末日聖徒イエスキリスト教会はアダムとエバの堕落を人類が生ずるために必要であった、と肯定的に受けとめていて、いわゆる「原罪」(人は生まれながらに罪深い、性悪説)という暗いイメージを持たない。このことに関連して同じ方向の記述を数点ノートとして掲げてみた。
1 メロディ・モエンチ・チャールズ
旧約聖書は冒頭の記述の部分で「堕落」(fall)に言及していない。旧約聖書では人は生まれながら罪深い存在ではなく、旧約聖書の見方は基本的に性善説である。(例外と思われる個所はイザヤ 38:18,19 詩篇 6:5, 30:9, 88:4,5 である。)
Melodie Moench Charles, “The Mormon Christianizing of the Old Testament,” Sunstone Vol. 5, No. 6, Nov.-Dec. 1980. (Dan Vogel ed., “The Word of God,” Signature Books 1990 所収)
2 キース・E・ノーマン
「堕落」(fall)についてヘブライ語聖書に言及はない。関連する概念も見当たらない。ユダヤ教の思想は人類を性善説ととらえている。ラビ文書にもフィロにもそれが受け継がれている。「原罪」(original sin)の教義は4世紀後半のアウグスティヌスが考え出したものである。
Keith E. Norman, “Adam’s Navel,” Dialogue 21:2 (1988 Summer) p. 241(Sessions, “The Search for Harmony,” Signature Books, 1993 の中にも同主旨)
3 大島力(ちから)
創世記3章に一度も「罪」という言葉は使われていない。「原罪」という教えを直接ここから導き出すことはできない。最近では人間の自立の物語として積極的(positive)にこの部分を読みなおそうとする傾向が強くなっている。(ただ、その場合も「神からの人間の離反」という事実は疑いの余地はない。)人間の責任の問題を扱っている。
大島力「旧約聖書と現代」NHK出版、2000年 大島力は青山学院教授
4 ジョン・ミルトン
ミルトンは「失楽園」の中でアダムとエバの堕落をfortunate fall (felix culpa)と書いている。訳せば「幸運な堕落」(あるいは「幸先のよい堕落」)というところであろうか。
5 新約聖書で fall を意味するギリシャ語piptoは「堕落」の意味では出てこない。(沼野調べ)
V.F.Vine, “Expository Dictionary of New Testament WORDS,” Zondervan, 1940, 1982.
結局、アダムとエバの堕落(禁断の木の実を食べてエデンの園を追われたこと)を肯定的に受けとめるのは末日聖徒だけではなく、いわゆる原罪の(人は生まれながら罪深いという)考えは聖書の説くところではない、と考えてよさそうである。
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ロマ書5:12には『このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである』とあるのでパウロ発は間違いないと思います。
でもこれが「原罪」という未洗礼の幼児は救われないという教義に発展していったことをパウロが知れば激怒すると思います。
パウロはユダヤ人の律法を否定して信仰による自由を宣言したはずです。が洗礼という儀式が残ってしまったために、人はまたどうしようもなく縛られてしまったと思います。
BofMは現世にある人類について「生まれながらの人は頑なでアダムの堕落以来神の敵である」というように、人が「迷い堕落した状態」にあることも認めています。(IN10:6, モサ3:19, アル34:9,エテ3:2)
私は最近創世やカインの物語などを、諸々の神話・伝承を比較する民俗学の視点で見ることに興味を持っています。
「咎」は、「人にとがめられる」と言うように、罪とほぼ同じ意味に使われます。
しかし、「背き」は直接「罪」を意味しません。
これは、アダムの行為を「咎=悪い行い」から、「背き=悪を意味しない」にトーンダウンしたものだと思います。(英語ではどうなっていたのか?教えて頂ければありがたいですが。)
ただ、ここで問題になるのが、「救いの計画」です。信仰箇条に有るように、モルモンでは、
02 わたしたちは、人は自分の罪のゆえに罰せられ、アダムの背きのゆえには罰せられないことを信じる。
03 わたしたちは、キリストの贖罪により、全人類は福音の律法と儀式に従うことによって救われ得ると信じる。
と信じているわけです。「アダムの背き」が罪で無いとしたら、キリストの贖罪の意味は何だったんでしょうか?
モルモンでは、キリストの贖罪を
①原罪に対する贖い
②個人がバプテスマを受ける前(律法を知る前)に犯した罪の贖い
の2点に限定していますが、その内の①が無意味になってしまいますね。
51:05 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
この詩は
51:00 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、これはダビデがバテセバに通った後預言者ナタンがきたときによんだもの
と成っています。
ここでは、「人は生まれる前に罪を負っている」との解釈が見られます。
しかし、イエスはそれを否定しています。
ヨハネ9章
09:02 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
09:03 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
ただ、当時の人々は、
09:34 これを聞いて彼らは言った、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」。そして彼を外へ追い出した。
と言っています。
原罪と関係するのかどうかははっきりしませんが、「生まれながらに罪を背負っている」と言う考えは旧約に時代から有ったのではないでしょうか?
人間の解釈による「罪」ではなく。「神の戒めに背く」事が「罪」の定義になっていますね。
ですから、本来ですと、アダムが神の戒めに背いて木の実を食べたのは、重大な罪なんでしょう。
ところが、その反面アダムは天使長ミカエルで有り、キリストと共にこの世界を作る助けをした、最も優秀な霊の一人、と言う位置づけですので、そのアダムが「重大な罪を犯した」と言う考えははばかられる。
そこで、「彼の行為は、背きで有ったが、彼を非難する事はせず、良き選択をした英雄」との解釈に至ったのかと思います。
一般の、キリスト者の、原罪に対する擁護論とは少し違うような気がします。
長くなってすみません。
モルモン教の信仰箇条2条の「咎」「背き」は共にtransgressionの訳で、英語の意味は「違犯、破戒、罪」とあります。訳の変遷は単に理解しやすくしたものと思います。英語は同じなわけですから本質的な変化はここではないとみることができます。
誌篇51:05はダビデがバテシバを身ごもらせた不義を恥じて詠ったもので、性悪説に近い心境が滲みでています。しかし、必ずしも他の人も生まれる前から罪を負う可能性があることを示すものではないと思います。
記事の1でM.M.チャールズが言うようにモルモン教はOTをキリスト教化し、さらにモルモン化していきますが、ミルトンに見られるように西欧のキリスト教に現れた伝統を受け継いでいる部分もあります。天使ミカエルが誰で、その役割は何かなど。
英語の賛美歌「神の子です」(Hymn 301)では、
I am a child of God. And he has sent me here.のように、神様から私をここに送り出されたように、アダムとイブも、最初の両親になるように、送り出されたと思っています。
(Genesis3)(Moses4)
パウロはアダムとイブについて言っていることが他にもありました。(1Tim2:14)
ジャニス・カップ・ペリー姉妹は素晴らしい音楽をもたらしました。私はゆくゆくは世界の各地で聖徒がそれぞれの文化を反映した音楽を生み出し賛美する日が来るのを期待したいと思っています。