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医科歯科通信  (医療から政治・生活・文化まで発信)



40年余の取材歴を踏まえ情報を発信

鍛え、生き抜き、人生の喜びを享受するか

2015-05-18 15:00:33 | 受けとめる力
「いざ」という段階に来た時に、人はその実力、真価が試されるのだ。
ピンチをチャンスに変えると期待される場面だ。
あるいは、チャンスが来た時にそれを活かして、確実に勝利への結果につなげられるかどうかなのである。
プロ野球を見ていて、チーム全体の流れが最悪な状態に陥る場面をしばしば目にする。
突破口がどうしても開かれず、全選手が空回りしていく。
序盤の再三の好機に決定打が出ない。
1-0で負けており、せめて同点で9回を迎えたい場面なのだが、その1点が遠い。
「いかに自分の選んだこの世界で耐え、鍛え、生き抜き、人生の喜びを享受するかが、自分自身にとって大事なことなのだ」













既存の価値観を脱し、本質に迫ろう

2015-05-18 02:51:15 | 受けとめる力
自分の中のルーツに迫らなればなりません

文化や芸術は、人を救うものである-というのが、私たち芸術に携わる者の一つの信念です。
書くことによって人の心を動かし、いわば心を耕す。
固定していた人々の観念を広げる力がある。
そのような仕事をしたいというのが、作家になった動機でもありました。
戦争というものは、人間の心を硬直化させ、独善的にさせる最悪なものですね。
そういう固まった人々の心を耕して、人間本来の姿に戻す力が文化・芸術にはあると思っています。
時の流れに任せ、真実を求めない-この「日本の病根」は、現代も続いています。
自分自身にたどり着くためには、自分の中のルーツに迫らなればなりません。
自分という存在を知り、自分の本質を見極めることが、より確かな人生を開いていく。
作家・安倍龍太郎さん
安倍さんは若者に語り掛ける。
「既存の価値観を脱し、本質に迫ろう」と。














政治介入から自由でありえあない

2015-05-16 21:57:34 | 受けとめる力
メディアと政治どのような日常の営みも政治的であり、政治介入から自由でありえあない。
国家よりも、むしろ家族や友人、学校や会社などの内部で生み出される力関係が社会全体を制御する基盤である。
メディアと国家権力の共犯関係の下で機能したということだ。京都大学教授・佐藤卓己さん
「われわれ古い編集者にいい得ることは、もし将来、再び暗い時代が来た時、敵は外にあると同時に、もっと強く内部にあると覚悟してもらいたいことである」
「文藝春秋」の元編集者(戦後は社長)・池島信平の回想録から引用
抵抗の拠点は一つでなく無数にあり、こうしたランダムに発生する抵抗を国家権力は完全に排除することはできない。
この偏在する抵抗点が戦略的に結びつけられたときはじめて政治的変革は可能になる。
その有力な装置がメディアであれば、「政治介入は許されない」というお守り言葉に安住すべきではないだろう。
「大阪朝日新聞」は三井銀行を通じた明治政府の秘密資金援助によって全国紙に発展した。
憲法改正という議題に「中立」はありえない。
国民もメディアもその覚悟が問われている。佐藤教授

先輩たちの言葉に、改めて真摯に耳を傾ける必要が

2015-05-14 21:04:46 | 受けとめる力
生前彼が唱えたことに「反省力ある愛国心」「国家前途問題への洞察」という二つの言葉がある。
我々は先輩たちの言葉に、改めて真摯に耳を傾ける必要があるまいか。脚本家・倉本聰さん

朝河貫一(1873~1948)は、日露戦争後に『日本の禍機(かき)』(1909年)を著し、日本が排他的な大陸政策を取り続ければ、将来日米間に戦争が起きるかもしれないと警鐘を鳴らした。

朝河貫一の「日本の禍機」は、ポーツマス条約からの約5年間に起こった日本とアメリカの満州・支那に対する対応についての朝河の所感を纏めた書である。
所感というよりも、日本に対する諫言の書といってよいかもしれない。当時の日本の為政者・知識人がこの書を読んだら胸を痛めたに違いない。
 朝河貫一はあまり有名な人ではない。
エール大学の名誉教授で、専門は比較法制史である。
比較法制史の世界では知る人ぞ知る偉大な人物である。朝河は1873年に福島県に生まれ、安積中学校(現福島県立安積高等学校)、東京専門学校(現早稲田大学)を首席で卒業し、1896年にアメリカに渡った。以来、1948年(昭和23年)までほとんどアメリカに居住した。敬虔なキリスト教徒でもあった。
 この経歴が示すように、朝河は、日露戦争以後の日本の姿を熱い眼差しで見ていたのである。
朝河は学者の目も教養人の目も持っていた人である。
 朝河はなぜアメリカが反日感情を持ったかについて、結論めいていうと、それは日本が満州を<独り占め>にしたからだと喝破した。
 アメリカは日露戦争のとき、日本に友好的な態度を示した。
アメリカ(だけでなくその他のヨーロッパの国々も)ロシアの南下政策をおもしろく思っていなかった。支那の主権回復と欧米と日本が自由にかつ平等に支那とつきあえる機会均等をアメリカは強烈に望んでいた。日露戦争はまさに、支那の主権回復・機会均等を旗印にした戦いであった。だからこそ、アメリカは日本に友好的であったのだ。アメリカは日露両国の調停をし、ポーツマス条約を結ぶにおいては多大なる貢献をした。
 ポーツマス条約以後、日本がとった行動はいかなるものであったか。
日本は我が物顔に満州を占領しようとしたのである。支那の主権は認めず、日本以外の他国の貿易に対して満州を閉鎖的にした。日本は公然とポーツマス条約の公約を反故にしたのである。これに対してアメリカは当然おもしろくなかった。
 アメリカは原則を守りながら、国益を守るために動く国である。ルーズベルトは最終的にはアメリカの国益のために日本を応援したのである。
 歴史にifは禁物であるが、もし、日露戦争後、アメリカの鉄道王ハリマンの南満州鉄道の日本との共同運営の提案を、小村寿太郎が却下しなければ、間違いなく、日本とアメリカの関係は違ったものになったであろう。
 人と人の関係もそうであるが、国と国との関係においても<独り占め>は責められる行為である。
朝河は口を極めて、日本を諫言する。
 朝河はこのままでは、将来、日本とアメリカが干戈を交えることを予見する。
そして、実際にその予見は見事に的中した。

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私は「日本の禍機」を読んで、歴史には原因と結果に関する明確な法則性があることを痛感した。
Author:作文道場
夢をつかむヒント満載!

言葉にできるのは半分だけ

2015-05-13 15:26:21 | 受けとめる力
誰も耳にしながら聞いいていなかった声、目にしながら見ていない風景を詩に残した長田さんが亡くなった。
詩人・長田弘さん死去 : 特集 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

2 日前 - 柔らかな言葉で物事の本質を伝える詩で知られ、本紙くらし家庭面「こどもの詩」の選者を務めた詩人の長田弘(おさだ・ひろし)さんが3日、胆管がんのため死去した。75歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は長男、敦(あつし)氏。

福島県福島市生まれ。福島県立福島高等学校、早稲田大学第一文学部卒業。

1960年、詩誌「鳥」を創刊。雑誌「現代詩」「詩と批評」「第七次早稲田文学」の編集に加わる。1965年に詩集『われら新鮮な旅人』でデビュー。以来詩人として活躍する。代表作は児童向けの散文詩集『深呼吸の必要』であり、ロングセラーとなった。詩集の他には評論、エッセイなどの著書がある。1971年 - 1972年までアイオワ大学国際創作プログラム客員詩人を務めた[1]。NHKのオピニオン番組『視点・論点』にも出演した。読売新聞の「こどもの詩」の選者を、死去した川崎洋に代わって2004年12月から2015年5月まで務めた。

2015年5月3日、胆管癌のため死去[3]。75歳没。

アメリカ文学者で早稲田大学教授の青山南は弟。
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私にとっては「言葉の恩人」のような人だ。
「言葉を尽くしても何も書き切れない気がするんです」。
取材にかこつけ、東日本大震災後の悩みを打ち明けた私に、あの日、長田さんはほほえみながらこう言った。
「言葉にできるのは半分だけ。でも書くことは、言葉にできない残り半分を大事にすることもあるんです」
だから、あきらめず書き続けなきゃ。猫みたいな目がそう言っていた。
書き切れない残り半分を大切にするためにこそ、言葉があるんだから、と。永遠の宿題みたいな言葉もいただいた。
「死者の言葉を拾い上げ、今の言葉に変えていくんです。
もはや変わることのない死者の言葉を、一つの意味に閉じ込めることなく、そこからより多層的で豊な意味を見出していくことは、生きる者の役目です」。
私はこれからもきっと、迷うたび、彼の詩に立ち戻るだろう。
<ことばって、何だと思う?けっしてことばにできない思いが、ここにあると指さすのが、ことばだ。>
そのな長田さんの詩の一節をいつも心に置きながら、原稿を書いている。
新緑のまぶしい季節、大きな木をふり仰ぐみたいに、果てしなく続く海を見に行くみたいに、もう一度、長田さんに会いたい。
毎日新聞 夕刊部 、小国綾子さん

軍事によらない本当の「皇道」

2015-05-09 23:41:47 | 受けとめる力
谷千城とか勝海舟は小声で自重を求めたのに対し、「敢然として世論に抗して自説を世に問うた」荒尾精

明治の時代にこのような人物が存在した!


荒尾 精(あらお せい、安政6年6月25日(1859年7月24日) - 1896年(明治29年)10月30日)は、日本の陸軍軍人、日清貿易研究所の設立者。
日清戦争の最中、「対清意見」「対清弁妄」を著し、清国に対する領土割譲要求に反対した。日中提携によるアジア保全を唱えた明治の先覚者である。
『対清弁妄』(たいしんべんもう)は、荒尾精の最後の著作(1895年3月出版)。日清戦争後、日本は清国に対し領土割譲や賠償金を要求すべきではないと訴えた。


近代日本では、軍事的勝利によって領土、賠償をできるだけ多く獲得するのが軍人たちの「御国への奉公」だと考えていた。
日清戦争後の下関条約によって、日本は台湾と遼東半島(のち三国干渉によって還付)を獲得し、さらに当時の邦貨で3億6000万円の賠償金を獲得した。
これはこのころの国家歳出額の約2倍にも達する。
いわあ戦争太りになり、日本の軍事力はこの賠償金によって一気に拡充していった。
これが昭和軍閥を生む素地だったのである。
歴史上に、このような人物が存在していたこと、そして荒尾のような識見はすでに昭和を予見していたこと、その2点を私は改めて確認したのである。
この種のタイプを歴史から浮かびあがらせて、いま昭和史を検証する必要がある。
ノンフィクション作家・保坂正康さん

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荒尾は日中両国が互いに貿易を盛んにして国力を強くし、日中が連携して西欧列強の侵略に対抗しなければならないと構想していた[2]。日清戦争はこの「協同防御の大義」を理解しない腐敗した清王朝を倒す「義戦」であり、勝利後は中国を改造して、日中連携を図るべきであると主張した [3]。もし日本がこの「大義」を忘れ、勝利の余勢を駆って清国に対し領土割譲や賠償金を要求すれば、西欧列強も必ず介入して同様の要求をし、結果として清国は四分五裂し大混乱に陥って、「日中連携」「貿易富国」は達成できなくなることを危惧した。しかし、荒尾の訴えは当時の日本の政府と世論には届かなかった。荒尾の予言通り、1895年(明治28年)4月西欧列強(ドイツ、フランス、ロシア)による三国干渉を惹起し、遼東半島を清に返還せざるを得なくなった。一方、列強はこの干渉以降、中国の分割支配に本格的に乗り出すことになった。列強は清に対して対日賠償金への借款供与を申し出て、その見返りに次々と租借地や鉄道敷設権などの権益を獲得していった。
以下に「対清弁妄」における重要な記述を抜粋した[4]。できるだけ現代語に改めた。
およそ物には先後の順序がある。時に緩急の時機がある。領土大割譲の事は、しばしの間その正義不正義をあえて問わないとしても、これを今日に行うとするのは、はたして順序と時機とを得たものだろうか。
明治政府が文明開化の風を奨励すること二十余年、政府も民間も等しく西洋の文物を取り入れるのに急であり、東亜(東アジア)の事物を全く顧みず、東亜の安危興亡はほとんど第一に清国の治乱向背によって分るはずであるにもかかわらず、我国の人々が清国を見るのは、越人が秦人の肥瘠を見るよりも冷淡であり、戦争状態となっている今日に及んでも、なお未だ中国の実力真相を見ようとしないというひどい状態である。幸いに英明な大元帥陛下の御威徳と、歴代天皇が数千年間に渡って陶養された忠勇尚武の元気に頼り、海陸に勝利を得ることができたと言っても、国民が東洋の将来の経営に対して必要な準備と覚悟とは、まだ一つとして備わってはいない。それに加えて西洋列国の東洋における二十余年の経営を見ると、外交や軍備に、貿易工業の実利に、慌ただしく活動して不完全な点はなく、いわゆる西力東漸の趨勢は潮の海に涌くがごとく、その意志を養い機会を覗う情勢は、虎の嶋を負うがごとく、殊に中国の景勝肥沃の地は、あたかも彼等が涎を垂らし牙を嗚らして、瞬時も視線を転じないところである。
この時に当たって、沿海の小さな島々を移動するも、たちまち東洋の過機(災難が生じるきっかけ)を発生させるに十分である。まして今一省または多省の景勝地や肥沃な土地を取り上げて、我国の領土に加えようとしている。これが果して時の機宜を得るものと言えるであろうか。ことに国民の覚悟と準備と、未だ整頓せずして、ついにこの一大難事を成功させようとしている。これが果して物の順序を誤っていないと言えるだろうか。
我国は連勝の余勢をもって、これを求め、清国は連敗の余喘をもってこれに応じている。求める所が大きいとはいえ、応じる者は拒むことができないとは、議者の想像する所であろう。思うに清国自身が抵抗する力を失っているということであろう。
我国だけが知らないのかもしれないが、その涎を垂らし牙を鳴らして虎視眈々としている列強諸国が、はたして手をこまねいて座視し我国のなすがままにさせておくだろうか。あの英国は、平壌黄海の勝利の知らせが達するか達しないかの時に、早くも連合干渉の議を提起したではないか。当時他の諸強国がその議に賛同しなかったといっても、どうして彼らが皆我国の大胆な行動を許すだろうか。英国の提議は一旦は敗れたと言っても、他国の提議が再び出ないとは保証できない。連合干渉の議は、一旦退けられたと言っても、単独干渉の策が陰で実行されないとは保証できない。交戦中の干渉案はしばらくは頓挫したと言っても、決戦後の干渉案は、相次いで試みられないとは保証できない。いったん干渉が四方に起り、ごたごたして収拾できない状態になるならば、我国は一体どのようにしてその希望を遂げようとするのか。名目が正しく物事の手順も正しく、少しも非難するところはないとしても、それでもいろいろ食い違って容易にその目的を遂げることができないことを恐れる。それなのに、まして名と事といまだ全く正順を得ていないものを。
今一歩を退いて、我国はよく百難を排して領土割譲の希望を遂げるべきであると仮定しても、他の列強諸国がどうして我国だけが利益を得ることを許すであろうか。
さきに英国が協同干渉の議を発したときに際し、他の諸強国がこれをしりぞけたのは、全く英国が優先的利益を独占するのを忌避したからではないか。この推量から考察すれば、もしある日我国が清国の一省を取ったとしても、すぐに彼等も各一省を取らないならば満足しないであろう。自国に有利な方面を切り取るのではないか。すなわち彼等もそれぞれ、その利便とする地域を切り取らないならば満足しないであろう。これを要するに我国が領土大割譲を求める時は、すなわち列国が中国分割の野望を行うの暁であり、我国が一省一郡を領得するの日は、すなわち清国が四分五裂して豺狼の爪牙に掛かるの秋である。そもそも清国はすでに四分五裂に陥っている。赤毛碧眼の異種族は、中原に跋扈している。この時に当たって一省一島の新領は我国に何の利益があろうか。我国一国だけでは何事もできず、東洋の大事はついに為すことができないであろう。
さらに、誠実で優しい心をもって相手の苦しみを取り除き安楽を与えることが緊急を要し、これをどうしてもやらなければならないという時期でないのならば、領土割譲の事はまだ急いて求めるべきではない。
もしいたずらに戦勝の威勢に任かせて、敵国の失勢に乗じ、彼の土地人民を奪って我国の領土拡大を意図するならば、それは後患の伏する所、禍根の芽生える所であり、必ず戦慄すべきものとなるであろう。

頭山満の荒尾評
玄洋社の頭山満は荒尾の死後次のように語った。
余は大に荒尾に惚れて居った、諺に五百年に一度は天偉人をこの世に下すと云うとあり、常時最も偉人を憶うの時に荒尾を得たのであるから、この人は天が下せし偉人その人ならんと信ぜし位に、敬慕して居った。
彼の事業は皆その至誠より発し、天下の安危を以って独り自ら任じ、日夜孜々としてその心身を労し、多大の困難辛苦を嘗め、益々その志を励まし、その信ずる道を楽しみ、毫も一身一家の私事を顧みず、全力を傾倒して東方大局のため蓋くせし報公献身の精紳に至っては、実に敬服の外なく、感謝に堪へざる所であって、世の功名利慾を主とし、区々たる小得喪に齷齪(あくせく)する輩と、全くその選を異にし、誠に偉人の器を具え大西郷以後の人傑たるを失わなかった。   
彼の徳望、識見、容貌、何れも偉人の風格を存し、凛乎たる威風の裡に、一種云う可からざる柔和にして、かつよく人を安んじ、人を魅するの魔力を持って居った。この人ならば 必然東亜の大計を定め、醇乎としてその主義を世界に普及し、頗る後世を益するの鴻業を成し遂げ得ぺしと信じて居った。然るに絶大の抱負経綸を有し、徳望識見共に超凡絶群なるこの人にして、中途に逝去せんとは、実に思い設けざる所であった。彼の死するや、根津は余に書を送り、この時においてこの英傑を奪い去るとは、天は何の意ぞと、非常に痛恨の意を洩したが、余も畢生の恨事として真に同情に堪えなかった。余荒尾を信じ、かつ敬慕したるは、実にこの位であった。
・・・・
荒尾の崇敬して居った人物は、三代頃の人物では夏の禹王抔を慕い、日本では南洲を敬慕して居った。












ヴィットリオ・グリゴーロの歌

2015-05-08 03:25:17 | 受けとめる力
インターネットは実にありがたい。
改めて思った。
新聞の音楽欄でイタリアのテノール歌手・ヴィットリオ・グリゴーロの歌を観ることができたのだ。
「パヴァロッティの再来」「ヴィラゾンの後継」と称されているそうだ。
なるほど、すごい歌手が存在するものだと驚く。
「その美声はホールの隅々まで浸透していき、会場は静まりかえる」音楽評論家・伊藤よし子さん
幼いころ美しい歌声を見出され、バリカンのシスティーナ礼拝堂聖歌隊で歌っていた彼は、シューベルトの「アヴェ・マリア」が自身の原点と語る。
清涼、自然、純粋な歌唱、情熱的で饒舌、圧倒的な演技力で聴衆を魅了と伊藤さんは絶賛している。
なるほど、圧倒的な美声、歌唱力で感動した。
もしかしたら、これまでのテーノール歌手でもトップクラスと思われた。
まさに天性の声である。













お金ではなく、言葉の蔵を持てと

2015-05-07 16:58:14 | 受けとめる力
★種を植えなければ芽は育たないし、花が咲かないし、実もならない。
後継の子どもたちの心に種を植える。
勉学の種、努力の種、親孝行の種、友情幸せ、幸せの種を植える。
一人一人が未来の宝だ。
5月5日の日、青春へ向かって不屈の種が期待された。
★誰にも知られない毎日の地味な仕事、活動が大事だ。
★○みちしほの松川浦や数千の人まぼろしみな陸を向く
被災地の悲惨な状況は知っていた。
しかし、それ以上の衝撃があった。
その場に立つと、人間の根源を揺るがすような思いが湧きました。
元来、空想で歌を作りません。
現場に立ち、そこに感じるものを歌にする。
変化といえば、その覚悟が深くなりました。歌人・稲葉四郎さん
★感性を磨くためには、まず良い作品に触れる。
万葉以来の名歌を読むのはもちろん、良い詩や小説、絵画などに接する。
知識を深め感性を磨くのです。
あとは、自分の足で現場に立つことですね。
実は空想で考える世界は狭く、限界があります。
実際のものを見れば、新たな発見や感情に気付き、世界が広がるのです。
★歌人なら、言葉を多く用意する必要がありますね。
表に出す手段を徹底的に磨くのです。
歌人の斎藤茂吉は「言語包蔵(げんごほうぞう)と言っていた。
お金ではなく、言葉の蔵を持てと。

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稲葉 四郎 <日本歌人クラブ会長 「歩道」編集長>
斎藤茂吉記念館館長

斎藤茂吉の偉大な文学的功績を讃えるために建設・設置された斎藤茂吉記念館は、1968年(昭43)9月1日の開館当初は上山市立として運営されていました。
しかしその当初から、ゆくゆく事業を引き継ぐ財団法人設立の構想が練られていました。公益財団法人斎藤茂吉記念館は、その構想に基づき、「斎藤茂吉記念館を設置し、郷土が生んだ歌人斎藤茂吉の偉大な文学的功績を讃え、茂吉に関する資料を収集保存し、その業績を永く後世に伝えるとともに、地域の学芸及び文化の向上発展に寄与する」ことを目的として、1983年(昭和58)に設立されました。
 当財団は、設立と同時に斎藤茂吉記念館の運営および事業を上山市から受け継ぎ、現在に至っています。
 この間、1985年(昭60)には博物館法に基づく「公立博物館」に登録。また、1989年(平元)には、設立の当初から財団移管後の私有財産遺贈にいたるまで、本館発展に尽力された守谷誠二郎氏(茂吉の甥)の功績により、大規模な建物の改修と増築工事を実施、記念館の床面積、展示規模・内容が大幅に拡大されました。

 記念館の公開・運営のほか、当財団が、斎藤茂吉の業績の顕彰・普及と短歌を中心とした学芸・文化の普及拡大と振興などを目的に取り組んでいる主な事業は、次のとおりです。

行事(共催)
斎藤茂吉記念全国大会
斎藤茂吉短歌文学賞
茂吉忌合同歌会












詩人・作家・戦災孤児だった佐野美津男さん

2015-05-05 23:22:36 | 受けとめる力
浮浪児の栄光」の著者◇「浮浪児の栄光」の著者、佐野美津男さんは(小6)空襲で家族が全滅、祖母宅に預け られたが、1年後に家を出て浮浪児になった。
祖母を「クソババア」と呼び、「祖母、 親戚への憎しみから生きてきた」。と述べている。

 浮浪児の生活 地獄をはいまわる
 
 浮浪児は全国で35、000人(朝日年鑑)とも40、000人(新聞記事)ともいわれている。人が集まる駅などにたむろして、汚い手を差し出し物乞いをするが、これでは空きすぎた腹の足しにはならない。ゴミ箱をあさつても食べ物がない時代だった。ある子は棄ててあった腐ったものを食べて死んだ。「一週間も10日間も食べられないときもあった。生きるためには盗むしかなかった。盗むと大人から殴る蹴る、こん棒で殴ると、それはひどい仕打ちをうけた」と語る子もいた。
 良寛さんは「快楽のために盗むのは悪だが、生きるために盗むのは悪ではない」といっている。浅草で浮浪児を集め育てていた坊さんが、食べ物がなく子どもたちが次々に死んでいくのをみて、たまらなくなって「地獄へ堕ちろ」と孤児たちを放った。「盗みをしてでも生きろ。何でもしろ」といいたかったのだろう。
 浮浪児は上野駅地下道などコンクリートの上にごろ寝する。上野地下道には数千名に及ぶ浮浪者が住みつき、しらみだらけのボロボロの服、汚れた真っ黒な顔、鼻が曲がりそうな臭い匂いに、世間から爪弾きにされ、忌み嫌われていた。ツバを吐きかけられたりした。「野良犬。乞食。汚い、近づくな。目をあわせるな。あれは人間のクズだ」まるで汚物のように見られた。当時の大学生らの調査によると、浮浪児の大半が絶望と答えている。
一筋の光もない生活だったのだろう。
 餓死、凍死、病死、変死と幼い子ほど先に死んでいった。昭和22年元旦から7日まで、各家庭で親子が楽しい正月を過ごしている時期に、上野地下道では11人が凍死している(朝日、昭和22年1月9日)だれの介護もなく、ひっそりと死んでいく孤児たち。毎日、つぎつぎ死んでいく子どもを見ながら、「明日は自分も死んでいるかもしれない」と、死と隣り合わせに生きる生活だった。
「あの駅の地下道の、飢えと寒さに中でひしめいていた孤児たちにとって、政治はなかった。宗教も文化もなかった。大福の1個でもくれる相手なら、戦犯でもユダであろうとよかったのだ。地下道で子どもが死んでゆく時、町を通っていったあの革命の歌の虚しさを忘れられない。(中略) 親を殺し、家を焼き、子どもの権利も尊厳も奪いあげて、焼け跡へ放り出し、勝手に生きろ(勝手に死ね)だったのだ。国家補償は何もない。路頭に迷い、学業の道も閉ざされ、ネズミのように生きてきたこどもに対して!。ああ、ふしぎの国」と西村滋氏(作家)は述べている。
 
 捕まえても捕まえても、次々と増える浮浪児に、世間は冷たかった。
「浮浪児は貧民窟の子どもらが、面白がって盗みや悪さをしているのだろう。ヤツラは不良少年だよ。社会に害毒を流しててるんだ。アイツらは性悪で手に負えないガキどもだ」といわれ、私は絶句した。世間はそのような目で浮浪児を見ていたのだった。当時の新聞にも浮浪児を厄介者扱いしている記事が多いのに驚かされる。
「だれも好きで浮浪児になりたいものか。親を返せ」と叫ぶ子どもの声が聞こえてくる。
駅ホームで佇む浮浪児の写真がある(朝日新聞、昭和21年2月7日)この子はボロ服で、寒空にハダシ、しかも片足が焼けている。その表情の暗さ虚無に胸を衝かれ涙がでた。
 戦争さえなかったなら孤児にならずにすんだ子どもたちは、国からも社会からも見放されていたのだった。
 10歳前後の浮浪児は、新聞売り、靴みがき、スリ、かっぱらい、置き引きなどありとあららゆる方法で飢えを凌いでいた。ヤクザの子分になったり、スリの手先になったり、身売りされた子もいた。親という後盾をなくした孤児たちは、大人に利用されていくようになる。敗戦後の大人の豹変ぶり、大人から受ける虐待などで、全く大人を信用できなくなり、子どもの心は荒れ果てていく一方だった。
 
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六○年代の佐野の児童文学作品には、こんな時代ならではの感覚、リズム感が色濃く反映していると思われる描写がある。それは児童文学としては、当時としてもかなり異質なものではなかったか?戦後社会の闇からたち現れたような得体の知れない人物が度々登場するし、不思議の国・トーキョーを舞台とする冒険譚『東京・ぼくの宝島』(七○年・国土社)などは『浮浪児の栄光』に記されたような〈原体験〉が重なってみえてしまう。
 佐野曰く、「焼跡はわが原体験の主要な場にはちがいない。もっとキザにいうならば、わが文学の原材料がびっしりと詰まった倉庫の如きものかもしれない。…それをわたしだけが持ち続けているのはなぜか。それはつまり、こだわってきたからにほかならない。自分自身のみじめさを、わたしが忘れかねているから以外ではない。」(同上)という〈原体験〉へのこだわり。
 村上春樹の言う地下室の話ではないが、佐野自身が自らの創作活動の源泉についてふれた稀有な言及である。焼跡を原点とする作家はいるけれど、こんな風に〈原体験〉にこだわり、作品化と理論化をリジットに追究してきた児童文学者は他に見当たらない。しかも、それがリアリズムではなくてアヴァンギャルド。シュールレアリズムすら超えていくような強靱な時代精神を体現したアンチ・リアリズム作品として屹立しているのである。
 後に『浮浪児の栄光』も版を改め、児童書(八三年・小峰書店)として復刊されるが、そのあとがきに佐野が戦災孤児として引き取られた先の親戚での仕打ち、殺意を抱くほどの憎悪を教えられた体験を今だにひきずっていて、いじめた祖母を対岸から大声で罵倒するシーンが記されている。何とも切なくなってしまうのだが、そんなこだわりを生涯抱きつつ児童文学と子どもにかんする研究という分野に新たな可能性を提示してみせた佐野。しかし、その死後四半世紀ちかく経つ今も、佐野にかんする評論の一篇もみあたらないというのは奇妙な話ではある。にもかかわらず、その作品群が、今も混沌とした世界の一画で何ら古びることなく精彩を放っているのが分かる。私にとっては、そんな佐野の著作との出合いも一つの〈原体験〉ということになるのかもしれない。
  『浮浪児の栄光』さしえ・池田竜雄
私にとって佐野という存在は、まさにそのような特異な他者の一人であった。こんな人物に出会ったからには児童文学をやらなくてはどうにもならない・・・そう誤解させるだけの強烈なインパクトが佐野作品にはあったのだ。何が襲いかかってきても微動だにしないような圧倒的なパワーと存在感。児文研BOXで、私たちは自分とはあまりにかけはなれた〈原体験〉をもつと思われる佐野の作品群と日々悪戦苦闘するのであった。
 私たち児文研の対象とする児童文学というのはやっかいなもので、一般の文芸とはまったくちがって、子どもを主たる読者対象として大人が創造する文学作品なのであった。故に、なぜ児童文学なのか?というラジカルな問いが、児文研の創作集『プリズム』の巻頭言には装飾的にではあれ常に掲げられていたのである。しかし、意識すればするほど、たいへんハードルが高いことに気づかされる。何でこんな面倒なジレンマを抱えこんでしまったものかとも思ったが、分け入れば分け入るほど、その世界の奥行きと広がりにひきつけられ、書くことの困難さに打ちのめされもした。
 それは私の愚はさておくとしても、当時とりあげていた佐野の作品が通常では考えられないような突出した内容をはらんでいたからだとも思う。それもあってか、私たちの批評集『轍』のなかで展開される作品分析は難解この上ないものだったにちがいない。後に、佐野本人から「風呂場の足拭きにもならない」とこっぴどく罵倒された作品分析の数々だった。
 「それに比して、創作はたいへん素直に書かれていて、よろしい」というお褒めのことば。その時、佐野は一人一人の作品を読んでくれていて、一個一個きちんと批評してくれた。もっとも当時、何かのかんちがいで幻想文学にかまけていた私の場合は例外で、「こういう書き方をするのなら、大きな全体があると読者に思わせながらその一部分を書いているという風に書かなくてはだめ」というような批判をありがたく頂戴した。たいへん参考になる話だけれど、当時はそれにこたえられる器ではなかった。
 八○年秋―大学祭講演会前の朝、朝霧のように白く静かな空気につつまれたサークル・ボックス。まぶしい逆光のなかに児童文学の径は、その時、確かにごりっと横たわっていた。

砂 河 猟
詩人 1959年生   山口県出身
1978年、児童文学者・佐野美津男氏の著作を知り、影響をうける。
1994年、詩集『砦に拠る』(後、『カンブリア紀』に改編)。
2004年、詩集『カンブリア紀の化石群』。
2010年、詩集『ドワーフの庭』。
2010年末~2011年始、佐野美津男試論『想像することは止められない…』。

戦災孤児から教師に 児童文学作家・漆原智良さん

2015-05-05 09:06:12 | 受けとめる力
漆原智良(うるしばらともよし) 教育評論家・児童文学作家  

<略歴>
1934年東京・浅草に生まれる。東京大空襲で家族を失い、戦後、福島、栃木と各地で生活。
法政大学卒業後、絶海の孤島・八丈小島の教師として赴任。黒潮の子どもたちと哀歓を共にする。
その後、東京都中学校に28年間勤務。
1989年東京都教諭を依願退職、著述活動に入る。また立教大学、実践女子短期大学、秋草学園短期大学講師として「児童文化論」「児童文学論」「幼児教育論」などを講じる。

主な著書に、『童話のどうぶつえん』(アリス館刊・絵本)、『つらかんべぇ』(今人舎刊・震災被災地支援)、『スワン・学習障害のある少女の挑戦』(アリス館刊)、『東京の赤い雪』『ぼくと戦争の物語』(フレーベル館刊)など、児童書、教育書など100冊を超える。

1963年NHK「近くて遠い島」懸賞ドラマ一等入選、NHK放送記念祭賞受賞。
2006年第45回児童文化功労賞受賞。
現在、(社団法人)日本児童文芸家協会顧問。日本児童ペンクラブ顧問。全国各地での教育講演会・児童文学講座などに招かれ奔走中。また、「テレビ埼玉・童話の小箱」に出演。最近では「NHK・ラジオ深夜便・こころの時代」「中島啓江とのラジオトーク」などに出演。「東京の赤い雪」は舞台公演化(早見優、池谷幸雄らと出演)反響を呼ぶ。

「母に読んでもらった本だけは内奥に染み込んでいたのです。新制中学を中退、丁稚小僧に出ました。
苦しみを乗り越えられたのは読書のおかげです。『路傍の石』(山本有三著)の吾一は、もっと苦労したのではないか。『次郎物語』(下村湖人著)の次郎が、里子に出されではないか。作品の主人公を引き寄せながら逆境を乗り越えることができました。定時制高校から、夜間大学に進学したのも『二十四の瞳』(壷井栄著)に出会ったからでした。その後、電気、水道、商店のに絶海の孤島・八丈小島に教師として赴任しました。島の教育では読書指導に十点を置きました。
「本を読んで、社会を知ろうね」「読書は生きる力を与えてくれるよ」と、自分の生き方を通し、自信をもって語ることができました。











文化・芸術には、言葉を超える偉大な力がある

2015-05-04 13:05:07 | 受けとめる力
世界の人々を結ぶち力

崇高な精神が歴史を築いていく。
「文化・芸術には、言葉を超える偉大な力がある」
つまり民族、国家の違いを超えて、人間を魅了し、人と人を結ぶ力がある。
芸術・文化は世界の人々に愛され、人間の融和、心の結合の力となってきた」
友人、知人たちが50歳、60歳、70歳を超えたころから、芸術・文化に目覚めて活躍の道を歩だしている。
絵画、楽器、合唱、日本舞踊など、その活動は様々である。













戦争もテロも、暴力は対話拒否から生まれる

2015-05-01 12:20:06 | 受けとめる力



5・15事件
近代日本の分水嶺とされた事件であった。
昭和7年、犬養毅首相が官邸で海軍青年将校の凶弾に倒れた。
対話と暴力の亀裂。
昭和ファシズムの台頭を許した。
戦争もテロも、暴力は対話拒否から生まれる。
不信を信頼に変え、不可能を可能とする。
戦争は避けるべきであり、外交が課題である。










平和のための戦争?!

2015-04-30 17:04:11 | 受けとめる力
平和のための戦争
古今東西、戦争は「平和のためにやるものだった」
社会活動家・湯浅誠さん
では、改めて問いたい。
アメリカの南北戦争には、どのような平和への願いが込められていたのだろうか?
わが国の大東亜戦争は、「平和のためだったのか?」
そして朝鮮戦争は?
ベトナム戦争は?
中東戦争は?
崇高な理念を実現するための戦争など、歴史上存在したのだろうか?
戦争ほど悲惨なものはないし、平和こそ尊いのではないだろうか?
基地問題だけではなく、沖縄ではさまざまな面で今も「戦争」が続いていりことに、東京にいては気づかなかったと思う。
那覇支局の佐藤敬一記者が4月28日の本欄(毎日新聞「記者の目」で主張した通り、本土の私たちも沖縄問題を真剣に考える時期にきている。
木下訓明記者(政治部)

現在何ができるかである

2015-04-17 22:41:36 | 受けとめる力
人は過去に戻ることも、その事実を変えることもできない。
“変えられないもの”に期待するよりも、“変えられるもの”に取り組んだ方がいい。
では、変えられるものとは何か?
それは「今」と「自分」である。
過去がどうであれ、現在何ができるかである。
「今」という瞬間を、常に未来への出発点とする。
クヨクヨと後ろを振り返らない。
常に「今」「ここ」を起点として、やるべきことを実践する。
過去の事実は変えられなくなくとも、「意味」を変えることができる。
失敗を「成功」に、挫折を「学び」に、悲哀を「決意」に、苦悩を「歓喜」に転ずる。
全てを意味あるものに変えていくことだ。








要は、真剣な一念だ

2015-04-06 10:44:32 | 受けとめる力
幸せになりたいと願っている人がいる。
「弱い心を何とかしたい」
困難に負けない強い意志をもちたいと模索している人もいる。
世界の果て南米の“最南端の都市”アルゼンチン・ウスアイアの厳寒の大地にも平和の灯火が
雄大なアンデス山脈が背後に迫る街だ
町は観光客で賑わっているが、地域住民が殻に閉じこもるような人が多いように思われるそうだ。
それは厳しい寒さや降雪の多さゆえであろうか。
幸せになるためには「あきらめたり、落胆したりせず、懸命に努力し続けることだ。そこに知恵がわき、工夫が生まれ、困難の壁を破る道が開かれる。要は、真剣な一念だ」
労苦の中で地域は発展するだろう。
イギリスとのマルビナス戦争(フォークランド紛争)では、アルゼンチン側の戦死者は639人。