真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第一章 天道の淵源 (一)天道と宗教

2021-11-06 22:50:19 | 天道の淵源

(一)天道と宗教

縁深くして数多い人類の中から選ばれた人は、真の面目が明らかとなり蔽われた心霊の眼を開くことができる時がきました。

稀有な尊い生死解脱の法を掴み得ることは人間として生まれて最も幸福なことです。

この決定的救いの瞬間を約束された時、孔子様は感激のあまり声を上げて、「明日に道を聞かば夕べに死すとも可なり。」と言われました。

これは、朝頃に道徳の話を聞けたら夕べにはもう死んでもよい、という普通一般的な解釈ではありません。

この場合言う道とは即ち天道の神秘・心伝を指しています。

一概に道と言いましても浅い深いの区別があって、生死の輪廻を断ち切り、聖賢の位に登り、一切の煩悩・苦厄を拭き払う段階になると通常の宗教行事や、並の道理説法や読経では到達できません。

「天機は時運に非ざれば降されず、地に非ざれば伝えられず、人に非ざれば授けられず。」永遠に霊魂を救い得る秘宝は容易に一般の面目に顕現されないものです。

地域にも深い因縁があります。正法を得るに適した土地でなければ伝えられず、人もまた祖徳厚く善縁の深い人でなければ授けられないものであります。

昔の聖人や仙仏は、かつて行者として修業していた折は、言語に絶する艱難辛苦を冒し、それを克服し、耐え忍ばれました。最先に人間の欲望の一切を断ち切り、名誉・利欲・権力・恩情・愛情・酒・色・財産・気煙を捨て去り、出家受戒して方々に明師を訪れ、あらゆる苦行難行をされ道を求め続けられました。

あるいは深い山の洞窟に入り、あるいは食事を断ち、瞑想座禅をされて、十数年、二十年の禅と荒行を断行されました。

又、俗塵に混っているとなかなか六根の清静が得られない為に世を隔離した幽谷か人里を遠く離れた森林に入って精・気・神の三宝を煉られたり、眼観鼻、鼻観心という坐行をして全精神の無我三昧をはかられました。

このようにして大勢のなかから、純無垢の一人のみ、密かに天命の真伝が授けられるもので、決して短期間や即席の修行でなし得られるものではありません。

この悟りの法眼が開かれた場合、人生の真諦は言うに及ばず、天地の化育に参賛でき、宇宙の妙玄にも通じ徹することができます。

つまり、あらゆる森羅万象、宇宙全体を左右する源動力であり、われわれはこれを「無極の真理」と申し、つまり天地万物を創造し、日月星辰を運行される根本であります。

宗教道徳は人間処世の間の在り方について、その方法と指針を教える役割を果たすのみであります。これによって人道的宗教の教えは、この大真理の一部であることを知ることができます。

孔子様は天道と宗教をこのように比較されました。「天の命これを性(たましい)と謂い、性を率いるこれ道と謂い、道を修めるこれ教と謂う。」と、つまりわれわれの霊魂はひとしく天命によって生まれたものであり、従ってこの霊性を救うには道が必要であり、明師により心眼の点破を受けなければならないことを強調されています。

そして、この道に至るために修めるのが宗教であります。

要約すると、

宗教とは、人格の完成を期し、霊魂の救いの法を得るに至る段階であり、

天道とは、完成者・純熟者に法を与えて生と死を超えた境界、すなわち理天へ至らせる法であります。

釈尊は、宗教を筏に喩え、天道を彼岸に準(なぞ)られました。筏は彼岸に至る道具であり目的ではありません。

宗教は、天道に至る道程であり、方法であり、手段であります。

結局最後には天道の至法によってこそ、父母未生以前の真の面目を得ることができます。

ですが、宗教を決して天道と別個に考えるべきではなく、天道という頂上に至る数多い登山口の一つです。

頂上に至る道はなにも宗教に限ったことではありません。

日常一般の中にもあり、もろもろの道も結局は山の頂に至る途上であります。

一朝、悟るところあって放心を求め、そして「真の自分を覚る」、すなわち真の自分を自覚すれば、天道に到ったと言えるのであります。

道教・仏教・儒教ともに聖道・天道を根幹として教えを立てられたのであります。

老子様は「修心煉性・抱元帰一、つまり、心を修め性を煉り、元気を抱き一を守る。」と申され、

釈尊は「明心見性、万法帰一、つまり心を明らかにして本性を見、すべての天性を養い、すべての法を一に帰す。」と申され、

孔子様は「存心養性、執中貫一、つまり本心を存念し、天性を養い、中道を執り一に貫く。」と申されました。

この三教は言葉と工夫が異なっていますが、その根本原理は同じく一つであります。

人間の本性は本来無極の真理、すなわち天性で純善でしたが、生まれ落ちた後において物欲のために清く、円く、美しいはずの性(たましい)がだんだんと蔽(おお)われて質性となり、本来の純円を失うに至ったのであります。

例えば、太陽は常に雨の時も曇りの時も照り輝いていますが、われわれの眼の前を雲が遮り太陽を見ることができないのと同じです。人に置き換えていえば雲は欲と迷いで、それに遮られて明るい天性を見ることができないのであります。

続く

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