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安保法制で諸外国に“言いがかり”の口実を与えるな

2015-02-18 14:51:27 | 政治・社会・経済問題
田中均の「世界を見る眼」
田中 均 [日本総合研究所国際戦略研究所理事長・元外務省アジア大洋州局長]

ダイヤモンド・オンライン 2015年2月18日(水) 配信

■首相が施政方針で述べた「戦後以来の大改革」
安保政策も大きな岐路に
 イスラム国による日本人人質殺害事件は日本社会に大きな衝撃を与えた。なすすべなく二人の日本人が処刑されたことは、悲痛な思いで受け止められた。
 安倍首相は極めて鋭い言葉でこれを非難し、「罪を償わせる」とか、「日本人にはこれから先、指一本触れさせない」と述べた。これは国民の強いフラストレーションを代弁しているものなのだろうか。
 施政方針演説で安倍首相は「戦後以来の大改革」が議論されようとしていることを訴えたが、安保政策だけをとっても、いま日本は、かつてなかったほど大きな岐路に来ている。
 海外においても日本の動きに注目が集まっている。たとえば2月12日付のニューヨークタイムズのように、安倍首相は一時慎重な態度をとった憲法改正議論について、イスラム国による二人の日本人の殺害に対する国内の強い意識を踏まえて、米国に押し付けられた憲法を改正する姿勢を取り戻している、等といった趣旨の記事も散見される。
 これまでの安全保障体制に関して日本政府が行ってきた改革は、常識的な内容を超えていないと思う。国家安全保障会議の設置、国家安全保障局の設置、武器輸出三原則の見直し、特定秘密保護法の制定などは、冷戦が終了し安全保障環境にも極めて多くの要素が出てきた中で合理的な改革なのだろう。集団的自衛権の行使一部容認についても、常識的で合理的な結果になることが期待される。
 諸外国で危惧されていることは、上のニューヨークタイムズの記事が述べるとおり、このような安保政策の大きな変更は環境の変化に合理的に対応するというより、むしろ、戦後体制からの脱却や米国に押し付けられた憲法の改正といった、ある意味歴史修正主義に基づく変更の流れではないかという点である。
 そしてこれには、近年の中国の台頭を受けた日本におけるナショナリズムの高揚や、最近のイスラム国人質殺害事件を巡る国民感情の高揚も、背景となっているという捉え方がされている。ヘイトスピーチといった現象もこの脈絡で言及されている。
■安保法制の議論と憲法9条
国内外に分かりやすい説明を
 このような背景の中で、昨年7月1日に閣議決定された集団的自衛権行使一部容認を実現する安保法制の議論は、日本の将来にとって極めて重要である。感情に走らずに冷静な議論をしていくとともに、国内外に分かりやすく説明をしていくことが大変重要と思う。
 日本の場合には、憲法、とりわけ9条は平和主義の象徴として考えられてきた訳で、それを改正することや、あるいは解釈の見直しをすることは単なる手続き上の問題ではなく、日本の生き方を見直すということを意味するからである。
 まず、今回の安保法制の議論は環境の変化に合わせ憲法の解釈を変える必要が出てきたということであり、憲法9条の精神を変えるものではないことは改めて銘記する必要がある。
 今後、与党内で自衛隊による後方支援活動やその他の活動のための恒久法の是非、国際平和協力活動のための自衛隊部隊の武器使用規定の改定などが議論されていくと伝えられるが、やはり一番重要になるのは、日本と密接な関係の国が攻撃をされ、それが日本の存立にかかわる明白な危険がある事態であれば、日本が直接攻撃されていなくとも武力の行使を可能にするという集団的自衛権に関わる点である。
 憲法9条を改正する訳ではないので、武力の行使は極めて限定的にしなければならない。さもなければ国際紛争解決の手段としての武力行使を禁じた9条の意味は全くなくなる。しかし、9条で許容される武力の行使の範囲を限定的にするべく、どう歯止めをつくるのかは悩ましい問題である。
■地理的制約は安保概念に適合せず
憲法9条とどう折り合いをつけるか
 具体的な地理的制約を設け、歯止めをつくるのは安全保障の概念にはおよそ適合しない。地理的にどこに線を引くのかを明らかにするのは不可能である。もしそれをすれば、朝鮮半島は入るが台湾海峡は入る、入らないといった議論で、実際に起こる事態の深刻さにかかわらず、予め線を引いてしまうことになる。一定の曖昧さはどうしても必要となる。
 これは日米安保条約6条の「極東」の概念ですら地理的概念でないと繰り返し説明されてきたことや、現行の日米防衛協力ガイドラインや「周辺事態法」の「周辺」の概念も、地理的概念ではなく日本の安全に影響を与えるという「事態」に直結する概念だと、説明してきた理由である。
 もし明確な地理的制約をつくらないとすると、例えば、イスラム国の活動が日本の存立を危うくするといった場合には、イスラム国に対する空爆や、仮に今後地上戦に入っていく場合、日本がこれに参画するということは理論的には可能になるのかもしれない。
 しかし憲法9条を改正するのであればともかく、解釈により、中東まで自衛隊を派遣して集団的自衛権を行使するのを可能にするというのは、いかがなものか。何らかの形での法的歯止めが必要なのだろう。
 法律上の技術的な制約を設けることも重要であるが、法律制定の背景にある基本的な考え方を説明することが、より重要なのかもしれない。今後、例えば戦後70周年の談話や日米共同声明などの機会をとらえて、日本としての立ち位置を鮮明にすることによって、安保法制改定の趣旨も良く伝えなければならない。
 戦後の日本の外交の立ち位置という意味で過去大きなインパクトを持ったのは、1977年の「福田ドクトリン」である。福田ドクトリンは「軍事大国とはならない」「対等の関係」「心と心の触れ合う信頼関係」と言う三つの原則を示し、日本の進出は戦前に通じるような経済侵略ではないかという、東南アジア諸国の猜疑心を払拭するのに大きな効果を生んだ。
■戦後70周年に明確にすべき
日本の立ち位置のポイント
 戦後70周年の機会に鮮明にするべき日本の立ち位置として重要なのは、次の三点であると思う。
 まず、歴史認識について村山談話の基本ラインを踏襲するべきであろう。これはすでに歴史修正主義の猜疑心が中国や韓国、さらには米国でもかなり強くなり、植民地支配や侵略という言葉を使うか否かが極めて注目されているときに、1995年以降の内閣が引き継いできた言葉を改めて書くことを避ける理由はない。
 第二に、集団的自衛権の行使の限定的容認は、国際環境の大きな変化に合わせ、国民の生命財産を守るという国家の責任を全うするものであり、憲法9条の大枠と精神に合致していることである。
 そして第三に、日本は戦後70年の日本の平和的発展を誇りにし、今後とも国際協調を旨として、平和国家としての役割を果たしていくという点である。日本は米国や英国とは異なる役割があり、例えば中東についても日本は中東で戦争の当事者であったわけではなく、植民地支配もしておらず、いわば「手の汚れていない国」として人道的支援や国づくりの面で大きな役割を果たしうる。
 日本の安全保障力を強化することと近隣諸国を安心させることは同時並行的に取り組むべき課題であり、このような要素を盛り込んだ談話を発出することにより、他の諸国に言いがかりの口実を与えることは回避されよう。
 また、歴史認識や安保法制についての広報のあり方についても考えるべき点がある。たとえば、歴史の記述に問題ありとして日本政府が直接米国の出版会社に訂正を申し入れたことが、米国ではニュースとなった。
■広報のあり方は再検討の必要
重要なのは「市民社会」の育成
 最近、いわゆる「パブリック・ディプロマシー」(*注)の一環として、政府が直接かかわる形の広報が強化されているが、これをやりすぎると日本は共産主義国家である中国と競って政府がプロパガンダを行っていると誤解されかねない。
 むしろ英語で発信ができる日本の有識者を育てる努力を強化するべきなのだろう。彼らは政府の意見を代弁するのではなく、建設的な議論を展開することによって日本の立場を強化することに、貢献しうるのだろう。
 また、強い政権がタブーを排して行動していくことは好ましいことであるが、そのような時期にこそ、権力をチェックするべきメディアや知的一貫性を持つべき知識人の役割は重要となる。ところがメディアや知識人は、政権に迎合的となり建設的な批判を行っていない、といったパーセプションが内外で拡がっていることにも留意しなければならない。
 民主主義体制の下で表現の自由は中核的な価値であり、確実に担保されねばならない。成熟した民主主義においては国家の介入は最小限にとどめなければならず、個人や民間主体の自立性や創造性が発揮される「市民社会」を育てていかなければならない。
(*注)伝統的な政府対政府の外交とは異なり、広報や文化交流を通じて、民間とも連携しながら、外国の国民や世論に直接働きかける外交活動のこと。「対市民外交」や「広報外交」と訳される(外務省の説明より)

『陣頭にたおれたる小林の屍骸を受取る』

2015-02-18 12:39:04 | 政治・社会・経済問題

江口渙

 二月二十一日の夕方だった。

 「小林多喜二氏。築地署で急死す」という二号二段ぬきの標題をふと夕刊で見た瞬間「あっ、小林がやられた」と思わず口の中で叫ぶとそのままふかく呼吸をのんだ。

 逮捕――急死――急死――急死。それが何を意味するかは、もはや聞かなくとも明かだった、私はもうじっとしてはいられなかった。とにかく飯を食って身支度をして出懸けようと思っていると大宅壮一からの電話で使が来た、阿佐ヶ谷へ廻って小林のお母さんを伴れて直ぐ築地署へ来いというのだ。

 私は直ぐ様走るように家を出た。だが、どうしたのか阿佐ヶ谷の家は真暗で誰もいない、唯、門の前に親戚らしい老人が一人うろうろしているだけだ、前の家で聞くとお母さんは何時出懸けたか知らないというのだ、弟の三吾もいない。困ってしばらく立っていると小林の小学校以来の友人だという野口君という人がかけて来た。そこで二人は阿佐ヶ谷駅へとってかえして築地へ向った。

 私達は夕刊の間違いで築地病院へ飛び込んだために築地署へついたのは八時すぎだった。受付に名刺を出していると大宅壮一君が二階からアタフタと降りて来た。

 「お母さんがもう来ているよ。親戚の人も、その外大勢二階にいる」
 「そうか。もう来ているか」

 恨みふかき……築地署にて

 私は二階へかけ上った。高等室の前の廊下は新聞記者と写真班とで一杯だった。佐々木孝丸がいる。安田徳太郎博士がいる。青柳、三浦の両弁護士がいる。だが、みんなが何度名刺を出しても高等室の扉は固く閉されて、どうしてもお母さんに会わさない。

 九時になった。お母さんが親戚の小林市司氏を先に立て刑事に囲まれて出て来た。小柄ではあるが肩つきのがっちりした六十余歳のお母さんは、ネンネコで背中へ孫をおびって田舎者らしい素朴な顔を心配そうに俯向けながら、黙々と足を運ぶ。みんなその後へぞろぞろついて階段を降り、裏門から往来へ出た。そして屍骸の置いてある前田医院へと向った。

「道が大分悪いようですからどうぞお年よりはお気をつけ下さい」

 小林を逮捕し糾問した責任者水谷主任の声が、不自然きわまるものやさしさで闇の中にひびく。だがお母さんは一語も答えない。

 やがて前田医院へつくと、ここでも我々はお母さん達から切りはなされ、往来へ閉め出されてしまった。

 夕刊を見て真先きにこの病院へ飛び込んだのは左翼劇場の原泉子だった。だが、彼女は張り込んでいたスパイに忽ち腕をねじ上げられまさに検束されようとした。そこへ新聞社からの電話で変事を知った大宅壮一と貴司山治とがかけつけて来た。そして危く彼女を救い出して築地小劇場へ引き揚げると、更めて死体引取りの対策を立てた。お母さん、弟、医師、弁護士立会いの上で引き取ろうということになって弁護士団と、安田博士と、私へと電話をかけた。その上、もしお母さんが一人先へ来たら往来でつかまえようということになって、署の周囲へピケを立てた。

 お母さんが孫を負って

 だが、お母さんが思いもよらない孫(小林の姉さんの子)を負って来たことと、ピケが顔を知らなかったこととで、この計画は不成功に終った、そして同志達とお母さんとは四時間以上も空しく切りはなされてしまったのだ。

 九時四十分。ついに寝台自動車が来た。そして一面に白布で包まれた小林の遺骸が、病院から担架で運び出されると、そのまま寝台車へ移された。お母さんと親戚の人とが側へ乗った。

「悪くするとあの人達は警察側にまるめられて小林を我々から切りはなすために自宅へは帰らないで何処か知らない家へ持って行くかもしれない、後をつけろ」

 藤川美代子、安田博士、染谷の五人がとび乗った。

 大型の寝台自動車は大東京の二月の夜の光と闇とを突き破って西へ西へと走る。我々は書き止めておいた自動車番号を見つめながら呼吸づまるような緊張のうちに後を追う、二台の自動車は離れてはつき、ついては離れて銀座―日比谷―半蔵門―四谷見附―新宿。それから更に青梅街道を西武電車の線路に沿って城西へ飛んだ、がやがて阿佐ヶ谷駅の近処で途を間違えてぐるぐる廻った揚句、見覚えのある小林の家の露地の前で停った時には始めてほっと安心した。

 家には既に小林市司氏の奥さんや近親や友人達が待ち受けていた。そして担ぎ込まれた遺骸をみんなで六畳の座敷へ運んで、取り敢ず蒲団をしいて臥かせた。

 「心臓マヒで死ぬものか」

 それまで涙一滴こぼさず、殆ど物もいわなかったお母さんは、家へ帰った安心から、遺骸の枕元へ座るとそのまま、声を立てて泣き崩れた。やがて再び体を起すとしばらくの間、愛児の無残に変り果てた顔をなつかしそうに覗き込み、乱れた髪を撫でてやったり、やつれた頬をさすっていた。が、又々こみ上げて来る悲しみに耐えられなくなったためか、再び体をかがめると、こんどは冷くなった小林の首を両手で抱えて、静かに、だが、如何にもいたいたしく揺すり始めた。その様子は恰も小林がまだほんの子供であった時、この子供思いのお母さんが小林をこうして愛撫したであろうことを思わせるに十分な、とてもものやさしいものだった。

「ああ。いたましい。ああ。いたましい。いたましい。いたましい。心臓まひで死んだなんて嘘ばかりいって。あんなに泳ぎが上手だったのに。心臓の悪い者に、なんで泳ぎが上手にできるもんか。嘘だ。嘘だ。絞め殺したんだ。呼吸のできないようにして殺されたんだ。呼吸がつまって死んでゆくのがどんなに苦しかったろう。呼吸のつまるのが。……つまるのが……ああ。いたましい。いたましい。いたましい」

 お母さんは尚も小林の首を抱えては揺すり、揺すっては抱えて、後から後からと湧き溢れる涙に咽喉を詰らせながら、生きている子供にものをいうように、遺骸に向って話しつづけた。

 私は人間がこんなにも烈しい悲嘆と絶望とに打たれて苦悩するのを、生まれてかつて見たことがなかった。そしてそのあまりにもいたいたしい姿を、もはや一秒間も見ているにしのびなかった。

 死体の検査が始まった

「お母さんをそっちの部屋へつれて行って下さい。これじゃ如何にも体にさわるから」

 私はついにこういった。親戚の人も早速つれて行こうとした。だがお母さんは聞き入れない。矢張、枕元に座ったまま泣きつづけた。

 安田博士の指揮の下に、死体の検査が始った。

 驚くばかり青ざめた顔は、烈しい苦痛の痕を残して、筋肉の凹凸がけわしいために、到底平生の小林ではない。ことに頬がげっそりとこけて、ひどく眼がくぼんでいる。そして左のコメカミには、一銭銅貨大の打撲傷を中心に、五つ六つの傷痕がある。それがみんな皮下出血を赤黒くにじませている。「こいつを一つやられただけだって気絶するよ」と、その時誰かが叫んだ。

 首には、ぐるりと一とまき、ふかく細引の跡が食い込んでいる。余程の力で絞めたらしくくっきりと細い溝が出来ている。そして溝になったところだけは青ざめた首の皮膚とはまるで違って矢張、皮下出血が赤黒い無惨な線を引いている。左右の手首にも、首と同様円く縄の痕が食い込んで血が生々しくにじんでいた。

 だが、その場合、それ位のことは他の傷に較べると、謂わば大したものではなかった。更に帯をとき、着物をひろげて、ズボン下をぬがせた時、初めて小林の最大最悪の死因を発見した。我々は思わず「わッ」と声を放つと、そのまま一せいに顔をそむけた。

「これです、これです、矢張り岩田義道君と同じだ」

 安田博士の声が沈痛に響いた。我々の眼が再び鋭く死体にそそがれた。

 凄惨全身を被う赤黒い皮下出血だ!

 何というむごたらしい有様であろう、毛糸の腹巻きに半ば覆われた下腹部から、左右の膝頭へかけて下腹といわずももといわず、尻といわず肌といわず、前も後も外も中も、まるで墨とべにがらとを一しょにまぜて塗り潰したような、何とも彼ともいえないほどの陰惨限りなき色で一面に覆われている。その上、余程多量の内出血があると見えて、ももの皮膚がぱっちりとヘチわれそうにふくらんでいる。そして赤黒い皮下出血は陰茎から睾丸にまでも及んでいる。

 好く見ると赤黒く張り切った膝の上には、釘か錐を打込んだらしい穴の跡が、左右とも十五六ヶ所も残っている、そこだけは皮膚が釘の頭ぐらいの丸さだけ破れて、肉が下からジカに顔を見せている、それが丁度アテナ・インキそのままの青黒さだ。

「こうまでやられたんじゃ生命が奪われるのは当り前だ」
「だが、流石に小林だなあ、こんなにされるまで好くもガン張り通したねえ」

 誰かがふかい溜息とともにいった。その時小林市司氏が始めて警察側の説明をつたえた。

「警察側のいうところでは、逮捕される時逃げようとしてひどく格闘しているうちに道路へ倒れた為めに、顔に少し傷が出来たのと、検束する時、縄をかけたので首と両手に少し傷があるし、体にいくらか死斑も出たようですが、これは心臓麻痺とは別に関係のないものですから御心配ないようにといってましたので私もうっかり向うのいうことを信じて、ろくろく体を調べもしないで受取ってきましたが、まさか、まさか、まさか、こんなにひどくなっているとは思いませんでした。こんなことだと知ったら如何に何でもそんまま受取って来なかったんです。実に残念で、残念で……でもどうしてこうまでひどくなったんでしょう」

「四時間もぶっつづけに拷問されれば、誰だってこうなりますよ」誰かが又復鋭く叫んだ。

 想像される悶死の現場

「でも、着物はどうもなってませんが」
「無論、証拠を残さないために着物を脱がして、シャツとズボン下一つにしておいて、椅子にくくりつけたり、天井から細引で釣して腰から下を目当に、竹刀でなぐりつけたのです。おまけに首まで絞めつけた。その証拠に猿股がなくなっているし、ズボン下の寸法がとても短いじゃないですか。もとの奴は血だらけになったので、何処かへ捨てて代りを無理にはかせたんです」
「成程。そうですな。今まで私は拷問というようなことは、みな左翼の宣伝だとばかり思ってましたが、こうして現実にぶつかってみると、始めてほんとうのことが解りました。実に怖しいことをするもんですな」

 市司氏の眼から涙がはらはらとこぼれた。そのうちに玄関の襖を開けて、若い女性が三人、いかにも悲しそうな様子をして入って来た。そして遺骸の横にずらりと座るが早いか、三人とも声といっしょに袂を顔にあてて泣き崩れた。

 十二時近くになって作家同盟の同志を始めプロット、ヤップ、弁護士団、サークル員などが後から後からと駈けつけて来た。立野信之、本庄陸男、山田清三郎、川口浩、上野壮夫、淀野隆三、鹿治亘、千田是也、木村好子、後藤いく子、原泉子その他三十人ばかりが六畳にぎっしりつまった。一時近くなってヤップの国木田がデス・マスクをとった。それがすむと岡本唐貴が油絵で死顔を写し取った。三四人の一が入れ代り立ち代り写真を撮った。変わり果てた死顔の写真や、惨憺たる傷痕の写真やお通夜の写真が何枚もとられた。

 やがてみんな協議した結果、告別式は二十三日午後一時から三時までとすること、別に日を更めて大衆的な葬儀を行うことと、告別式までの全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸ということにきまって、動員グループを組織し、それぞれ部署についた頃には、慌しい通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた。

 集る諸同志 かざる花束

 朝になって徳永直、窪川いね子が来る。村山籌子、関鑑子、細田民樹などが真紅な花束を持って来る。殺風景な前夜にくらべて、幾分、葬儀らしい色彩が出て来た。

 屍体の解剖が前夜から問題になっていた。お母さん、弟の三吾、小林市司氏の三人とも是非やってもらいたいというのでそれについての各大学への交渉は、佐々木孝丸が一さいを受持つことになった。

 佐々木孝丸がかえって来たのは正午すぎだった。玄関で靴を脱いでいる佐々木に私はすぐ訊ねた。

「どうだった」
「うむ。安田さんとおれと二人で電話で猛烈に交渉したんだが帝大も慶応もモウ向う側の手が廻っていて駄目さ。きれいに拒られちゃった。ただ、慈恵大学だけが案外手易く引受けてくれたから、これから直ぐ持って行った方が好い。自動車をもう頼んで来たよ」
「そうか。じゃ。すぐ行こう」

 厳正なる科学の前には、何物をもあざむきごまかすことは出来ない。解剖さえ出来れば小林の死は一つ残らず白日の下にさらけ出されるのだ。そしてそのことがこんどの問題を解決する最も重要な基礎にもなる。

 こうなっては北海道から姉さん夫婦の上京するのを待ってはいられなかった。第一、屍骸が臭くなったし、解剖には時間の約束がある。よろこび勇んだ我々は自動車が来るや否や、かけ込むように飛びのって家を出た。

 死体には私、市司氏、三吾、田辺耕一郎、細野孝二郎の五人と、途中で待ち合せている青柳弁護士とがつき添って行った。

 真相の暴露を恐れ各大学解剖を拒絶

 芝の慈恵大学へつくと安田博士が既に待っていた。市司氏と青柳弁護士とが愛宕署へ届出でに行ってる間に、残った者が屍体を担架で解剖室に運び込んだ。だが解剖に対する我々のあれほど大きかった期待とよろこびとは間もなく無残に踏みにじられた。この大学の病理学教室の実質上の責任者大場勝利助教授が今朝の電話の返事とは打って変って、まるで掌を返えすように解剖の約束を苦もなく取り消してしまったからだ。

 いやに白いポチャポチャとした顔と意外に短い脚とを持っているこの助教授は、うす気味悪いぐらい糞ていねいな言葉を使って、その奇怪きわまる違約に対し、くりかえしくりかえし、全く意味をなさない弁解を試みた。

「第一、お電話では肺炎だというお話しでございましたが、唯今お伺いいたしますと死因が大分違いますので」
「肺炎だなんていいませんよ。死亡診断書にある通りに心臓麻痺といいましたよ」

 むっとした安田博士は可なり語気を強めていった。

「でも、お電話をお受けいたしました助手がそう私につたえましたので……」
「そりゃ、其方の間違いですよ」
「でも、そう報告された私は肺炎だと信じて在りましたものですから」
「じゃ、肺炎なら解剖するが心臓麻痺ではやれないという何か特別な理由があるのですか」

 安田博士が鋭く突込む。

「そういう理由でもございませんがそれにお電話でお名前をおっしゃらなかったのでまさか小林さんの御霊体とは存じませんでしたものですから、ついああいう御返事を申上げましたのですが」
「小林君の屍体だと何故いかんのです」

 安田博士の声はますます鋭い。

「いやそのどうも。実は平生から警察関係のは一さいいたさないことになっておりますので」
「じゃ、上は警視総監から下は巡査小使に到るまで警察関係のはやらないとおっしゃるんですか」

 私が横から口を入れたら、助教授はとてもいやな顔をした。が、間もなくもとのインギンな態度に返って、又弁解をつづけた。

「そういう意味ではございませんので、例えば小林さんの御霊体のような場合をいうのでございますが」
「じゃ警察関係の屍体は何故いけないんです」
「それは一つに本教室の歴史的な伝統といたしましてどんな場合でもみんなおことわりいたしますことになって居ります」
「そんな間違った伝統は本日限り叩き破ったら好いじゃないですか」
「そうはいきませんです。代々の責任者が永年の間堅く守ってきましたものを、私一個の所存ではどうすることも出来ないんでございます。ですから先刻小林さんの御霊体だということが分っておりますれば、あの時お電話で直ちにおことわりいたしたのでございますが」

 ブル医学の正体を見よ

「しかし、名前も聞かずに引き受けて置いて、屍体を持ち込んで来てからことわるなんて、実に無責任極まるはなしじゃないですか」

 安田博士が私に代ってこういうと、助教授は又復インギンに頭を下げた。

「その点は一つにこちらの手落でございまして、ただ、誠心誠意おわびいたすより外に仕方がないのでございますが」
「しかし、とにかく法医学的な解剖じゃなし、単に病理学的解剖で死後の内臓の変化を見ていただきすれば好いんですから、簡単じゃないですか、どうか今日だけ是非一つやって下さい」
「いや。それがどうも長年の伝統でございますから、今日だけというわけにはまいりませんので」
「でも、やって下さるとの御返事だったから金のない連中が莫大な自動車賃を払って持って来たんですから」
「どうもそうおっしゃられると何とも申しようがございませんが、助手が言語道断な手落をしましたのも一つに私の身の不徳のいたすところでございまして……」

 私達は二時から五時まで前後三時間、入り交り立ち交り交渉した。だが、始めからお仕舞まで万事がこの調子だった。「歴史的伝統」と「手落ち」と「身の不徳」と「御霊体」とが糞ていねいな言葉遣いにあやつられながらただ、徒らにくりかえされるだけだった。

 解剖によって事実が残らず曝露されるのを怖れた警察側は慈恵大学へも又干渉の手をのばしたのだ。大場助教授とのこのような全く意味をなさない問答の中にも、我々は今日の大学資本主義、病院資本主義と警察との関係をはっきり見ることが出来た。そして一般に超階級的なものだと信じられている科学者さえもが、今日ではもはや完全に支配階級の走狗でしかないことをはっきり知った。

 告別式にも狂暴な弾圧

 我々は失望と憤慨と不愉快さとの入り混じった暗澹たる気持に包まれながら空しく屍体を守って阿佐ヶ谷へ引き揚げた。帰って見ると家の周囲には早くも告別式に対する弾圧の嵐が吹きまくっていた。屍体の留守を守っていた文化団体の人々は無論のこと、知己友人から単なる愛読者までが、追っ払われたり、検束されたりした。そして明日の告別式には親類の者以外には、ただ江口渙、佐々木孝丸の二名しか参列を許さない。

 というところまで追込められてしまっていた。そして近寄るものを片っ端から検束する為めに露地の出口の筋向うにある空家をわざわざ警戒本部にあてて四五十人の正服私服を動員さえした。

 夜になって城北消費組合。城西消費組合。城北労働者クラブ。プロBC。作家同盟から花籠や花束が来た。そして、遠くの親戚知人から、又全国の同志から悲憤に燃え立つ弔電が絶えず後から後からと届いた。

「こんな姿にして返した上にお葬式までさせないなんて、ほんとうに血も涙もない奴だ」限りない悲嘆と怒りと憎しみとで疲れきっているお母さんは尚も幾度か斯う言っては口惜し泣きに泣いた。そして十一時近くなって、ようやく茶の間の片隅で不安に満ちた眠りをとった。

 憶い出深き小林の一生

 私は一人で座敷にすわっていた。赤布に包まれた棺と、同志や知人から贈られた花籠や花束を眺めていると、小林と作家同盟と私との間をいろいろに結んでいる過去四年間の出来事が、又、新しいなつかしさをもって、追憶の扉の中から甦って来る。

 一九三〇年四月十二日に本郷仏教会館で持たれた同盟第二回の大会に、始めて北海道から出て来て、同志の前で親しみ深い挨拶をした時の小林。同じ年の五月に同盟の関西巡廻講演会に組織されて、中野、大宅、片岡、貴司、江口が、京都・大阪・神戸と約十日間を一しょに旅行した時の小林。更に同盟第三回大会からの一カ年を、私は中央委員長として、小林は初期として共に同盟の仕事に没頭したために一倍親しさをました小林。その優れた作家的才能の故に、真剣な真正直な生活態度の故にその上、同志として実にあたたかい心の持主であったが故に、誰からも尊敬され信頼され、愛された小林、私の最も好き友だった小林。その同志小林多喜二は不運にもついに敵階級の捕虜となってこんな無残極まる姿になって帰えって来たのかと思うともう私は耐らなかった。

 全国の同志からの弔電はみな、「同志小林の死に復讐を誓う」という意味をもって貫かれている。同じ言葉を私も又、何度も何度も力強く心の中でくりかえした。限りなく惜まれる貴い犠牲、稀に見る優れた闘士、小林多喜二の最後のお通夜は、ただ、時々ひびく警戒の巡査のサーベルの音以外、何一つ聞えて来ない場末町のさびしさの中に、無限の怒りをふくみながら、しんしんと更けて行った。

 ――新日本出版社 日本プロレタリア文学集34
『ルポルタージュ集2』より

  当局の妨害を怒る小林の母
         ――待たるる労農大衆葬――

佐々木孝丸

 遺骸を骨にする日、二月二十三日の告別式にはお母さんのせきさん、弟の三吾君、本家の市司さん、小樽から駈けつけた姉さん夫婦、それに、小樽以来親戚附合いをしているという近しい同郷の人々数人、そしてその外には、江口君と僕とたった二人!

 『文芸家協会』から届けられた花輪までが送り返され、プル新聞の記者達も露次の入口の空家を占領しているパイの溜りへ連行され、念入りな身体検査をされて、片っ端から追い返されるという気狂い沙汰だ。

「ほんに、みなさんから、せめてお花一本ずつなとあげてお貰しよう思うとりましたのに……」

 お母さんが沁々という。そして真紅の布で覆うた柩の上の、息子の死顔をじっと見詰める。死体を引き取って来た通夜の晩にヤップの岡本唐貴君が、心をこめて描きあげた油絵だ。お母さんは、泣いて泣いて泣きぬいて、もう涙も出ないらしい。しかし、気は非常にしっかりしている。最初の晩からみれば、ずっと落着いて、少しも取り乱したところがない。その、悲しみと、憤りをじっとこらえている姿が、かえって、僕達にたまらない思いをさせるのだ。

 午後二時、お母さんを中心に、十四五人の少数者で、告別式を初める。

 江口君が、親類の人達の同意を得て司会者としての挨拶をのべる。同志小林が、小説「一九二八年三月十五日」を提げて、我々の陣営へ現れて以来、最後の日まで、いかに、階級的忠誠を守り抜いて来たか、作家として組織者として、プロレタリア文化運動のために、いかに大きな貢献をして来たか、ということを、実例を挙げて熱心に話をした、そして、この思いがけない諦めきれない小林君の死が、しかしながら、作家同盟ひいては、日本の文化運動全体を、さらに強くひきしめ、かつ同志達の決意を新たにさせることによって、小林君の遺した事業を更に発展させるであろうし、そうすることのみが故人に対する唯一の慰めであり、且我々は必ずそうすることを遺族の皆さんの前に誓うものだといった。

 話しているうちに、人々の間から、すすり泣きの声が起った。ことに小樽の姉さんは声を挙げて泣いた。江口君の言葉が終ってから僕もプロットを代表して、短い挨拶を述べた。本家の小林市司氏が親族を代表して、作家同盟その他の同志達に対する鄭重な謝辞を述べられた。

 それから、それまでに届いている弔電を江口君が読み上げた。

 弔電の朗読が終った時分、葬儀屋が、柩車の来たことを知らせて来た。

 一時から三時まで告別式をやるということに発表して置いたので、参列者が続々と詰めかけている筈なのだが、何しろ、小林君の家が袋露次の一番奥だもんだから、一体誰々が来て、どれぐらい追い返えされ、どれぐらい検挙されているのだか、さっぱり様子が分らない。が垣根の外をウロウロするスパイの動きや、弔電をもって来る電報配達人までが、ひどく昂奮している様子から推して露次の外の法外な嵐れ模様は大体想像がつく。

 駄目とは知りながら、もしか警戒線を突破して、或いはうまくごまかして遺骸に別れを告げに来る同志が、たとえ一人でも二人でもありはしまいかと、それを心頼みに、江口君も僕も、暗黙のうちに、出来るだけ出棺を延ばそうとしていたのだが、「せめて花一本でも……」というお母さんの切ない願いも、今はもう、どうすることも出来ない。順次、焼香して、最後の別れをすることになった。

 黙々として焼香し終ったお母さんに次いで、小樽の姉さんが、遺骸の枕許に進んだ。そして、全く文字通り生きてる者にあうような調子でいうのであった。

「多喜ちゃん……多喜ちゃん……後のことはちっとも心配しずに……心配しずに……」

 それから一しきり泣き沈んで、さらに、はっきり次のように云われた。

「皆さんに……お仲間の方達にこんなにまでして頂いて……あんたは仕合せですよ、ほんとに……仕合せですよ……」

 姉さんの次に弟の三吾君。

 それが済むと、本家の市司氏は僕達二人に焼香して呉れといわれた。愈々柩車に移す時間が来た。棺を壇上から下ろし、最後に、も一度蓋をとってみなの手で、遺骸を花で埋めたその時、それまで、我慢に、我慢をしていたらしいお母さんの慟哭が聞えた。

「どんなに、どんなに水が飲みたかったやら……誰も水も飲ませてやらずに!……ああいたわしい! いたわしい!……何の罪とがないものを! 敵かたきの中で! 敵かたきの中で!……運転手でも殺したのならどうされてもええが何の罪があって、何の罪があって!……鬼! 畜生!」

 それは全く、無数の敵に対する老母の力一杯の、あらん限りの叫喚であった。僕は、この時のお母さんの言葉を、一字一句、はっきり覚えている。それは此処へ書いた通りだ。そしてこの言葉は、永久に僕の記憶から去らないだろう。それ程強く、熱く、この言葉は僕の胸に灼きつけられたのだ。小樽の姉さんも一度、

「後のことは心配しずに、ゆっくり眠って行きや……」と死骸に云って聞かせた。

 僕達は、棺の中へ入れるものをお母さんに相談した。故人の最後の作品(と思われるもの)の載っている「改造」、同志達からの弔電、それらを共に棺に入れようと思った。するとお母さんは、それ等は、骨と一緒に、小林家の墓の下へ入れて置きたい、そうすれば何百年でも残る、そして、「この子が一生懸命になっていたような世の中が来れば、も一度それを出して見られるから」
 というのであった。

 葬儀屋が再び棺に蓋をして釘を打った。一切の悲嘆にも拘らずひどく事務的なものであった。が、それは、何とも致し方のないことだ。

 火葬場まで行く者は、お母さん初め、江口君と僕を入れて全部で十二名。それが、自動車二台に分乗して、柩車の後に従った。

 ここでも亦、僕は「もしや」という一縷の望みにかられて、沿道の両側へ、熱心な注意の眼を向けた。誰か、同盟員の、同志の姿を見出そうとして……。が、奴等の警戒は、余りにも「行き届き」過ぎていた。

 しかし、見よ、両側の普通の人家、町家の人々が、皆、家の前に出て、赤布に覆われた柩に向い、粛然として頭を垂れているではないか!

「まあ、知らない人までが、ああしてお辞儀をしてくれるのに!」

 お母さんの声である。

 僕は、この時、初めて泣いた。それまで「自分が泣いてはどうすることも出来ない」と思ったので、どんなに胸がしめつけられても、無理に歯を喰いしばって我慢に我慢して来たのだが、この時ばかりは遂に我慢することが出来なかった。

 僅か十二名の者によって淋しく送られる葬儀!……だが、町筋の、普通の小市民達までが、この理不尽な、残忍極まる白テロに対して、暗黙のうちに憤怒と同情を表明しているではないか、警官と私服の垣根の背後に、今はじっと隠忍している大衆の憤りを、その巨きな力を、誰が感ぜずにいられようぞ!

 二月二十日のあと

佐多稲子

 裁判所の暗い冷々とした廊下で、結果報告をする佐々木の声が、劇場員らしくゆったりと響いていた。廊下に据えた小さな机のそばで、二、三人の廷丁たちが鉄の小火鉢を中にして妙に居心地悪そうに反っぽを向いている。ときどきこちらのものと顔が合うと、殊更らにおもしろくない顔でつうとそらす。

 犠牲者家族を交ぜて四、五十人の抗議隊が、代表の佐々木と、家族代表の壺井と法服をきた二人の若い弁護士をとりまいて廊下を一杯にふさいでいた。その中をときどき用のある裁判所の書記たちが身体を斜めに下を向いて行き来した。

 一九三三年二月二十一日、その日は昨年三月末の弾圧に検挙されたコップの犠牲者たちの予審促進、統一審理要求、それに最近殊に馬鹿げてひどくなった通信の制限に対する抗議などに、小石ほどのまげをのっけたおっ母さんたちや、赤い洋服をきた小野宮吉の女の児も交じえ、コップ同盟の各団体員が東京地方裁判所へ押しかけていたのである。

「度々係りの判事を変えるのは何故かという、こちらの質問に対して、いや、あれは、実は被告の数が非常に増えるので……」

 プロレタリア演技者佐々木は、判事の言葉をそう真似ながら、その言葉の内容をも階級的に解剖してふうししていた。

「被告の数が非常に増えている。しかし、いま衆議院でこのことに関する予算の増額が可決されんとしている……」

 そう言って私や原泉子たちその他のものへ目を移してゆき苦笑いした。

「予算が増額されれば、この方の判事を五人許り増やすことが出来るから早く運ぶようになるだろうというのであります」

 揶揄的な佐々木の言葉でみんなもチェッとか、フンとかいって苦笑いした。

 私はここへくる途中見て来た貴族院、衆議院の、それを中心に張られた厳重な警戒と、議員の門内にずらりと並んでいた光った自動車を思い出した。同志の取り調べに関するこの次席判事の言葉によって、ずらりと並んでいた自動車の白い光り、それを護衛していた剣と銃、それらをも一度はっきりと直接的に対立した感情で思い出すのであった。あの中で、ブルジョア新聞でさえ書き立てたほどのぼう大な軍事予算が可決され、労働者農民圧迫の諸議題が立憲制の仮面を被せてはこび出される。

 この日の抗議は「威厳」ある裁判所のお役所主義を盾にした細かいことにまで対立して、老人たちをも闘いの感情に揺すぶらせた。朝九時から午後三時まで、冷めたい石の廊下の上で身体をこわばらせながら。

「いつも元気だな、あの連中と来たら」

 解散して別れてゆく弁護士の声が、ピタピタという草履の音にまじってラ線形の会談に響く。

 帰途一緒になった壺井と私は、裁判所でしんまで冷え込んだ身体を慄わせてにぶい陽向をむさぼるようにえらんで歩いた。

 作家同盟の詩人である朝鮮の同志金龍済の面接許可願をやっと今日とることに出来た壺井は今日の直接的な効果は先ずこれだといってくり返した。同志金龍済は、日本在住の家族が無いため、刑務所にいるのに面会に行く者が無かったのだ。今後は壺井が家族代りになるのである。

「次席判事が自身で、はっきりとそう言ったわ。大勢で押しかけてこられるのがいちばんこわいって、はっきりそう言ったわ」

 たびたびゆかねばならぬ、と二人は言って笑った。

 その夕方、私は中條の家にいた。昨夜、仕事をしようとして起きていながら赤ん坊に夜中ぐずられて、結局無駄に徹夜をしてしまいそれだけ今日の疲労が癪にさわる話などすると中條が、よしそれでは晩御飯におごって肉を焼いて喰わそうと言って、自分一人台所へ降りて行った。

 私は二階で、今朝から読み始めている小林の「地区の人々」の頁を開けた。プロレタリア文学の党派性のために、身を以て実践しつつある小林のその作品は、彼が真実のプロレタリア作家として成長しつつあることを示している作品であり、従ってまた、この先きにも大きな発展を約束している作品であった。一昨年六月以降にも行われた文化運動の方向転換によって、私がこれまでもっていた、プロレタリア作家としての任務に対する不満足と、焦慮は解決されていた。私は安心して文化運動の大きな発展の中に身を飛び込ませていた。その時、同志小林の作品はいろいろな意味で私を元気づけた。私は小林に一度逢ってこの思いを伝えたい衝動にかられた。この思いを「地区の人々」を読み始めた今朝から私は持ち続けていたのであった。相変らずあの愉快な高い笑い声を上げていることであろう。そう思い、微笑ましくなるのであった。

 階下で肉を焼くシューンという高い音と、あぶらのにおいの中から中條が降りて来い、と呼んだ。

 中條の弟さん夫妻と一緒にいつになく寛いで食事をした。そのあとで中條が夕刊を取り上げたのである。傍から覗いた私の目が下段の小さな写真にふっと引かれた。

「あらッ」

 うん? と言ってすぐその方を見た中條がまた「あらッ」と叫んだ。私がまた殆ど同時に声を発した。二人の顔がさっと白くなった。二人はとっさに片手を握り合せていた。

 小林多喜二氏、築地署で急逝という新聞の活字が何か遠い信ずべからざるものを報じているように思えた。どうぞ嘘であればいい、瞬間身がねじられるようにそう思った。

 顔を上げ私を見て中條が、

「また、殺しやがった」

 その言葉で、二人は堪え兼ねるように、クックッと声をほとばしらせて泣いた。ああ、それは信ずべからざるものを報じていた。たった今迄も、小林は我々の感情の中に、身近かに元気でいる筈であった。何処かの街を、相変らずあの肩をそびやかして足早やに歩いているであろうという、彼に対するわれわれの愉快な想像をこの一片の新聞記事はみじんに叩きわろうというのか。

「とにかく、どっかへ行きましょう」

 二人は膳から立って二階へ行った。

 あああ、嘘であれ、またしても胸をしぼるようにそう思った。そのあとどうにも出来ない悲しみが、それをもたらしたものに対する怒りとごっちゃになっておそった。

 二人はそこに立ったまま又泣いた。

 立って泣きながら、どう動くか相談した。とにかく屍体の傍へ行きたい。小林の屍を我々大勢の手に握りたいという感情が強く二人を囚えた。

 途中一人をさそって、小林の阿佐ヶ谷の家近い、一人の同盟員の家に急いだ。みんな外のことは何も考えず只早く小林の屍を我々の手に握りたいということと、これに対する敵階級への闘争のことだけを考えた。まったく、途中の街のことなど何一つ気づかず走っていた。

 車を降りて、凍った暗い小路へ入ってゆく三人の足音は小きざみに高く響いた。

 そこではすでに十人近く集まっていた。みんな顔を合せても、小林の死そのものについては言うべき言葉を知らず黙っていた。みんなは声を低くし、緊張して応急の対策について語った。同盟員全体が大きな衝撃を受けて、家を出、寄り合っているであろうことが想像できた。

「このことを、同盟の一部の右翼化を立て直す大きなけい機にしなければいけないと思う」
「全く、そうだ」

 みんな一様に、機関誌「プロレタリア文学」に発表された堀英之助の論文を思い出していた。日和見主義に対する闘争のために書かれていたその論文は、小林らしいという噂さが高かったのである。

「これはコップ葬になるだろうな」
「勿論コップ葬だね」

 常任の話をわきに聞いて私はおもった。

「コップ葬だろうか?」

 私は昨年十二月四日本所公会堂で行われた岩田義道の労農葬を思い出していた。同志小林は、勿論文化戦線の最初の犠牲者ではある。しかしその彼の功績は、彼が文化活動を正しくプロレタリア戦線の中に、政治の優位性に統一させたところにある。そう思い、私は彼の葬儀を闘うのに、文化主義になりたくないと思った。なってはならぬというよりも、なりたくないと感情的に思った。

 一応新聞に発表された築地病院へ電話をかけて見ることになり、私が出掛けた。ピポウ、と西武電車が淋しく走っている道に、自動電話を探した。最初、弁護士の家へ電話をかけ、「あなたのおしゃることはちっとも分かりませんよ。あんまり早くて……」

 そう言われ、初めて自分の興奮していることに気づくのであった。人どおりの少くなっている通りに、さぞかしカン高く響いたことであろうと苦笑した。

 もう少し先きに、みんな自宅へ帰ったと答える病院の看護婦の横に、警察の影を強く意識しながら、屍体も一緒であろうかと聞くと、そうだという。

 一度まごつきながらも、屍体という言葉を自分で言った。その言葉でなければもう通じなくなっている!

 すぐみんな一緒に馬橋の小林の旧宅へ向った。通りの商店ももう戸をおろしている。みんなものを言うと慄える気持ちで、えり巻きにあごを埋めて歩いた。私は、我々のこの思いを明日すぐ刑務所の同志に知らせなければならぬと思う。この重大なことについて刑務所にいる人々は知らぬのだ。と思うと、隔離されている感じが生々と深く胸をえぐった。その人々にとってもまた、小林はもっとも信頼の念を通わせている一人であろうのに。自分たちの囚われたあとに、自分たちの口惜しさをもこめて、あとの闘争に一層の彼の活動を思うことは、囚われた同志たちの一つの希望であったのに違いない。

 暗い生垣の間の道を脱けて出る。ああ、この通り、まだみんな外にいた昨年三月以前に小林を尋ねて来たこの道、小林がいなくなってから一度も来なかっただけに、想い出が私の眼を打った。小林の家近くなると、私は思わず駆け出した。

 江口渙が唐紙を開けてうなずいた。玄関を上って左手の、小林のもとの部屋だ。黙って入り、黙ってその屍体のそばへ寄った。泣きながら、おっ母さんが、安田博士と一緒に小林の着物を脱がせている。中條と私がすぐそれを手伝い始めた。

 なんということだろう。こんなになって!

 腕を袖から脱ぎつつ、おえつが私の唇を慄わせた。

 中條が、

「おっ母さん、気を丈夫に持っていらっしゃいね。多喜二さんは立派に死んだのだから」
「ええ、わかってます」

 はあアと息をして、息子のこわばった腕に片手をおいて涙を拭いた。

 蒼ざめ、冷めたくこわばったこの顔、ああやっぱり小林多喜二であった。普断着て活動していたのであろう。この銘仙絣の着物をまといながら、十一カ月ぶりに自分の部屋に帰って来ていて、彼はもうそれを知らない。ああ、着物だけが生きている。

 さきに着いていた男たちも傍へ寄って、屍体を見た。ズボン下が取りのぞかれてゆき無残に皮下出血をした大腿部がみんなの目を射た。一斉に、ああ! と声を上げた。白くかたくなった両脚の膝から太股へかけ、べったりと暗紫色に変じている。最近にこれと同じ死に方をした岩田義道をすぐ思い出させた。思い出しながら、足の先きの方へ押しやられたズボン下に、警察の憎むべき跡始末の手を見た。

 安田博士の説明のそばで、おっ母さんは屍体の襟もとをかき合せてやりながら、劇しく怒るように言い続けた。

「心臓が悪いって、どこ心臓が悪い。うちの兄ちゃはどこうも心臓悪くねえです。心臓がわるければ、泳げねえでしょう。うちの兄ちゃは子供の時からよう泳いでいたのです」

「そうよ、そうよ、心臓なんかじゃないわ。みんながよく知ってるから、ね、おっ母さん、あんまり心配しない方がいい」

 中條に手をかけられて、おっ母さんは、息が苦しいように胸を波うたせて、はあア、おおッと声を上げながら頷いた。膝を崩しているよそ行きの着物が、病院へとんで行った有様を思わせ、みんなの胸をしめつけた。流れる涙を腹立たしそうに丸めて握り込んでいるハンカチでこするように横に拭いて、

「何も殺さないでもええことです。ねえ、あなた」

 また、急にあきらめ切れぬように、ハンカチを離すと、今合せてやった多喜二の襟もとをかき開け冷めたくなった平な胸を狂おしく撫でて見廻した。

「あああ、どこら息つまった。何も殺さないでもええことハア、いたわしい。なんていうことをしたか。どこら息つまった」

 はあッ、おおッと、うなるように泣いた。

「それ、もいちど立たぬか。みんなの前でもいちど立たぬか」

 息子の顔を抱え、自分の頬を押しつけてこすった。みんなが、永いこと見なかった小林の、生きている時の面影を見ようとするその顔は厚ぼったく瞼が閉じられ血が引いてしまっている。おっ母さんはその顔に血を通わそうとするように力を入れて自分の頬をこすり合せている。私は四歳になる自分の男の子を思い出すのであった。

 部屋の中は次第に人が集まってきていた。久しぶりに顔を合すものたちも黙って目を見合すだけである。その中でおっ母さんの吐息とも泣き声ともつかぬ胸をついて出るうめき声だけが続いた。誰かが見兼ねて次の部屋へやすませるように言う。弟の三吾さんが静かに手を引いて連れ出そうとするとそれを振り払って、

「大丈夫だてば、どうもない。大丈夫だてば」

 茶碗の水も飲もうとせず、小林の身体を守るように絶えず布団をかけたり髪を撫で上げたりした。そして、胸を張って苦しそうにはアッ、おおッと息をはき、また思い出して小林の上にかぶさるようにかがんで、こめかみや首の傷をこすってはあッと深く泣いた。

「ここを打つということがあるか。ここは命どころだに。ここを打てば誰でも死にますよ」

 小林の死の苦しみの跡を追いその苦しみを自分の身に感じとってこめかみの両頬のあごの下の傷あとを撫でる母親に、また敵の兇暴な手段が直かに感じられた。親せきの婦人が三人転がるように走り込んできて小林のそばに泣き伏した時、おっ母さんは顔を上げ小林の屍の上に目を落してはっきりと言った。

「殺されたのですよ。多喜二は」

 その言葉で、三人の婦人が一層声高く泣いた。

 みんなそれを囲み、唇を強つく合せてまっすぐに坐っていた。日本のプロレタリアートにとって一つの誇りであった世界的プロレタリア作家小林多喜二は、遂に、野ばんな封建的な日本の白テロによって虐殺された。みんな、自分の生きている現在に対して今一度がく然と思いを新たにした。

 「一九二八年三月十五日」の作品において日本ブルジョア地主の拷問の事実を暴露した小林は、自身その手にたおれた。それは勿論偶然ではない。と同時に、敵は自分の階級の戦争を成功的に遂行するために、プロレタリアートに対する拷問の手を遂に虐殺にまで公然となしつつある。我々は重大な時期に生きている!

 東京の城西阿佐ヶ谷の一隅で、世界的共産主義作家小林多喜二の通夜が、かくして三、四十人の同志の悲憤と逆襲の決意の下に更けていった。

 翌二十二日午前二時朝早く用のある壺井や、乳のみ児をおいてきた私や中條などが安田博士と一緒に外へ出た。みんなまた明日も一度小林を見るつもりでいた。外はまばらに星の見える暗夜であった。露路を出たところに外套のかくしに両手を突っ込んだ巡査が後向きに立っていて四人の足跡を聞くと二、三歩前へ歩きだした。四人はその姿にも劇しい憎悪を抱きつつ、傍を通り抜けた。踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った。

 ああ、とみんな両方で立ち止まった。その低い叫びの中で小林の死に対するお互いの気持ちを分け合った。

「お互いに、しっかりしていましょうね」

 原泉子がそう言って私の手をしっかり握った。

 朝刑務所の窪川に面会に行った私は面会窓の狭い入口でいきなり口を塞がれた手をはねのけるように看守と争っていた。

「そんな、そんな、とても親しい友達だったのに、その友達が死んだことを言っちゃいけないなんて、冗談じゃない」

 そんなら面会させることは出来ない、という。

 むっつりとして入ってゆくと、木綿のドテラをごわごわと着ぶくれている窪川がこちらを見て、どうしたのか、と聞く。

「うん」

 私はそう一時言葉をつめ、

「昨晩お通夜をしてね、そのことで話しに来たんだけど、言っちゃいけないって言うもんだから」
「ああ、そうか」

 何か探るように表情を変えて私を見た。看守は筆記の手を止めてじっと私たちを見ている。

 われわれはトンチンカンな十五分を終えた。

 敵はわれわれを復讐の決意に立たしめることを防ぐつもりで、ここでもわれわれの口を塞いだ。われわれの決意が、単に口を塞いだだけで燃え立たぬと思っているのか。

 ここで一緒になった壺井と帰りながら、二人とも感情の半分を刑務所に取り残して来たように充分息がつけぬようなうっ積した気持ちで、声高くそのことを話して歩いた。

 夜八時すぎて小林の家へ急ぐ。広くなった東中野の駅前の通りに商店の明るい電燈が空虚に光り、道はしんかんとしていた。その中でひとりラジオが、ガアガアと軍歌をまきちらしていた。

「この頃ったら、ラジオはまったく軍歌ばかりよ」

 壺井が腹立たしそうに言う。

「だから小林は殺されたんだわ」

 ラジオの軍歌だけが示威的に走っている。広いガランとした淋しい商店街の空気にそのまま今日の日本の情勢が反映されているように感じられ、その中をわれら二人、虐殺された小林多喜二の家に急いでいることが、非常に歴史的に感じられた。

 われわれはラジオの軍歌の蔭に、じかに日本ブルジョア地主の手を感じた。小林の死を思い、も早そこでは悲しみ脱けた階級的憎悪がひしひしと二人の歩む足音をかたくした。

 われわれの憎悪は個人に対して向けらるべきではなく、階級全体に向けられねばならぬというようなことは、全くそれだけでは公式的で実際にその憎悪感が中身をもって感じられる時、ちゃんと統一されているというようなことを二人は話して歩いた。

 阿佐ヶ谷へ降りた私たちは小林の家に警察の手を幾分予想しつつ急いだ。しかしまだ私は大勢の同志に守られた小林の屍を思っていた。道は、小林の家近くなっても、まるで何事もないかのようにしんかんとして、人通りも無く暗い。

 小林の家の戸を開けると、下駄が二、三足しかない、と、弟の三吾さんが急いで出て来た。

「みんな検束られたんですよ。早く気をつけて帰って下さい」

 三吾さんの肩の蔭から誰もいない座敷に花のある祭壇をチラッと見た。

 家を出ると、もう露路に二人の男が入って来ていて、私たちの両側に立ちはだかった。

 露路の入口の空家に、七、八人の私服がたむろしていて連れてゆかれたわれわれを見た。

 留置場の廊下で先きに入っていた一人の同盟員から小林の解剖がどこでも断られたということを聞いた。

「じゃ、解剖出来ないの」

 私はせき込むように言った。それから黙って目をギラギラさせるような思いで、ジッと対手を見て唇を噛んだ。あの無残な小林の屍体が、方々持ち廻られたことを思い涙がにじんで来た。涙をにじませながら、目を見張り、唇を噛んだ。

 小林の屍の前から引かれて来た男たちも、大勢監房の中にいる。

 付記 同志小林多喜二の葬儀は、日本プロレタリアートの血の恨みの日、三月十五日に、労農葬として全国的に闘われることに決定された。

 尚、文化運動の最初の犠牲者としての小林多喜二を永く記念するために二月二十日を文化デーとしてプロレタリアートの闘争日に加えることになった。

―― 一九二三・三・一三 ――

小林多喜二の最後

2015-02-18 12:25:37 | 政治・社会・経済問題
拷問受け一言も口利けず>

goumonn
岩郷義雄の回想より(彼は三船の手引きで同じときに逮捕され、築地署にいた):

 真冬の冷たい檻房に暮色がようやく迫ろうとし、五つの房にすしづめとなった留置人たちは、空腹と無聊と憂鬱とでひっそり静まり、ただ夕食の時刻が来るのを心待ちにしていていた。

 突然、私の坐っている檻房の真正面にあたる留置場の出入口が異様なものものしさでひらかれた。そして特高――紳士気取りの主任の水谷、ゴリラのような芦田、それに小沢やその他――が二人の同志を運びこんできた。

 真先に背広服の同志がうめきながら一人の特高に背負われて、一番奥の第一房に運ばれた。

 つぎの同志は、二三人の特高に手どり足どり担がれて、私のいる第三房へまるでたたきつけるようにして投げこまれた。一坪半ばかりの檻房は十二、三の同房者で満員だった。その真中にたたきこまれて倒れたまま、はげしい息づかいと呻きで身もだえするこの同志は、もはや起きあがることすらできなかった。

 「ひどいヤキだ……」同房人たちは驚いた。

 私は彼の頭を膝に乗せた。青白いやせた顔、その顔は苦痛にゆがみ、髪のやわらかい頭はしばしば私の膝からすべり落ちた。「苦しい、ああ苦しい……息ができない……」彼は呻きながら、身もだえするのであった。「しっかりせい、がんばれ」と、はげますと、「うん……うん……」とうなずく。その同志は紺がすりの着物に羽織という服装であった。顔や手の白さが対照的にとくに印象ふかい。整った容貌は高い知性をあらわし、秀でた鼻の穴に真紅な血が固っていた。手指は細くしなやかで、指のペンダコは文章の人であることを物語った。同房人たちも胸をひろげてやったり、手を握ったり、どうにかしてこの苦痛を和らげねばならないと骨折った。

 一体、この同志は何の組織に属する何という人だろう、私は知りたく思った。「あなたの名前は?」と、私は尋ねたが、それには答えず、間欠的に襲いかかってくる身体の底からの苦痛にたえかねて、「ああ、苦しい」と、もだえるのであった。

 たった今まで、この署の二階の特高室の隣りの拷問部屋で、どんなに残虐な暴行が行われたか、そして、二人の同志がいかに立派にたえてきたかを、この同志の苦しみが証明した。

 やがて、「便所に行きたい」というので、同房人が二人がかりでそっと背負って行った。便所へついたと思う間もなく、腹からしぼり出すような叫び声が起こった。やがて連れ戻ってくると、「とても、しゃがまれません。駄目です」と、同房人が言った。

 私は先ほどから、そわそわして様子を見ている看守に言った。「駄目だ、こんな所では、保護室へ移さなければ」私たちの房の反対側に保護室があった。そこは広く、畳が強いてあり、普通、女だけを入れたが、大ていあいていた。看守はうなずいて、私たちは同志を移転させ、毛布を敷き、枕をあてがった。そして、彼の着物をまくって見た。「あっ」と私は叫んだ。のぞきこんだ看守も「おう……」と、呻いた。

 私たちが見たものは「人の身体」ではなかった。膝頭から上は、内股といわず太腿と言わず、一分のすき間もなく一面に青黒く塗りつぶしたように変色しているではないか。どういうわけか、寒い時であるのに股引も猿又もはいていない。さらに調べると、尻から下腹にかけてこの陰惨な青黒色におおわれているではないか。

 「冷やしたらよいかもしれぬ」と、私は看守に言った。雑役がバケツとタオルを運んだ。私たちはぬれたタオルでこの「青黒い場所」を冷やしはじめた。やがて、疲れはてたのか、少しは楽になったのか、呻きも苦痛の訴えもなくなった。同志は眼を閉じて眠る様子であった。留置場に燈がついて、夕食が運ばれた。私はひとりで彼の枕辺に坐って弁当を食い終った。そして、ふたたび彼の顔をのぞいたとき、容態は急変していた。半眼をひらいた眼はうわずって、そして、シャックリが……。私は大声でどなった。看守はあわてて飛び出して行った。

 やがて、特高の連中がどやどやとやってきた。私は元の房へつれもどされた。保護室の前へ衝立が立てられた。まもなく医者と看護婦がきた。注射をしたらしかった。まもなく、担架が運びこまれた。

 同志をのせた担架がまさに留置場を出ようとするときであった。奥の第一房から悲痛な、引きさくような涙まじりの声が叫んだ。

 「コーバーヤーシー……」

 そして、はげしいすすり泣きがおこった。

 午後七時頃であった。

      ――手塚英孝『小林多喜二』より、回想部分孫引き

 

18歳選挙権、今国会成立へ 

2015-02-07 23:02:53 | 政治・社会・経済問題
6党一致、来夏参院選にも>

朝日新聞デジタル 2015年2月7日(土)

 選挙権を持つ年齢を18歳以上にする公職選挙法改正案について、与野党6党は6日、今国会に再提出する方針で一致した。今国会中の成立は確実な情勢で、早ければ来年夏の参院選から「18歳以上」が実現する。選挙権年齢の引き下げは、1945年に男性が25歳以上から20歳以上に引き下げられて以来、70年ぶり。
 公選法改正案は昨秋の臨時国会に議員立法で提出されたが、衆院解散で廃案となっていた。
 6日に国会内で開かれた「選挙権年齢に関するプロジェクトチーム」の会合では、自民党、公明党、民主党、維新の党、次世代の党、新党改革の6党の担当者が法案の扱いを改めて協議し、今月中にも改正案を再提出することで合意した。国会で多数を占める6党が提出で一致したことで、今国会中の成立が確実となった。協議メンバーで自民党の船田元氏は「今国会中に成立させたい」と強調した。
 生活の党と山本太郎となかまたち、日本を元気にする会、無所属クラブは検討したいとして持ち帰った。共産党と社民党は協議メンバーに入っていない。
 改正案が成立すると直後に公布され、その1年後に施行されるが、最初の衆院選か参院選から適用すると定められている。6党は来夏の参院選から「18歳以上」にできるよう、今年5月の大型連休明けにも成立させたい考えだ。地方選挙への適用は最初の衆院選か参院選の後になる。
 選挙権年齢の引き下げは、昨年6月に憲法改正国民投票法の投票権年齢が18歳以上に引き下げられた法改正時、付帯決議で「2年以内を目途に、法制上の措置」をとるとされていた。
 選挙権年齢の「18歳以上」は世界的な潮流だ。国立国会図書館によると、データがある約190の国・地域中、18歳以上に選挙権があるのは約9割を占めるという。中には16歳以上としている国もある。
 (渡辺哲哉、鶴岡正寛)
















より高度な政策提案を行う能力

2015-02-05 05:41:00 | 政治・社会・経済問題
★公明党は、全国組織を持つ大衆政党で、女性議員の発言力が強い。
他党と比べ、女性議員の感覚が一般女性に近い。
だからこそ、大衆目線の政策立案に挑戦可能だ。
同時に、格差社会の勝ち組に偏らない政策の落としどころを見出すバランサー(均衡をとる人)としての力を持っている。
地方議員をコンビニエンスストアで例えると、多くの政党所属議員はフランチャイズチェーン店であるのに対し、公明党の強みは直営店という点だ。
フランチャイズの場合、コンビニの本部へ要望を伝えても、各店舗で意見がバラバラのために、取り合ってもらえない傾向がある。
一方、直営店であれば、本部と直接連携を取りやすい。
無所属議員の場合では、そもそもそういう術がない。
この違いが、災害対応など有事の際に如実に表れる。
安倍内閣が提唱する地方創生に見られるように、地方議会・議員に求められる役割は、現場の要望を県や国へ伝えるメッセンジャー機能から、より高度な政策提案を行う能力へ比重が変わりつつある。
東北大学准教授・河村和徳さん
★「小さな声をキャッチするという公明党が一貫して果たしてきた役割が、今後さらに必要になってくるだろう」東京大学公共政策大学院客員教授・増田寛也さん

日本が日英米の3国同盟を志向していたら

2015-02-03 22:42:05 | 政治・社会・経済問題
戦後70年、それが特別な意味を持っているとは思えない。
第二次世界大戦。
なぜ、日本は日独伊の3国同盟であったのか?
米国との同盟や英国との同盟は選択肢になかったのであろうか?
歴史にもしもはないのであるが、日本が日英米の3国同盟を志向していたらと類推したい。
それは明治維新を牽引した賢い日本の武人たちへの想いからであるが・・・

米国との開戦。
当時の政治・軍事情勢をいま綿密に分析してみると、それ以外の選択肢も十分ありえたはず。
壊滅的な太平洋戦争を起こした日本の政治家。
当時の日本の指導者たちの意見は分裂しており、日米戦争の回避の機会はあったのだが・・・
「恥辱に生きるよりも、栄光に滅びる道を選ぶ」日本式の浅はかな思考法。
神風などという、愚かな幻想も災いした。

税金を貪り尽くす政官業の「鉄のトライアングル」

2015-02-03 11:38:20 | 政治・社会・経済問題
★平成27年度予算案は来年度税収見込みの1・8倍に相当する過去最大の96億円。
日本の政府債務残高もすでにGDPの2倍を超えている。
何が問題であるのか?
税金を貪り尽くす政官業の「鉄のトライアングル」
官僚にとって、族議員は法律の国会通過や予算措置を得ることできる。
関連業界は天下り先の確保になる。
関連業界にとって、予算は補助金、税制は租税優遇措置を確保できる。
こうして政官財三者が連携して事業を拡大し、予算を使い尽くすことになる。
元財務官僚・東京税関長・滋賀櫻さん

日米中はお互いに必要とし合っている

2015-02-02 02:08:42 | 政治・社会・経済問題
 中国が経済だけでなく、軍事面でも強引になったことに疑問の余地はない。
日本の懸念は理解できるが、憲法を見直してまで防衛力を増強する必要があるとは思わない。
中国政府の正当性は、国民に経済的利益を与え生活を向上させることによって成り立っている。
経済が不調の時に日本たたきをして人気取りをしたとしても、経済力を損なうほどにしない。
中国の指導者は最終的には合理的で現実的な立場をとることになる。
今の自衛隊と日米安全保障条約との組み合わせで防衛力は十分だ。
非軍事分野での貢献や人道支援を重視してきた日本の今までのバランス感覚は賢明だった。
安倍晋三首相がA級戦犯を合祀した靖国神社に参拝したことで、中国の主張を優位にする「お土産」を与えた。
慰安婦問題は「河野談話」とアジア女性基金で、ある程度決着していた。
ところが日本は軍部の連行という狭義の強制性にこだわる。
軍人による強制連行でなければ良いというなら、慰安婦とされた女性を侮辱するのも同じだ。
日本の指導者は歴史と女性の権利を理解していないと世界から見られるだけで、非生産的でばかげている。
韓国にも「お土産」を与えている。
中国の勢いを過剰に受け止める必要はない。
日米中はお互いに必要とし合っている。
日本は米中両国と友好関係を築いていくべきだ。
米ハーバード大教授・アンドルー・ゴードンさん
毎日新聞のインタビュー欄

イスラム世界から「公平な国」と認識されることが

2015-01-27 02:05:12 | 政治・社会・経済問題
 現在の「イスラム国」の支配地は、かつて中東随一のイスラム国家、オスマン帝国領だった。
1922年の帝国滅亡後、その領土は欧州列強に一方的に分断された。
シリアはフランスに、イラクは英国の事実上の植民地となった。
オスマン帝国のスルタン(君主)が名乗った「カリフ(予言者ムハマドの代理人)」の称号も廃され、イスラム世界にはキリスト教カトリックのローマ法王のような中心的権威がいなくなった。
この屈辱が2001年の米国同時テロなどの過激派によう凶悪事件の原点になる。
イスラム過激派は、イスラム教徒の住むパレスチナを占領し続けるユダヤ教徒のイスラエルと、その後ろ盾の米国も憎む。
反イスラエル感情は、アラブ世界民衆全般に共通するものだ。
多くの事件の根底には根深い欧米への不満とイスラエルへの憎悪がある。
日本は従来イスラエルよりパレスチナへの支援を強く打ち出してきたこともあり、中東には親日的な国も少なくない。
だが、2003年にイラクの復興支援で日本政府が現地へ自衛隊を派遣すると、テロ組織アルカイダの首領ウサマ・ビンラディンは、欧米ばかりか日本も名指しで避難し、その後、日本人殺害が相次いだ。
日本としては、欧米とは一線を画した対応が必要だ。
イスラム世界から「公平な国」と認識されることが、凶悪事件の再発抑止にもつながる。ジャーナリスト・高杉昭一郎さん

安倍談話は“先の大戦への反省”で

2015-01-08 22:40:21 | 政治・社会・経済問題
田中秀征の政権ウォッチ
>世界からの誤解を解けるか


DIAMOND online 2015年1月8日

■田中秀征:元経済企画庁長官、福山大学客員教授

戦後70年の節目の年、2015年が明けた。
 安倍晋三首相は1月5日の年頭会見で“戦後70年”に触れ、内外に向けて新たに安倍談話を発出する意欲を示した。
 戦後50年の「村山談話」、戦後60年の小泉談話に続く、3度目の歴史認識に関する首相談話となる。
 記者会見で安倍首相は本年8月の談話の基調を語っている。
 それによると、「村山談話を含め、歴史認識に関する歴代内閣の立場を引き継いでいく」と明言。さらに「戦後70年の節目を迎え、安倍政権として、先の大戦への反省、戦後の平和国家としての歩み」と語った上で、「今後アジア太平洋地域や世界のためにさらにどのような貢献を果たしていくのか」を談話に盛り込むことを強調した。要するに、談話を通じて安倍流の積極的平和主義を発信するというのだ。
 戦後70年はもちろん日本だけではなく、世界にとっても第二次世界大戦が終わってから70年を経た重要な年である。
 だから本年は世界でさまざまな記念行事が予定されているが、戦後に生まれ変わった旧枢軸国(日本、ドイツ、イタリア)などに配慮してそれなりに抑制されたものになるはずだ。
 だが、中国だけはどうやら別のようである。このときとばかり“戦後70年”を政治的に利用するつもりのように見える。
戦後70年の今こそ警戒すべき
中国の覇権主義
 中国、特に習近平国家主席は、戦後の世界秩序の形成過程に強いこだわりを持っている。
 中国では戦後の世界秩序(ヤルタ体制とも呼ばれる)は、戦勝国である国連の常任理事国5ヵ国による日本など旧枢軸国を封じ込める世界機構という認識が強すぎる。国連創設当時ならともかく、戦争に参加しなかった国や植民地から独立した国々が大勢を占める現在ではもはやそんな単純な構図にはなっていない。それに当時の中国は国民党政権であって現在の共産党政権でもなかった。
 中国は、声高に米国とは連合国としての同志であることを強調し、日本は共通の敵国であったことを想起させることに努めている。
 日中に亀裂を生み、さらに日米に亀裂を生むことに夢中になっている印象だ。
 日本は、安倍政権はこんな中国の意図にわざわざ口実を与えるべきではない。米国も当然同じような気持ちで心配している。
8月の安倍談話が
「集団的自衛権行使宣言」となる恐れも
 この点で、8月の安倍首相談話の「先の大戦への反省」は国際社会の誤解を解き、中国の覇権主義に水をかけるものと期待できよう。
 ただ、安倍首相の語る「積極的平和主義」は集団的自衛権行使と一体であろう。
 記者会見では「国際情勢が大きく激変する中で、国民の命と暮らしを守り抜くための新たな安全保障法制を整備する」として集団的自衛権行使に向かって進むことをあらためて語った。
 そうすると、8月の安倍談話は、世界に向かっての集団的自衛権の行使宣言と受け取られる恐れもある。そうなれば、国際社会は歓迎するというより戸惑いが先行することにもなりかねない。
 案の定というべきか。首相は総選挙での信任を拡大解釈している。
 集団的自衛権や原発再稼働問題についても「公約に掲げたことを実行していく責任を負っている」と断言。重要課題についての基本方針に国民が賛同したというのである。
 だが、本欄で指摘したように、安倍政権は4分の1の民意に支えられているに過ぎない。安倍流で言えば、それを「しっかりと」認識して必要な軌道修正をする必要があろう。

鳩山友紀夫と“日本の真の支配者”を語った!

2014-12-20 11:52:22 | 政治・社会・経済問題
「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」で話題の矢部宏治が


前編
週プレニュース 12月15日(月) 配信
民主党・鳩山政権の崩壊と沖縄の基地問題を出発点に、日本の戦後史を振り返った話題の新刊『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル)の著者・矢部宏治(やべ・こうじ)氏。そして、まさにこの本を執筆するきっかけとなった鳩山友紀夫元首相。
このふたりが、辺野古移設反対派の圧勝に終わった11月の沖縄県知事選や総選挙を踏まえ、事実上、今も米軍の占領状態が続いているこの国の姿と、日本が「真の独立国」として新しい戦後を歩んでいくためにはどうすればいいのか、その方法を考えた!

■首相の時はわからなかった「見えない敵」の正体

―まずは鳩山さんに、矢部さんの本を読まれた率直な感想から伺いたいのですが?

鳩山 正直申し上げて“ぶったまげた”というか、矢部さんがここまで勇気を持って取材され、この本を書かれたことに敬服しました。先にこの本を読んでいれば、私も総理を辞めずに済んだかもしれない、と(笑)。

もちろん、私は自分の非力について言い訳する気はありません。総理として一度は沖縄県民に期待感を与えながら(県外移設を)実現できなかったのは私に大きな責任があります。

ただ、この本を読んで、当時、自分がもっと政治の裏側にある仕組みを深く理解していれば、結果が違っていた部分もあるのかなとは思いました。それだけに、自分が総理という立場にありながら、この本に書かれているような現実を知らなかったことを恥じなきゃいかんと感じるわけです。

矢部 鳩山さんは以前、インタビューで「官僚たちは総理である自分ではなく『何か別のもの』に忠誠を誓っているように感じた」と言われていましたが、その正体がなんであるか、当時はわからなかったのでしょうか?

鳩山 物事が自分の思いどおりに進まないのは、自分自身の力不足という程度にしか思っていませんでした。本来ならば協力してくれるはずの官僚の皆さんには、自分の提案を「米軍側との協議の結果」と言って、すべてはね返されてしまって。分厚い壁の存在は感じながらも「やっぱりアメリカはキツイんだなぁ」ぐらいにしか思っていなかった。その裏側、深淵の部分まで自分の考えは届いていなかったのです。

しかし、矢部さんのこの本はもっと深いところで米軍と官僚組織、さらには司法やメディアまでがすべてつながって一体となった姿を見事に解き明かしてくれて、いろんなことが腑(ふ)に落ちました。この本を読んで、目からうろこが何枚落ちたかわからないくらい落ちましたね。

矢部 在日米軍と日本のエリート官僚で組織された「日米合同委員会」の存在は、当時ご存じなかったということでしょうか?

鳩山 お恥ずかしい話ですが、わかりませんでした。日米で月に2度も、それも米軍と外務省や法務省、財務省などのトップクラスの官僚たちが、政府の中の議論以上に密な議論をしていたとは! しかもその内容は基本的には表に出ない。

私が総理の時にアメリカから「規制改革をやれ」という話があって、向こうからの要望書に従って郵政の民営化とかがドンドンと押しつけられた。そこで「この規制改革委員会はおかしいぞ」というところまでは当時もわかっていたのですが。

矢部 日米合同委員会は基本的に占領以来続く在日米軍の特権、つまり「米軍は日本の国土全体を自由に使える」という権利を行使するための協議機関なのですが、この組織が60年間続いていくうちに、そこで決まったことには、もう誰も口出しできないという状況になってしまった。

なかでも一番の問題は、日米合同委員会のメンバーである法務官僚が、法務省のトップである事務次官に占める割合は過去17人中12人、そのうち9人が検事総長にまで上り詰めている。つまり、米軍と日本の高級官僚をメンバーとするこの共同体が、検察権力を事実上握っているということなんです。

しかも、在日米軍基地の違憲性をめぐって争われた1959年の砂川裁判で、当時の駐日米国大使だったダグラス・マッカーサー2世が裁判に不当な形で介入し、「日米安保条約のような高度な政治性を持つ問題については、最高裁は憲法判断をしない」という判例を残してしまった。ですから日米合同委員会の合意事項が仮に憲法違反であっても、日本国民にはそれを覆(くつがえ)す法的手段がない。

鳩山 それはつまり日米合同委員会の決定事項が、憲法も含めた日本の法律よりも優先されるということですよね。そのことを総理大臣の私は知らなかったのに、検事総長は知っていたし役人も知っていたわけだ。

矢部 ですから、鳩山さんの言う「官僚たちが忠誠を誓っていた何か別のもの」、つまり鳩山政権を潰(つぶ)したのは、この60年続く日米合同委員会という米軍と官僚の共同体であり、そこで決められた安保法体系だというのが現時点での私の結論ですね。
―そうした仕組みの存在を知った今、鳩山さんはどのような思いなのでしょうか。

鳩山 日米合同委員会に乗り込んでいきたいぐらいだね。「何をやってるんだ、おまえら!」みたいな感じで。

ただ、そういうものが舞台裏で、しかも、憲法以上の力を持った存在として成り立っていたとしても、決してメディアで報道されることもないし、このメンバー以外にはほとんど知られないような仕組みになっているわけですよね。

矢部 このような「見えない力」の存在は、政権内にいないと、野党の立場ではまったく知り得ないものなのでしょうか?

鳩山 私も自民党時代がありましたので、8年は政権党にいたわけですが、当選1回や2回の新人議員の間は、官邸内部で何が動いているか知りようもありませんでした。でも与党の一員としては扱ってもらっていたと思います。

それが野党となると、与党、特に与党の中枢の方々とは情報量が圧倒的に違う。官僚も野党に話す場合と与党に説明に行く場合では、丁寧さも説明に来る人の役職も全然違う。そのぐらい野党に対しては官僚は区別し、冷たい対応をしていました。

つまり、自民党政権と官僚機構が完全に一体化していたということです。野党は圧倒的に情報過疎に置かれているのは事実で、国民はその野党よりも情報が少ない。

この先、特定秘密保護法によって、ますます国民には何も知らせない国になるわけで、非常に恐ろしいことだと思います。

*この続きは明日(16日)、配信予定です!(取材・文/川喜田 研 撮影/池之平昌信)

●鳩山友紀夫(はとやま・ゆきお)
1947年生まれ、東京都出身。第93代内閣総理大臣となり、沖縄基地問題で「最低でも県外移設」と主張し活動するも、2010年6月、総理辞任。2012年の総選挙前に政界を引退。昨年から政治信念である「友愛」の文字を取り「友紀夫」名で活動している

●矢部宏治(やべ・こうじ)
1960年生まれ、兵庫県出身。書籍情報社代表。著書に『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知ってること―沖縄・米軍基地観光ガイド』、共著に『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』など。『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』は発売1ヵ月で5万部というベストセラーに

■週刊プレイボーイ51号「国民を犠牲にしてでも基地&原発を維持したい『日本の真の支配者たち』を倒す方法」より
【後編】
週プレニュース 12月16日(火) 配信
■日本全土が「米軍の基地」という現実

矢部 「横田空域」という、1都8県の上に米軍が管理している広大な空域がありまして、日本の飛行機はここを飛べない。これなんか典型的な「米軍が自由に日本の国土を使える」事例ですね。

鳩山 私も横田空域のせいで、日本の航空会社が非常に不自然な飛行ルートで飛ばされていることは知っていましたが、「沖縄と同じように、米軍の優位性というのが東京や関東周辺にもあるんだな」という程度にしか理解していなかった。

しかし、具体的に図を見ると、関東上空がこれほど広範囲に米軍に「占領」されているという事実に仰天しますよね。沖縄だけではなくて、実は日本全体がアメリカに今でも支配されているも同然ですから。

矢部 飛行ルートの阻害もありますが、それより問題なのは、米軍やCIAの関係者が日本の国境に関係なく、この空域から自由に出入りできる、入国の「裏口(バックドア)」が存在することです。これはどう考えてもおかしな話で、こんなことは普通の主権国家ではあり得ません。

この問題なんて国際社会にアピールしたら、みんなすごく驚くと思うんです。これは今、日本で起きているほかの問題、特に原発の問題にも絡んでくる話ですが、日本という国が置かれている状況の歪(ゆが)みやおかしさを伝えるいい事例になると思っています。

結局、日米安保条約とは、米軍が「日本の基地」を使う権利ではなく、「日本全土」を基地として使う権利を定めたものなのです。

旧安保条約の第1条で米軍にその権利が認められ、60年の安保条約で文言は変わっていますが、その権利は残されている。これを「全土基地方式」というのですが、これはなんとしても国際社会にアピールして変えていかないといけない。

鳩山 矢部さんの本だと、米軍がそんなことをできる根拠は、敗戦国である日本を今でも「敵国」と見なした、国連憲章の「敵国条項」があるから、という話でしたが。

矢部 そこの説明は少し複雑で、旧安保条約第1条には、そうしたメチャクチャな軍事利用のあり方は、日本側が望み、アメリカ側がそれに応えたものだということが書かれている。そうした戦後処理を日本が望んだ以上、日本の主権や国民の人権がいくら侵害されていても、国連は口を出せないというロジックになっているんです。一種の法的トリックと言ってもいい。

ですから、日本にちゃんとした政権が誕生して、国際社会で堂々と議論し、「全土基地方式はやめてくれ」と言ったら「それは敵国条項があるから無理だ」とは絶対ならないと思います。

■米軍の占領状況を米国民に訴えろ!

鳩山 矢部さんのような方の努力もあって、私もようやく目隠しが外れて真実が見えてきたわけですが、問題はそこから先をどうするかです。やはり一部の人たちだけが目隠しを外すんじゃなくて、日本の国民の多くに触れられるPR戦術というか、日本の戦後の背後には何があるのかをきちんと解き明かす手段が必要だと思いますね。

それと、日米関係に関わっている米軍関係者を除けば、アメリカの議会や国民は日米合同委員会なるものがどういう役割を果たしてきたのか、それが今も日本の主権をさまざまな形で侵害している事実も知らないと思います。しかし、こうした状況はアメリカの国民から見ても「異常なこと」だと映るはずですから、われわれが海外、特にアメリカの議会や国民に対して「日本は今も事実上、米軍に占領されているけれど、本当にこれでいいのか?」と訴えることが重要です。

矢部 情報発信という意味では、今、ドイツなど多くの国が日本の原発汚染に対して「何を考えてるんだ!」って相当に怒っている。基地の問題だけだと「勝手にやっててくれ」となるかもしれないけれど、原発の問題はそうはいかない。全地球的な問題です。

あれだけ深刻な原発事故を起こした日本がなぜ、今再び原発推進への道を進もうとしているのか? その背景には「日米原子力協定」という、自国のエネルギー政策すらアメリカの同意なしには決められないという、客観的に見ても非常に歪(いびつ)な構造がある。それをうまく国際社会にアピールできたら、こうした日本の歪んだシステムに世界の光が当たる可能性はあります。

鳩山 そうですね、日本のメディアも完全に取り込まれてしまっているのであれば、基地の問題だけではなく、原発も併せて海外に訴えるほうが圧倒的に意義があると思います。

ただし、そうした「外圧」に頼るだけでなく、結局はこの国の政治を変えない限り、そして多数派にならない限り、こうした流れは大きく変えられません。

(取材・文/川喜田 研 撮影/池之平昌信)






















安倍首相,公明党の山口代表,連立合意に署名

2014-12-18 11:58:50 | 政治・社会・経済問題
自公政権合意の要旨

共同通信社 2014年12月16日(火) 配信

自民党総裁の安倍晋三首相は15日、今後の政権運営をめぐり「公明党の山口那津男代表と連立合意に署名した。
自民、公明両党の連立政権合意の要旨は次の通り。
衆院選で2年間の安倍政権が信任された。結果におごらず負託に応え、国の再生を成し遂げる。
 【景気回復】個人消費と地方経済のための景気対策を直ちに実施。「アベノミクス」を推進しデフレ脱却を目指す。企業収益を賃金上昇につなげ、個人消費を拡大する経済の好循環を中小企業や地方に広げる。財政健全化目標も堅持する。
 【地方創生・女性活躍】地方を主役とする取り組みで地方創生の実現を目指す。すべての女性が輝く社会の実現を目指し、女性活躍推進法案を速やかに成立させる。
 【社会保障】安定した社会保障制度を構築する。子ども・子育て支援を着実に推進。消費税率10%への引き上げは2017年4月に行う。軽減税率は税率10%時に導入。17年度からの導入を目指し、対象品目や財源について早急に検討する。
 【震災復興と防災・減災】東日本大震災からの復興加速と福島の再生に全力を挙げる。災害対策やインフラ老朽化対策を進め、国土強靱化(きょうじんか)に努める。犯罪やテロから生命・財産を守る世界一安全な日本を目指す。
 【エネルギー・原発】省エネ、再生可能エネルギーの導入や火力発電の高効率化により、可能な限り原発依存度を減らす。原発再稼働は厳格な規制基準を満たすことを大前提に、国も前面に立ち、立地自治体の理解と協力を得て取り組む。
 【外交】日米同盟を基軸とした安全保障政策で国民の生命と国益を守る。地球儀を俯瞰(ふかん)する積極的平和外交を展開し、世界平和と安定に貢献。安全保障関連法案を速やかに成立させる。自由貿易を推進し、環太平洋連携協定(TPP)は、国益にかなう最善の道を追求する。拉致問題は納得できる調査結果を北朝鮮に求め、被害者全員の一日も早い帰国を実現する。
 【選挙制度と定数削減】衆院の定数削減は衆院議長の下に設置した選挙制度調査会の答申を尊重。参院については、次期参院選までに1票の格差を是正する与野党合意を目指す。
 【憲法改正】憲法審査会の審議を促進し、憲法改正に向けた国民的な議論を深める。

ボロボロになった民主党の教訓

2014-12-17 16:50:23 | 政治・社会・経済問題
民主党、失敗の研究

ダイヤモンド・オンライン 2014年12月17日 配信(山崎元のマルチスコープ)

山崎元のマルチスコープ
山崎 元 [経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員]

■総選挙での反発の弾力、全くなし.
民主党はなぜ失敗し続けるのか?
 今回の総選挙で、与党勢力の増減と同じくらい注目に値したのは、民主党のリバウンド具合だった。選挙戦序盤では、現有の62議席を30~40伸ばして、上手く行くと100議席の大台に乗るのではないかという予測もあった。前回次点の落選議員が次の選挙で頑張る「次点バネ」への期待もあったし、実質賃金が減り続けていた庶民の生活実感が与党に対する批判につながる可能性もあった。
 しかし庶民有権者は、「民主党だったら、経済がもっと悪いのではないか」「そもそも消費増税を決めたのは民主党政権ではなかったか」と正しく気づいて、民主党に厳しい審判を下したように思われる。空気が抜けた軟球のように、民主党には反発力がなかった。その象徴が、東京一区で立候補し比例代表に重複立候補までした海江田万里代表の落選だ。
 ただし、海江田氏ご本人にはお気の毒と言うしかないが、海江田氏が落選によって代表を退き、民主党の顔と言うべき代表及び執行部が変わる流れが早く決まったことは、民主党全体の今後の党勢にとって悪いことばかりではない。
 海江田氏が当選し、選挙前よりも議員数を増やしたことを理由に、代表に留任する流れになったケースの民主党に漂う重苦しい沈滞感を想像すると、今回は同党にとって、これで良かったのだと思う。
 ところで、2009年総選挙で大勝して政権交代を成し遂げた民主党が、かくもボロボロになってしまった経緯には、企業などの組織にとっても個人にとっても、教訓とすべき失敗が山のようにある。これだけ網羅的でわかりやすい反面教師は、そういるものではない。
 2009年の政権奪取以来の民主党の大小の失敗を、振り返ってみたい。
【失敗の原因その1】
現場のマネジメント軽視
 政権時代の民主党の失敗は、路線や政策の間違いというよりは、現場、具体的には官僚組織をマネジメントできなかった「経営学的失敗」が最大の原因だったように思う。
 現場を知らない大臣、副大臣、政務官が数人で乗り込んで行って、巨大な官庁をコントロールしようというのは、敵対的買収で手に入れた大企業を数人でマネージしようとするくらい無謀だった。
 本来ならマネジメントを担える人員を養い、確保しておかなければならないし、それが不可能なら、相手を分断しつつ味方をつくって現場を動かす必要があったが、四十余年にわたる職業人生を通じてがっちり結びついた共同体である官僚集団に、「脱官僚」を声高に叫びつつ数人で突入したのだから、全く勝ち目はなかった。
 この点に関しては、特に政権初期に大きな力を持っていた小沢一郎氏(当時幹事長)に、政治家の力の過信及び、官僚組織の機能に対する無理解があったように思われる。地位と法律だけで人間が動かせると思うのは、非現実的だ。
【失敗の原因その2】
仲間割れ
 民主党政権は成立後ほどなくして、民主党の議員集団が小沢一郎氏との関係を軸に、「小沢系」「非小沢系」に分断された。
 直接証明する術はないが、筆者は官僚集団が民主党政権を弱体化させようという意志を持っていたとの仮説を持っている。民主党の側が「脱官僚」を掲げていたのだから、自然な話だ。
 組織を弱体化させるにあたって有力な手段が、組織の分断だ。政府の仕事は、官僚が情報を持ち運びながら行われる。一方にもたらす情報と、他方にもたらす情報をコントロールすることによって、一方が他方に対して疑心を抱くようにすることは十分可能だ。企業内での派閥対立が発生・強化される際にも、同様のことが起こる。そしておそらくは、マスメディアもこの動きに協力した。
 民主党内の仲間割れをつくるにあたっては、個々の政治家がもともと持つ権力・出世指向の他に、猜疑心が強く敵味方を峻別して人と組織を操作する小沢一郎氏の性格が利用されたし、権力欲が強く自分が首相でないことに不満を抱いていた菅直人氏が、大いに利用されたように思う。
 政府のコントロールに当たって、民主党の初期の躓きに、副総理格の菅氏がトップとなって霞ヶ関をコントロールする機能を持つはずだった内閣戦略局が立ち上がらなかったことにあったが、これは政治家によるコントロールを嫌う官僚と共に、自分が総理でないことをすねた菅氏のサボタージュによるものではなかったか。
 その後の小沢氏一派との対立にあっても、菅氏は一方の中心的な役割を果たしたし、東日本大震災と福島第一原発の事故の対応の拙さ、さらにいきなり消費増税を言い出して政権転落の重要なきっかけとなった参院選での敗北など、民主党の退潮に菅直人氏が果たした役割は限りなく大きかった。
 民主党は「官」(=官僚)と「菅」の2つに「カン」によって、ボロボロになったと筆者は考えている。
【失敗の原因その3】
デフレ的な政策
 経済への無理解が民主党政権を潰した面も、看過できない。
 民主党内にもリフレ政策をよく理解していたメンバーがいたはずなのだが(たとえば金子洋一参議院議員)、民主党政権はデフレと円高を放置し、株価も低迷した。
 後のアベノミクスの「第一の矢」(=金融緩和)は、民主党でも十分に放つチャンスがあったはずなのに、全く惜しいことをした。
 もっとも、金融緩和によるリフレ政策は、初期の段階で資産価格上昇による富裕層のメリットと、失業率低下やアルバイトの賃金上昇などで労働市場の弱者層にメリットを与える一方で、実質賃金の下落で(そうしないと雇用は改善しない)定職と定収入のある中間勤労者層にとっては、デメリットとなる。
 後者は、民主党の有力支援団体である労働組合の組合員(非正規労働者と比較して恵まれた立場にある人々)がデメリットを受けることを意味する。
 労組支援をバックとする限り、民主党がデフレ的な政策に傾きやすいのは仕方のないことかもしれない。
 今回の総選挙マニフェストでも、「柔軟な金融政策」という言葉で金融緩和の後退を謳っていた。民主党が今回政権に就いていたら、デフレに逆戻りする可能性が大いにあった。
【失敗の原因その4】
消費税に関する2つの勘違い
 ある政治家の有力な証言によると、鳩山由紀夫元首相が普天間問題で政治的暗礁に乗り上げていたとき(この問題の処理の拙さにも、官僚のサボタージュが関わっていたように思われる)、菅直人氏は「困った問題があるときには、それ以上に大きな問題を持ち出せばいい。人の関心はそちらに移るからだ。そして、普天間よりも大きな問題とは消費税だ」と鳩山氏に言い放ったのだという。
 おそらく菅氏は、消費増税が必要でありその達成は政治家として偉業であることなどを官僚に吹き込まれて、これを信じたのであろう。そしてその通りに、菅氏は急に消費増税を掲げて戦った参院選に敗れた。
 菅氏の後を引き継いで首相になった野田佳彦氏も、同様に洗脳されて、ついに三党合意という政治的曲芸に引っかかって消費税率引き上げを決定した。この三党合意にあっては、元大蔵官僚である伊吹文明氏の手腕が大きかったように思う。官僚集団はOBも動員して、民主党を手玉に取った。
 しかし、今年の経済を見て明らかなように、デフレ下で、あるいはデフレ脱却を目指す途上で消費税率を引き上げることは、経済政策として不適切だった。2人の党代表が連続して経済政策に弱かったことは、民主党にとって致命的だった。
 また、野田氏の消費増税決断は当時形成されていた同氏の信念に基づいた行動だったのだろうが、2009年総選挙で民主党は、次期政権で総選挙を経ずに消費税を上げることはないと言っていたのであるから、これは有権者に対する「約束違反」だった。「消費増税を決めた首相になりたい」という野田代表の功名心が、公約違反かつ選挙なしでの増税という政治的自殺行為に、民主党を走らせてしまった。
 それにしても、消費税というカードを巧みに使うことによって、民主党に2回の国政選挙を負けさせて、その挙げ句に増税自体は決定してしまったのだから、官僚集団(主に財務省なのだろうが、曖昧に「官僚集団」としておく)の手際は鮮やかだった。そしてそのぶん、民主党の2つの誤解は哀れだった。
【失敗の原因その5】
相手の手に乗ったアベノミクス批判
 衆議院の解散発表にあたって、安倍首相は「今度の選挙はアベノミクス選挙だ」と述べた。解散する当人が争点を指定したわけだが、民主党はまんまとその挑発に乗って、対応を間違えた。
 アベノミクス自体を論じることは、必要なことでもあり、正しい。しかし民主党は、(昨年のだが)景気回復、資産価格上昇、雇用の改善などに効果のあった金融緩和も含めてアベノミクス全体を逐一批判して、心ある有権者に「やはり民主党には経済は任せられない」と思われてしまった。
 経済への無理解が根底にあったが、旧日本社会党の「何でも反対!」の悪しき野党根性を思い出させるような失敗だった。
 この点は、金融緩和を「経済回復へのかすかな光」と評価し、その先の「第三の矢」が飛ばないことに攻撃の狙いを絞った維新の党のマニフェストの方が、適切だった。
【失敗の原因その6】
「組合命!」か「改革!」か
コンセプトが曖昧
 2009年に民主党が熱烈な支持を受けた理由は、同党が掲げた「改革」、すなわち既得権勢力の解体に有権者が共感したためだった。実は国民の指向は、小泉純一郎元首相を郵政解散で支持したときと同じだったのだ。またこの点は、今回党の分裂合同のどさくさもあって選挙態勢が全く整っていなかった維新の党が、案外勢力を減らさなかったことに表れているようにも思う。
 何度も使われている「改革」という言葉には、すでに手垢が付いてしまったが、「構造改革」「既得権打破」「脱官僚」といった言葉で示される方向性を、多くの有権者はまだ支持している。
 しかし民主党には、まさに大きな既得権者である労働組合の利益代表としての側面がある。
「組合命!」の党なのか「改革!」の党なのか、党のコンセプトがまとめ切れていない点に、組織であると同時に「政治商品」としての民主党の決定的な弱点がある。有権者に再び買ってもらうためには、「改革」に近い方向性を、改革以外の言葉で集約しつつ、党のマーケティングコンセプトをまとめ直す必要があろう。
【失敗の原因その7】
変わりばえのしない看板
 落選した海江田代表にはお気の毒だが、前政権時の民主党の数々の不手際を思い出させる海江田氏を代表にいただいて選挙を戦わなければならなかった民主党の候補者諸氏にとっても、これは何とも厳しい状況だった。「総選挙はまだない」と思って油断していたのかもしれないが、選挙がなくても有権者に与えるイメージが悪すぎた。
 海江田氏以外にも、岡田克也氏、枝野幸男氏など、党の幹部の顔ぶれは、とてもフレッシュとは言い難い変わりばえのしないものであり、1人1人が前政権時の失敗のイメージと結びついている。今回の総選挙にあって与党側の最大の武器は、有権者の頭に残る民主党の前政権時代の記憶であった。民主党の執行部の人選は、明らかに敵を利した。
 これらの諸氏は、いったん党の要職から身を引いて、「民主党」という政治商品のパッケージ替えを行うべきだ。イメージ的には、元首相の3人がダメなのは当然として、前原誠司氏も良くないし、細野剛志氏あたりでもぎりぎりであり、際どい。
 民主党再生のためには、「フレッシュな顔」が不可欠だ。それはマーケティング的な常識から見て、不可避といっていい。ビジネスパーソン諸氏にとっては明らかだろう。

 もちろん、「政権放り出し」から数年のときを経て「再チャレンジ」を成功させた安倍首相のようなケースがある。一旦身を引いた諸氏が、再登場し復活することがあってもおかしくない。今は、いかにしてイメージを刷新するかに集中すべきだろう。
民主党にとって迷惑かもしれないが
菅直人氏には学ぶべきものがある
 ところで筆者の考察では、民主党凋落の最大の責任者と思える菅直人氏が、475人中475番目で当選したしぶとさには、目を見張る思いだった。しかし、同時に民主党にはまさに「患部」が残ったわけだ。
 それにしても、鳩山由紀夫氏のような資金を持っていたわけでもなく、小沢一郎氏のように徒党を組む力があったわけでもなく、世評では資金も友達も少ない通称「イラ菅」(イライラしがちなご性格らしい)なのに、ある種の人気と世渡り術だけを頼りに首相まで上り詰めて、逆風の選挙でもぎりぎり残るのだから、菅直人氏という政治家は特異なキャラクターと運を持っていると言わざるを得ない。
 民主党にとっては迷惑な存在かもしれないが、ビジネスパーソンなどにとっては、何か学ぶべき点のある人物なのかもしれない。驚きとともに一言付け加えておく。

自民大勝、社会保障は依然“蚊帳の外”

2014-12-17 16:42:55 | 政治・社会・経済問題

安倍氏、アベノミクス以外も「信任」


m3.com 2014年12月15日(月)  衆院議員総選挙 2014:池田宏之(m3.com編集部)

 12月14日に実施された衆議院議員総選挙において、自民党は、投票率が戦後最低の約52%となる見込みの中、改選前の295議席から4議席減らし、291議席だったものの、公明党と合わせ326議席を獲得、公示前の325議席から1議席増やした。投票締め切り前から、自民党本部では、姿を見せた役員らが笑顔を見せ、結果への満足感を示した。
 今回は、与野党だけでなくメディアも含め、安倍晋三総裁が進める経済政策のアベノミクスの是非や、集団的自衛権の可否に争点が集中し、先送りされた消費税の財源が充てられるはずの社会保障は“蚊帳の外”に置かれたまま選挙が終わった。安倍氏は、メディア各社のインタビューの中で、今回の対象について、アベノミクス以外の争点も含めた2年間の政権運営への「信任」との認識を示した。「医療崩壊」を訴えた民主党は11議席増の73議席となったものの、海江田万里代表が比例復活もできず、議席を失い、敗北ムードが漂う結果に。安倍政権下では、2014年度診療報酬は実質マイナス改定になり、社会保障費削減圧力が顕在化してきたが、今後も医療界への厳しい流れは続きそうだ。
■「経済最優先」変わらず
 14日20時前、自民党では、選挙対策本部長を務めた茂木敏充氏と、政調会長での稲田朋美氏が現れ、開票前から「300議席を超える」との予測も流れる中、笑顔を見せ、余裕を感じさせた。安倍氏が現れたのは21時40分ごろ、」谷垣禎一幹事長や高村正彦副総裁らと握手を交わし、自身のボードに当選を示す花を付けると笑顔を見せた。その後、約1時間にわたって、日本放送協会や民放の選挙速報番組に出演した。その中で、キャスターらから質問が相次いだのは、解散判断の妥当性や、大勝した自民党の政権運営、投票率の低さなどで、安倍氏は「謙虚に丁寧に国会運営を進める」と話した。
 数社が、消費税率引き上げの先送り判断について質問したが、関心は、社会保障の充実でなく、先送りと景気回復の関係に集中。安倍首相は、「今の政策を継続すれば、間違いなく景気が良くなる」と述べ、今後2年間で賃金が伸びるとの考えを示し、2017年4月の時点で、必ず消費税率を上げる考えを示した。政権としての優先課題を聞かれると、「まずは経済最優先」と述べた後に、安全保障政策や外交に力を入れる考えを示した。医療費を含めた社会保障費財源の確保については、各社のキャスターからほとんど質問が出ず、安倍氏も触れることはなかった。
■安倍氏「まとめて信任」の認識
 アベノミクスや、メディアなどが取り上げた集団的自衛権やエネルギー政策以外には、多様な争点が注目されなかった点を指摘されたことに対して、安倍氏は、公約において多様な政策を示している点に触れた上で、「衆議院選挙は政権選択の選挙であり、国民の信任をもらった。慢心せず丁寧に進める」と話し、その他の争点もまとめて「信任された」との認識を示した。最近2年の自民党政権は、アベノミクスによる景気回復を最重要課題としていて、社会保障費には、関心が低い傾向があるが、政策は大きく変わらず、医療界には厳しい対応が続く可能性が出てきた。増税によって社会保障費の充実に充てられる予定だった財源も確保されるかも不明瞭だ。
 今回の選挙戦では、野党は、実質賃金が低下している点などを指摘して、「アベノミクス」批判を展開し、「(多様な争点を示したが)結果的にアベノミクスが争点となった」(茂木氏)格好。世論が盛り上がらない中、メディアの関心は、「集団的自衛権の可否」「原発を含めたエネルギー政策」などに集中し、社会保障の財源について触れた報道は少なかった。
■谷垣氏も触れない社会保障
 同日23時半ごろから、谷垣氏も会見。大勝の理由については、「大きかったのは、(近年)選挙ごとに政権が触れてきた点。(地方を回っていて)『安定した政権が欲しい』との感じを受けた」と分析。野党側が争点をうまく設定できなかった可能性も指摘した。その上で、「景気回復の実感がない」という地方の声も踏まえて、景気の好循環に向けて、アベノミクスを進めていく考えを示した。
 会見の中では、自民党が小選挙区で議席を獲得できなかった沖縄県や山梨県についての質問や被災地復興への取り組みなどの質問が出たが、社会保障について質問は出ず、谷垣氏も触れなかった。

与党大勝もインパクトにならず

2014-12-17 16:38:29 | 政治・社会・経済問題
総選挙の陰で高まる世界経済リスク

日経ビジネス 2014年12月15日(月) ニュースを斬る:武田安恵

 14日投開票の衆院選は大方の予想通り、安倍晋三首相率いる与党が大勝した。自民党と公明党の連立与党は326議席と、全体の3分の2を上回った。アベノミクスが一定の評価を得たことになるが、成長戦略は道半ば。円安、原油安でマネーの流れが変調し、日本株も内憂外患にさらされている。
 2000年以降の衆院選後の日経平均株価の動きを紐解くと「上昇2回、下落3回」という結果がある。上昇した2回は2005年9月のいわゆる「小泉郵政解散」と前回のアベノミクス開始直前の2012年の選挙だ。選挙後1カ月間で日経平均はそれぞれ4.2%、10.9%上昇している。
 しかし、データをまとめたJPモルガンによれば「上昇した2回の選挙は皆、選挙前から株価が上昇していた」という。今回、総選挙までの1カ月間の日経平均株価は一時1万8000円台を回復した後、尻すぼみのようになり、結局、月間では0.1%下落。あまり期待が盛り上がっているとは言えそうにない。
2000年以降の衆議院選挙前後の日経平均株価の動向
日経平均株価の騰落率
選挙前1カ月間 選挙後1カ月間
2000年6月25日 5.7% -0.9%
2003年11月9日 0.8% -2.4%
2005年9月11日 4.9% 4.2%
2009年8月30日 4.2% -2.5%
2012年12月16日 10.3% 10.9%
2014年12月14日 -0.1% ??
J.Pモルガンの資料を基に編集部作成
黄色は選挙後株価が上昇、青色は選挙後株価が下落したことを表す
■リスク・オフに移行しつつある世界
 投開票翌日の12月15日の日経平均株価は激しく変動した。朝方に一時先週末比で300円以上下げる場面も見られる一方、すぐに110円安まで下げ幅を縮小する場面もあり、売り買いが綱引きの状態だった。終値は1万7099円40銭と、かろうじて1万7000円台を保った。「日銀短観で企業が設備投資に積極的な姿勢を維持していることが改めて日本株の下支え要因になった」(第一生命経済研究所の藤代宏一・副主任エコノミスト)という。
 これまでの日本株市場においてメーンの買い手だった外国人投資家は間もなくクリスマス休暇に入る。休暇前には売り買いの持ち高を手仕舞うのが通例だ。そのため買いの勢いが欠けるのは否めない。加えて原油価格が2009年以来の水準まで急落したため、ダウ工業株30種平均など、世界の主要株価指数は軒並み下がっている。世界の投資家のリスク回避姿勢は強まっており、リスク・オンからリスク・オフへと移行しつつある。
 これは、為替相場の動きを見ても分かる。先週1週間、日本円は、主要通貨の中で最も強い通貨となった。先週木曜日、円ドル相場は一時1ドル=117円45銭まで上昇した。「通常、総選挙後は円安が進みやすいが、今回はその通りにはならなそうだ」と、JPモルガン・チェース銀行の佐々木融氏は話す。実際、円相場は月曜日のシドニー時間に119円台に下落する場面が見られたが、その後買い戻された。今後、円ドル相場は世界のリスク回避志向の度合いに応じて方向感を欠く展開となりそうだ。
 今、世界の投資家の関心事は今週開催される米連邦公開市場委員会(FOMC)に移っている。ゼロ金利政策の長期維持を示す「相当な期間」という文言に、どこまで手が加えられるかが焦点だ。金利引き上げの時期がうかがえれば、米金利が上昇し、ドル高につながる可能性が高い。結局、日本の相場も「海外次第」が落ち着きどころと言えそうだ。
■憲法改正にこだわるリスクも
 しかし、中長期で日本株を買いたい投資家にとって、今回の選挙は明らかに買いのゴーサインとなったはずだ。「金融政策、財政政策を用いて何としてもデフレを脱却しようとする意思は、10月31日の日銀の追加緩和ではっきりと確認できた。あとは構造改革で実質成長率を上げる政策しか残っていない。選挙に勝ったことで、安倍政権は着実に政策を実行することしかやることがなくなった」と、日本の金融政策に詳しいスタンダード&プアーズのチーフ・グローバル・エコノミスト、ポール・シェアード氏は話す。
 一方で選挙圧勝を額面通りに受け止められない投資家もいるという。「自民党・公明党で3分の2を獲得したことで、安倍首相がこれまで以上に憲法改正にこだわるかもしれないリスクはある」(UBS証券の青木大樹シニアエコノミスト)
 マーケットの期待を裏切らないよう、安倍首相は着実に構造改革、成長戦略を実行する必要があるだろう。それが、株式市場に対する一番の「信任」にほかならない。