ヒントは、たくさんあります。それをどのように感じ、それをどう活かすかです。
インターネット記事より
自分がやっていることが正しいと思ったことがない。
「自分は誰よりも努力してきた人だ」だとか、「誰よりもプロフェッショナルな人間だ」とも思わない。
自分がチャレンジし続けているのは、単純に「戻ることがただ怖い」からだ。
背負わなきゃならない現実から逃げたい時もある。求められるだけの環境に戻ることも避けたい。
予めやらなきゃならないことが決まっているのはもっと辛い。
そもそも、僕は自分が正しいと思わない。価値観も生き方も人それぞれだから。
僕にとってのサッカーはまさに生き方、生き様。
妥協もいっぱいする。サボることだってある。食べることや睡眠、その他もろもろに対してあまり細かく制限をすることもない。どちらかというと食べたい時に食べたいものを食べ、眠れなくても無理に寝ようとはしない。
試合のためだからといってストイックに生活を制限することがないのだ。ストレスを抱えるのはよくない。
体調管理は緩やかだが、しかし、常にサッカーが僕の頭の中心にある。
勝ち負けだけで判断するのは嫌だけど、サッカーをするからには勝ち負けがあり、自分に負けたくないから戦うのだ。
僕にとっての「プロフェッショナル」主義とは、まず自分が自分の全てを受け入れること。
そして、それを周りに受け入れてもらう努力をすることなのだ。
自分はこんな人間だから受け入れてくれよ、と押し付けるのじゃなく、たくさんの人に出会い、さまざまな影響を受けながらも自分というものを形成する。
その過程で失敗や成功はもちろんあるかもしれないが、でも、それをぐずぐず引きずることなくそこから多くのことを学んで、さらに泰然と前へ進むことこそが自分流の「プロフェッショナル」なのだと信じている。
サッカー選手としてだけじゃなく、人として、そこだけはブレずに生きてきた。
でも、同時に、僕は結果の世界でも生きている。双方の間で僕は揺れ動く。
もし自分がただ自分だけの価値観の中でこだわり、他の人には認めてもらわなくてもいい、自分だけの道を極めるだけで結構、と考えていたなら、それはそれで、また違った人生を生きていただろう。
でも、僕は周りに認められたい。少数の人間に認められたいわけじゃない、大多数の人間に認められたい。
だから結果をとりにいく。結果を出せば全てが変わる。
自分を受け入れ、人に受け入れられて結果が出た時に自分は最高に幸せだと思う。
僕がどんなに泥臭くても、テクニックがないと言われても、結果が一つ出るだけで、全てひっくり返るのが、今、僕が生きる世界というものだ。
人としても、サッカー選手としても、最後の瞬間までそこにこだわりたい。
どんなに批判や厳しい言葉をかけられても大丈夫。
何故なら、それは自分に何が足りないかを単純に指摘されてるだけだから。
しかし、やっている本人の手応えと周りの意見には決定的な違いがある。それはリアリティーの差だ。
このような僕でさえ、サッカー中継を見てたら、あーしろよ、こーすればいいのに、とついつい言葉が飛び出してしまう。でも、やっている側には普段の自分のやり方や立ち位置がある。背負わされたものや、背負わなければならない何かがある。
これを考慮した時、ミスはミスでも「苦手な部分でのミス」か「得意なミス」か、「苦手でも克服出来るレベルのミス」なのか? そもそも、そのミスは「精神的なミス」なのか、「技術的なミス」なのか?
ミスだけでもこんなにもリアリティーにおいて差が出てしまう。
結局は、本人にしか判断出来ないことだったりする。
本人が一番自分のミスを理解しているということかもしれない。
「自分を信じる強い精神力が大事だ」
こういうことを、ふとした時に考える。絶好調でも不調でも、一喜一憂はせず、自分を冷静に見つめ続けている。
昨シーズン、実は「自分が何のために今サッカーをやってるのか」と自問し続けた。自分がやってきたものが何か、信じて来たものが何か、と、あらゆる場面で自問し続けた。
答えはない。でも、結果は出る。
自分はこれからもあらゆる方法で、周りに自分を認めさせるチャレンジを続けたいと思う。
それが自分が選んだ道だからだ。
僕はこの先も変わらず自問自答しながら結果を追い求めたいと思う。