(第2部のつづき)
§ ガイゼル皇女 §
魔法師団(マギアタイロ)の敷地内の広大な庭の片隅の繁みからガサゴソと音が聞こえた。たまたまその場に居合わせたテオとミコトは黙ったまま顔を見合わせて頷き、静かに繁みに近づいて、そっと様子を伺うと、繁みの奥に小さな人影が隠れているのが分かった。
テオが素早く手を伸ばしてその不審者の腕を掴み、繁みから引っ張り出すとその不審者はまだ若い女学生らしかった。
「その制服は、帝都女子学院のもののようだね。こんなところで、何をしているのかな?」
制服は小枝や葉っぱまみれで、裾には土がついていたが、ミコトが声を掛けると、女学生は正体を知られまいと顔を背けた。
「あれ?何か見たことある顔だと思ったら、さっきニュースで婚約したって言ってたガイゼル皇女じゃないか。」
高級貴族(アリストロ)家系出身のテオは、その顔に見覚えがあった。
「え?本当に貴女はガイゼル皇女様なんですか?」
ミコトが言葉を改めると、観念したように小柄なガイゼル皇女は長身の二人を見上げて頷いた。
「その皇女がここで何してたんだ。もしかして、政略結婚が嫌で逃げ出して来たってわけか?」
テオは皇女相手でもいつも通りの口調で尋ねた。
「そうなんですか?」
ミコトもガイゼル皇女の顔を覗き込んで尋ねた。
「…助けてください。わたしは結婚なんかしたくないの。まだ恋人すら居ないのに、何度か挨拶したくらいの、それもうんと年上の男性と、突然結婚することに決まった、なんて言われて、怖くて逃げ出して来たんです。わたしはあの方が恐ろしいの。決して魔族(ヴィンケル)のような外見だからということではなくて、物腰は柔らかでいつも笑顔を絶やさない方だけれど、絶対に目だけが笑っていなくて、あの氷のように冷たい目で見つめられたら凍り付いたように身が竦んでしまうんです。」
皇女は泣きそうな顔で言った。
「貴族の社会なんてそんなもんだろ。政略結婚なんて別に珍しいことでもないし。」
テオはそう言ったが、ミコトは皇女に同情したように、神妙な顔つきで言った。
「貴女はまだお若いし、生涯の伴侶となる人はご自分で選びたいでしょう。そのお気持ちはわかります。」
「おいおい、ミコト。今まで朴念仁だと思ってたが、お前って意外とロマンチストなんだな。」
とテオが笑った。
「笑い事じゃないよ。テオ、例え皇女様であっても、一人の女性として、伴侶は自分の意思で選びたいと思うのは当然のことじゃないか。」
ミコトが真面目に答えると、テオは真顔になり、
「確かにな。もし俺が政略結婚しろとか言われたら、全力で抵抗するだろうしな。…だが、どうもそう簡単には行かなさそうだ。」
テオの視線の先には、僧兵(モンソルダ)を引き連れた神官長(エルプリスタ)ドーマが、魔法師団の上層部と共に姿を現した。
「これは、これは、ガイゼル皇女。やっと見つけましたよ。」
微笑んで見せる神官長だが、表情とは裏腹にその蛇眼のような赤い瞳は全く笑っていなかった。
「随分探しましたよ。お転婆も大概にして頂かないと、皇帝(カイゼル)陛下も大変ご心配なさっておられます。」
「ご、ごめんなさいっ。」
皇女は怯えて声を震わせながら謝った。ドーマはテオとミコトの方に視線を向けると恭しくお辞儀をして言った。
「あなたがたお二人は、研修生(インターン)の中でも有名なテオ魔導士(マーギア)とミコト魔術師(ツァオベラー)ですね。お噂はかねがね伺っております。わたくしは魂神教会(リウ・レリジオ)神官長のドーマと申します。」
「あの、」
口を開こうとしたミコトの袖を、テオがぐっと引いた。
「どうやらガイゼル皇女は誤解をしておられるようでしてね。わたくしと婚約はしたけれど、まだ女学生であるガイゼル皇女と今すぐ婚礼を、と言うことではありません。初めからわたくしはガイゼル皇女が学業を終えられるまでお待ちするつもりで居りました。さあ、ガイゼル皇女。お判り頂けたなら、どうぞ皇宮へお戻りください。わたくしがお送り致します。」
蛇に睨まれた蛙のようにガイゼル皇女は身を固くして
「わ、わかりました。」
と震え声で答えた。
「お二人にはお世話になりました。ガイゼル皇女を保護してくださってありがとうございました。」
愛想笑いを浮かべてドーマが言った。
「さあ、ガイゼル皇女、参りましょうか。」
「は、はい。」
皇女はテオとミコトに視線を残したまま、ドーマに促されて歩き始めた。
後を追おうとするミコトを、テオが引き留めた。
「何で?」
と尋ねるミコトにテオは真顔のまま微動だにせず答えた。
「『蛇』が狙ってるからだよ。あいつは曲者だ。ここは引いた方が良い。」
ミコトは我に返って遠ざかる神官長一行を見送ったが、皇女の身に何か良くないことが起きるような予感がして、何とも居たたまれない気持ちになった。
(あれがテオとミコトか。見たところ、ミコトは生真面目な堅物、一本気で融通の利かない律儀な性格というところか。しかし、張り詰めた弓弦の如く硬さは脆さの裏返しでもあるからな。人族(ユマ)の身の限界まで精霊(ガイスト)の霊珠(ジュヴィル)と術式回路(シャルトクライス)を取り込み、聖獣(ヴェヒタ)を召喚して、身に受けた魔法(マギカ)をそっくりそのまま模倣して返し、あらゆる属性の多彩な魔法を操る優等生と聞くが、むしろ理屈通りにしか動かない優等生の方が扱いやすいというものだ。
だがしかし、一方でテオの方は危険だ。天才というものは常人には理解できない。靭やかで強か、変幻自在で一種の狂気すら感じさせる。しかも直感が鋭くてこちらの手の内も見透かされそうだ。出来る事ならテオだけは敵に回したくない。)
ドーマは二人と会ったほんの僅かな時間だけで、二人を品定めしていた。勿論、二人が皇女に気づく前から、気配を消して様子を伺っていたのではあるが、魔法師団の上層部が派遣する魔法使いの選定に圧力をかけようと企んでいたドーマは、優れた洞察力で最強の二人の特性を見抜いた上で、魔法師団の上層部を使って、自ら書いたシナリオ通りに操ろうと考えていたのである。
その日以来、テオとミコトが単独任務を与えられることとなり、教会の与えた誤った情報を基にした作戦に派遣された任務でアッシェやブルーダが命を失ったが、それが全てドーマの策略であったことなど、現場の魔法使い(マグス)には知る由もなかった。
一方でドーマは教会での説教を通じて、言葉巧みに一般民衆を誘導し、魔族への敵対心と共に、「似非魔族」である魔術師への不信感を植え付けようとしていた。魔族の血を引くドーマ自身が魔族の殲滅を掲げ、見事魔族絶滅を果たしたとしても、魔術師がその魔法の力を利用して民衆の敵となるかのような印象操作を目論んでいた。
人心掌握術に長けたドーマの術中に嵌った民衆は、ドーマの説教に惑わされ、徐々に「魔導士はただ少し秀でた『人』であるが、魔術師とは魔族に近しい『似非魔族』のようなものである」と刷り込まれて行ったのである。
「皆さんの生活とは切っても切れない関係にある魔道具(メヴァクツォイ)は、魔導(メヴァク)の力によって誰もが生活魔法を使用することができるように開発されたものであることは周知の事実だと思います。魔導の力は今や人族の生活には欠かせないものとなっています。その魔導の力で、人族は魔導兵器(メヴァッフェン)を手に入れました。皆さんは魔法の力が使えなくとも、全ての命の源であるリウの流れ・『ほしのいのち(ウテル)』とその中に存在する『神(ゴト)』のご加護、即ち『リウの賜物』によって守られてはいますが、魔導の力が皆さんを支援していることは疑いようのない事実です。
人族の敵・魔物(モンスター)のみならず、近年は魔族の襲撃により、人族の生活が脅かされています。魔族は魔法の力を利用して、わたくしたち人族全てを死に至らしめようとしているのです。わたくしたちは魔族から身を護らねばなりません。しかし、悲しいかな、わたくしたちには魔法が使えません。魔族同様に魔法を使うことが出来るのは魔術師だけなのです。魔法の力を得た魔術師は、魔族と同じ力が使えるのです。
では、魔術師でなければ戦うことが出来ないのかと言うと、そうではありません。わたくしたちには魔導兵器があります。勇敢な戦士(ソルダ)達は魔導兵器を以て魔族に対抗します。そして魔道具の延長として、魔導武器で戦う魔導士がいます。魔導士は魔導武器を持つことで疑似魔法(メギカ)を使うことができますが、魔導武器がなければわたくしたちと同じように、魔法をを使うことはできません。魔導士は選ばれし者として人より出でたる特殊な戦士に過ぎません。魔術師のように聖獣を召喚することはできませんが、魔導の力により、勇敢に戦います。わたくしたちは、人族を護るために命を懸ける戦士たちに感謝し、お祈りを捧げましょう。わたくしたち魂神教会も、戦場に僧兵を派遣し、戦死者の魂が魔物へと転生することのないように、鎮魂の祈りを捧げております。」
§ 蛇の甘言 §
「ブルーダ魔術師だった魂よ、現在と過去と未来を繋ぐ命の源、この世に満ちるリウの流れ・『ほしのいのち』へと還り給え。」
魂神教会の神官長ドーマは祈りを捧げながら、胸元で『光十字(ヘルクロイツ)』を握りしめ、目を閉じて頭を垂れた。
八本の線が放射状に組み合わされたような光十字は魂神教会の紋章にもなっており、リウの輝きを象徴するものだと言われていた。
暫し沈黙していたドーマが顔を上げ、蛇眼のような赤い瞳を細めて、ミコトに声を掛けた。
「ご安心ください。これでブルーダの魂が迷い魔物(モンスター)になることもなく、『ほしのいのち』に還れるでしょう。家族や恋人、親しい友人が亡くなった後魔物に転生すると、心を失くして愛する者を襲い、身を護るために魔物を倒せば、大切な人を二度も失うことになってしまいます。そうならないようわたくしたち魂神教会は、死者の魂を慰めるために祈らねばならないのです。」
既に光の粒子に分解されて浮遊し、消失してゆくブルーダの魂を見送ったミコトはドーマに頭を下げ、謝意を表した。
「ありがとうございました。」
「いいえ、わたくしは自分の為すべきことを為しただけのことです。完全無魔者(ヌル)のわたくしには、魔術師の代わりに戦うことはできません。わたくしにできることは祈ることだけ。わたくしはわたくしのできることを精一杯努めるだけのことです。」
ドーマの言葉にミコトははっとした。ドーマはそれに気づいたが、素知らぬ顔で話を続けた。
「ミコト、以前魔法師団でわたくしの婚約者、ガイゼル皇女を見つけて保護して下さり、その節は大変お世話になりました。」
まだ傷心の癒えないミコトには、愛想笑いを浮かべるドーマの真意に気づくだけの心の余裕はなかった。
「いいえ。」
「こんな時にと思われるでしょうが、心の傷を癒すためには、他愛無い会話も一役買うことがありましてね。少しだけ、わたくしの話を聴いてくださいませんか。以前から、是非ともあなたには聴いて頂きたかったのです。」
ドーマはミコトに向かってそう言ったが、その言葉には有無を言わせぬ力が籠っていた。
「有り得ない理想だとあなたは笑うかもしれませんが、もしも人族と魔族がかつてのように共存できる世界が実現できれば、人族と魔族が争うこともなく、魔法使いが戦って死ぬこともなくなるとは思われませんか。そうなれば若者が魔術師となって戦うために試練や修行で苦しむこともなくなります。人族と魔族は相容れない存在であり、必ず二者択一と信じられてきましたが、本当にそうなのでしょうか。心を持たない魔物はいざ知らず、理性や知性を持つ魔族となら、人族は共存できるかも知れません。魔族と人族の間に生まれたわたくしはそう思っているのですよ。悲しいことに人族の民衆の中には、魔族と魔法使いを混同しているような者も居ります。魔法や疑似魔法の恩恵を受けているにも関わらず、魔法使いを忌み嫌う者さえも。あなたは人一倍苦労をして最強の魔術師にまで登りつめたけれど、次々と仲間の魔術師を失い、民からは冷たい仕打ちを受けて来られたのでしょう。今のあなたはきっと、『もうこれ以上戦いで仲間たちを死なせたくない。』と思っておられるのではありませんか。あなたは魔法とは無縁の一般家庭ご出身だそうですね。もしも人族と魔族との戦いがなければ、試練や修行で苦しんでまで魔術師にならなくても良かったのではありませんか。戦いで命を落とす者が居るから、無念の思いを遺す者が居るから、魔物が生まれるのです。戦いが無ければ、これほどまでに多くの魔物も生まれることはなかったでしょう。そうは思われませんか。」
ミコトはドーマの話を聴いて、宗教者らしい理想論だと思った。
(そもそも何故人族と魔族が争うようになったのか。何故魔物が生まれたのか。それらは全ての原因は人族が作ったことを棚上げして、魔族と人族の共存などが出来る訳がない。人族がまだ存在しなかった太古の世界は平和だった。人族が生まれても、最初は魔族との共存も可能だったろう。
しかしそれが破綻したのは、ただ人族が増え、繁栄したからだけではない。人族が驕り高ぶって、魔族を脅かし、世界を汚染し、資源を浪費してきたからではなかったか。人族の存在がこの世界にとっての害悪だからこそ、魔族は人族から世界の覇権を争い、取り戻そうとしたに過ぎない。それ故、共存という選択肢など有り得ない。
人族の自衛のために魔術師は精霊に近しく半ば人に非ざる者となってまで身を削って奉仕して来たというのに、それを理解することもせず、魔術師を罵倒するような人族にはつくづく愛想が尽きた。寧ろ滅ぶべきは人族なのかもしれない。)
ミコトは深い闇の底に墜ちるように、心が黒い影に飲まれて行くのをもう止められなかった。
全ての生命が共存できる理想の世界は夢幻。人族からすれば魔族の排除が大義だが、魔族の立場になれば、寧ろ滅ぶべきは人族の方なのだから、精霊の力を以て人を守る魔術師は、端から矛盾した存在だったのだ。
民衆の意識を誘導することで魔術師への嫌悪感を植え付けたのも、情報を操作して魔術師を死地へ送り来むように仕組んだのも、全てドーマが黒幕であったとも知らず、俯瞰で見た世界の理から人族に対する嫌悪感を募らせたミコトは、「自分も人族ではあるが、もう人族は滅んだ方が良いのかも知れない」とまで思い詰めていた。
真面目さ故にそれがドーマの巧みな意識操作であることに気づくことさえできなかったのである。
「何故あなたにこの話をしたかというと、勿論あなたが現世で最強の魔術師であり、魔法学院(マギイ・アカデミア)でも優等生だった聡明な方だと聞いていることもありますが、もしかしたら、あなたなら『究極魔術師(アルテマツァオ)』になれる可能性があるのでは、と思ったからです。魔法使いの中では『究極魔術師』なんて夢物語だと言われているらしいですが、わたくしの幼い時、亡くなった母が、生き別れた魔族の父から聞いた話として教えてくれたのです。又聞きでもあり、うろ覚えでもありますが、わたくしは『究極大魔法(アルテマギカ)』や『究極魔術師』の存在を信じています。ただ人族はそれを知らないだけで、魔族ならば知っているはずだと、わたくしは常々考えておりました。人族からの迫害を恐れて、母からは固く口止めされていたので、今までは誰にも話したことはありませんでしたが、始祖の魔女アカツキは究極魔術師だったのです。そしてアカツキが契約した特別な精霊から究極大魔法を得て、究極魔術師になったのだと。基本五属性と準精霊の二属性を合わせて七属性を操るあなたなら、アカツキ以来の究極魔術師になれるかもしれません。そうなれば、あなたは、希少魔導士(ゼルト・マーギア)である親友のテオにも匹敵する、いや、それ以上の最強の魔術師になれるかもしれません。」
§ 分かれ道 §
ブルーダの死後、突然ミコトが行方不明になったことを知るテオだったが、最強魔術師であるミコトが不在である分、最強魔導士であるテオにしか出来ない任務は増え、忙殺されていた。戦士だけでなく民衆に対する被害が激しくなって、一人残らず鏖殺されてしまうため敵の情報は殆どわからないが、テオは何となく嫌な予感がして、ミコトの失踪と何か関係があるような気がしていた。
薬師(ファルマ)として魔法学院内の研究所兼工房(ラボーア)に配属され、回復薬や治療薬を始め、魔法使いを支援したり安全で便利な民衆の生活に寄与するためのアイテム研究と調合生成に携わるイツキは同郷でもある同期生ミコトの失踪のニュースに心を痛めていた。
真面目過ぎ、優しすぎるミコトのことだから、彼なりに熟考した上での失踪であろうことは想像に難くないが、繊細なミコトの信念の硬さや真っ直ぐさはいつかポキンと折れそうな脆さの裏返しであるとイツキにはわかっていたから、ミコトの行く末を案じていたのである。
イツキはふとミコトの匂いがした気がした。彼の傍にいる時に感じていた匂い。それは彼が魔術師となり、体内に多くの精霊の分身を宿すようになったからかはよくわからないが、何とも表現し難い、だが、決して嫌な臭いではない、不思議な匂いだった。薬師の家系に生まれたイツキは耐毒性に秀でた特異体質だけではなく、魔法に対する嗅覚にも優れていたから、常人には感知できない独特の匂いに気づけたのかもしれないが、イツキ自身にはそんな自覚はなく、「こんなところに居るはずのない彼の匂いを感じたのはきっと、彼のことを心配していたせいで起きた錯覚だろう」と思ったその時、
「イツキ、後でいつものところに来て。」
と耳元で囁くミコトの声を聞いた気がしたのだが、振り返っても誰の姿も見えない。しかし、イツキは作業の合間に、学院生時代にいつもミコトとテオと語り合った談話室へ向かった。現役の学院生達は談話室には来ない時間帯なので、談話室は無人だった。
談話室に入ると、テオとミコトと三人で過ごした青春時代の懐かしい思い出が胸に蘇り、涙が出そうになった。
ミコトの匂いは自分の目の前の空の椅子から漂っていた。
「両面外套(リバーシブル・コート)ね。」
イツキは言った。表面はただの足元まであるフード付きのロングコートだが、裏返しにすると透明化の魔法効果で姿が見えなくなるアイテム。着る者の体型に合わせて伸縮し、すっぽりと体を覆って目深にフードを被れば、まるで透明人間になったように周囲から気づかれず姿を隠せるものだ。
「ご名答。さすが薬師だね。」
そう言ってフードの中からちらりと顔を覗かせると、紛れもなく穏やかな笑顔を浮かべたミコトだった。
「やあ、イツキ、久しいね。」
「ミコト、行方不明だって聞いたけど、何処で何してたの?」
イツキは万が一にも他人が通りかかって不審がられないように声を潜めて訊いた。
「まあね。いろいろと考えるところがあって。」
イツキはミコトの笑顔を作り損ねて取り繕ったような表情から何かを察したように言った。
「もう魔法師団には戻らないつもりなんだね。」
ミコトは急に真顔になって、暫し沈黙した後寂しそうな笑みを浮かべて言った。
「ここでテオとイツキと私と三人で過ごした学院生時代が懐かしいな。」
「テオにも会わないで行ってしまうつもりなのね。」
イツキも残念そうに視線を落として言った。
くしゃっと顔を歪めて笑う、学院生時代のミコトの、楽しそうな、心からの笑顔がイツキの脳内に浮かんだ。テオと一緒にバカみたいにふざけていた頃はいつも見ていたあの笑顔だったが、今のミコトの笑顔は、あの時の笑顔に似せようとして失敗したように寂しく見えた。
「ミコト、これからどうするつもりなの?」
イツキは彼に訊くべきでもないし、ミコトが答えるはずもないと思いながらも、訊かずにはいられなかった。
「この世界にとって最善と思われることの実現に力を尽くすつもりだよ。」
「ミコトが何を言ってるのか、わからない。」
意外なミコトの答えにイツキは戸惑った。
「わかってもらおうとは思ってないよ。ただ、私は私なりに生き方を決めたんだ。後はそのために私が出来る事を精一杯やるだけだよ。」
ミコトの言葉には反論を受け付けない頑なさがあった。
「じゃあ、イツキ、さようなら。」
そう言うとミコトはフードを被り、イツキの視界から消えた。ただ、ミコトの匂いだけが遠ざかって行くのをイツキは感じていた。
イツキは魔導携帯端末を取り出し、テオを呼び出した。
「テオ?今魔法学院の談話室でミコトと会ったの。両面外套来て尋ねて来たわ。今ならまだ近くに居るかも知れない。」
「え?マジか!」
テオがそう言うと通話は切れた。
「ミコト、余計なお世話かも知れないけど、せめて最後にもう一度だけテオとは会って行った方が良いよ。」
イツキは通話の切れた端末を握ったまま、独り言ちた。いや、本当はミコトが会いたかったのはイツキよりもテオの方だったのかもしれない。素直になれなくて、こんなまどろっこしいことをするのも、ミコトらしいと言えばミコトらしいかもしれない。
「あいつ!!」
イツキからの通話を一方的に切ったテオは、転送魔法で魔法学院の近くへ急行した。賑やかな帝都ヴェステンシュタットの繁華街からは遠く離れた学院の外は既に暗く、魔物を恐れて人通りはなかった。そんな薄闇に紛れるように表に返した両面外套を着て歩く、フードを目深に被った高身長の後ろ姿を見つけたテオは、それがミコトだと一目でわかった。裏返しのままなら姿を消していられるのに、両面外套をわざわざ表に返して着ているところを見ると、イツキがテオを呼ぶことも、テオが追いかけて来ることもわかっていて、テオに見つけられるためにミコトがわざとそうしていたのかも知れないとテオは思った。
「ミコト!!」
テオが叫ぶと、ミコトはゆっくりと振り向いた。
「お前、今まで何処へ行ってた⁉これから何処へ行くつもりだ⁉」
テオの問いかけにミコトはイツキに対して答えたと同じように
「私はこの世界のために自分が出来る事を精一杯やろうと思っているだけだよ。」
と穏やかに答えた。
「魔法師団には、君さえいれば良い。私はもう必要とされていない。」
「お前何を言ってんだよ!お前の言ってることは全部意味が分からないよ!」
テオは怒りなのか悲しみなのか自分でも分からない激情に突き動かされて叫んだ。
「私と君の進むべき道は既に分かたれたんだよ、テオ。私は私が生まれて良かった、生きる意味があったと思える世界を作りたいだけだ。それが私なりの大義だ。」
「お前ひとりで世界を変えるなんて、出来る訳ないだろ!」
「もし私が君ならば出来るよ。テオ。私が君だったら、私の大義もバカげた理想で終わることはないだろう。」
「ミコト、お前…何をする気だ?」
「さようなら、テオ。」
テオとミコトの話は平行線のまま、ミコトは突然別れを告げると、白色の翼竜の姿をした聖獣(ヴェヒタ)ヴァイフルザを召喚し、共に上空へ舞い上がると何処かへと飛び去ってしまった。
「何でだよ…。」
テオはミコトの話が理解できぬまま、その場に立ちすくんでいた。
§ 皇女誘拐と皇帝暗殺 §
大規模な鏖殺事件が頻発する中、特に大規模な魔族との戦闘に、偶然巻き込まれた魔法学院生が、虫の息ながら生還して証言したところによると、
「敵の魔族を率いていたのは高身長で黒髪の『仮面の魔術師(マスケ・ツァオベラー)』だった。魔法学院の制服姿であった自分だけは戦闘不能状態で助かったが、他の人族は全員殺された。」
ということだった。
魔族の特徴である青い髪、白い肌、蛇眼のような赤い瞳の特徴には当てはまらず、長い黒髪と仮面から覗く黒い瞳は人族の、特に東方出身者のようだった、という報告に、テオは胸騒ぎがした。失踪したミコトの特徴とあまりにも似ている。もしかしたら、いや、おそらくは、仮面の魔術師の正体はミコトだろう。ミコトが言い放った「大義」の意味が人族の大量虐殺だとは考えたくないが、魔法学院生だけは命を奪わなかったというのも、いかにも後輩思いのミコトらしいと思うと辻褄が合ってしまい、その疑惑が心に重くのしかかって来た。
そんな時、突然魔法師団に皇女誘拐のニュースが飛び込んで来て、皇宮から突然姿を消した皇女を連れ去ったのは、他ならぬ仮面の魔術師ではないかという噂が流れた。皇女の婚約者である神官長ドーマは、皇女の捜索と救出を魔法師団に依頼した。
「もしも噂通り皇女を誘拐したのが仮面魔術師だとしたら、魔法使いの手を借りるより他に、皇女を奪還する方法はありません。ここは是非とも、魔法使いの中でも特に優秀な人材の派遣をお願いしたい。可能であれば、最強魔導士と名高いテオ魔導士を派遣して頂ければ、これほど心強いことはございません。」
魔法師団は神官長直々の指名とあっては最優先で応えねばならないと、その任務をテオに一任した。
魂神教会から得られる情報を元に、テオは皇女捜索の任務に就いたが、曖昧な情報に振り回され、帝都から遠く離れた場所へと赴いては、殆ど成果の得られぬまま、再び別の情報を元に奔走するということを繰り返していた。
もしも本当に仮面魔術師がミコトであり、彼が皇女誘拐に関与していたら、と思うと、一刻も早く皇女を探し出さないといけない、とテオは焦っていた。政略結婚を嫌がっていた皇女に同情していたミコトなら、もしかしたら皇女を自由の身にするために誘拐していたとしても、筋が通るかもしれないと思ったからである。
テオが帝都を離れている間に、状況は更に悪化した。
皇帝が暗殺されたのである。皇女が誘拐され、「皇女は預かっている」という犯行声明だけが残されただけで、犯人からの接触もないまま時間だけが過ぎて行き、心労から衰弱していた皇帝だったが、深夜に何者かが皇宮に忍び込み、皇帝を亡き者にした。護衛の兵士も全て瞬殺されたのか、騒ぎ一つ起きないまま、朝になって発見された時には既に皇帝の息はなかった。そして皇帝の死後間もなく、テオの派遣先とは全く違う場所で皇女の亡骸も発見された。
皇女誘拐及び殺害も、皇帝の暗殺も、仮面魔術師が犯人であると噂され、テオは歯噛みして悔しがった。皇女誘拐は囮であり、テオを帝都から遠ざけるための策略であったに違いない。犯人の真の目的は皇帝と皇女の両方を死に至らしめ、その犯人が仮面魔術師であると民衆に信じ込ませることであろう。
皇帝と皇女の死後、魂神教会によって盛大な葬儀が執り行われた。その席で神官長ドーマは民衆を前に決意を表明したのである。
「わたくしの婚約者であるガイゼル皇女は誘拐され、殺されました。娘の身を案じ、心を痛めておられた皇帝陛下までが命を奪われ、人族は今指導者を失い、混乱を極めております。僭越ながら、このわたくし、魂神教会神官長ドーマは、今は亡きガイゼル皇女の婚約者として、皇帝陛下の後継者となり、民衆を支え、導く存在となりたいと思います。」
皇帝父娘が亡くなって、一番得をするのは誰か、考えてみれば簡単にわかることである。しかし、人心掌握の術に長けたドーマは、最愛の女性を奪われた悲劇の人物を見事に演じ、敬愛する皇帝が安らかに眠れるようにと、印象を操作して自分こそが正当な皇帝の後継者であると皆に信じ込ませ、ドーマを疑う者は殆ど居なかった。
テオは仮面魔術師がミコトであるなら、間違っても皇帝と皇女を手にかけるはずはないと信じていたし、ドーマの配下の僧兵達が、宗教者を装った暗殺部隊であることは、以前から薄々感づいていた。戦場で死者に鎮魂の祈りを捧げて弔うと言いながら、都合の悪い生存者を闇から闇に葬っていたのではないかと思える節は以前からあった。それなら僧兵に命じて皇女誘拐事件と皇帝暗殺事件を起こし、無関係の仮面魔術師が犯人であるかのような噂を流して、真犯人を操った黒幕がドーマ自身であることを隠蔽できるからである。しかしそれを証明する証拠がない限り、テオ一人が異論を唱えたところで、耳を貸す者が居るとは思えなかった。いつかドーマの悪事を暴いてミコトの無実を証明しないといけないが、そもそもミコトが仮面魔術師であることも出来るなら嘘であって欲しいと、テオは願わざるを得なかったのである。
その後も仮面魔術師は度々出没したが、その魔術師は何故か容赦なく魔導兵器を破壊し、魔導兵器部隊の戦士達や、戦場となった集落の民間人は悉く鏖殺したが、派遣されて任務を遂行していた魔法使いは皆戦闘不能状態には陥るものの命を奪われることはなかった。もしミコトが本当に仮面魔術師だとしたら、何故ミコトが魔族に与し、人族を襲うようになったのかはテオにはわからなかったが、仮面魔術師がミコトであることには確信が持てた。
「弱者を護るのは強者の努め。強大な力には重大な責任が伴う。」が持論で、人一倍仲間思いだったミコトなら、例え人族の敵となっても、例外なく鏖殺することはないだろうと思えた。実際に魔法使いや魔法学院生だけは戦闘不能状態でも生還している。
だが、何故ミコトが仮面魔術師となって魔族と共に戦っているのかだけは、どう考えても理解できなかった。
§ 究極魔術師と究極大魔法 §
ミコトが両面外套を着て姿を隠しながら魔法学院へと忍び込んだのは、実はかつての親友であったテオとイツキに対する暇乞いだけが目的ではなかった。寧ろ学院内の図書館が保有する魔法に関する古典の文献を調べるのが本来の目的であって、その帰りにふと薬師になったイツキが学院内の研究所兼工房に配属されたことを思い出し、最後になるかもしれないから、一度イツキと会っておこうと思いついたのである。そしておそらくイツキは、ミコトの姿を見たことをテオに知らせるであろうことも予想できたから、運が良ければテオにも会えるかもしれないと思った。もうテオには会うまいという気持ちと、もう一度テオに会いたいという気持ちが自分の中でせめぎ合っていたミコトは、運に任せてもし会えたら会えたで、会えなかったら会えなかったで良いと考えたが、やはりテオは現れて、もうテオと話しても決して分かり合えないとわかってはいても、学院という場所もあって、顔を見て言葉を交わせば、青春時代が懐かしく思い出された。あの時のままずっとテオと親友で居られたら、と考えてみたところで叶わぬ夢に過ぎないとわかってはいるが、それほどにあの頃の思い出は自分の中で大切なものだったのだと改めて心に沁みる思いだった。
ミコトが資料を求めて古典の文献を読み漁り、得たものは詳細な始祖の魔女アカツキの伝説の一部だった。アカツキが最初に精霊と出会い、魔族の力を借りて試練を成し遂げたという伝説について、お伽噺は勿論、魔法学院での基礎魔法学の講義でもそれほど詳細には語られなかったが、ドーマの言葉通り、アカツキは究極魔術師であり、究極大魔法を会得したということは事実のようだった。究極魔術師や究極大魔法についてはあまり研究されていなくて詳細は不明だと講義では聞いていたが、文献は所々で失われ、或いは塗り潰されて秘匿されていることは明らかだった。ただ、可能な限り解読した文献から、アカツキが最初の精霊の試練を受けた場所がおおよそ特定できたのと、その精霊こそ、精霊界の女王のような存在であり、聖属性を司る精霊ハイリヒであったことだけは知ることが出来た。そして、究極大魔法の効果等の詳細は不明だが、究極大魔法はこの世界を救済する唯一無二の魔法であったのにも関わらず、究極大魔法を得たアカツキがそれを発動することはなかったとわかった。
テオと別れたミコトは、文献から得た資料を基に、生まれ故郷の東方オステンドルフに近い魔族の森へ向かった。遥か昔の物語として書かれた文献ではあるが、人族に比べて遥かに長い寿命を持つ魔族なら、今もその地に暮らし、アカツキの試練を手伝ったアルマという名の魔族のこと、彼が案内したという秘匿された聖属性の精霊ハイリヒの神殿や試練について、何かわかるかもしれないと思ったのである。
ドーマが言った「究極大魔法を得て究極魔術師となれば、テオを越える強さを手に入れられるかも知れない」という言葉が頭の中を掠めるが、「決してテオを越えることが目的ではなく、この世界を救うために必要な力なら、手に入れなければならないという使命感なのだ」とミコトは自分に言い聞かせた。
文献に記された魔族の森に近づくと、森の中から一人の魔族が近づいてくるのが見えた。それは青い髪、白い肌、蛇眼のように瞳孔が縦長の赤い瞳という魔族そのものの外見ですぐにわかった。
「ミコト、よク 来タ。精霊ハイリヒ ノ お告げガ あっタ。我ト 共ニ、来るガ 良イ。」
魔族の言葉は脳内で人族の言葉に変換され、ミコトは頷いて従った。
「我ガ 名ハ アルマ。汝ハ 我ヲ 尋ねテ 来たのデ あろウ。」
導かれるまま辿り着いた先に現れたのは、薄紫色で薄っすらと透けて見える、女神のような姿の精霊だった。それが精霊界でも頂点に位する聖属性を司る精霊界の女王ハイリヒである。
ハイリヒは微笑んでミコトに手招きしながら声を掛けた。
「待っていましたよ、ミコト。こちらにおいでなさい。」
その声は優しく温かく、慈愛に満ちた響きだった。
「わたくしはあなたが生まれる前からずっとここであなたを待っていました。」
ミコトは初めて聞いたはずのその声に何故か聞き覚えがある気がして、どこか懐かしさに似た感情すら覚えた。
「あなたは選ばれし者。あなたの同族を断罪するために、わたくしが人族に授けし者です。あなたはこれから同族を裁くために試練を受けてわたくしと契約するのです。そうすればあなたにはこの世界を守り救う究極大魔法を得られます。しかし、試練は決して楽なものではありません。それに耐えられれば、あなたはこの世界に福音をもたらす救世主となります。」
「何故私をご存知なのですか?世界を救うために私は何をすれば良いのですか?」
ミコトが尋ねると、ハイリヒは穏やかに、しかし力強い声で話し始めた。
「あなたも知っての通り、かつて世界は精霊と魔族のものでした。人族が生まれ、その数が増えても、長い間互いに干渉することなく、共存してきました。しかし、いつしか命を失った人族から魔物が生まれてしまいました。それぞれが独自の理に従って生きる精霊や魔族からは決して魔物は生まれません。人族のみがこの世に残す後悔や無念等の負の感情によって魔物を産むのです。魔物は魂と心を失い、かつて自身が人族であった記憶を失い、理性も知性も失って、自身を守り同胞を増やすという本能のままに獣のように人を襲います。人族自身に自ら招いた事象の責任を負わせるべく、わたくしは人の身に精霊の分身たる霊珠(ジュヴィル)と術式回路(シャルトクライス)を与え、魔術師という存在を生み出しました。また人族自身も自助努力の元に魔導の力を得て疑似魔法と魔導士を生み出しました。ですが、皮肉なことに力を得た人族は驕り、精霊や魔族を蔑ろにして、『ほしのいのち』を削る環境破壊や資源の浪費を重ね、今この世界の『ほしのいのち』は疲弊しています。わたくしは人族に福音をもたらす救世主として遣わしたアカツキに、人類と世界の未来を託し、究極大魔法を授けました。しかし究極魔術師となったアカツキは、人族の未来に自浄作用を期待して、ついにそれを発動しませんでした。
そして、わたくしは再び、究極魔術師としてこの世界の救世主となるべき者を人族に授けることとしました。アカツキの時と同様、母の胎内に居たあなたを究極大魔法の器に選んだのです。あなたは人族を断罪すべく究極魔術師に選ばれた、『運命を仕組まれた子供』なのです。よくぞここまで辿り着きました。あなたはあなたの使命のために、見えざる運命の手によってここへと導かれて来たのです。」
ミコトは衝撃の事実を知って震撼した。究極魔術師はただの最強魔術師ではなく、この世界の未来を託されて人族を断罪する救世主を意味していたとは、想像だにしていなかった。しかも自分がそのために選ばれた者であったと知ると、あまりの重圧に今にも押しつぶされそうな息苦しさを感じた。
ごくり、と喉を鳴らして固唾を飲むミコトに向かって、ハイリヒは話を続けた。
「わたくしは聖属性を司る精霊ですが、実はわたくしは元々は双子の精霊として生まれました。姉のデュンケルは闇属性を司る精霊でした。まだ精霊に肉体が存在した太古の時代、わたくしたち姉妹は同じ肉体を共有していました。肉体を失った時わたくしは自らの魂の中にデュンケルを封印し、抑え込んでいます。もし彼女が表に表に出て来てしまったら、世界は闇に包まれ、究極大魔法が発動して全てを破壊し、全ての魂を『ほしのいのち』へ還します。断罪の時が来たら、究極魔術師は、わたくしか彼女か、即ち聖属性か闇属性かのどちらかを選択し、究極大魔法を発動することになります。聖属性を選べば、闇属性は再び封印され、この世界は継続します。闇属性を選べば、闇属性が聖属性を凌駕して、全ての命が『ほしのいのち』に同化して、この世は元始の世界に戻ります。今まで存在していた世界は全て失われ、新しい世界が生まれるのです。あなたはその断罪の時に、二者択一の選択をするために、アカツキ同様に究極魔術師になるのです。」
ミコトは青ざめて混乱したまま立ち尽くしていた。
「あなたはこれからわたくしの試練を受け、聖獣を調伏するのです。アカツキ以外にわたくしの試練を受け、耐えた者は居ませんでした。あなたが望むと望まざるに関わらず、あなたはその運命に従わざるを得ないのです。あなたは大いなる力を手にします。あなたはこの世界の未来についてよく考えて、あなたの心の赴くままに行動してください。」
ハイリヒそう言うと姿を消し、入れ替わりに聖獣が降臨した。
まだ動揺が収まらないまま、ミコトは聖獣との戦闘を余儀なくされた。アカツキの時と違い、ミコトはその身に七属性全ての霊珠を宿し術式回路を刻まれているので、アルマの助けは必要としなかった。
何故、何のために自分は戦っているのかも飲み込めぬまま、ミコトは死に物狂いで聖獣と交戦し、ついに聖獣を調伏することに成功した。再び降臨したハイリヒの手によって薄紫色の霊珠がミコトの額に埋め込まれ、胸には術式回路が刻まれた。
「ミコト、我等魔族ト 共ニ 戦ってハ みないカ。汝ハ 人族ニ 愛想ヲ 尽かしテ いるノ だろウ。別ノ 視点かラ 見れバ 今まデ 見えなかっタ ものモ 見えテ 来ル かモ 知れなイ。」
アルマの言葉に、ミコトは頷いた。ミコトは正体を隠すため仮面をつけて、魔族と共に戦うことに決めた。
人族を断罪すべき究極魔術師となった今、ミコトは最早人族の仲間ではなかった。魔族と同化したつもりでもなかったが、人族という共通の敵の前では、共闘するのもやぶさかではない。基本的に人族は鏖殺するが、魔法使いにだけはとどめを刺すことができなかった。それは謀殺された後輩魔術師のアッシェや先輩魔術師のブルーダの最期の姿が思い出されて、仲間の命だけは奪うことが躊躇われた。戦闘不能状態であれば、戦線からは離脱を余儀なくされても、命だけは救うことが出来るだろう。それはミコトの中に僅かに残された救えなかった仲間への贖罪の気持ちからだったのかも知れなかった。
§ 旧友との再会 §
仮面魔術師が現れてから、戦況が明らかに変化した。今までは寧ろ押し気味で優勢だったはずの人族軍は連戦連敗、テオは相変わらず単独任務での派遣先では「一人でも最強の魔導士」として勝ち続けていたが、仮面魔術師が率いる魔族軍は続々と人族軍を破り、魔導武器は破壊され、戦士達の魔導兵器部隊は殲滅され、魔法使い達は戦闘不能状態にされて、逃げ遅れた戦場近くの住民達も魔族軍によって鏖殺された。大量の死者が魔物化しないために魂神教会の僧兵達が鎮魂の祈りを捧げてはいたが、その膨大な数の魂の全てを弔うには限界があった。魔族軍との戦闘以外に魔物からの被害を防ぐべく奮闘しても、圧倒的な力を持つ仮面魔術師率いる魔族軍との戦闘に力を削がれて思うように成果が上げられないまま、軍隊と魔法師団は苦戦を強いられていた。そんな状況を招いた元凶とも言える神官長ドーマは、戦況を見守りながら密かにほくそ笑んでいた。「皇帝と皇女を死に至らしめた真犯人は仮面魔術師と魔族である」と吹聴し、戦士たちの士気を高めることで不利な戦況からの戦士達の離脱を防止し、被害の拡大により益々魔族と仮面魔術師への反感や憎悪の情を煽ることがドーマの目的であったから、この状況は寧ろドーマにとっては喜ばしいことに違いなかった。
仮面魔術師の正体がミコトであると見抜いていたのは、ミコトの親友であるテオ以外にもう一人居た。それは二人と共に学院生時代を過ごした同期生の一人、薬師のイツキであった。戦闘不能状態で魔法病棟に搬送されて来る魔法使い達の治療に使用される治療薬等を生成しながら、イツキは先日密かに尋ねて来たミコトの別れ際の寂しそうな笑顔を思い出していた。ミコトが何を考えているのかはわからないが、ミコトの心の中が寂しさで満たされているのであろうことだけはわかる気がした。
テオとミコトの間に存在する、他の誰も入り込めない、親友同士二人だけの世界を少しだけ羨ましく思いながら、幸せそうな二人の姿を傍で見られることが嬉しかった。「戦場へ赴くようになっても、二人一緒ならどんなことも成し遂げられる」と信じていたテオとミコトは眩しく輝いて見えた。
しかし、いつからかそれは変わってしまった。テオと離れて一人で戦うようになったミコトは笑わなくなった。少なくともテオと居た頃と同じ、あの無邪気な笑顔を見せることはなくなってしまっていた。いつも物思いに耽り、暗い顔をしていたミコトの、痩せて、顔色も優れず、やつれたような姿は傍目から見ても痛々しかった。三人で他愛もない冗談を言い合って笑い転げていた青春時代が、遥か遠い昔のことのように感じられた。もう一度あの頃の三人に戻れたら、どんなに良いだろう。でもそんな日はもう二度とやって来ない。せめてもう一度、一度で良いから、昔のように親友同士に戻って笑い合うテオとミコトの姿が見られたら。そんな叶わぬ思いにイツキは深い溜息をついた。
そしてついにある日、友軍が苦戦する戦場に救援のため急行したテオは、魔族軍の中に仮面魔術師の姿を見つけた。
漆黒の豊かな長髪、高身長で鍛え上げられた肉体、仮面の奥から覗く透き通る深い黒色の瞳が記憶の中のミコトの面影と重なった。
テオは初めて仮面魔術師の姿を肉眼で捉えると、改めてミコトに間違いないと確信した。
テオは友軍を制して、仮面魔術師に向かって叫んだ。
「仮面を取れ!…お前、ミコトだろ?」
仮面魔術師もまた魔族軍を下がらせてテオに歩み寄り、ゆっくりと仮面を外した。
「久しいね、テオ。」
とミコトは歪な笑みを浮かべた。
「やはり、お前だったんだな。」
緊迫した二人の様子に、遠巻きにしていた両軍も凍り付いたように制止していた。
「撤退しろ!誰もこいつに手を出すなよ。」
「ここは引いて、彼は私にお任せください。」
二人はそれぞれの友軍に撤退の指示を伝えた。その言葉に気圧されるように、両軍は兵を引いて、その場はテオとミコトの二人だけになった。
二人が再び向き合うと、
「君と一対一で戦うのは学院生時代の模擬戦闘以来だね。あの時は二人同時に倒れて戦闘不能になって、引き分けだったよね。」
と作り笑いを浮かべるミコトに、
「あの時俺は、今後何があろうとお前とだけは絶対に戦いたくない、と思った。まさかこんな日が来るなんて想像もしなかったよ。これが悪い夢だったらどんなに良かったか。」
とテオが視線を外さずに言った。
「思い出話はもう十分だろう?あの時とは違って安全措置は施されていない。お互いに命を懸けて精一杯、思う存分戦おうじゃないか。」
ミコトがそう言うと、二人はそれぞれ互いに距離を取って戦闘態勢に入った。
「仮面魔術師は戦士や住民は殺しても、魔法使いは戦闘不能状態にするだけで命までは取らないと聞いた時、きっとお前に違いないと確信した。最強の魔術師であるお前を敵に回して勝てるヤツなんて居やしない。」
互いに牽制し合いながら、テオがそう言うと、
「いや、如何に強くなったとしても、魔術師は決して魔導士を超えられはしない。最強は君だ。類稀な才能に恵まれ、どこまでも強くなる、魔導の目を持って生まれた希少魔導士(ゼルト・マーギア)だ。限界のある魔術師では、到底君には敵わない。」
とミコトが返した。
「俺は物心ついた時から誰よりも強かった。高級貴族であり、名門魔導士の家系出身で、魔導の目のおかげで、生まれながら強い適性と莫大な魔力量を保持していた俺を、幼いころから皆が恐れて媚びへつらい、或いはやっかみからか反感を持ち、対等に付き合ってくれる友は誰も居なかった。お前だけが生意気な俺を叱ってくれた。真逆の性格から、時に意見が対立しては、くだらないことで論争になり、挙句喧嘩にもなったこともあったが、俺はお前と居て楽しかったし、幸せだった。俺は、お前は最強の相棒で、最高の親友だと信じていたし、今もその思いは微塵も変わらない。」
テオの言葉を聞いて、ミコトはまた寂しそうに笑って言った。
「私もあの頃はそう思っていたよ、テオ。私達は最高の親友だった。でも、もう君は一人で最強になった。君さえ居れば、もう私は必要ない。私がどれだけ努力しても、君との差は開くばかりだ。寧ろどんな魔法使いも、君の前では基本的に足手まといでしかない。君が一番実力を発揮できるのは、君が一人の時だよ。」
「そんなっ…。」
と言いかけたテオを制すようにミコトは続けた。
「アッシェもブルーダももう居ない。彼等を侮辱した非魔法使い(マギーナ)の人族を護るために、私達魔法使いが命を賭すだけの価値があったと思うかい?以前君が怒って民衆を『殺す』と騒いだ時に、私が『そんな価値はない』と止めたことがあったね。だが、今では君が人族を護り、私が人族を殺めている。私はこの世界を蝕む人族という害悪を根絶やしにしたいんだ。太古の世界は精霊と魔族のものだった。人族は機械文明と魔導の力を得て驕り、魔族から世界を奪おうとしているからだ。魔族からは魔物は生まれない。魔物を生むのも人族だ。魔物が居なければ魔法使いが死ぬこともなかった。魔法使いに護られながらも、魔法使いを忌み嫌う者さえ居る。私はそういう者達を全て排除して世界をもう一度元始に返す。それが私の大義なんだよ。」
「何でそうなるんだよ…。」
テオはぼそりと呟いた。かつてと大義の内容は逆転しても、理想を抱いたまま絶望の大海に沈もうとするミコトは、かつての彼と同じように『クソ真面目で優しすぎるミコト』であって、そこだけは全く変わっていなかった。きっと、ミコトが『アッシェやブルーダや多くの仲間達を失ったのは、自分にテオのような力がなかったせいだ』と思いつめていた時に、護るべき対象であった非魔法使いの戦士や民衆からの心無い仕打ちを受けて、彼の中で正義と悪の価値観が揺らいだのだろう。
「私が自分の大義を見失いかけていた時に知ったのが、究極大魔法と究極魔術師に関する真実だった。私は精霊ハイリヒから、人族に遣わされた究極大魔法の器だと告げられ、ハイリヒと契約を交わして、ついに希少魔導士の君に勝るとも劣らない、究極魔術師となったのだよ。私は護るべき価値もない人族が蔓延るこの世界を破壊し、全ての命を元始のリウに還すべく、究極大魔法を発動するつもりだ。」
そんな突拍子もない、俄かには信じ難いような話も、ミコトが言うことなら真実なのだろう。テオはずっとミコトの言葉を信頼し、彼の意見を自らの判断の指針として来た。嘘でもハッタリでもない。紛れもない真実だとテオは確信した。だが、同時にミコトならそんな非情で残酷なことは絶対にしないし出来ないとも思っていた。
「お前の言うことなら、嘘偽りではないだろうさ。だがな、ミコト。俺の知っているお前は、本当は優しくて情の深い男だ。お前にはそんなことは出来やしない。」
ミコトはふっと自嘲的に笑って、
「もし私が君なら出来ると思わないか?君になら簡単に出来ることだろう?テオ。君になら出来る事を、私には出来ないと言うのかい?私がどんなに努力しても、血を吐くような努力を重ねても、ずっと君には敵わなかった。でも今や私は君をも凌駕するほどの巨大な力を手に入れたのだよ。私が究極大魔法を発動すれば、私も君も含めて、全ての命が元始のリウへと、『ほしのいのち』へと還るんだ。それを防ぐと言うのなら、君の力で私を止めて見せろ。」
自らのリビドーに衝き動かされるように、ただ只管に最強を目指し戦い続けて来たテオと、いつしか共に歩む道から外れて、夢破れ心が折れて、デストルドーに魅入られたように闇に堕ちて行ったミコト。二人が関係を修復して再び共に目指す未来はもう何処にも存在しなかった。共に過ごした青い春の記憶は、遥か遠い夢の中の出来事のように儚く、強く胸を締め付けて、もう決して戻れないという思いが無数の棘となって胸に刺さるような激しい痛みと後悔に似た息苦しさが二人を苦しめた。
二人は最強同士の一騎打ちとなったが、互いに物理と魔法の両方で攻撃と防御を繰り返し、熾烈な戦いが繰り広げられた。果てしなく続くかのように思われたが、激闘の末敗れたのはミコトだった。
「やはり最強は君だね。」
ミコトは笑おうとして失敗したかのように表情を歪めた。
「俺たちは二人で最強だろ。」
テオは今にも泣きそうになりながら、声を震わせて言った。
ミコトは半ば本気でこの世界のために究極大魔法を発動しようと考えていたが、心の奥底ではテオなら自分を止めてくれると信じていたのかも知れない。
「私はただ、自分に出来る事を精一杯やって、自分がこの世界に生きていても良いと思いたかった。気づくと私はいつも、ガラスの壁に爪を立てるように足掻き続けていたんだよ。私は何のために生まれ、生きているのか。私の生きている意味を見つけたかった。自分で自分を認められない、許せない。苦しかった。君のように強くなりたくて、必死に頑張った。でもどんなに私が努力を重ねても、君は軽々と私を追い越して、一人でどんどん先へ進み、高みへ上り詰めていく。君と背中を預け合い、共に戦っていた頃は、私達は二人で最強と心の底から信じていた。あの頃の私は君となら心から笑うことが出来たんだ。でも別々の単独任務を命じられるようになったら、君が一人で最強となり、私は君に置いて行かれた気がした。必死になって君を追いかけても、決して君には追いつけず、私と君の差はどんどん開いて行った。そして私と君の進むべき道は分かたれたんだ。いつの間にか私たちの世界は違っていた。こうするしか私は自分がこの世に生きてて良いと思える方法が見つからなかった。できることならもう一度、あの頃のように君と心から笑えたら。でもそれは私には永遠に敵わない夢だと諦めるしかなかった。」
テオは眉根を寄せて苦悩の表情を浮かべた。いつから、どこから、二人の道が分かたれてしまっていたのか。どうしてそれに気づけなかったのか。ミコトが自分から悩みを相談して来るような男ではないと、黙って一人胸の中で悶々と悩み続けてしまう性格だと、テオ自身が一番知っていたはずなのに。ミコトは悩みがあっても気丈に振る舞い、全然大丈夫なふりをし続け、微塵も気づかせないように必死に頑張ることも、でも本当は誰かに気づいて欲しくて苦しんでいることも、どうしてわからなかったのか。
「テオ、とどめを刺せよ。もう、どのみち私は助からない。私を楽にしてくれ。他の誰でもない、君の手で私を殺してくれ。私は究極魔術師になってしまった。大いなる力を得た者は、それに見合う責任を負わねばならないが、私には、一人で背負い切れない程の重責に、到底耐えられそうにない。私は君と互角かそれ以上に強くなれるかもしれないから、と究極魔術師になろうとしたんだが、本当は究極魔術師も、究極大魔法も、私にはどうでも良かった。もしかしたら、大義さえ、どうでも良かったのかもしれない。私は自分の死に場所を探していたんだと思う。もう終わらせてくれ。」
青ざめたミコトの顔にはどこか安堵の表情が滲んでいるようにも見えた。
「俺を一人ぼっちにするなよ。お前が居ないと寂しいよ。」
テオが真顔でそう言うと、ミコトはポカンと口を開けて、目を丸くして一瞬言葉を失ったが、すぐに笑い出した。その笑顔は青春時代、他愛のない冗談を言い合っていた時の、屈託のない無邪気なミコトの笑顔そのものだった。
「そんな素直な言葉は、あの頃にも言ったことなかったのに。」
(テオはテオのままだ。少し変わらない。あの頃と同じだ。)とミコトは思った。
「お前は、この世にたった一人の、かけがえのない俺の親友なんだから。」
テオがそう言うと、ミコトは嬉しそうに笑った。
「いつだって、本当に君はずるいな。だけど、如何にも君らしい。今にも敵としてとどめを刺すべき私にそんなことを言うなんて。」
(ミコトは昔のままのミコトだ。どこも変わっちゃいない。)
口には出さなかったが、テオはそう思った。
「ありがとう。やっと私の夢が叶ったよ。君のおかげで、最期にもう一度だけ、私は心の底から笑うことが出来た。」
ミコトはそう言うと静かに目を閉じた。テオは多くの宝珠(ライストン)が散りばめられた愛刀の魔封剣をミコトの心臓に向かって振り下ろした。
研究所兼工房に居たイツキは胸騒ぎがしてふと作業の手を止め、顔を上げた。
(イツキ、さようなら。)
ミコトの声が聞こえた気がした。脳内に最後に談話室で別れた時のミコトの姿が蘇った。
(もう二度とミコトには会えないんだろうな。)
そんな気がした。窓の外を見ると、空が涙を流しているように、大粒の雨がしとしとと降り注いでいた。
テオはミコトの亡骸を抱いて、雨の降り始めた空を見上げた。降り注ぐ雨と共に、とめどなく涙が流れ出て、テオはそのままじっと微動だにせず、雨に打たれていた。閉じた瞼の裏にはくしゃっと顔を歪めて無邪気に笑っていたミコトの面影が焼き付いたままだった。
テオはミコトの亡骸を抱いたまま、転送魔法で魔法学院に現れた。全身ボロボロで血塗れの魔導士が、同じくボロボロで血まみれの魔術師の遺体を抱いて突然姿を現したので、魔法学院は騒然とした。
「イツキ!居るか?」
テオの声を聞いたイツキは、既に消えかかっている転送魔法の魔法陣から学院内に踏み出したテオの前に姿を現した。
「さっき、ミコトの声が聞こえた気がしたよ。」
イツキがそう言うと、テオは身を屈めてミコトの亡骸を横たえた。
「おかえり、ミコト。おかえり、テオ。」
「ただいま、イツキ。」
テオがそう答え、ミコトはほんの少し微笑みを浮かべているような安らかな顔をしていた。
「『やっと楽になった』って顔してるね。」
イツキは声を震わせながら言った。
「どうしてこんな風になっちゃったのかな。こうなる前に、何とかできなかったのかな。」
イツキがそう言うと、テオはミコトの顔をじっと見つめながら、
「いくら救いたいと思っても、溺者の全てを救える訳じゃない。救えるのは救われたいという思いで、差し伸べられた手を自ら握り返してくる溺者だけだ。救いの手を拒む者は大義という絶望の大海で理想を抱いたまま溺死するしかないんだよ。」
テオの頬を涙が伝い、零れて落ちた。
「綺麗な顔してるよ、ミコト。きっとテオに本音ぶちまけられたんで安心したんだね。」
イツキの頬にも涙が伝い、零れて落ちた。
「意地を張らずに、もっと早くそうしていたら良かったのにね。ミコトがよく『テオは本当はものすごく寂しがりやなんだよ。虚勢張るのはテオなりの処世術、心の鎧なんだろうね。』って言ってたけど、ミコトも瘦せ我慢の意地っ張りだからね。あんたたち、真逆のように見えて、やっぱりよく似てるわ。」
テオはイツキに向かって、
「イツキ、ミコトを頼む。」
と言うと立ち上がった。
「わかった。テオはどうするつもり?」
イツキの言葉に、テオは鮮やかな碧色の瞳に強い決意の光を灯して
「俺にはまだやらなきゃいけないことがあるんだ。」
と答えた。
§ 誤算 §
仮面魔術師率いる魔族軍と人族の戦士達の魔導兵器部隊のとの戦場に救援に向かったテオが、仮面魔術師であったミコトを殺してその遺体を魔法学院へ運んだと、すぐに魂神教会神官長ドーマに報告が届いた。
魔族と人族の混血児(ハイブリ)でありながら完全無魔者であったドーマは、母と自分が迫害されたのは、特徴的な魔族そのものである自分の外見でが原因であると信じ、母を捨てた顔も名前も知らない魔族の父を恨み、その血を引く自分自身をも嫌悪する程に魔族を憎み、疎んじていた。純粋な人族に憧れてもそうなれる訳もなく、せめて人族の女を娶りその血を薄めようと企みながら、人族の頂点である皇帝の座を狙い、逆に人族でありながら魔族擬きの能力を持つ魔法使いには逆恨みのような感情を抱いていた。
魔族と人族の対立を煽り、人族を護るためという大義の下に魔法使いを矢面に立たせ、あわよくば共倒れになれば良いと思っていたが、魔法使いの中でも特に優秀な最強の魔術師ミコトと最強の魔導士テオは邪魔だった。テオは高級貴族・始祖の魔女の末裔で魔導の目を持つ天才と言われ、あまりにも強力で簡単には潰せそうになかったし、精霊や魔族に対する最大の抑止力と信じられている以上直ちに排除することはできないと判断した。それに対して、ミコトは主要属性精霊の全てと契約した最強の魔術師ではあるが、精神的な脆さを抱えていることはわかっていたので、策を弄して仲間を順次潰して行けば、心が折れ闇に堕ちて、自ら人族の敵となってテオと戦うことになるだろう。所詮ミコトではテオに勝つことは出来ないだろうが、テオ自身によってミコトを始末させることは出来るし、それによりテオに精神的な負荷を与えられるだろうと考えた。
そしてドーマの計算通りに、テオに親友のミコトを自ら殺害させることに成功したのである。
しかし、ドーマの思惑通りに運んだのはここまでだった。
ドーマの甘言に乗せられていいように操られてしまったミコトと違い、以前からドーマに疑いを持っていたテオは、「魔法使いに対する任命権は魔法師団にあるが、作戦行動の立案は軍部が行っているし、そのための情報は懇親教会からもたらされている」ということに気づいていて、テオは全ての黒幕がドーマであるという仮説を証明すべく、独自で密かに調査していたのだ。ドーマこそが真の敵であると確信したテオは、ミコトの遺体をイツキに託すと帝都の魂神教会へと向かっていたのである。
ドーマの誤算だったのは、ミコトが繊細な硝子の心臓(ハート)だったのに対して、テオは強靭な鋼の精神(メンタル)だったので、自ら親友のミコトを手にかけても、それによりテオの心が傷ついて弱体化することはなかった。寧ろ、親友を殺させるように仕向けたドーマに対する怒りと憎しみがテオに更なる力を与えてすらいたのだった。テオにとっては、もし敵対することになれば、相手が魔族であろうと精霊であろうと、勿論人族であろうと、何等変わりない。今ではミコトの影響で、共に戦う仲間を死なせないために敵を倒すと決めているテオも、かつては敵を倒すためならどんな犠牲も厭わないという非情で冷酷な弱肉強食の思想の持主であった。もし魔法使いと非魔法使いの人族が敵対していたら、テオは躊躇なく非魔法使いを殺すだろう。仮に魔術師達が反旗を翻したとしても、かつてのテオならおそらく同じように殺すかもしれない。ミコトという歯止めを失った今、テオがかつてのような残虐さを持って復讐のためにドーマを襲うかも知れない。ドーマは手の付けられない凶暴な猛獣が檻から放たれたような恐怖に戦慄していた。
魂神教会では僧兵達が皇帝代行となったドーマを護衛する任務に就いていたが、僧兵達が如何に束になって向かって行ったところで、テオには全く歯が立たない。何重にも張り巡らされた僧兵達の障壁は、瞬く間に突破されて、テオはついにドーマを追い詰めた。
テオはドーマに時空系の疑似魔法を発動し、身動きできないようにすると、開かれたバルコニーから民衆に向かってドーマの悪事の証拠資料の書かれた紙をばらまいて言った。
「ガイゼル皇女を誘拐して殺害し、皇帝を暗殺した真犯人は魂神教会の僧兵で、命じたのはこの神官長ドーマだという証拠をここに示す!俺とこいつのどちらを信じるかはお前たちの勝手だ。俺が信じられないのなら、俺を倒せば良い。但し、その前に俺はこいつをぶっ殺す!皇帝親子と、この世でたった一人のかけがえのない俺の親友と、数えきれない仲間達の命を奪った胸糞悪い害虫め。俺は絶対にお前だけは許さない!」
テオはドーマに向かい最大出力で攻撃系の疑似魔法を連発した。魔力は皆無で一般の非魔法使いにも劣るが、魔族の血を引くだけあって、魔法に対する耐性と体力だけは人並外れて優れているドーマは、簡単には倒せなかった。ドーマは苦し紛れにバルコニーから飛び降り、民衆を盾にして、人混みに紛れて逃亡しようとした。
「卑怯者!」
テオも叫んでバルコニーから飛び降り、ドーマを追った。普通の人族ならば一瞬で死に至るくらいの疑似魔法を何度も身に受けても、尋常ではない魔法耐性と体力で持ち堪え、しかも猛スピードで逃亡することができるドーマは、やはり人に非ざる魔族の血を引く者である証であった。人混みをかき分けるようにして逃れるドーマに向かって、かつてなら躊躇なく疑似魔法を発動したことだろうが、テオはそうしなかった。かつては巻き添えになるかもしれない一般人のことも「犠牲は致し方ない」と全く気に留めることなかったテオの脳内でかつてのミコトが
「『敵以外は誰も死なせない、傷つけない』というのは単なる理想かも知れないけど、できることなら私はいつもそうありたいと願って戦っているんだよ。」
と言っていた姿が蘇ったからかも知れないが、
(我ながら甘いな、今の俺は。)
と自覚していた。
だが、一方でテオはそれでも最終的には
(どんなことをしてでもドーマだけは許さない。必ずこの手で殺す。)
という強い思いがあれば、必ずミコトの仇を取れると信じても居たし、それは単なる願望などではなく、感覚と経験に裏打ちされた確信でもあった。
ヴェステンシュタットの街を出て、もう周囲に障壁となる一般民衆が居ないことを確認すると、テオは更に強力な複合上位疑似魔法を連発した。生来の戦闘センスの高さに加えて、戦闘経験も豊富なテオが相手では、如何にドーマが攻撃回避を試みようと無駄だった。
ドーマはこんなこともあろうかと、魔力補充の薬の量を常用量の数十倍にして注入し、銃型の魔導武器を携帯して、いざという時には反撃が可能になるように画策していたが、普段は常に僧兵を操り、自ら戦闘に参加する経験が殆どないドーマでは、最強の希少魔導士テオを相手にして歯が立つわけはなく、テオの攻撃が命中する毎にドーマは徐々に体力を削られ、ドーマの攻撃は悉く回避され、若しくは反射されてドーマへと跳ね返った。
「くっ、かはっ。」
ついにドーマは呻いて口から赤い血を吐き、その場に崩れ折れた。
赤い血の色は人族と同じで、魔族の青い血でもなく、混血であるが故の混色である紫色でもなかった。
外見は魔族そのものであるドーマも、その体内には人族と同じ赤い血が流れていたのだ。
人族に虐げられ蔑まれても人族に憧れ続けたドーマは、全身血塗れの自分の赤い血を指先で掬い取り、うっとりと眺めて言った。
「母さんと同じ、赤い血だ。人族と同じ、赤い血だよ。」
「見た目は魔族でも、中身は人族か。ミコトが、自らも人の身でありながら、『忌むべき存在』として憎んだ人族の持つ『汚さ』を凝縮したと言う意味では、お前ほど人族らしいヤツも居ないのかもな。」
テオは鮮やかな碧色に輝く冷酷な瞳で蹲るドーマを見下ろして、吐き捨てるように言った。
「出自も容姿も才能も、何もかもに恵まれ過ぎた貴様なんかに何がわかる!」
ドーマは赤い瞳から血の涙を流しながら叫んだ。魔封剣を構え、絶対にドーマを殺すつもりでいたテオだったが、ふと脳内に
(君の憤怒には値しない。)
というミコトの言葉が浮かんだ。寧ろ死は救済かも知れない。それよりも生きて罪を償わせるべきではないのか。そう考えた。
「わかんねえよ。わかりたくもない。お前は俺からたった一人のかけがえのない親友を奪った。俺にとって、この世界の全てを失くしたとしても、失いたくなかった大切な親友をな。お前だけは絶対に許さない。だから、今ここで息の根を止めるのは容易いことだけど、決して楽には死なせてやらない。ミコトの苦しみとは比べ物にならないだろうが、お前には『一思いに殺してくれ』と懇願したくなるような生き地獄を味わせてやるから覚悟しやがれ。」
いつの間にか魔法使いと魔導戦士たちが到着してその場を取り囲んでいた。
捕らわれたドーマは魔法師団に連行され、強力な結界魔法により閉じ込められた仮想空間の中で、大量の魔族軍に襲われ続ける幻影に責め苛まれながら永遠に封印されることとなり、その仮想空間は掌に乗るくらいの大きさに凝縮され、ドーマの父である魔族の元へ送られ、その手へと委ねられた。
本来ならば皇帝と皇女の殺害を教唆した張本人であるドーマは死罪に値するが、「死は寧ろ救済である」というテオの強硬な反対意見を入れて、未来永劫自らが最も憎悪した魔族である父の管理下に置かれるという、おそらくはドーマ本人が最も嫌悪するであろう刑罰の執行決定が秘密裏になされたのである。
それは一方で、魂神教会がドーマの悪事を『神官長の不祥事』ではなく、ドーマ個人の罪として彼に厳罰を科すことで、教会としての体面を保つために必要なことでもあった。人心の混乱を招き、僅かでも不信感を抱かせて、民衆の心の拠り所である教会信仰に支障を来すことだけは何があっても避けなければならなかったからである。一刻も早く忌まわしい記憶を払拭し、再び民衆の信仰を集めるためには、ドーマには大仰な死刑執行等ではなく、可及的速やかに表舞台から退場してもらわねばならなかった。それ故、魂神教会側も魔法師団やテオの主張する刑罰に対して賛同の意を表したのであった。
§ エピローグ §
時は流れ、やがて魔族と人族の間で、長きにわたり繰り返されて来た戦闘に終止符を打つべく、幾度となく対話が重ねられた結果、ついに終戦を迎えることとなった。
人族は繁栄を極めた頃に比べて随分と人口が減少したのをきっかけに、身の丈を超えて資源を浪費するような贅を尽くした生活を改めることとし、魔族とは互いに不干渉で共存していた昔の生活に戻すよう努めることとした。
魔族と敵対しなくなったことで、若者の心身に負担を強いる魔術師は衰退し、生活魔法や魔道具に必要とされる魔導の力や、魔物に対抗する手段としての魔導士は残るものの、大規模な魔導兵器や魔導戦士部隊は廃止された。
一方で、自然界の動植物や鉱物等に宿るリウを利用して生活を支えるアイテムの需要は高まり、薬師の必要性も見直されることとなった。
魔法師団は解体されたが、魔法学院は魔術師を養成するZ組(クラスZ)を廃止して随分と規模を縮小したものの、魔物退治の専門家(エクスペアルト)としての魔導士やアイテム生成技術者としての薬師を養成するために存続していた。
魔導士を養成する現在のM組(クラスM)の教官は最強の希少魔導士・テオが、薬師を養成するF組(クラスF)の教官は薬師家系出身の最後の薬師・イツキが務めていた。
「は~い。M組のみんな。『私』がM組の卒業生で教官のテオだよ。これから宜しく頼むね。最初は体術訓練から始めるよ。私が現役の時の教官は『宝珠(ライストン)実装の魔導武器なんざ百年早いわ』が口癖だったけど、さすがにしょっぱなから実装は無理としても、私はそこそこで模造武器からは解放するから楽しみにね。じゃあ、まずは模造武器選んでから、出席番号順に整列してね。」
現役時代のやんちゃ坊主そのものではないにしても、飄々としたところは昔通りのテオだったが、口調がかなり柔らかくなっていて、それはまるで昔のミコトを真似ているかのように穏やかだった。それでも時折一瞬だけ見せる碧色の瞳の鋭く冷たい光は、テオが最強の希少魔導士であったことを彷彿させるものだった。
「今は昔のように常時戦闘が行われている状況ではないけど、魔物退治と言っても命がけだからね。自分の身を護り、他の人たちが命を落としたり、傷ついたりしないように護るためには、力も技も必要だよ。そして何よりも必要なのは心の強さだから。若い時はいろいろ悩みもあるだろうけど、決して自分一人で悩まないでね。友達は大事だよ。自ら救いを求めない者は誰にも救えない。それだけは覚えておいてね。」
テオは真面目にそう言い終えると、再び笑顔になった。
「じゃあ、訓練始めるよ。」
「F組の皆さん、こんにちは。『私』がF組卒業生で教官のイツキです。アイテムによって怪我や病気の人を救うことは勿論、魔物から人族を護るために戦う魔導士を、アイテムによって支援することも出来るし、日々の生活を便利に暮らすためにもアイテムは役に立つのです。薬師はアイテムを生成することで、この世界を支える重要な仕事です。誇りを持ってください。」
イツキは教壇に立ち、挨拶をした。
「魔族との戦闘中は、たくさんの戦闘不能者が運び込まれ、薬師もその治療に当たりましたが、治療の甲斐なく命を救えなかったたくさんの魔法使いを目の当たりにしてきました。今も魔法師団跡の墓地には戦闘の犠牲となった魔法使いたちの墓標が並んでいます。後に残された私たちはもう決してそんなことが繰り返されないようにしなければなりません。
では、最初は座学による基礎理論を学びますが、随時実習を織り交ぜて、アイテム生成を身近に感じてもらえる工夫もしつつ、講義を進めるつもりです。宜しくお願いします。」
「やあ、イツキ、お疲れさん。」
テオがひょいと片手を上げて声を掛けた。
「お疲れ様、テオ。」
イツキは答えるとくすっと笑った。
「何だよ。人の顔見て笑うって。」
そう言いながら、テオも笑っていた。
「テオが教官なんてね。ミコトが居たら、何て言うのかしらって思って。」
イツキがちょっとしんみりとなってそう言うと、テオも少し寂しげな表情になって答えながら、談話室の向かいの席に座った。
「そうだな。真面目なミコトなら、今はもうないZ組の教官をやってても全然違和感ないかも知れないけど。」
二人は互いの隣の空いている椅子を眺めた。本当ならそこに居るはずのミコトの席が空席なのが少し寂しかった。
「テオの講義の仕方がどうとかいうミコトのお説教が始まって、テオと論争するところを見たかったような気もするけど。」
イツキが悪戯っぽく言うと、テオが
「どうかなあ、私ももう大人だからね。」
と答えた。
「ホントかしら。」
とイツキが笑った。
「何だよ。酷いなあ。」
とテオも笑った。
その時、開いていた窓から、風に乗って木の葉がひらりと舞い込んで来て、ミコトの席に落ちた。
まるでそこにミコトが居て、昔のように三人で他愛のない話をして笑い合っていたのを懐かしんでいるかのように。
(第3部・全編おわり)
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