(面白いもので、白梅の隣の紅梅はまだつぼみで、やっとちらほら)
{問}私は神の一部だからしあわせだと言われても、今ここで認識している「私」の、苦しみの絶対量は変わりません。自分でつくりだす無用の苦しみに対する修行はできます。それによって、相対量は変わるでしょうが、絶対量はいつまでも残り続けるのではないでしょうか。
{答}質問には、こんな例が書かれていました。もちろん意訳していますが、おおむねこんな感じでした。
「社会からつまはじきにされた人間が、生きるすべを失って、飢えて死ぬ。この時、社会に対する恨みは消せても、飢えは消せない。」
そうですね、私もまったく同じ考えだということが出来ます。
その通りなのです。そしてそこに人間の苦しみに対する混乱が生まれるのです。苦しみがさらに複雑な苦しみを生む図式がここから生まれてきます。誰もが苦しみから逃れたいと思い、その救いを宗教に求めます。最悪のシナリオは、国家に化身した苦しみが武力に救いを求める事でしょうか、人間の未完成な心の表れを見る思いです。
質問者の優れているところは、苦しみを混同されていない点だと思います。絶対量と相対量と表現されていますが、これはとても大切な苦しみに対する洞察だと思うのです。
私の言葉で言い換えれば、こうなります。
苦しみの絶対量=苦痛
苦しみの相対量=苦悩
分かって頂けるでしょうか。苦しみにははっきりしたこのような区分があるのです。
そしてその違いは歴然です。「苦痛」はこの肉体がつくりだす苦しみですね。どんなことをしてもなくすことはできません。それはモルヒネで麻痺させるしかありませんね。つまり苦痛は避けることのできない苦しみなのです。
一方、「苦悩」は心がつくりだす苦しみです。質問でも書かれていますが、修行によって消すことが出来る苦しみなのです。修行というと、なにか苦行を連想するかもしれませんが、要は意識を変えることで、苦悩は心から消えていきます。
つまり、世界観や人間観、人生観が変わると、それだけで苦悩はなくなります。五次元が、人を時間の苦悩から解放するというのはそういう意味なのです。
大切なことは、苦痛です。この避けられない苦しみを私たちは勇気を持って受け止めなければなりません。その苦しみから逃れようとして、人はどれほど大きな苦悩を背負い込んでいるか考えてみてください。
苦痛から苦悩をそぎ落として真実だけを見たら、きっとそこに幽霊の正体を見ることが出来るのです。(幽霊の正体見たり枯れ尾花)
生まれる苦痛は甚大なものでしょう。しかし人はそこに苦悩を混同することはありませんね。むしろ妊婦さんの心は、いのちの神秘を感動と喜びで感じているに違いありません。生まれる子供から見ても、産道を通る苦痛を恐怖で満たしているとは到底思えません。
全ては自然の営みなのです。
おなじことは死にも言えるのではないでしょうか。
死の苦痛から苦悩を追い払えば、宇宙に帰る喜びが、ないとは言えないと思います。
五次元思考は、己を原点にして、その宇宙の姿を認識させてくれる。高次の道具を使いこなす思考なのです。
質問者に、心より感謝いたします。
苦しみの絶対量、それは命の証しだと私は思います。
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