愛媛こまち掲載 2013-02-26 16:45:34 | Weblog 大八さつき丸で昼食、愛媛こまちに掲載された馬鹿盛り寿司ランチではなくカキフライ定食を頂きました。サラダバーとコーヒバーがあるのでよくお邪魔しています。 掲載おめでとうございます。これからも美味しい食事をよろしくお願い致します。
Fw:お知らせ 2013-02-26 16:33:42 | Weblog 理事者より次のとおり報告がありましたのでご連絡いたします。 平成21年9月に地権者協議会が合意しておりました「山鳥坂ダム建設事業に伴う損失補償基準」について、下記の日程で調印式が開催されます。今後、この基準に沿って水没等移転者をはじめとする関係者の補償交渉が開始されます。日時:平成25年3月1日(金)11:30~、会場:えひめ共済会館4F末広 ◇議会事務局
地域おこしは、“心おこし” 2013-02-26 10:23:57 | Weblog 今日の午後、大洲市議会全員協議会です。 平成25年度予算が提示され、3月議会で審議されることになります。 どんな素晴しい地域おこしの予算が編成されているか楽しみですが、即効の地域活性化計画は望むのが無理かもしれません。 ですが、地域活性化の可能性のあり市民が少しでも豊かになる施策を期待します。 人間力メルマガから 常識破りの発想で、石川県の限界集落を救った “スーパー公務員”、高野誠鮮(たかの・じょうせん)氏。 現在発行中の『致知』3月号に、 北海道の路線バス会社「十勝バス」を 40年ぶりの黒字化に導いた野村文吾社長との 対談記事が掲載され、いま大きな反響を呼んでいます。 本日はその記事の一部をご紹介します。 「地域おこしは、“心おこし”」 高野誠鮮(羽咋市役所ふるさと振興係) 私は町おこしにしても会社の再建にしても 同じだと思うのですが、まずはそこにいる人たちの 「心おこし」が先なんですよね。 とにかく地域の人たちは百人いれば九十九人は、 ここが悪い、あそこが悪い、ここが汚いって 自分たちの町を卑下する。 でも、百年間嘆いても何も変わりません。 とにかく農家が疲弊するのは、 自分でつくったものに自分で値段がつけられないことが 原因なんです。 天候や様々な条件によって生産原価は変わります。 しかし農協に持ち込めば、一つつくるのに 百円の原価がかかっていても、八十円の値段がつけられる。 そういう状態だから当時の神子原地区の農家の 平均年収は八十七万円。 当然子供は後を継ごうとは思わず、 都会に出てサラリーマンになる。 だから人が減っていくんです。 だったら、農家が自分で値決めをできる体制に しなければいけない。 つまり農家だけで会社をつくり、 生産・管理・販売のサイクルを持つということです。 そこで集落の農家を集め 「役所と農協の補助輪を外して自立しませんか」と持ちかけたら、 「新しい補助金の説明会じゃないのか」 「そんなことは無理だ」とヤジの大嵐です(笑)。 百六十九世帯のうち賛成してくれたのは、 事前に根回ししていた一軒を含めたったの三軒。 残りは 「米を売ったことがない奴が何を言うとるがい!」 「だったらおまえが売ってみろ」 「目の前に客を連れてこい!」 と。 そこで私は「分かりました」と。 もしも私がお米を売ることができたら、 今度は皆さんが自分たちで会社をつくってくださいね、 と約束をしたんです。 【野村:勝算はあったのですか?】 いや、ないですよ。だからといって、 できなかったらどうしようとか、 そういう不安は全然なかったですね。 いろいろな壁にぶつかることも分かっていたし、 ちょっとの可能性があればすべてを賭けて、 失敗したらまたすぐ別な手を打って走り続けるしかない。 先ほど言ったように、いまこの地域に必要なのは リハビリ運動です。 そのために 「交流戦略」 「メディア戦略」 「ブランド戦略」 の三つを柱にしました。 一つの物事を成すのに一本の柱ではダメ、 二本でもグラつきます。 三本あって初めて軸が定まり動かなくなる。 これを同時並行で進めるのです。 【野村:交流戦略というのはどういうことですか?】 疲弊した集落は排他的になって 外の人を寄せつけようとしないんですね。 そこで国土交通省がやっていた 「若者の国づくりインターン事業」に目をつけ、 「酒の飲める女子大生」を二名派遣してもらいました。 なぜそんな条件をつけたかといえば、 やっぱり農家は家長制度が残っていて、 すべて物事を決めるのは親父さんです。 猿の社会を見ていると、ボス猿のところに 若いオス猿がくると威嚇するんです。 メス猿がくると知らん顔している(笑)。 だから農家の親父さんの敵にならないのは女子大生、 親父さんと一緒に酒を飲めたら さらにいいだろうと考えました。 そしてこの二人が実によく働いてくれたんです。 どんなに飲んだ次の日でも朝早くから草刈りしたり、 農作業を手伝って、 「ああいう子なら毎年受け入れてもいい」 「うちも受け入れたい」 となりました。 学生を受け入れて農家の役に立つかといえば、 ほとんど立ちません。 しかし、未熟な学生を迎え、彼らに教え、交流することで、 農家の人たちの受け入れの許容が豊かに広がっていったんですね。 もう今度は「外国人でもいい」と言ってくれて、 迎え入れた男の子が「ニューヨークには帰りたくない」と 泣き出すほどの交流を持つようになったんです。