人の恩師の家などを訪問した。
当方も知人の家をついでに訪ねたかったが、8年も前のことで住所が分からない。
電話帳も街中で見つからない。
電話ボックスが街から消えたのだ。
実は次男の取手一高の平成7年度の名簿があったが、当方は父兄会の本部役員の一人であった。
当時の役員仲間を訪ねるのもいいかも、と思いついた。















font color="darkgreen">利根川は昔、現・取手市小堀地区の南にある「古利根沼」を含む流れが本流であった。 江戸時代の小堀は相馬郡井野村の一部、現在の取手市街とは地続きで、艀下船の河岸として栄えた(小堀河岸)。現在の古利根沼は、利根川が極端に蛇行している部分で、かつては氾濫を繰り返していた。

そのため、1911年(明治44年)から1920年(大正9年)にかけての改修工事で、利根川の流れを現在のように変えた。 蛇行部分は古利根沼として残り、県境もそのまま存在するため、小堀地区は利根川の右岸になり、左岸にある取手市域の大部分とは川で分断されることになった。 千葉県我孫子市とは地続きになったものの、南側に古利根沼が存在するため、道路で接続する箇所は東西側のみであり、また我孫子市側は農地であり同市の市街地とも隣接していない。 利根川右岸に分断された小堀地区の住民は市域の大部分を占める左岸地区への移動の不便さから渡し舟の運航をした。

西に2kmほど行けば利根川に架かる国道6号の大利根橋(右岸は我孫子市)があるが、そこまでの道(千葉県道・茨城県道170号我孫子利根線)は歩道が無く、道幅が狭いうえに大型車の通行量が多い。

小中高校のほか、市民会館などへ行くにも橋を渡ると遠回りになる。

茨城県の区域の内、利根川右岸にあるのは取手市小堀地区と猿島郡五霞町である。

なお小堀地区内には成田航空専門学校や乗馬クラブなどの施設も存在する。

水仙の花も多くの庭で咲いている

2015-03-21 13:54:11 | 雑記・断片・映像
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だが、それを図ったようにパソコンがフリーズ
日々、その繰り返しである。
仕方なく、新聞を読んだり、テレビを見ながら待機。
イライラがつのるのをなるべく回避する。

梅の花が散り、椿も花がそのままの形で落下。
木蓮が咲き、長持ちの沈丁花は色あせて、芳香も消えつつある。
早咲の桜の蕾みが膨らみ、一部花が開いた。
水仙の花も多くの庭で咲いている。
一番、多いかもしれない。
日本人は水仙が好きなのかもしれない。

パソコンのメールが中断

2015-03-11 13:05:20 | 雑記・断片・映像
パソコンのメールがまったく見られなくなってしまった。
原因が分からない。
色々試みたが復旧しまい。
パソコン自体のおかしい。
背景が日々、変わっている。
イラストか写真か判別できないような画面である。
景色であったり、動物など次々変わっていくのだ。
フリーズも増えている。












友人の松尾治さんの個展

2015-03-07 02:06:13 | 雑記・断片・映像


昨日は友人の松尾治さんから電話連絡があり、彼の個展へ行く。
昨年10月、東京・六本木で開かれた第68回二紀展(入選)で観た「悠久の時」(長崎県・西海市)ほか16作品が展示されていた。
場所は取手市白山4丁目3-11の本格画廊「瑞気集門」(洋画家の芥川正樹さんが代表を務める)
実は2月17日から開かれ、3月2日に終了していることを3月4日に知った。
「終わるはずでしたが、藤井市長が3月8日に観に来られるので延長しました」と言っていた。
3月6日まで知人たち220名ほどが訪れたそうだ。
松尾さんは長崎出身で、描いた「悠久の時」の巨木がある西海市に6月絵が寄贈されることになっていた。
松葉口忠雄画伯に師事して9年、彼の才能が開花したのである。
1947年(昭和22年)生まれの彼の洋画に傾ける情熱に感服した。
彼の自宅で作品を観たのは3年か4年前であっただろうか?
「10年続ければ専門家、20年続ければ大家になります。頑張りなさい」と当方は大学生時代に恩師に言われていたが、文学への道を断念した過去があり、絵を続けて9年の松尾さんの飛躍ぶりに目を見張る思いがした。























緑か?コンクリートかの地域住民の選択

2015-03-05 13:54:20 | 雑記・断片・映像


暖かい陽光に包まれ、草木が芽吹き始めている。
冬枯れの利根川河川敷も緑地公園の名称どおりに春3月、緑がわずかながら混ざり始めてきた。
また、通称グリーンベルトの盆栽の梅や水仙など彩りを取り戻しつつあった。
右側新道町内会のグリーンベルト、左側は八重洲町内会のコンクリートベルト。
毛虫を嫌って桜並木は伐採され消滅したが、水路の上を花壇にした新道とコンクリートで固めた八重洲の地域住民の好み/意識は二分された。
昨日は、花の名所の一つである井野天満宮へ行ってみた。
梅が満開となった。
花や木の名札を確認しながら散策した。
「このような花があったのか」と感嘆した。
クリスマスローズなどである。










































取手田中酒造の屋根裏展示と雛飾り

2015-03-04 10:06:51 | 雑記・断片・映像
取手最後のひなまつりの日、あいにくの曇り空であった。
風も強かった。数人で来られるご婦人方がお元気である。
男性は一人で来ていた。
そして高級カメラで撮影していた。
ご婦人方はほとんどカメラを持参していない。
見たものを記憶にとどめいる様子で、お仲間との「たわいのないおしゃべり」をして楽しんでいる姿が微笑ましい。









































屋根裏(2階の部屋)への階段は、独特なものだ。
戸棚形の階段となっている。












今年最後の「とりでひなまつり」へ行く

2015-03-04 09:16:18 | 雑記・断片・映像



知人の西田さん(仮名)に朝の散歩で出会う。
「道順 変えたの?」と問われた。
実は何時もより1時間遅く、帰る道ではなくこれから新道を東2丁目まで向うところであった。
午前4時45分、西田さんは散歩へ利根川方面へ向う。
何時もはその時間は当方は家へ戻る時間なのだ。
出会ったのはミスターマックス前である。
「ひなまつりみましたか?」と聞いた。
「見ない」
「そこの新道桜会館では甘酒、お汁粉が出ましたよ」
「そうなの。来年行って見よう。ではまたね」と手を振り西田さんは道を横断する。
今年最後の「とりでひなまつり」へ行く。
火曜日であるが、多くの人が各会場を訪れていた。
田中酒造の屋根裏を覗く。










































散歩以外、外出も減っていく

2015-02-25 10:29:51 | 雑記・断片・映像
毎日が日曜日
実際、今日は何曜日であるのか?
新聞を読む時間はたっぷりとある
それなのに、新聞3纸が日々溜まっていく
捨てられず新聞は積まれていくばかり
申しわけ程度に拾い読みして埃をかぶる月刊誌類に足がつまずく
テレビは子守唄が代わりに夜中から早朝まで消されずいる
ラジオもあるがこれも埃をかぶっている
散歩以外、外出も減っていく
パソコンの将棋は1勝もできずに20連敗
そしてパソコンの4人麻雀は3位か最下位
パソコンの囲碁は負けないので飽きてきた
元旦の決意も遠ざかるばかり




















工場見学をせずにゲストルームでビールを3杯

2015-02-21 20:39:33 | 雑記・断片・映像
実はキリンビールで工場見学をせずに、ゲストルームでビールを3杯も飲んでしまった。
「ここは工場見学をした人だけが入れる場所です」と係りの女性に注意されてしまった。
「勝手な人なんだから、ホント呆れる。お客なのできついこと言えなっただけなんだからね!」家人に指摘された。
工場見学は過去2度しているが、まずかった。





















死んだ夫が呼んでいるのかもしれない

2015-02-21 19:30:53 | 雑記・断片・映像


取手ひなまつり
11時から坂東太鼓の演奏。
バス停のベンチにマスクをした長男の友人の渡辺君(仮名)のお母さんが座っていた。
聞くところによると、がん病院の帰りであった。
「夫が亡くなり13回忌なので夫が呼んでいるのかもしれない」と肩を落とし、弱気になっていた。
「口内炎だと思っていたら、段々痛くなり、今は痛くて食事ができない」と言っていた。
来週、手術だそうだ。
かなり深刻な症状で抗がん剤や放射線などの治療はせず、手術する以外ないそうだ。
それも難しい手術になりそうだと不安な気持ちも訴えていた。
「会えて良かった。死ぬまもしれない」と家人に述べていた。
「旦那さんとはあまり仲が良くなかったでしょ。旦那さんが呼ぶわけないわよ」と家人が慰めた。
「苦労ばかりしてきて、渡辺さん気の毒ね」と家人は同情した。
坂東太鼓が始まる前にバスが来て、渡辺さんは自宅へ戻って行く。
無料の巡回バスが来る前までで、ひなパレードを見た。
保育所の幼児や各幼稚園の幼稚園児たちがたくさんが取手駅前に集まってきていた。
バスに乗って川口自動車(藤代ギャラリー)へ向う。
ここで日本茶、コーヒーをいただき桜餅を食べた。
ついでキリンビール取手工場へ行く。
ビールを3杯いただく。
その後、白山ギャラリーへ向う。
ここで草餅と甘酒をご馳走になる。
琴の演奏を聞く。
歌ってくださいとプログラムを配布。
5人全員が師範で、3人が東京芸大卒と司会者が紹介した。
最後に「を向いて歩こう」を演奏。
参加者たちも合唱した。
家人取手駅で別れ、新道さくら会館へ巡回バスで向う。
役員たちも来ていた。
ここでは甘酒ろウーロン茶をいただく。














アメ横も様変わりしてきた

2015-02-21 07:06:57 | 雑記・断片・映像
○ 冬枯れの 土手行く人よ 春間近










1日を如何に過ごすか?
早朝散歩 それから午後、利根川の土手に沿って取手駅方面へ向う
途中、梅の花を見る。
新道へ出てから、取手ひなまつりの店を覗いて歩く。
喫茶店、呉服屋、漬物屋、酒屋などの雛飾りを見て回る。
午後2時30分ころの常磐線で東京方面へ向う。
新聞を読み、車窓の景色を見て、居眠り。
上野駅から久しぶりに浅草へ向かおうとしたが、上野駅広場で千葉の物産展を見てから、千葉県の酒を飲む。
それから花屋を覗く。
アメ横に脚を向けた。
「お酒が飲めます」と幟がある出店もあり、そこでは新鮮な刺身や魚介類が食べられる。
アメ横も様変わりしてきた。
居酒屋は寒さ避けのビニールテントで覆われている。
若い女性たちも3時20分ころからビールなどを飲んでいる。
時代も変わったものだ。
東南アジアの人たちも屋台で飲食し、大声でおしゃべりをしていた。
笑えも絶えず陽気である。
歯科商社へ顔を出し、コーヒーをいただく。
ワイドの画面が普通と思ったが、知人の卓上のパソコンに映る当方の写真は半分しか見えない。
何の写真なの分からないのだ。
写真を小さくする必要がある。
それから、湯島天神へ向う。
予想以上の賑わいであった。
青春時代のデートコースであった湯島、上野界隈である。
湯島のホテルに泊まったことも思い出された。
その後、御徒町から何時ものコースで新橋へ向う。
SL広場のSLはまだ工事中でシートに覆われていた。
待合の場所であり、テレビの取材の場であり、居酒屋の客引きの場でもあり、右翼の街宣伝の場でもある。
「未来予測研究会」のあとに酒と食事をして、午後9時過ぎに帰宅。

携帯電話料金 12月請求金額が11万577円に唖然

2015-02-17 04:38:08 | 雑記・断片・映像
NTTファイナンスからの12月請求金額が11万577円に唖然とした。
理由を聞くと、FOMAパケット通信料であった。
何と71万6351パケット。
これが8万8107円。
パケット定額料372円に入っていなかったのだ。
家人がいらないと言って契約したのだ。
実はカメラが故障してから、携帯電話のカメラを使用し、その写真をメールで自分のパソコンに送ったのだ。
写真1枚をパソコンに送信すると仮に1枚2000円として、それが8万円にもなったのだ。
「教えてくれるべきだ。契約書のどこに書いてあるのか」と抗議した。
結局、相手は「とりあえず振り込んで下さい。50回払いでお支払いします」と言う。
「50回払い、4年もかかるのではでないか!納得できない」と憤慨した
「では、改めて連絡します」と相手は言う。
取手の近くのドコモはつぶれて、市役所の前に移転していた。
その前は取手駅前にもあったが、その店もなくなった。
救済措置として、1回払いで1月2日に銀行引落し分の8万円余が2月13日に、銀行口座に振り込まれた。
ところで、1月請求分はパケット定額4200円が入っていた。
このままにすると、来月も4200円を取られる。
そこで、パケット定額料372円に入ることとして、4200円のパケット定額は外してもらう。
通常なら1300円ほどの携帯電話料金が、1月分は5872円になっていた。
このために自宅から約4㌔、ドコモの店まで歩いて行く。
帰りに白山の商店街でギャラリー彩「岡部商店」に寄った。
吊るし飾り、ギャラリ―の雛飾りなどを見た。
甘酒をいただく。
























戦後70年「千の証言」

2015-02-15 09:59:18 | 雑記・断片・映像
★「日本のテレビは見られない。浮き過ぎなんですよ。笑いで時間を潰しているでしょ。食べ物と旅とアチャラカでしょ」
「アチャラカ?」
「わーわー言うこと。お笑いの人をバカにしているんじゃないんですけど、大人じゃない、ひどく幼児化しましたよ」
「とにかく全体に日本の番組は幼児化なんです」
「旅活」
毎日新聞―作家・曽野綾子さん
同感である。
★戦後70年「千の証言」は毎日新聞とTBSテレビの共同プロジェクト
元兵士たちの体験を紹介した。
今回は「銃後」の日常。
「戦時下の暮らし」を特集。
生産や労働、言論、教育から家庭まで、あらゆる分野が戦争を遂行する体制に組み込まれていった。
先日の取手の地元の会合では、当方が質問するかたちでみなさんの戦争体験を語っていただいた。
これまでの会合で、みなさんの戦争体験を聞き出したのは始めてであった。
セピア色の軍服姿の写真が部屋に掲げられている中川さん(仮名)の居間。
「主人の父親は昭和19年、フィリピンで戦死して、1歳の主人は父親の顔も知らず、可愛そうなことをした。夫に死なれてお母さんは女手で4人の子どもを育て大変だったと思いますよ」
普段、質問を投げかけても「私は何も話すことありません」と微笑んで沈黙している稲垣さん(仮名)も自ら戦争体験を語りだした。
学童疎開の話であった。
東京大空襲を体験した高山さん(仮名)の体験談、その東京の炎を茨城県の藤代から見たという松代さん(仮名)の話や当時の中島飛行場に勤務していた父親の関係で転勤先での話や空襲が少なかった和歌山県の話、さらに終戦後、占領軍兵士たちを恐れた15歳のこころの話を高山さんがした。
「夜で静岡のおばのとことへ行くに怖くてね。交番へ行ったら“交番に泊めるわけにはいかないから、静岡駅で泊まりなさい”と言われ行ってみたら、たくさんの人が泊まっていたのよ駅にね。鬼畜米兵で育てられたでしょ。ともかく米兵が街にたくさんたむろしていたので怖くてね」
「チョコレートやガムをもらってアメリカの兵隊さんは怖くなかった」と田村さんは5歳のころを語った。
悲惨な体験話はなかったので、ほっとした。