気付きということ (泉南市花火大会より)
9月4日、今世紀最大と言われる台風21号に見舞われました。その直後に北海道では予想すら出来なかった広域の山崩れ。
私は台風の方でその恐ろしさを体験しました。
台風直下では恐怖そのものでした。
台風一過の後では、直面する恐怖は消えましたが、我が家や地域の上に残った爪痕を見て、心は新たな苦悩を生みだし始めました。
それはこれから先の不安と、恐れです。
どうしたらいいのか、不安はあってもなすすべがないのです。
私は今、この苦悩をみつめています。
先のことを考えれば考えるだけ、これからもあるかも知れないという思いから不安が大きくなって恐れが心を追い詰め、居ても立っても居られない状態になってしまいます。
私はとにかく坐りました。そしてこの押し寄せてくる不安をただ見つめるだけにしたのです。すると少しだけ恐れの興奮が治まってきます。
さらに見つめていますと、何故不安なのかが見えてきました。
それは、この家を守りたいという必死の想いだったのです。なんとかしなければ、しかし何もできない。自分を追い詰める思考の悪循環がどんどん緊張を深めているのです。
明らかに、この不安の根底には家を守るという思いがあったのです。その思いは、もし守れなかったら終わりだという考えにつながって行くのも見えました。思考はついこのように極端にはしってしまいます。
そこで私は試しに苦悩の中心にある思いを、家はなくなってもいいんだよと考えを変えてみたのです。
すると本当に不思議なほど、私にまとわりついていた苦悩が消えたのです。心が穏やかになり、イメージが稲穂の揺れる田園風景に変わりました。
そうすると、その田園風景が、「お前は生きているよ」とささやいているように思えたのです。
私が生きているのは家を守ることではない。この命を満喫することだという理解が生まれてきました。
守るものは何もない。ただこの命を満喫しなさい。たとえ一文無しになっても、命を満喫することは出来るはずだと、思いが拡がって行きます。
私は今、この心の動きを坐ってただ眺めることに徹しています。
この瞬間をキーボードを打ちながら眺めています。
心の動くままにさせて眺めていますと、さっきまで激しく苦悶していた思考を外から眺めているような気になってきます。すると、これしかないという切羽詰まった考えから解放されて、冷静になるのが分かります。
心を眺めるということは、自分の心を第三者のように見るということに似ていて、思考の興奮を治めてくれる効果があるのですね。
これはたった今、私が体験した心の動きです。
この新鮮な体験から、考えをひろげてみますと、
感情的になっている人に対して、自分を見つめるように促すと、我に返るというのもありますね。
たった一点の思い込みに対して感情的になっているなら、その心を眺めさえすれば他に様々な考え方があることに気付きます。すると心は冷静になる。
自分のことを言えば、こんな体験もあります。
ボーリングの流行った頃でしたが、何回か私もやりました。
私の場合、初投は調子がいいのですが、後になるほど悪くなります。その原因ははっきりしていて、ストライクを取るためにはこうすべしという考えが体を支配するのです。
一種のプレッシャーでしょうか、思考が邪魔をして身体の自由な動きをぎこちなくするのだと思います。
どんなスポーツでも、選手はプレッシャーに悩まされます。
人一倍練習したのだから自分は大丈夫と言い聞かせてプレーに臨むという話はよく聴きますが、これは自分を信じることで、無心になって自分を動かそうとしているのだと思います。
心を眺めるというのは、究極のところこのスポーツ選手と同じ境地に立つということなんだと思うのです。
心を眺めれば、自分のこだわりが見えてきます。こだわりとは自我そのものですよね。その自我が自分を捕えていると理解できるようになると、もっと自然に動ける自分が観えてくるんだと思うのですね。
最初に戻りますが、災害に対する不安はとても大事な感情だということは言うまでもないことですね。充分に対策を練って備えを怠らないためには不安はなくてはならないものです。
けれど、その不安が大きくなって自分の命を圧迫し、パニックになってしまっては大変なことになりますよね。
そこに至らないためには、心に起こった不安を見つめるしかないように思います。
不安を見つめれば、大きくなった不安の下に実寸大の命が見えて来るのではないかと思えるのですね。
心を見つめれば、不安で膨れ上がった自我が見えて来る。すると必要以上の恐れは消えて心は今ある命に戻ってくる。そんな心もちになれるのではないかと期待するのですね。
心を見つめるというのは、気付きの第一歩です。
フィギュアの羽生選手が自分の心を見つめて演技しているなんて到底思えませんよね。プレッシャーを見つめるのではなく、命そのものとなって演技をする無心の姿。これが気付きの究極の姿だと思うのです。
いうのもはばかられますが、土砂に生き埋めになって亡くなられた方々の心を想いますと胸が痛みます。
恐怖を前にして命を守りながら死を迎えたのか、それとも命を懸命に生きながらだったのかと思うとき、
私はただただ、その命を無心に生きながらであって欲しいと願うばかりです。その瞬間の気付きが、自我を宇宙に解放してほしいと・・・
災害の犠牲となって亡くなられた方々に、心からご冥福をお祈り申しあげます。
まずいないでしょう。
いつでも健康に過ごせることが全てにおいて
基本となるわけですから、当然、誰もがそれを望み、そうありたいと願うのは当たり前のことです。
しかし、生きることは健康を損ない、健康ではいられなくなる過程であると解釈すると、また違った見方ができるわけです。
死にゆく過程において、健康であることの意味とは一体何でしょうか?
死にゆく過程において、何故健康でなければならないのか?
健康であるという判断は、生きることにおいてのみ妥当性を持つ判断であって、死にゆくことにおいては、一過性に過ぎないわけです。
その一過性に過ぎないものに対して、やはり心というものは追随してしまいます。
留まり続ける限りは。
雑談です。
精神科医の香山リカ先生が、とある本の解説で書いていらっしゃった事をふと思い出しました。
精神科医は患者に、ああしろこうしろという指示を基本的にしてはいけない(直接の治療は別でしょうが。この薬をいつどれだけ飲む、等)、のだそう。
先生、私つらいんですと患者が訴えると、そうですか、あなたはつらいと思っているんですねと受ける。もうどうしていいのかわからないんです、と訴えられれば、そうですか、あなたはどうしていいのかわからないと思っているんですね、と受ける。
というような内容でした。
私は、これではナンだか患者さん、鏡に向かってしゃべってるみたいな気持ちになるだろうなと『思いました』(笑)。
自分の心を眺める、というのは、精神科医と患者を一人でやるようなもの……かもしれませんね。
死刑執行人が、絞首台で死刑囚に言いました。
「最後の煙草だ」
差し出された煙草に目もくれず
「煙草は健康に悪いからやめておきます」
死刑囚は今わの際に立たされても自我を慮っているのですね。
私が思うに、健康は自我にとって生死に関係なく、健やかに、痛みも苦しみもない身体を望むということなのでしょう。
死はあるとき突然やってくる。誰にもその時は分からない。ですから自我は死を恐れはすれ、死そのものを見ることは無いということなのではないでしょうか。
死にゆくことにおいては、一過性に過ぎないというより、
生きようとする望みが健康という自我を作りだしていると思うのです。
聞いた話ですが、
人は死ぬとき、息を引き取ると言いますが、臨終のとき本当に生きを吸い込んで終わるのだそうです。
つまり人は生きようとする努力を最後まで続けているというのです。
本当かどうかは知りませんが、私はあり得る話だと納得したことがありました。
無論死にたいという自我はありますし、自殺という悲しむべき事実もありますが、それは生きようとして造り上げた自我があるからこそ、それを望めない苦悩が死を選ぶ(生のリタイヤ)と私には思えるのです。
死にゆく過程とは生きるということの反語ですから、死刑囚が自分の健康に気遣うというのも、うなずけますし、笑えるのです^ね^
その本質を見ると、心というものは己以外のものが手出しできないということなのだと思います。
相手の自我を壊してマインドコントロールする場合を除いて、
つまり自我を壊さないで患者を救おうとするなら、精神科医は己の心を患者の自我に気付かれないように接触して、気付きの道に誘うということなのかもしれませんね。
そうして患者が、自分で気付いたとき、治療が終了するわけですから、きっと名医とは患者の心に自分の痕跡をまったく残さない医者なのだと私などは思います。(さみしい仕事・・・知らんけど)
そして精神科医がやっていることは、自分の心を見つめさせ、最後に気付かせることですから、むっちゃんの言うように
「自分の心を眺める、というのは、精神科医と患者を一人でやるようなもの」というのは、まさにその通りだと思います^よ^
心が悲しんでいるとき、
その心に追随するのは心を生きるということでしょうが、
「今心が悲しんでいる」と気付くのが心を眺めるということだと理解して頂ければいいと思います。
私の言う気付きとはまさにそういうことで、ある時は精神科医として自分を眺めることと言っても間違いはないと思います^よ^
"何故不安なのかが見えてきました。~感情的になっている人に対して、自分を見つめるように促すと、我に返るというのもありますね。"
…これはすごくいい考えにして、あるなぁ~と感じました。
「不安を突き詰めていくと大したものではない自分の作った幻想に過ぎない」
※確かのしてんてん様の過去記事でそんな話があった気が。
はい、わかります…。私の場合、とにかくメモに書き出して俯瞰するですね。案外理詰めして見ると「…あれ、大したことないぞ、この不安?」と。
”ただこの命を満喫しなさい。たとえ一文無しになっても、命を満喫することは出来るはず”
…これが境地だと想いました。答えとも言える。(私的には答えだけど、人それぞれ皆違う答え、と。)
コメント欄の死刑囚の話、私は石田光成の最期を思い出しました(似た話です。)
…ここからは私の妄想・想像。賛否もある意見となります。
「最後の最期まで、自分の想う人生の為に行動した」と。
…例え死んでしまうとしても、最期の一瞬まで自分の為に全力を尽くす。
…自己満足と言えばそこまでですが…「最後の一瞬まで理想の人生を目指した」と。
”災害の犠牲となって亡くなられた方々に、心からご冥福をお祈り申しあげます。”
同感ですね…最後の段落に私なりには(※完全な私見です。)
「彼らの走馬灯の中に、生きた理由と言える人生の答えがあったことを祈る…」、と。
真鹿子様の詩の末尾にある言葉ですが、拝借し…
「明日死ぬかのように生きろ、永遠に生きるかのように学べ」 マハトマ・ガンジー
…の心意気を目指して。
こうした、考察・思想として深淵のような記事を書ける…それがのしてんてん様の凄いところだと、本当に想います…。
喫煙者に対する辛辣さが、度を超えている主な理由は、医療の世話になる事を拒否する態度に対する、戒めでしょう。
即ち、健全に、医療に関わらせる為の嫌がらせ
に過ぎないわけです。
癌になっては長寿を全うすることができないからであって、癌は医療の収益には貢献しないからに他なりません。
喫煙者でない者が癌にかかると、不特定多数の喫煙者の所為にされる。
戦後になされた数千発の大気中核実験の影響は無視されたまま、医療に貢献しない者、長寿を全うしようとしない不健全な輩は排除すべきものとして街ぐるみで喫煙者を締め出すわけです
生き甲斐とは何でしょうか?
家族や子供、遊びや仕事、食事や趣味、酒や賭け事、男や女、と言った具合に、人によって千差万別です。
しかし、健康が生き甲斐という人はあまり聞いたことがない。
一服の煙草や、一杯の酒は、生き甲斐としては
非常にささやかななものではないでしょうか?
もし、医者としての生き甲斐が、他人の健康であるならば、優先されるのは自分の生き甲斐であって、自分の健康ではないでしょう。
なんか幸せになれそう ♪
♪( おんぷ)がいっぱいあるんだもん。
アタマのねぎ坊主もカワイイですねっ。
恐怖を感じられたとの事 大変でしたね
最近は 世界レベルの異常気象続きですね
「もっと自然を大切にしなさい」との
人類への警告でしょうか
お断り
拙ブログ 本日の記事で のしてんてん様のご高名を
勝手に出させていただきました
事後承認お願いいたします。
他の市(狭山市)から通っていた生徒たちが一斉に塾を辞めていきました。
私の塾は川越市で
狭山市から通っていた生徒たちは
みんな親が車で送り迎えしてたから、
もう来れなくなったと言ってましたね。
何十人の生徒が辞めて
塾の経営は一晩で大きな赤字になって、
その悪循環が塾を閉めるまで続きました。
あの時の絶望、経営への不安、
塾を辞めるようになるかもとの不安感は
心理学やらの理論では相手にもならなかったでしたね。
それで
私も坐りました。
その不安の根源に『塾を持ち続けたい、手放したくない』との欲望があったことを見つけました。
その不安の根源を見てから、
苦しみに潰されることなく
赤字のままでも
移住する寸前まで持ち続けました。
今振り返ると、経済的な赤字のため
塾を辞めなかったことが誇りになっているように思えたりもします。
家を失うかも知れない不安
塾を失うかもしれない不安
違って見えても
不安の根源には
失いたくないものを
必死でつかんでいる欲望があるかも知れませんね。
今回の記事で
あの時の不安を乗り越えてた道のりが甦りましたね。
マハトマ・ガンジーの言葉は至言だと私も思います。そしてそれを宝物にしている真鹿子さんを尊敬する一人ですが、
折師さんもこの、ガンジーの言葉に気付きを得たのです^ね^
私の勝手な考えですが、
「明日死ぬかのように生きろ」とは、悔いのない人生。つまり今を禍根なく生きるコト。
そんな人生を送るために、
「最後の最期まで、自分の想う人生の為に行動した」という折師さんの思いは本当に自然だと思います。
そして、
「永遠に生きるかのように学べ」とは、永遠に生きていても真理であるコトを学べと言っているように思えます。
もしそんな真理があるとするなら、必ずそれは、少なくとも地上の人類がすべて一人残らず自然に共通に思うコトでなければならないのですね。
私はこの永遠に生きる真理がどんなもので、私の中で無意識で体験しているはずのその体験に気付きたいと思っているのです。(真理である以上、いつでも自分の中で出会うことが出来る)
その思いにはそれが正しいなどという概念さえないコトなのですが、
一つだけ言えることは、折師さんのコメントの中からいうと、「自分の想う人生」を永遠に向かって学びつづけるということなのではないかというコトなのですね。
「自分の思う人生」、これは自我ですよね。そして自我は、必要以上のものを己に付け加えている。
そして気付きがそれをそぎ落としてくれるのです。それはそれだけ真実に近づいている証しと思いたいのです。
「永遠に生きるごとく学べ」とはつまり、自我に気付き、それは永遠であることを知りなさいというコトであり、
それは結局、「明日死ぬかのように生きる」コトの出来る人となるだろうという、ガンジーの世界観なのではないかと思うのです。
難しすぎるお返しコメントになってしまいましたが、理解不能のところはすっ飛ばしてください。
え?それじゃ何も残らないって??
実はそれが答えだったりし^て^