静かな女性の声が受話器を通して聞こえてきた。その声に幾分安心したものの、私は電話の料金切れを心配してつい大声になってこの電話の趣旨を説明した。
今夜そちらに私宛の連絡があること。そしてそれ以外に連絡の方法がないこと。満室で宿泊できなかったために、どうしてもその電話の相手に伝言をお願いしたいこと。
早口で喋る電話の相手に戸惑いながら受け応えしていたフロントが、ようやく事態を了解してくれ、 . . . 本文を読む
塩谷の駅は時代に取り残されたように、ひっそりと立っていた。待合室には老人が腰をおろして、半分眠っているようだった。
時刻表を見ると、目論んでいた列車の到着は2時50分となっていた。駅の時計はすでに3時を回ろうとしていた。次の列車は1時間後だと分ると、私は列車を諦めて引き返し、国道に出ようと決心した。
それにしてもこののんびりしたダイヤを見る限り、伊藤整の時代の通学列車はもう走っていないのか . . . 本文を読む
記念碑から少し雪の上を登って、先ほどタクシーで乗り付けた道路に出るとぬかるんだアスファルトの道を下って行った。
私はその時、「朝、私は薔薇の垣根をめぐらした家を出て、二十分ほどかかる丘を越え、通学列車に間に合うように駅に行く。」という伊藤整の一文を思い出した。私はこの道がその丘を越す二十分ばかりの道だと思い、その麓が塩谷駅だと考えた。
しかしふもとまで下りてみると、塩谷駅という先ほどタク . . . 本文を読む
ここから塩谷の海岸がよく見渡せた。それは伊藤整が涙にくれて漂う海であり、かつては彼の青春が浜風を一杯に受けて力強く帆走した海であった。西には忍路のある岬があり、その向こうにはローソクの炎のように突き上がった余市の岬が重なるように見えていた。そしてさらにその向こうには積丹半島がかすみ、目を転ずれば東に小樽へ続く海岸が弓のように伸びている。その石狩湾の外は日本海なのだった。
伊藤整は若く多情な . . . 本文を読む
文学碑には「海の捨児」の前半の部分が刻まれていた。
私はこの静かな哀切の詩が好きだった。それは早くから故郷を出た私の心情とよく合い、故郷に愛着し、その愛着は決して帰らないこと知っている冷めた私を甘く悲しく包んでしまう。伊藤整もまたそのような思いでこの海鳴りの聞こえる丘を遠い空の向こうから見つめ続けていたに違いない。そして今、こうして私が踏みしめている雪の一握でさえ、伊藤整にあってはひそかに恋 . . . 本文を読む
伊藤整の文学碑は4~5メートルはあろうかと思われる褐色の自然石を立てたものだった。その前面には方形の大理石が埋め込まれ、そこには伊藤整の詩の一節が刻まれていた。
その詩は伊藤整の詩集「冬夜」の中におさめられている「海の捨児」と題する次のような詩であった。
私は波の音を守唄にして眠る
騒がしく絶え間なく
繰り返して語る灰色の年老いた浪
私は涙も涸れた壮絶なその物語を
次々と聞かされ . . . 本文を読む
国道を海側に寄れるだけよってわずかに覗いている石の頭をよく見ようと背伸びして目をこらした。そうするまでもなく私はそれが伊藤整の文学碑であることを確信していた。
しかしここからは上りようがなかった。石碑の覗いている丘は道路から3メートルは超えるだろう垂直に削り取られた雪の壁の上にあった。車の排気ガスが付着して黒く染まり固まった雪で、到底そこをよじ登る気持ちを起こさせるものではなかった。
かと . . . 本文を読む
男が前を通り過ぎようとしたとき、私は軽い会釈をして伊藤整の生家のことを聞いてみた。
「家はもうないがね、その文学碑ならこの上だ。」
彼は今しがた私が歩いて来た道を指して言った。私が、そこから来たのだが判らなかったと言うと男はさらに詳しく説明してくれた。彼が指さすところに、ちょうどタクシーが止まった道路があり、そこに電柱が立っていた。その電柱から左へ、つまり小樽の方向に戻って4本目の電 . . . 本文を読む
「葡萄園にて」の哀切な世界はこの海に向かう斜面から生まれたのだろう。そう思ってみれば眼下に広がる海は静かで、しかし明るかった。その明るさは青年の心を突き動かしていくエネルギーであったのかも知れない。
考えが落ち着くと、私はようやく動き出した。民家の背戸を回って、その吹きだまりの雪に悩まされながら、やがて国道に出た。ブーツの中は湿って冷たかった。
「やはりなかったな。」そう思って、私はあの運 . . . 本文を読む
道から50センチは積み上がった雪の上に立つと、そこには古い足跡がその斜面をぶどう棚に沿いながら下っているのが見えた。雪はまだ深く私の足を奪い、ブーツの中にも構わず冷たいものが入り込んだ。
私は斜面をまっすぐに下って国道に出ようと思っていた。人家に出れば何かが聞けるかも知れない。ぶどう棚の杭を支えにして注意深く足を運んだ。雪の肌に全身を集中させなければ、吹きだまりに足を奪われて雪まみれになるの . . . 本文を読む