きつねの戯言

銀狐です。不定期で趣味の小説・楽描きイラストなど描いています。日常垢「次郎丸かなみの有味湿潤な日常生活」ではエッセイも。

小説 Fade - out 8 若葉の季節/Re-start

2017-07-01 23:59:09 | 小説
Fade-out 8

§§§§§§§§ 若葉の季節/Re-start §§§§§§§§

 長い冬が過ぎてやっと桜が満開を迎える頃に一晩中激しい雨が降ったが、小雨の上がった昼下がり、北山市桜乃丘のバス停から金満家へ向かう途中で芳香はふと足を止めて傍らに広がる桜並木を眺めた。前日の豪雨にも耐えた薄桃色の桜花が見事な桜のトンネルを作っている。

 いつもなら芳香は金満家へは薬局所有の電動アシスト自転車で訪問するが、今日は朝からずっと降り続く本降りの雨の中、電車に乗って訪れた他の訪問先、隣市の別の患者の入居する施設からの帰り道に、駅から電話で訪問の連絡を入れて直接金満家に向かうことになっていたため、駅のバスターミナルから市内循環のバスに乗って桜乃丘を訪れた。
笑子夫人はいつもの如く顔色も良く声もしっかりとして元気そうな笑顔で芳香を迎え、
「子供たちがね、交代で『お母さん、元気か?』と電話をしてくれるの。」
と嬉しそうに話していた。
私は独りでも大丈夫。でも、そんな風に誰かが気遣ってくれたら嬉しい。側には居られなくても、「気にかけているよ。忘れてないよ。」という気持ちが伝わるだけで力をもらえる。
そんな夫人の気持ちは芳香にも十分理解できた。

 金満家に訪問した翌日に新しく居宅訪問管理指導を開始することになった患者の自宅は、偶然にも金満家と同じ桜乃丘の住宅街にあった。初回の訪問の前に地図で場所を確認すると、金満家からさほど遠くなく、いつも金満家への訪問の時通る道沿いなのですぐにわかった。
比較的症状が安定しているため定期薬は毎回ほぼ変わらず、月に1回訪問する笑子夫人とは違い、新しい患者は、今は症状が重いため容態が不安定で長期処方は出せないので、少なくとも当分は毎週訪問の必要があるということだった。
金満家同様に広い敷地に建つ豪邸で患者本人である当主の姿は直接目にしてはいないが、毎回訪問時は、介護が大変で疲れているであろうに、背筋をピンと伸ばした気丈な夫人が笑顔で対応してくれた。
これからは毎週桜乃丘を訪れることになるが、芳香にとってはもう既に単なる仕事の一環として訪問に来るだけの、他のどことも変わらない場所でしかなかった。

 訪問にしろ外来にしろ、高齢の夫婦の一方が患者でもう一方が介護者であることが多いが、献身的に連れ合いを介助する姿を見聞きすると、芳香は『自分にはもうこんな未来は訪れることはないのだな』と思ってふと一抹の寂しさを覚えることがあったが、それを仁美に話すと、
「どうせいつかはどっちかが先に死ぬんだし、言葉は悪いけど、正直、介護で苦労するくらいなら、寧ろ連れ合いが居なくてラッキーかもしれないよ。死別でも離別でも同じことじゃない。」
と言われた。確かに「もしもあのまま河西と暮らしていたら、そして河西が要介護になったら」と想像するのも恐ろしかった。
長年連れ添う間にはいくら波風があったとしても、根本的に愛情があって迎えた老後であれば、、互いに支え合い、共に慈しみ合って添い遂げる覚悟も出来るのだろうが、もしこの先何十年もあのままの暮らしを続けて老後を迎えたら、介護をすることもされることも絶対に無理だと思えたし、それが現実になったとしたら芳香の脳内には『死』の一文字しかなかっただろう。河西と暮らした間、ずっと思い続けて来たように、『河西が死ぬか、自分が死ぬか』その二者択一にしかならざるを得ないと思い詰めるであろうことは火を見るよりも明らかだった。

 河西の許(もと)を去って一年が過ぎたが、殆ど絶縁状態に近い一人暮らしの芳香の母親や疎遠ではあるが年賀状のやり取り程度の付き合いはあるごく僅かな親戚、友人・知己、職場など、河西に探す気があればいくらでも方法はあったろうが、河西は一向に芳香を探す気配もなかった。プライドの高い河西にとって『長年一緒に暮らした女に捨てられた哀れな男』と思われるのは耐えられなかったろうし、そもそもそれほど芳香に興味も関心もなかったのかも知れない。
 酒に酔わなければ『好きだ、愛してる』という言葉を口にすることもなかったし、素面(しらふ)ではハグやキスはおろか手を繋ぐことさえしなかったが、単に照れ屋だとか恥ずかしがりだとかいうことではない。つまりは河西にとって芳香は、母親の代わりに身の回りの世話をしてくれて、なおかつ給料を支払う必要がなく、寧ろ芳香がパートで稼いだ給料を当てにすることさえ可能な、住み込みの家政婦のような便利な女というだけの存在なのだとしか芳香には思えなかった。

 河西は芳香を自身が勝手に作り上げた偶像に当てはめてそこから逸脱することを認めず、精神的にも噛み合わなかったが、付き合い始めた当初は河西の方から積極的に肉体的な関係を求めて来たものの、共に暮らしていつも側に居るようになると、『釣った魚に餌をやる必要はない』と思ったのか、芳香から河西の手に触れることさえ疎まれるようになり、肉体的な関係を持つことも絶えてなくなった。
 芳香の方から関係を修復しようと努力してみたこともあったが、芳香からの接触は拒まれ、徒労に終わった。
河西にしてみたら、一番大事なのは自分自身であって、芳香は自分の思い通りになるという意味で『良い女』だったに過ぎない。

 最後のチャンスとして芳香から長期出張中の河西にかけた電話でも、河西はついに芳香の思いつめた様子に気づくこともないまま相変わらず自分勝手な自慢話や愚痴を繰り返し、『普段はかけてくることはないのに何故今日に限って、特段用もないのに電話をかけて来たのか』について考えることもしなかった。もしかしたら『やはり俺に惚れているのだな』と自惚れてさえいたかもしれない。まさにその時に芳香が河西との決別を心に決めていたことなど知る由もなく。

 求めていたものが違い過ぎた。互いに相手に対して真実の姿とは違う勝手な理想を思い描いて、相手が自分の思うように変わってくれないかと期待したが、それは端から無理だったと気づけないまま無為に時間ばかりが過ぎてしまったのだと今の芳香にならわかる。どうしてもっと早く気づけなかったのかと悔いてみたところで詮無いことだし、寧ろまだ気づかずにあのまま暮らしていたらと思うとぞっとした。

 『河西と暮らしたあの長い歳月は一体何だったのか』と思うほどにあっけなく別れて、一年を過ぎても河西が芳香を探さないということは、河西にとって芳香はもう必要ないということだ。それが河西の声なき答えなのだと芳香は思った。この先一生涯二度と河西の顔を見ることも声を聞くこともないだろう。既にもう河西の顔も声もはっきりとは思い出せなくなりつつある。河西との過去は完全には消えることはないとしても、『思い出』ではなく単なる『記憶』として時間の流れに押し流されて行くのだと芳香は思った。

 芳香からは宮田に連絡することもないまま、宮田からの連絡が途絶えて久しかったが、それまでは宮田とは長いこと音信不通であっても、突然誘いがあれば何故かいつもうまい具合に都合がついたので、芳香は心の何処かで宮田とはいつも不思議な縁で結ばれていた気がしていた。連絡が途絶えた時には何度も『彼とはもう終わった』と思ったのだが、その度また忘れた頃に連絡が来たけれど、これほど長く連絡がないことは今までにはなかった。決して芳香が宮田を嫌いになった訳ではなく、寧ろある意味芳香が精神的にも肉体的にも最も愛したのはもしかしたら宮田だったのかも知れないが、来る者は拒まず去る者は追わず、もしこのまま終わるならそれで良いと芳香は常に思って来たし、それは今も変わらなかった。随分後になって宮田が遥か遠い街に赴任していたことを知り、まるで出番の終わった役者が舞台を去るように、宮田は何も告げずにそっと芳香の前から姿を消したのだと思えた。

 新庄からは時々SNSで近況報告が送られて来た。
[正道:相変わらず団体からの収入だけでは心許ないので、医大時代の友人知人のつてで代診や当直のアルバイトをしています。
それでも最近は『病院勤務医時代の体験を踏まえて、今後の医療はどうあるべきか』などのお題で講演を頼まれたりすることもあり、日頃考えている医療界や医療保険・介護保険制度の改革についての持論を、志を同じくする人々に訴えかけることが出来るのと同時に、僅かばかりですが謝礼も頂けるので助かります。]
[正道:来たるべき超高齢化社会に向けて、従来の医療制度は想定の範囲を超える社会の変容に対応できなくなりつつあり、既に近い将来破綻することはは目に見えています。先日もサ高住での高齢者死亡調査の結果から幾つかの問題点が指摘されていましたが、民間集合賃貸住宅の延長線上にある現在の施設では、1日1回の安否確認のみでは見落とされる夜間の事故等による入居者の孤独死について………]

 新庄は芳香にも一方的に持論を熱く語ったが、『講演は概ね好評で、画期的な発想や大胆な発言で注目を浴びている』と言っていた。
[正道:今はまだ僕の個人的な意見に過ぎませんが、もしかしたら僕の意見に賛同する人達がどんどん増えて行って、いつかこの国の医療を根本的に改革するきっかけになるかもしれません。勤務医時代は僕が異議を申し立てると、皆が『青臭い理想論』と鼻で笑い、『微温湯(ぬるまゆ)に浸かっているような事なかれ主義で、のほほんと日々の診療をしている場合ではない』と言い続けて来た僕を、『組織というものがわかってない』と冷遇したあいつらこそ何もわかってない。
もし僕が先駆者となってこの画期的かつ抜本的な医療改革が実現したら、その時にはあいつらの阿呆面が見てみたいものです。]
 アニメや実写映画にもなった人気コミックの主人公の科白ではないが『新世界の神になる』とでも言うかのように、『先駆者である自分がいつか医療改革の第一人者となって根底からこの国の医療を変える』という誇大妄想めいた夢には正直ついていけそうにない、と思った。

 新庄の展開する医療の問題点は確かに正論ではあるし、『自分が医療界を変革したい』という熱い思いは勿論全くの嘘ではないだろうけれど、新庄の言葉からはどこかしら『自分を馬鹿にして追い出した病院組織を見返したい』とでもいうような本音が透けて見える気がした。
 新庄が再び別人のように見えたのはきっと自分自身が変わったからだけではないのだろうと芳香は思った。
あれほど新庄のことを愛おしく思っていたはずなのに、何だか憑き物が落ちたように今はすっかり気が抜けたような感じがしていた。
この人は本当に『魂の半身』とまで思ったあの新庄なのだろうか、と芳香は思った。
本当は新庄自身が変わった訳ではなく、ただ芳香には元々新庄の実像が見えていなくて、自らの作り上げた偶像を新庄の真の姿と信じ込んでいただけだったのかもしれない。

 心を開かないと体は開かない。
些細な欠点をも可愛らしく思えるならその人を愛しているのだろうけれど、それが許容できなくなったらもう愛は消えた証拠。
新庄の側に居れば心から安らげるのだろうと思っていたのに、ただ手をつないで朝まで一緒に眠れたら、それだけでもどれほど幸せだろうかと思っていたはずなのに、今はもう芳香はそんな気持ちにはなれなかった。
かつては、この先ずっと独りで生きて行くとしても、『もしもいつか老後を共に過ごせるパートナーが居るとしたら』と考えた時、もしかするとそれは新庄なのかもしれないと漠然と思っていたこともあったが、芳香には今はそんな未来を想像することは出来なかった。

 そんなある日のこと、芳香は何気なく見た星占いにまるで心中を見透かされたようで驚いた。
《今は孤独を受け入れましょう。元来、友達として付き合ううちに「もしかして、好きかも」と思い恋人へ移行することが多いため、寂しい時はついボーイフレンドを増やそうとしがちかもしませんが、真実の恋をするためには敢えて寂しさや孤独を受け入れてみましょう。
寂しさのあまり適当にボーイフレンドを作ろうとすると、次の恋ができにくくなります。
孤独を実感し、「このままではいけない」と心から強く願った時、真実の恋がやって来るはずです。》

 一人が寂しくて誰かと寄り添って居たくて、誰かと居ても気持ちがすれ違い、心が独りなのが寂しくてまた別の誰かを求めようとする。
その度相手を傷つけ自分も傷ついて臆病になり、独りでも強く生きようと思うのに、また寂しくて誰かを求める。
そんなことを繰り返して来て芳香は今疲れ果てているのかも知れない。
それなのにやはり人恋しくて、癒しやぬくもりを求め、その場限りでも良いから誰かと居たいと望んでしまう。
 占いなんて所詮『当たるも八卦当たらぬも八卦』とは思っても、まるで芳香の現状を言い当てているかのようで、『今は孤独や寂しさを受け入れるべき時』というアドバイスの言葉を見過ごすことはできなかった。

 世間では未婚やバツイチの女性の意見として、
『男友達は居るのだから面倒な恋愛なんてしなくても良いのかも知れないが、死ぬまで独りなのかと思うと、やはり寂しい。
とはいえ、恋愛をしたくない訳ではないが、誰でも良いということではなく、心震えるような男性が居ない。
ただ心を通い合わせることが出来る男性が居ればそれで良いのだけれど、既婚者はいざという時に自分を捨てて家庭を取るだろうし、今更結婚や子供を望むわけでもないが、お互いの家族や生活のことを考えると、若者のようにただ好きだというだけでは済まされない問題があって大変難しい。』
という悩みがあるという。
 単に一人の人間として、一人の女性として、ただ心を通い合わせることのできるパートナーを求めているだけなのに、どうしてそれが叶えられないのだろう。結局人間は皆一人なのだけれど、独りは寂しいから誰かを求め、繋がっていたいと願う。だが現実にはそれはとても難しい。素敵な男性には皆既にパートナーが居て、決して自分のものにはならない。とはいうものの、どこかしら欠けたり歪だったりする者同士なら『割れ鍋に綴じ蓋』だろうと思うかもしれないけれど、それが間違いであることは河西との関係で嫌と言うほど思い知らされた。

 眩しい初夏の日差しと共に新緑の季節が訪れて、桜乃丘の並木の古木にも若葉が萌え始めた。
昨年の秋に赤く色づいた樹々の葉は緋色の絨毯となって並木道を覆い、冬には寒々とした裸の枝に雪を積もらせたが、季節は廻りまた満開の桜花が薄桃色の花吹雪となって舞い散るとまた新しい青葉が繁り始め、毎年枯れ葉となって落ちて朽ちても、翌年には新しい花が咲き、若葉が萌え出る。

 芳香の新しい人生はまだ始まったばかりだ。この先どんな運命が芳香を待っているのかはわからない。
「一人で生きて行ける」と覚悟を決めて1年、懸命に生きて来たが、それでも時折この先孤独に押し潰されてしまわないかと不安になることがある。
そんな時ふと目にしたネットの記事にこんなことが書かれていた。
《人生は長く日々続いていくものなので、悩みは一時的なものと自分に言い聞かせれば前に進んで行ける。
例えその日が最悪の一日でも、明日という日は必ず存在するし、明けない夜はなく朝は必ずやって来る。
悩んでいる時はつい「友達に囲まれていても自分はたった一人」と孤独感に苛まれるが、悩みを相談できる人が居るなら頼れば良いし、ペットに癒しを求めたりボランティアやスポーツで発散するのも良い。
そして本当に「最悪」なのかもう一度よく考えてみる。
もっと悪くなる可能性もあったが、自分なりに出来るだけの手を尽くして最小限に食い止められたのだと思えば、自分の選択は最善だったということに気づける。
その選択をしなければきっと今も同じ毎日が続いていたはずだし、そのことだけが人生の全てでもないのだから、落ち込まず明日からまた人生の新しい旅を始めれば良い。
去年の今頃何に悩んでいたか思い返すと、今もまだ全く同じことで悩んではいないはず。
海外の偉人の名言にも
『人生は長い旅路のようなものだから心配や不幸のために時間を無駄にしてはいけない。過去の悪い経験もやり直すことは出来るし、その経験によって強くもなれる。人生が過ぎ去るのはとても早いから、瞬間瞬間を大切にし無為に過ごさず、与えられた人生を楽しむことが一番大切なこと。』
という意味の言葉がある。》

 休日の昼下がり、芳香はふと思い立って北山市桜乃丘を出た時持ち出した僅かな荷物とは別に予め新居の自分宛てに期日を指定して宅配便で送って置いた箱を開けた。
箱の中には出生時から学生時代までのアルバムが数冊納められていて、一番最後の一冊の裏表紙を開くと一通の手紙が出て来た。
それは当時『卒業前に未来の自分に宛てて手紙を書こう』という企画があって書いたものだった。

《未来の私へ。

 私は今学生生活最後の夏休みです。来春には国家試験を受けて薬剤師になっている予定ですが、無事合格したのでしょうか。
病院等に就職して毎日忙しく働いているのでしょうか。
今はまだ失恋のショックを引き摺っていて恋人もできないでいますが、貴女は大好きな父みたいに素敵な男性と恋に落ちて結婚し、2人くらいの子供に恵まれて明るく楽しい家庭を築いているのでしょうか。

 そして、何よりもまず、貴女は今、幸せでしょうか。

 正直なところ今の私にはそんな未来の自分の姿が全く想像できなくて、どこかドラマを見ているような他人事にしか思えません。
それでも恐らく世間一般のごく普通の女性たちの殆どがそうであるように、いつかは結婚して子供を産んで育てて歳を重ねていくのだろうな、とも漠然と思っています。
 実は今私は幸せではありません。今までの人生ではずっと楽しいと感じたこともなかったし幸せとはどんなものなのかもわかりません。
だから未来の自分が人並みの幸せな家庭生活を送っているとは信じられない気持ちです。
でもこの先もずっとこのままの不幸せな状態が一生続くのではなく、いつかきっとどこかで人生の転機が来ると信じたいという希望は失くしてはいません。

 願わくば、この手紙を読んでいる貴女、つまり未来の私が日々幸せに暮らしていて、優しい夫と可愛い子供たちに囲まれて、
「昔の私ったらこんなことを書いてる。」
と笑い話になっていますように。

 貴女が未来の私であるように、今の私は貴女の過去です。

 時間の流れを遡ることは出来ないので、私は私の問いかけに対する貴女の答えを知ることはできませんが、
「大丈夫、心配しないで。とても幸せだから。」
という答えだったら良いなと思います。
今の私が不幸せな分を取り戻してあまりある幸せな人生を、貴女が送っていることを心から願ってやみません。》

 (ごめんね。もう少しだけ待っていてね。きっと幸せになるから。)
芳香は手紙を胸に押し当てて心の中で過去の自分に語り掛けた。

 まだ自分の人生を如何に生きるかに対して具体的な答えは出ていない。
それまで生きて来た人生の全てを一旦破壊して、零から創り直そうと無我夢中でこの1年間生きて来た。
短いようで長いこれからの人生をどう生きるかは日々の積み重ねの中で自然と見えて来ることだろう。
全く不安がないと言えば嘘になるが、悩んだところでどうなるものでもない。
今はまだ手探りだが、いつかきっと自ずと進むべき道は示されるだろう。
そしてそれはきっとそれほど遠くない未来の芳香自身が知っている。
毎日笑顔で過ごせる日が来ればそれで良い。
最期に笑って終われる人生が送れたら、きっとそれが正解なのだろう。

 泣いて過ごしても笑って過ごしても一度しかない自分の人生は自分だけのものだ。
(生きて行こう。幸せになろう。)
芳香は若葉を揺らす風に頬を撫でられ、初夏の眩しい光に目を細めて高い空を見上げた。

(おわり)

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