瞑想とは何か。
言うまでもなくそれは己との出会いである。
その己とは何なのかが分からない。
分かったようで分からないのだ。
問うまでもない自明のことだと思う人は
試しに自分の身体だけに絞って考えてみてほしい。
自分と、自分でない部分を
貴方はどうして知ることが出来るだろう。
この身体、皮膚から向こうは何もない
だから皮膚の向こうの空間は私ではないのだというかもしれない
しかし空間がなかったら私は存在しない。
呼吸に意識を向けたらどうだろう
何もない空間にガスを吐き出し
何もない空間から空気を吸い込む
貴方はこのシステムのどこで自他の線引きをする?
そこには論理的に説明できない
何かが存在しているのだ。
つまり瞑想とは
論理にとらわれないで意識を拡げ
可能な限り自分という存在の境界線を探っていくことなのだ。
直感によって出逢う自分という領域を
ただ素直に受け入れて感じると、
自分領域は延々と広がっていくことを体感できるだろうか。
感じには大きさがない。
自分という存在感は、
それゆえに無限大に広がり、無限小に極小化する。
銀河を浮かべる空間も、素粒子を浮かべる空間も、切り離せない一つの空だということである。
宇宙から見たら、自分なんて塵芥にも及ばない
ちっぽけな存在だと思っている。
瞑想とは、
そんな自分が、
実は無限の大きさを持っているということに
思いをはせることだ。
目で見る、限られた世界に囚われず
自分の領域の果ての果てまで旅をする。
逆に無限に分割できる自分を体感する。
自分の中に、どんなに小さくなっても存在する自分がいる。
どこまで行ってもその小さな自分を
包んでくれている空があるのだ。
そんな風景をイメージして体感する事。
それが瞑想だと私は思う。
この瞑想方法は独創的だが、
非論理的なものを権威的な力で信じさせるような
マインドコントロールではない。
それは真逆なのだ。
つまりこの瞑想は、
マインドが自分で自分を実感して進み、
彼岸の風景を自分の中に観ようとする旅なのである。
それを保証するものが五次元である。
表題の図はそれを表したものである。
おそらく
科学的に矛盾はない。
一目でわかるように、
この図は、心の世界をより多くの人たちが納得できる、きわめて実在的な表現だと思う。
時間とスケールのXY座標なのである。
それは心を表す。
現代人で、時間軸を否定するものはいないだろう。
しかし心は時間軸だけでは説明しきれないのだ。
それゆえに苦悩が生み出される。
我々に不足していたもの
それがスケールの概念なのである。
そんな概念が今まで無かったのではない。
意識されなかっただけなのだ。
大衆に気付きが訪れていなかっただけで
物語の世界では様々に語られて来たと言えば
誰もが思い当たることがあるだろう。
たとえばガリバー旅行記を知らない人はいないと言って過言ではないはずである。
私たちの心には
図のようなスケールの概念は古からあった。
なぜなら、
自分が存在するという意識こそスケール軸そのものだからである。
瞑想の形と方法は十人十色である。
そこに統一を叫ぶものがいたら、
信用してはならない。
しかし本来
瞑想は絶対的な個性に至る道である。
人々を十人十色に導く指標と、そこに含まれるエネルギーの本質こそ
スケール軸なのである。
多くの人がスケール軸を意識することは
決して没個性の統一ではない
無限にある個性を掘り起こすことなのだ。
再び同じ図を示して、
簡単にこの図を説明してみよう。
これは心のxy座標である。
x=時間:y=スケール
そして原点(0:0)がある。
原点とは、今この時、このスケールで存在する私である
原点に身を置いている私たちは
自分が自分であることを最大のしあわせと考える。
考えると言うより、
そうなっているのだ。
それ以外に存在しようのない宿命。
宇宙の中にたった一つしかない私の存在する地番が
この原点である。
すなわち原点は私の核と言える場所なのである。
時間軸で生きる人間は、原点を忘れがちである。
そして過去と未来に支配され、
存在しない自分に不安と希望を未来に抱き、
そして過去に向かっては後悔と栄光を覚える。
それが現生の苦楽なのだ。
今を生きる人間は、スケール軸に気付く。
古来、苦悩から解放されようと
様々な瞑想が試みられた。
悟りを得た、大方の人々はそこで
時間軸の亡霊と戦い
神とよばれる実在の体感の中に身を置くのである。
宗教戦争の不幸は、
おそらく方法論の争いだったということだ。
宗教が悪いのではない。
しかしそんなことより、
スケール軸はその方法論に相互理解をもたらす。
誰もがその正しさを検証できる
科学的な思考方法で
スケール軸を
理解することができるからである。
スケール軸を眺めていると
瞑想によって己の大きさを知り
宇宙と己のかかわりを理解していく
その道筋が見えてくる。
すなわち
悟りの道である。
人が人類として気付く
進化の道筋
それがスケール軸なのである
時間軸とスケール軸で空間を思い描いてみてほしい。
五次元思考は
経験したことのないこの巨大な意識空間を
人間としての存在観(感)として、実在に生きる次元に引き上げてくれる。
そんな力を持っているのである。
つまりこういうことだ。
五次元とは
瞑想によって悟りを得、
その至福に胡坐をかいてまどろみ過ごすのではない。
悟りを目標にするのではないということだ。
(そこに大した意味はない。)
瞑想は、
悟りを得て、
人間存在が更なる高次元の人類へと進化する
その契機となるものなのである。
のしてんてんさんは外科医並でしょうね。
5次元の空間系医者?かもと思えてきました。
図は自我の地図のようで面白いですね。
私の場合だと、
私がバレエに深入りしている理由の一つに
ロシアバレエはフランスや英国と違い、
究極の正しさを表現していることです。
私はロシア人のバレエ先生に
ロシアスタイルを学びたいと伝えました。
バレエは個人の限界を許しません。
個人的な習慣も徹底して切り落とされます。
私は個人レッスンが多いから
先生に自分が納得するまで
問い、質問します。
それら、私がやっているのは
私を究極的に無くす作業なのです。
個人レッスンの時は
手の爪の角度、踵の角度まで
厳しく注意されます。
私は地獄訓練が好きなのですが、
先生は私の年を案じて
あまり限界まで追求してくれないのです。
いつか、私が一定のレベルにいけたら
本当の地獄訓練が持てるかもです。
なぜ、バレエの話をするかですが、
のしてんてんさんの究極の自我の分析
私の自我を切り落とす作業
相対的に対(つい)しているのかもと思ったからです。
白と黒の面を持つ一つの何かを
のしてんてんさんも私も
持っているかもしれません。
今年の6月の舞台に私が切り落とした分量を見せようと思ってました。
ヘルニアが悪化して練習できなくなった時
本当に泣きました。
また来年かと。
回復の度合いによって
もしかしたら12月の舞台は可能かもですが、
12月発表会は大概子供達だけなので
先生から勧められても
あまり気がのらないかもです。
私も上々にのしてんてんさんが何を分解しようとしているのか、感が掴め始めたような気がしますね。
桂蓮さんのメッセージ主題にあるものは、己を消すということだと、私には伝わりました。
最近カンフーに接するようになって、まさに70目前の手習いです。私が門をたたいたのではなく、毎朝寺の本堂縁側に座っている私を見て、かの人の心に何かが触れたのでしょう。こいつにカンフーを教えてみようと。
あえて私はかの人が誰かを詮索しないで教えだけを受け取る日々が数か月続いています。
気を用いるカンフーの最も根本にあるもの、それをつい先日教わったばかりなのですが、
その神髄とは、脱力。思い込みや習慣、欲望や、己を作っている一切のものを捨てて脱力して初めてニュートラルな気が流れ始める。
彼の教えを意訳するとそうなるのです。
それは私の提唱する五次元と共鳴しますし、桂蓮さんの話に通じる気がします。
己を捨てたら己がなくなるのでは?レベルでは理解できないの実在感ですね。
自我を切り落とすとき、
恥ずかしながら、私が何度も落とし穴にはまった事例を書きますね。
自我を切り落とすとき、一番大きな落とし穴が、こともあろうか、切り落とそうと肩に力が入るというカウンターパンチ
でした。
そんな経験が、カンフーの脱力説法を海綿のように吸い込んだのかもしれません。
桂蓮さんの道行にある落とし穴を少しでも照らし出せたらと、私の失敗談を書きました。
トシのことを書いておられますが、まなざしは己。己を見たらトシは存在しません。若者は若者。己は己の真我を楽しむ。これで行きましょ^う^
いつまでたっても、桂蓮さんは私よりうん十年お若いので、決して年寄り扱いしているのではありません。念のた^め^
その過程、私もくくり抜けましたよ。
脱力の境地?にはまだまだですが、
一応それを私も目指しているとこおなので、
かたちは違っても
視ているところ、
行く道は似ていると思えました。
ニュートラルな境地
これ、持てようとして持てるもんじゃないのですよね。
最低、最高を行き来できる者でしか持てない機能ですよね。
200キロで走れる機能を持って
30キロで行くのと
150キロしかいけない機能で
80キロを走るのは見た目は変わらないだろうけど、
200をいく必要がある時に
その50キロの差が現れますよね。
自分を無くす作業
切り落とした分量を確実に持つこと
その2つは進行形なので
まだ語る段階に入っていないです。
いつか、到達したと感じられる時がこれば
また、ここで書いておきます。
自分がしっかり坐って来れば
無くすことに自信がついてきます。
でも書いたことを素手で受けてもらえた感じが持てたので、ノレン押し(押し応えがない)でないから嬉しかったです。
ですから、200キロ能力者Aと150キロ能力者Bの比較は意味がないのです。
50キロの差があるのではなく、AがいてBがいるだけです。つまり50キロの差の正体は、優越感か劣等感なのですね。
どちらに組するかに努力を傾けるのは自我の上塗りですし、差を意識する思いは妄想の始まりなのですね。それを捨てた純粋の努力が己の花を咲かせるのだと思います。
「自分がしっかり坐って来れば
無くすことに自信がついてきます。」
妄想はこうして消えていくのだと思います。
己の中に咲く花を見出したいですね。
AにはAの花。BにはBの花
そしてさらにAの花もBの花も、実は同じだったという境地があるのですね。
五次元思考ではそこまで思い描けるのです。(目下検証中です^が^)
根底には、優越や差別、計算、打算があったように思えます。
指摘は的確でした。
先週からヘルニアが悪化したので
すべきことができずにいます。
治療を受けて、回復すれば
そのニュートラルに気を向けてみます。
5次元は存在していると思います。
実体+空体=合体 ですかね?
これは参考になるかどうかわかりませんが、私の腰痛経験です。https://blog.goo.ne.jp/nositen10/e/03bc09f22b44945ede9a527b7bcf5108 「身体と付き合う(2)」
の記事に書きましたように、自己トレーニングでかなり楽になりました。それから五年。すっかり忘れていたらつい2日前のことですが、再び腰痛がやってきました。カンフーの練習のせいかとも思いましたが、その記事を思いだし、腰を引き上げる筋肉の衰えが原因なら逆にカンフーの練習が役立つのではと思い直しました。練習は体をためてほぼ動かないのです。2分3分と構えをして動かない。その時間を長くしていくというので、今は30分はできるようになりました。するとびっくりで、昨日は久しぶりに40分の電車移動で、なんと練習の姿勢を保ったまま立ち続けることができました。足腰がいつの間にか鍛えられていたのです。
これはカンフーのせいでの痛みではなく、その訓練のおかげで腰痛が軽く済んでいるとお思い直したのです。
そこで今朝、腰痛の部分を包み込むようにカンフーの姿勢を保ち1時間続けてみたら、腰痛は筋肉に守られるように感じて和らいできたのです。
ヘルニアの度合いや場所にもよりますが、激しい動きをしないで筋肉を鍛えるのは効果があるようです。
カンフーは静かに筋肉を鍛えなおすにはいいのかもしれません。