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[右が佐々木和之氏、中央は元加害者、はじめおどおどしていたという]

22年前の1994年、アフリカ内陸の国ルワンダですさまじい大虐殺が行われた。そこにルワンダの紛争問題について研究した日本人キリスト者佐々木和之氏が、2005年以降NGO組織と協力して大虐殺後の「癒しと和解」プロジェクトを展開した。昨日午後3時、その報告会を聞きに天王寺の日本バプテスト大阪教会を訪れた。


[フツ族、ツチ族の関係]

1962年にベルギーから独立したこの国は、同じ民族が支配層(エリートで人口の15%)のツチ族と被支配層(農耕民で85%)のフツ族に分かれ対立する構図であった。その対立が激化し、フツ独裁政権がツチ排除政策を取るなどし、内戦が起こり1994年フツ政権がフツ族を扇動・動員してツチを無差別殺戮した。4-7月の100日間に80 - 100万人(人口の10%)が犠牲になったと伝えられる。

その傷跡は生きのびた人たちの身体はもちろん心にもまだ深く残って癒えていない。教会や地域社会に、加害者とその身内が被害者とその親族と共に過ごしているのだ。そんな中に佐々木氏は家族でルワンダに移住し、「癒しと和解」プロジェクトで学習会、償いの家造り(加害者が被害者のために働いた)、加害・被害者双方による養豚プロジェクトなどを実施してきた。草の根レベルのそのような過程をへて、加害者が謝罪し、被害者が赦す気持になり始めるなど、「暴力、恐れ、憎しみを越える」歩みが見え始めている。


[お花畑プロジェクトの作品を前に]

報告者は立ち合った和解の具体例を紹介しながら話を進めたが、実際は和解は容易ではない。「赦す」を意味するルワンダ語「クババリラ」は、「相手のために苦しむ」という意味で、被害者の気持は「私は赦す用意ができている。だから、あなた方は罪に向き合うことをしてほしい」という。加害者側はもちろん、被害を被った側も苦しい過程を経てようやく達することができる境地である。

佐々木氏は英ブラッドフォード大学で研究、学位を得、2011年からルワンダの大学PIASS(プロテスタント人文・社会科学大学)の教授として、「平和・紛争研究学科」を設立して教育の面からルワンダの復興・発展に尽くしている。四国の1.4倍の小さな国にとどまることなく、アフリカ諸国にどのように影響を与えていこうとしているのですか、と質問したところ、大学間の交流や留学生を受け入れることで進めていこうとしている、との答えであった。バプテストでもある氏は、プロジェクトでも大学の講義でも聖書(イザヤ1:17, 18。IIコリント5:17-19など)を用いて使命を果たそうとしている。非常に尊い(貴い)働きを進める器として、献身しておられることに敬意を覚えた。約70人の敬虔・熱心なバプテストが関西一円から集まっていた。


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コメント
 
 
 
本当の理解は解きほぐしから。 (教会員R)
2016-06-16 17:30:37
ここ ルワンダの大虐殺
~恐怖が現実になる瞬間、3か月間で100万人が殺された!~を読むかぎり、問題は深そうです。

http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/works/works_8_m.html

ルワンダは今は1%もいない狩猟民族だったトウク族(ピグミー族)の土地であったものが、北東の方角からツチ族(放牧が主流)が、南西の方角からはフツ族(農業が主流)がやって来て、共存社会が始まることになる。

ルワンダは土地が痩せていたために、農耕には適さず放牧主流のツチ族が支配階級に上り詰めるのは自然な流れであった。

14世紀ごろからツチ族による王政政治が始まったが、王朝国家が、長らくこの土地を支配したが、これらの3つの部族は、素朴でありながら「互いに敬意を払いつつ調和のある暮らしを続けていた。」 そうだ。

19世紀に入り、ヨーロッパから帝国主義による植民地支配が始まり、第一次世界大戦終結まではドイツ、以後はベルギーに支配されることとなる。

ヨーロッパ列強は、植民地管理を容易にする方法として、彼ら民族間の差異をあおり、彼らが一致協力することのないように互いの内部対立を煽ることをひたすら努めた。

大規模な土木工事などの際には、ツチ族を現場監督とし、労働者であるフツ族を管理させるたが。その際、ノルマの果たせぬフツ族の労働者は現場監督のツチ族から激しく鞭を打たれるのである。もっとも、この仕組みにしたところが、上からの命令なのであって、もしツチ族の現場監督がそれを拒んだのなら今度は自分が激しく鞭打たれることになっていた。この列強の巧妙にして狡猾な植民地政策の結果、憎悪の矛先はヨーロッパ人ではなく、同胞内部に向けられることとなった。

ベルギーはID政策によって、民族間の差別化を徹底し、問題をより解決不能のものとしていった。

ベルギーからの独立後も負の遺産(フツ族のツチ族に対する優越感への嫉妬と憎悪)は解消されなかった。

あとはナチスドイツが辿ったのと同じようなコースを進むことになる。 計画的な扇動にはラジオが使われた点も共通で、その他当時のキリスト教(おそらく末日聖徒も含む)は何の役にも立たなかったかむしろ虐殺者側に利用されてしまった点も共通のようです。

今更14世紀の王政に戻すわけにもいかないけれども、現実に民族が混在しながら「互いに敬意を払いつつ調和のある暮らしを続けていた。」社会が実現していた、というのが本当だったならば、滅びてしまった彼らの思想、文化、宗教から学べる優れた何かがないか興味があるところです。
 
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