「ノナの家」nonahouseは かつこ内親王、かつこ内親王2の続きのブログです。

神様達の名前は、沢山出てきますが、宗教とは全く関係ありません。
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知床の旅 その8

2019-08-20 07:30:43 | 日記
女満別空港に向かって走っている時に、なんだか不思議な建物があったので、寄りました。

調べると、フレトイ展望台というのですが、山の上のピラミッドがある感じなのです。



なんだあれは?っていうことで行ったのですが、フレトイ貝塚の上に建っていることがわかりました。



ハマナスも咲いていました。



上まで昇ってみました。



中に入ることも出来ましたが、この日は、あまり天気が良くなかったので、こんな風に見えるという写真を撮りました。
建物の後ろ側は、オホーツク海ですね。



5人で見ていると、鳥が飛んで来ました。
それとは別に大きな鷹?も飛んできて、驚いていました。





右手に見えるのは、湖ですが、その後に幻想的な状態になりました。
何かが、上がって行くような感じですね。





私達は、しばらく見てから、女満別空港に向かいました。
K会長とはここでお別れです。

その後は、4人でサロマ湖に向かいました。
サロマ湖を調べてみると、

🌟サロマ湖の表記については、佐呂間湖、猿澗湖などもあるが、現在ではカタカナ表記が一般的である。
面積は約152km2で、北海道内で最も大きな湖であり、琵琶湖、霞ヶ浦に次いで日本で3番目に大きく、汽水湖では日本最大である。

湖名の由来は、アイヌ語の「サル・オマ・ペツ」(ヨシが生える川)より。
これは本来、流入河川の一つの佐呂間別川を指した地名であり、現在のサロマ湖の方はただトー(湖)と呼ばれた。

サロマ湖は、オホーツク海の湾入部が堆砂によって海と切り離された潟湖である。
それより前の縄文時代には海と隔てる砂州がなく、サロマ湾として水を湛えていた。湖が生まれたのは今から約千年前と言われる。

豊富な海産物を求めて古くから集落ができており、特に常呂町栄浦では続縄文時代からオホーツク文化、アイヌ文化と続く建物跡やそれに伴う遺物が狭い範囲から多量に発掘され、考古学的に貴重。
東京大学文学部の施設がある。
寛政10年(1798年)頃には、周辺に和人の番屋が置かれて漁業が営まれていたことが記録されている。



朝に、クナシリの神が話してきました。


サロマ湖は、常呂(ところ)遺跡と龍宮台がいいよ。

お酒がいいですか?

酒は、「北の誉」がいいよ。
石に掛けるといいよ。
ありがとう。


サロマ湖の地図の⭐の場所の右が「
常呂遺跡」で左が「龍宮台」です。
サロマ湖は大きいので、実際に走るとなかなかな距離でした。

まずは、常呂遺跡に向かったのですが、遺跡はかなり広かったらしく、右側にずっと森が続いている間、またIさんに異変が起こりました。


ねーさん、熱いよ。
何だか、火を抱えているみたいだ。


とずっと言っていて、そのうち、みこちゃんやいくちゃんも熱いと言い出したのです。

いつもの如く、私はよくわかりませんでした。
常呂遺跡を調べてみると、


🌟常呂遺跡(ところいせき)は、北海道北見市(旧常呂郡常呂町、北見国)にある擦文文化期およびオホーツク文化期の遺跡。
国の史跡に指定されている。

オホーツク海をのぞむ海岸に沿って常呂川の河口からサロマ湖西岸へと続く幅約300メートル、長さ約2.7キロメートルの砂丘上に立地し、2,000基以上の竪穴住居跡および墳墓と推定される多数の小形の竪穴状遺構が検出された。

擦文文化の集落遺跡としては北海道最大規模を有し、オホーツク文化期の住居跡も発見されており、特異な存在となっている。
両文化の移行の問題を検討するうえでも重要な遺跡である。

東北地方北部から北海道にかけての各遺跡では、しばしば竪穴が埋没しきらず地上に大小の凹みを残存させている場合がみられるが、常呂遺跡の竪穴群はそのなかでも最大級の規模と密度を有する例として知られている。

1974年(昭和49年)3月12日、国の史跡に指定され、遺跡の保存と整備が進められた。

周辺は「ところ遺跡の森」として整備されており、附近には旧石器時代からアイヌ文化のものまで数多くの遺跡が散在している。



まずは、「ところ遺跡の館」に行きました。

中に入ると、ミニシアターがあり上記の常呂遺跡の話を分かりやすく教えてくれるような内容でした。



展示品もありましたが、私はこの遺跡を熱心に研究していた人達に興味がありました。



🌟「ところ遺跡」の保護に尽力した大西信武

大西信武は、明治32年(1899)富山県かたの開拓移住民として旭川で生まれ土木工事監督として大正13年(1924)常呂を訪れ道路工事に携わ
ります。
  
大西信武は、各方面の工事で遺跡を見てきたのですぐに竪穴だ、と解かり、町長や農夫などに保護を嘆願しますが理解してくれません。
常呂遺跡の発掘は、昭和32年(1957)から始まります。

大西信武は、その30年前から遺跡の重要性を唱え、自費で調査依頼を北大に6回、東北大に嘆願しましたが民間、個人の力は弱く結局未調査となってしまいます。

昭和29年(1954)東京大学、服部四郎博士がアイヌ語調査で常呂に来たとき、大西は服部博士に遺跡の重要性を訴え、その熱意が通じ服部博士から、東京大学考古学駒井和愛(かずちか)博士に伝わり遺跡発掘が始まりました。

昭和32年の栄浦第一遺跡から始まった発掘は、現在では東京大学常呂研究所の設置による研究者や、北見市学芸員の指導の下、ボランティアも参加して遺跡の発掘しています。
 


私達は、森の中にある竪穴式住居の再現のところに見学に行きました。



続きます。

コメント
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