藤原鎌足の話の前に、皇極天皇について調べてみました。
今朝の熱海の朝日。
645年の「大化の改新」の時の天皇でもあるのですが、その後一代弟の孝徳天皇が入った後に、斉明天皇になるのですね。
何とも、親戚関係の争いだらけの天皇家系図になるのだと思いました。
天智天皇は、本当に子沢山だったので、天武天皇に娘を四人嫁がせているようで、持統天皇以外にも大田皇女(おおたのひめみこ)が有名ですね。
二人は、蘇我氏の母を持つ姉妹でもあり、以前に記事にした大津皇子の母でもあるのだなと思いました。
「かつこ内親王」の2014,8,4の記事を抜粋します。
ミクネの神(天之常立之神)
ミクネだ。
天武天皇は、大津皇子をかわいがっていたのですか?
私は大津皇子をかわいがっていたし、好きだった。
母が早く亡くなってかわいそうだったのもあるが、草壁皇子はあまり好きではなかったな。
持統天皇はどうだったのですか?
ジトウも大津皇子が好きだったと思うぞ。
でも、殺されてしまったのですよね。
私が死んだ後だろう。
ジトウはだまされてしまったのだろうな。大津皇子が不憫でならないな。
この辺りは、歴史とリンクしているようです。
大津皇子は殺された訳ではなく、自殺したということになっていますが…。
★大津皇子(おおつのみこ、663年(天智天皇2年) -686年10月25日(朱鳥元年10月3日))は、飛鳥時代の皇族。
天武天皇の皇子。
母は天智天皇皇女の大田皇女。
同母姉に大来皇女。
妃は天智天皇皇女の山辺皇女。
『懐風藻(かいふうそう)』によると「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」
(体格や容姿が逞しく、寛大。幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。このため、大津皇子の人柄を慕う、多くの人々の信望を集めた)とある。
『日本書紀』にもおなじ趣旨の讃辞が述べられており、抜群の人物と認められていたようである。
母の大田皇女は、天智天皇の皇女で鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の姉にあたり、順当にいけば皇后になりえたが、大津が4歳頃の時に死去し、姉の大来皇女も斎女とされたため、大津には後ろ盾が乏しかった。そのため、異母兄の草壁皇子が681年(天武天皇10年)に皇太子となった。
686年(朱鳥元年)9月に天武天皇が崩御すると、同年10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸にて自害した。
享年24才。
24才とは、ずいぶん若いのにとても評判がよかったのだと思いますね。
草壁皇子についての話は伝えられていることが、ほとんどないそうなので、ミクネの神が言ったことは、やっぱり合っているのではないか?と思います。
持統天皇としても、姉の生んだ子供で、姉は早く死んでしまったということは、息子のように思っていてもおかしくないですね。
🐶 ミクネの神が天武天皇だった時 その4
過去記事を読んでいると、持統天皇も苦しかった話をしていて、裏で動いていたのは、藤原だったと言っていました。
8月9日に話してきたのは、藤原鎌足でした。
藤原の鎌足だ。
小野妹子(おののいもこ)だったと言いましたよね。
小野妹子の時もあったよ。
魂の話だ。
随(ずい)に行って金印をもらって来たよ。
だから、私はのしあがりたかったのだ。
権力を手に入れたかった。
憧れの地位に就いたら怖くなった。
いつも、誰かに狙われると思ってね。
蘇我入鹿を狙ったのだから、当たり前だな。
天智天皇は、子沢山だったということは、あまり考えていない人だったということだな。
だから、弟に滅ぼされた。
だーーーーかーーーーらーーーーどっちがいいのか、わからなくなったのだよ。
(藤原)不比等は、私がいろいろ教えたから、磐石な地位を持つことが出来た。
藤原が繁栄したのは、不比等のお陰だな。
不比等は、今も菩薩界にいるよ。
私と同じ道ということだな。
藤原不比等は、天智天皇の子供だったという話は、出てきます。
私の話の中では、四国の志渡(しど)の海女(あま)が母ということになっていますが。
やっぱり権力を持ちたい欲望は、ずっとあるので、争いは続いてしまうのでしょうか。
神様達がいつも、言っている死んで持って行けるのは、「愛」だけなのだと思いますけどね。
今朝の熱海の朝日。
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こちらのブログに出会えて嬉しかったことの一つが、蘇我入鹿様が記紀に書かれているような人ではないということがわかったことです。なんとなくそう信じていたので。根拠はありません(笑)
年内に奈良に行く予定なので、正倉院には必ず行こうと思います。奈良は行きたい所がありすぎて、困ってしまいます。
「藤原の都合で作られた」と不比等さんが言っていたように、日本書紀では年代から人物までわからなくなっていることだらけですね。
日本だけではなく、権力者にねじ曲げられる話は、沢山あるのだと思います。
本当ほど、怖い物にされてしまうのでしょうね。
鬼の話もしかりですし。
最近、ダライ・ラマみたいな生まれ変わりとか、現人神システムが、昔はよくあることだったんじゃないかと思い始めました。
伊雑宮が絡んでるという江戸時代の大成経は、小野妹子が平岡宮、秦河勝が泡輪宮で、神から授かったと書かれているようで、なんで小野妹子?と気になってました。
龍樹菩薩の龍宮探検や「南天の鉄塔」の焼き直しらしいです…。
宮下文書を書き写した人物、中臣藤原物部麻呂は藤原不比等だとも言われてるし…。
いつも、ありがとうございます:D
いつも、ありがとうございます。
魂の記憶は、やっぱりDNAに刻まれているのでしょうね。
星の時代からのことでしょう。