田中均の「世界を見る眼」
田中 均 [日本総合研究所国際戦略研究所理事長・元外務省アジア大洋州局長]
ダイヤモンド・オンライン 2015年2月18日(水) 配信
■首相が施政方針で述べた「戦後以来の大改革」
安保政策も大きな岐路に
イスラム国による日本人人質殺害事件は日本社会に大きな衝撃を与えた。なすすべなく二人の日本人が処刑されたことは、悲痛な思いで受け止められた。
安倍首相は極めて鋭い言葉でこれを非難し、「罪を償わせる」とか、「日本人にはこれから先、指一本触れさせない」と述べた。これは国民の強いフラストレーションを代弁しているものなのだろうか。
施政方針演説で安倍首相は「戦後以来の大改革」が議論されようとしていることを訴えたが、安保政策だけをとっても、いま日本は、かつてなかったほど大きな岐路に来ている。
海外においても日本の動きに注目が集まっている。たとえば2月12日付のニューヨークタイムズのように、安倍首相は一時慎重な態度をとった憲法改正議論について、イスラム国による二人の日本人の殺害に対する国内の強い意識を踏まえて、米国に押し付けられた憲法を改正する姿勢を取り戻している、等といった趣旨の記事も散見される。
これまでの安全保障体制に関して日本政府が行ってきた改革は、常識的な内容を超えていないと思う。国家安全保障会議の設置、国家安全保障局の設置、武器輸出三原則の見直し、特定秘密保護法の制定などは、冷戦が終了し安全保障環境にも極めて多くの要素が出てきた中で合理的な改革なのだろう。集団的自衛権の行使一部容認についても、常識的で合理的な結果になることが期待される。
諸外国で危惧されていることは、上のニューヨークタイムズの記事が述べるとおり、このような安保政策の大きな変更は環境の変化に合理的に対応するというより、むしろ、戦後体制からの脱却や米国に押し付けられた憲法の改正といった、ある意味歴史修正主義に基づく変更の流れではないかという点である。
そしてこれには、近年の中国の台頭を受けた日本におけるナショナリズムの高揚や、最近のイスラム国人質殺害事件を巡る国民感情の高揚も、背景となっているという捉え方がされている。ヘイトスピーチといった現象もこの脈絡で言及されている。
■安保法制の議論と憲法9条
国内外に分かりやすい説明を
このような背景の中で、昨年7月1日に閣議決定された集団的自衛権行使一部容認を実現する安保法制の議論は、日本の将来にとって極めて重要である。感情に走らずに冷静な議論をしていくとともに、国内外に分かりやすく説明をしていくことが大変重要と思う。
日本の場合には、憲法、とりわけ9条は平和主義の象徴として考えられてきた訳で、それを改正することや、あるいは解釈の見直しをすることは単なる手続き上の問題ではなく、日本の生き方を見直すということを意味するからである。
まず、今回の安保法制の議論は環境の変化に合わせ憲法の解釈を変える必要が出てきたということであり、憲法9条の精神を変えるものではないことは改めて銘記する必要がある。
今後、与党内で自衛隊による後方支援活動やその他の活動のための恒久法の是非、国際平和協力活動のための自衛隊部隊の武器使用規定の改定などが議論されていくと伝えられるが、やはり一番重要になるのは、日本と密接な関係の国が攻撃をされ、それが日本の存立にかかわる明白な危険がある事態であれば、日本が直接攻撃されていなくとも武力の行使を可能にするという集団的自衛権に関わる点である。
憲法9条を改正する訳ではないので、武力の行使は極めて限定的にしなければならない。さもなければ国際紛争解決の手段としての武力行使を禁じた9条の意味は全くなくなる。しかし、9条で許容される武力の行使の範囲を限定的にするべく、どう歯止めをつくるのかは悩ましい問題である。
■地理的制約は安保概念に適合せず
憲法9条とどう折り合いをつけるか
具体的な地理的制約を設け、歯止めをつくるのは安全保障の概念にはおよそ適合しない。地理的にどこに線を引くのかを明らかにするのは不可能である。もしそれをすれば、朝鮮半島は入るが台湾海峡は入る、入らないといった議論で、実際に起こる事態の深刻さにかかわらず、予め線を引いてしまうことになる。一定の曖昧さはどうしても必要となる。
これは日米安保条約6条の「極東」の概念ですら地理的概念でないと繰り返し説明されてきたことや、現行の日米防衛協力ガイドラインや「周辺事態法」の「周辺」の概念も、地理的概念ではなく日本の安全に影響を与えるという「事態」に直結する概念だと、説明してきた理由である。
もし明確な地理的制約をつくらないとすると、例えば、イスラム国の活動が日本の存立を危うくするといった場合には、イスラム国に対する空爆や、仮に今後地上戦に入っていく場合、日本がこれに参画するということは理論的には可能になるのかもしれない。
しかし憲法9条を改正するのであればともかく、解釈により、中東まで自衛隊を派遣して集団的自衛権を行使するのを可能にするというのは、いかがなものか。何らかの形での法的歯止めが必要なのだろう。
法律上の技術的な制約を設けることも重要であるが、法律制定の背景にある基本的な考え方を説明することが、より重要なのかもしれない。今後、例えば戦後70周年の談話や日米共同声明などの機会をとらえて、日本としての立ち位置を鮮明にすることによって、安保法制改定の趣旨も良く伝えなければならない。
戦後の日本の外交の立ち位置という意味で過去大きなインパクトを持ったのは、1977年の「福田ドクトリン」である。福田ドクトリンは「軍事大国とはならない」「対等の関係」「心と心の触れ合う信頼関係」と言う三つの原則を示し、日本の進出は戦前に通じるような経済侵略ではないかという、東南アジア諸国の猜疑心を払拭するのに大きな効果を生んだ。
■戦後70周年に明確にすべき
日本の立ち位置のポイント
戦後70周年の機会に鮮明にするべき日本の立ち位置として重要なのは、次の三点であると思う。
まず、歴史認識について村山談話の基本ラインを踏襲するべきであろう。これはすでに歴史修正主義の猜疑心が中国や韓国、さらには米国でもかなり強くなり、植民地支配や侵略という言葉を使うか否かが極めて注目されているときに、1995年以降の内閣が引き継いできた言葉を改めて書くことを避ける理由はない。
第二に、集団的自衛権の行使の限定的容認は、国際環境の大きな変化に合わせ、国民の生命財産を守るという国家の責任を全うするものであり、憲法9条の大枠と精神に合致していることである。
そして第三に、日本は戦後70年の日本の平和的発展を誇りにし、今後とも国際協調を旨として、平和国家としての役割を果たしていくという点である。日本は米国や英国とは異なる役割があり、例えば中東についても日本は中東で戦争の当事者であったわけではなく、植民地支配もしておらず、いわば「手の汚れていない国」として人道的支援や国づくりの面で大きな役割を果たしうる。
日本の安全保障力を強化することと近隣諸国を安心させることは同時並行的に取り組むべき課題であり、このような要素を盛り込んだ談話を発出することにより、他の諸国に言いがかりの口実を与えることは回避されよう。
また、歴史認識や安保法制についての広報のあり方についても考えるべき点がある。たとえば、歴史の記述に問題ありとして日本政府が直接米国の出版会社に訂正を申し入れたことが、米国ではニュースとなった。
■広報のあり方は再検討の必要
重要なのは「市民社会」の育成
最近、いわゆる「パブリック・ディプロマシー」(*注)の一環として、政府が直接かかわる形の広報が強化されているが、これをやりすぎると日本は共産主義国家である中国と競って政府がプロパガンダを行っていると誤解されかねない。
むしろ英語で発信ができる日本の有識者を育てる努力を強化するべきなのだろう。彼らは政府の意見を代弁するのではなく、建設的な議論を展開することによって日本の立場を強化することに、貢献しうるのだろう。
また、強い政権がタブーを排して行動していくことは好ましいことであるが、そのような時期にこそ、権力をチェックするべきメディアや知的一貫性を持つべき知識人の役割は重要となる。ところがメディアや知識人は、政権に迎合的となり建設的な批判を行っていない、といったパーセプションが内外で拡がっていることにも留意しなければならない。
民主主義体制の下で表現の自由は中核的な価値であり、確実に担保されねばならない。成熟した民主主義においては国家の介入は最小限にとどめなければならず、個人や民間主体の自立性や創造性が発揮される「市民社会」を育てていかなければならない。
(*注)伝統的な政府対政府の外交とは異なり、広報や文化交流を通じて、民間とも連携しながら、外国の国民や世論に直接働きかける外交活動のこと。「対市民外交」や「広報外交」と訳される(外務省の説明より)
田中 均 [日本総合研究所国際戦略研究所理事長・元外務省アジア大洋州局長]
ダイヤモンド・オンライン 2015年2月18日(水) 配信
■首相が施政方針で述べた「戦後以来の大改革」
安保政策も大きな岐路に
イスラム国による日本人人質殺害事件は日本社会に大きな衝撃を与えた。なすすべなく二人の日本人が処刑されたことは、悲痛な思いで受け止められた。
安倍首相は極めて鋭い言葉でこれを非難し、「罪を償わせる」とか、「日本人にはこれから先、指一本触れさせない」と述べた。これは国民の強いフラストレーションを代弁しているものなのだろうか。
施政方針演説で安倍首相は「戦後以来の大改革」が議論されようとしていることを訴えたが、安保政策だけをとっても、いま日本は、かつてなかったほど大きな岐路に来ている。
海外においても日本の動きに注目が集まっている。たとえば2月12日付のニューヨークタイムズのように、安倍首相は一時慎重な態度をとった憲法改正議論について、イスラム国による二人の日本人の殺害に対する国内の強い意識を踏まえて、米国に押し付けられた憲法を改正する姿勢を取り戻している、等といった趣旨の記事も散見される。
これまでの安全保障体制に関して日本政府が行ってきた改革は、常識的な内容を超えていないと思う。国家安全保障会議の設置、国家安全保障局の設置、武器輸出三原則の見直し、特定秘密保護法の制定などは、冷戦が終了し安全保障環境にも極めて多くの要素が出てきた中で合理的な改革なのだろう。集団的自衛権の行使一部容認についても、常識的で合理的な結果になることが期待される。
諸外国で危惧されていることは、上のニューヨークタイムズの記事が述べるとおり、このような安保政策の大きな変更は環境の変化に合理的に対応するというより、むしろ、戦後体制からの脱却や米国に押し付けられた憲法の改正といった、ある意味歴史修正主義に基づく変更の流れではないかという点である。
そしてこれには、近年の中国の台頭を受けた日本におけるナショナリズムの高揚や、最近のイスラム国人質殺害事件を巡る国民感情の高揚も、背景となっているという捉え方がされている。ヘイトスピーチといった現象もこの脈絡で言及されている。
■安保法制の議論と憲法9条
国内外に分かりやすい説明を
このような背景の中で、昨年7月1日に閣議決定された集団的自衛権行使一部容認を実現する安保法制の議論は、日本の将来にとって極めて重要である。感情に走らずに冷静な議論をしていくとともに、国内外に分かりやすく説明をしていくことが大変重要と思う。
日本の場合には、憲法、とりわけ9条は平和主義の象徴として考えられてきた訳で、それを改正することや、あるいは解釈の見直しをすることは単なる手続き上の問題ではなく、日本の生き方を見直すということを意味するからである。
まず、今回の安保法制の議論は環境の変化に合わせ憲法の解釈を変える必要が出てきたということであり、憲法9条の精神を変えるものではないことは改めて銘記する必要がある。
今後、与党内で自衛隊による後方支援活動やその他の活動のための恒久法の是非、国際平和協力活動のための自衛隊部隊の武器使用規定の改定などが議論されていくと伝えられるが、やはり一番重要になるのは、日本と密接な関係の国が攻撃をされ、それが日本の存立にかかわる明白な危険がある事態であれば、日本が直接攻撃されていなくとも武力の行使を可能にするという集団的自衛権に関わる点である。
憲法9条を改正する訳ではないので、武力の行使は極めて限定的にしなければならない。さもなければ国際紛争解決の手段としての武力行使を禁じた9条の意味は全くなくなる。しかし、9条で許容される武力の行使の範囲を限定的にするべく、どう歯止めをつくるのかは悩ましい問題である。
■地理的制約は安保概念に適合せず
憲法9条とどう折り合いをつけるか
具体的な地理的制約を設け、歯止めをつくるのは安全保障の概念にはおよそ適合しない。地理的にどこに線を引くのかを明らかにするのは不可能である。もしそれをすれば、朝鮮半島は入るが台湾海峡は入る、入らないといった議論で、実際に起こる事態の深刻さにかかわらず、予め線を引いてしまうことになる。一定の曖昧さはどうしても必要となる。
これは日米安保条約6条の「極東」の概念ですら地理的概念でないと繰り返し説明されてきたことや、現行の日米防衛協力ガイドラインや「周辺事態法」の「周辺」の概念も、地理的概念ではなく日本の安全に影響を与えるという「事態」に直結する概念だと、説明してきた理由である。
もし明確な地理的制約をつくらないとすると、例えば、イスラム国の活動が日本の存立を危うくするといった場合には、イスラム国に対する空爆や、仮に今後地上戦に入っていく場合、日本がこれに参画するということは理論的には可能になるのかもしれない。
しかし憲法9条を改正するのであればともかく、解釈により、中東まで自衛隊を派遣して集団的自衛権を行使するのを可能にするというのは、いかがなものか。何らかの形での法的歯止めが必要なのだろう。
法律上の技術的な制約を設けることも重要であるが、法律制定の背景にある基本的な考え方を説明することが、より重要なのかもしれない。今後、例えば戦後70周年の談話や日米共同声明などの機会をとらえて、日本としての立ち位置を鮮明にすることによって、安保法制改定の趣旨も良く伝えなければならない。
戦後の日本の外交の立ち位置という意味で過去大きなインパクトを持ったのは、1977年の「福田ドクトリン」である。福田ドクトリンは「軍事大国とはならない」「対等の関係」「心と心の触れ合う信頼関係」と言う三つの原則を示し、日本の進出は戦前に通じるような経済侵略ではないかという、東南アジア諸国の猜疑心を払拭するのに大きな効果を生んだ。
■戦後70周年に明確にすべき
日本の立ち位置のポイント
戦後70周年の機会に鮮明にするべき日本の立ち位置として重要なのは、次の三点であると思う。
まず、歴史認識について村山談話の基本ラインを踏襲するべきであろう。これはすでに歴史修正主義の猜疑心が中国や韓国、さらには米国でもかなり強くなり、植民地支配や侵略という言葉を使うか否かが極めて注目されているときに、1995年以降の内閣が引き継いできた言葉を改めて書くことを避ける理由はない。
第二に、集団的自衛権の行使の限定的容認は、国際環境の大きな変化に合わせ、国民の生命財産を守るという国家の責任を全うするものであり、憲法9条の大枠と精神に合致していることである。
そして第三に、日本は戦後70年の日本の平和的発展を誇りにし、今後とも国際協調を旨として、平和国家としての役割を果たしていくという点である。日本は米国や英国とは異なる役割があり、例えば中東についても日本は中東で戦争の当事者であったわけではなく、植民地支配もしておらず、いわば「手の汚れていない国」として人道的支援や国づくりの面で大きな役割を果たしうる。
日本の安全保障力を強化することと近隣諸国を安心させることは同時並行的に取り組むべき課題であり、このような要素を盛り込んだ談話を発出することにより、他の諸国に言いがかりの口実を与えることは回避されよう。
また、歴史認識や安保法制についての広報のあり方についても考えるべき点がある。たとえば、歴史の記述に問題ありとして日本政府が直接米国の出版会社に訂正を申し入れたことが、米国ではニュースとなった。
■広報のあり方は再検討の必要
重要なのは「市民社会」の育成
最近、いわゆる「パブリック・ディプロマシー」(*注)の一環として、政府が直接かかわる形の広報が強化されているが、これをやりすぎると日本は共産主義国家である中国と競って政府がプロパガンダを行っていると誤解されかねない。
むしろ英語で発信ができる日本の有識者を育てる努力を強化するべきなのだろう。彼らは政府の意見を代弁するのではなく、建設的な議論を展開することによって日本の立場を強化することに、貢献しうるのだろう。
また、強い政権がタブーを排して行動していくことは好ましいことであるが、そのような時期にこそ、権力をチェックするべきメディアや知的一貫性を持つべき知識人の役割は重要となる。ところがメディアや知識人は、政権に迎合的となり建設的な批判を行っていない、といったパーセプションが内外で拡がっていることにも留意しなければならない。
民主主義体制の下で表現の自由は中核的な価値であり、確実に担保されねばならない。成熟した民主主義においては国家の介入は最小限にとどめなければならず、個人や民間主体の自立性や創造性が発揮される「市民社会」を育てていかなければならない。
(*注)伝統的な政府対政府の外交とは異なり、広報や文化交流を通じて、民間とも連携しながら、外国の国民や世論に直接働きかける外交活動のこと。「対市民外交」や「広報外交」と訳される(外務省の説明より)