真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第八章 天道の修道法(二)内功の行法ーその2

2024-04-20 17:55:16 | 天道の淵源

(二) 内功の行法ーその2

内功の修行には常に正しい法に基づき、勤勉にして怠りない態度で臨む必要があります。

自分で求めた法が果たして正しい古法からのものであるか、冷静に綿密に検討すべきであります。

丹経に、「修得真道成仏祖(真の道を修得すれば仏祖なり)、盲修瞎煉空受苦(盲修瞎煉は空しく苦を受ける))真なる道を修めていれば仏・菩薩に成就するが、盲滅法な修煉をすれば真丹が結ばれず徒労に終わるのみとの意味です。

玄関の扉が開かれないと中心を得られないから、坐っても霊光の輝きがあるはずがありません。

よく坐禅や瞑想の中に神仏の姿が現れて見えたり、その声音が聞こえたりすると聞きますが、これは自己の霊気が流れて識神が竅(きょう:穴)から出たのであって、決して元神の出竅ではありません。

理天は無であり声音を超えたものです。

五行五音となって感受するのは、気天・象天の界外から脱け切れない証拠です。

従って識神の出竅はまだ輪廻の中に在り、因果の縛りの中にあります。

元神が顕れないと解脱できません。

坐功の坐の字は、「二人が一つの土を共にする」と示し、土とは玄関のことで、中央・中心に位いしています。

浄土・方寸の土で、二人の人は二目(にもく)のことで、常に此処から離れてはなりません。

横輪(よこわ)に循環する眼神と耳神に竪輪(たてわ)に循環する鼻神と口神が交わった接点、此処が坐禅の究竟地(きゅうけいち)であり統一点です。

この場所に明師の開竅があれば何十年の工夫を一朝にして可能にすることができます。

たとえ場所を知っていても天命のある師の鍵がなければ心神をその接点に統べることはできません。

平素、事無き時は静かに独り坐して軽く瞼(まぶた)を閉ざし、眼でもって視、耳でもって聴き、全霊をそこに集中して散乱させないようにすべきです。

眼で視るのを「外日月(がいにちげつ)の交光(こうこう)」と言い、耳で聴くのを「内日月の交光」と言います。

この一竅は千万の黄金・利益・財産に勝ります。

仙仏は此処によって成道でき、神聖は此の竅の練熟によって極楽天界に帰られました。

万巻の経典は皆この一点に帰着すべきことを暗示・証明しています。

儒教の書に「常目在茲(じょうもくここにあり)」とあり、道教の書には、「機在目(きはめにあり)」とあり、仏典には、「心目の所在」とあります。道は眼前にあり、機密法は我々の面目に蔵してあり、咫尺(しせき:わずかな距離のたとえ)の間にあるのです。

正法眼蔵の字義をよく考えれば、玄関は妙智慧の源であり、全霊の集中度の強弱が毫光(ごこう:毛のように細い光が四方にさす)の輝きの明暗に関連してきます。

一竅が開かれれば泉の湧くごとく霊智が増し、百竅が呼応して開いてきます。

先天の玄機は全てこの一点に蔵(ひそ)み、一切事に自在に応じられる原動力です。

そこが自性真人(じしょうしんじん)であり、無相菩薩であり、点破された途端に自在菩薩を全心霊でもって観ずることができます。

これが観自在菩薩であります。全身皆仮の中に唯この一点だけが真如で、斯の関門が開かなければ霊魂離体の路が塞(ふさ)がれます。

正門が閉塞されれば依然として霊は眼耳鼻舌の偏門から出なければならず、結局は四生六道の輪廻から逃れられません。天道の真髄を得た人は平素暇あれば守玄の静法を心得るべきです。

常に静を維持できれば道から離れることなく、念々這個(ねんねんしゃこ:これらをいつも思っている)から遠ざかることなく、性格的に凶悪・粗暴にならず、性質も驕傲(きょうごう:おごりたかぶる、いばりかえる)・高慢にならず、心理的に恐怖・煩悩・喜怒哀楽愛好欲等の七情の欲しいままに邪念・妄想に流される心配はなく、すべてが穏便に中和して偏ることがりません。

喜怒哀楽は感情であり、その未だ発せざるは性です。

人が未だ外物に接しない時、天性が渾然(こんぜん)として偏る所がないから、これを中と言います。

この外物に感じて発して情となる時、その正を失わず、皆その節に中(あた)る為に、これを和と言います。

中は体であって、和はその用です。

体が中でなければ発して和となることはできません。

その用が和となるのは、その体が中なるがためです。

中は性の徳、道の体であって、寂然として動かないが、一切のものはみなこれに具わり、天下の万事万物はことごとくこの中を根本としないものはありません。

人身の中が玄関でありますから、此処に霊気を集中した時に無限に性を発揮できる訳であります。

内功の修行として昔からの行者は、体内の精・気・神の三宝を鍛錬することを必然としています。

後天的の行法ですが、我々も知るべき必要があります。

精を練って気に化すとは、体内の精力・精血を家族生活の中の肉体享楽のために費やさず、坐禅の功によって体内に循環させて元気に化すことです。

液体は熱または圧力の作用で気体になる訳ですが、静かに呼吸を整えていれば順化して、その気は高い浩然性を帯びてきます。

この血気の化合が純であれば善に、悪ければ悪い気質へと変じてしまいます。

この鍛錬された気を遣わず、更に法輪を転じていれば気を練って神と化す行となります。

よく気が落ち着かない、気を遣う、気を失う、とはこの正気を神化させない前に中途で費消してしまうことで、呼吸作用の調整で気を凝固させるべきで、気が長い、気が短いとは、順調に体内に循環しているか、いないかによって影響します。

この気が神と化して霊気となります。

精神とはこの精気によって変化した神を指します。

旺盛な気によって変化した神は旺盛な精神となり、豊かな気力によって進化した神は豊かな気性・気分となって周囲を潤します。

気性の激しい悪い人は多分に循環の度合いに欠陥があり、散漫があるからです。

さらに気を練って虚に還るためには、並々ならぬ苦労・難行を重ねて行かねばなりません。

精気神を人身の三宝と言ってこれを排泄散漫せず、法輪循環の様式で鍛錬して強大な霊神に修めあげてゆくのが古来からの修行法で、鍛錬の課程にいささかでも隙があると魔障が忍び込んで破壊してしまいます。

遂には邪に偏ったまま成長して人々を間違った方向に誘います。

直立の樹は正しく上に伸び、歪み曲がった幹や枝は拈(ひね)った方向へ反れて生えます。

これも玄関という中心を得ていないために、法輪の回転に純円を得られないからであります。

明師の開眼を得れば、我々は心神を一点に集めて呼吸を整えるだけで無意識の中に自然に霊光が輝き、円通無礙の状態に成就しますが、後天の修行法には中心を示されていないから、土台を積み重ねる状態で九節の玄功を修めて行かねばなりません。

念のために、述べて参考に供しますが、九節の玄功とは築基(ちくき)・練己(れんこ)・採薬(さいやく)・得薬(とくやく)・進火(しんか)・烹煉(ほうれん)・温養(おんよう)・沐浴(もくよく)・退符(たいふ)の九つの節を完璧に修め上達を計る方法です。

人間初生以来、盲念をもって事に用いる故に雑念を去り、心猿意馬(しんえんいば)を調伏すべきであるとの目的からこの行を始め、終わりには神通の自在を得て心身を一如にし、端座したままで霊は遠隔地へ至ることもできるまで修めます。

従ってこの行をなす者は、準備として家庭の係累に纏われないようにすること、専心一意この行のみ励むこと、飲食・睡眠を定め、四時に照らして坐功をなすこと、三厭五葷(さんえんごくん)の食を断ち、腹中五蔵六腑の濁気を消滅することなどの戒めを前提としなければなりません。

三厭とは、飛禽(ひきん:鳥類)・走獣(そうじゅう:獣類)・水族(すいぞく:魚類)の生命ある魚肉類であり、五葷とは葱(ねぎ)・蒜(にんにく)・辣(らっきょう)・朝槻(あさつき)の五種類の玉根菜・葱類で、これらが体内にあると五臓が傷つけられ、五気が駆遂(くつい)・冲散(ちゅうさん)されるからです。

刺激の強い食物や酒・煙草類も坐行によくないので除かれています。

このように態勢を整えていれば、九節の玄功に効験が著しく現れてきます。

そして坐布団を平らに敷き、向きは風水の陽に面するがよく、姿勢は端座にし、背骨は垂直にして曲げず、足は左の趾(あし)を右の股の上に置き、右の趾を左の股の上に交叉して置く全跏趺坐(ぜんかふざ)や、右の趾を左の股の上に置き、或いは左の趾を右の股の上に置く半跏趺坐(はんかふざ)にして坐ってもよく、舌先を上顎(うわあご:天橋)につけ、大小糞口(だいしょうふんこう)を閉ざし、任脈(にんみゃく)・督脈(とくみゃく)を貫き、子午相対(しごあいたい)して初めて調息を始めます。

九節の玄功の築基を説明します。

(1)築基・・・これは純善なる聖体を養成し保持するために基礎を築く大切な修行です。建築にたとえれば土台を築くことであり、聖体を樹にたとえれば地中に張った根に相当し、基礎が完成されているか否か、根が深いか浅いかによって成長が違って来ます。心構えとして人間生活に徒(いたずら)に精血を飛走せず、凡心を滅して純正な心を築くことです。

(2)煉己・・・これは克己(こっき)の功であり、人欲を煉り、妄念を起こさず、心を動かさず、人の模範となるべく自分の姿勢を正し、自己完成を重視して道気を凝結させることで、これによって本来の性体に帰り己を厳しく煉ります。

(3)採薬・・・これは本来の虚無の気を吸い、濁精を元精に帰す行のことです。精気神の三宝によって結ぶ所の一点の元陽・真精を採取して原(もと)に帰し、薬苗を培養することです。

(4)得薬・・・これは精の化した真気、つまり薬物を浄化して静中より甘露が丹田に降りるを求め、心身が一体となり、水火相融合した状態です。水は智、火は情でありますから理智と情愛の兼備した姿です。

(5)進火・・・これは真気の薬苗を精神力・真意の工夫を用いて回り転ずることで、尾閭(びりょ)・夾脊(きょうせき)・玉枕(ぎょくちん)の三関と九竅などを貫通させて全身に周流させる法輪の行です。霊気を火に譬(たと)え、盛んなることです。

(6)烹煉・・・これは進火により真霊を源に帰し、虚無の気によって米を焚くように始めは強く、後は緩慢(かんまん)な火にして煉りあげ、真気の薬苗を霊台に煮つめ、九曲の明珠を鍛煉して丹を結ばせます。

(7)温養・・・これは真気を散らさず、常時温めて保守することです。真気の薬苗を呼吸の調節によって竜が珠(たま)を含み、鶏が卵を抱くが如く、無思無念、文火ヲ用いて聖胎を養い純陽の乾体(けんたい)に仕上げます。

(8)沐浴・・・これは真気の聚(あつま)りをもって身を沐浴し、純陽体に洗滌(せんてき)することです。金丹舎利(きんたんしゃり)の元気は結ばれ、沐浴して塵埃を絶つと識は転じて智となり密となります。

(9)退符・・・これは元気(道胎)が凝結し、本性が未だ円明に至らない時、身中にある陰気を退けることです。道胎を保持できれば陽神は出で、神化して胎を脱します。これを結果(果を結ぶ)といいます。

以上が九節玄功の簡説ですが、玄関を開かれれば九節を一円として順転し、途惑うことはありません。

法輪の体内における転じ方は、

『虚無の穴から清気が運ばれて勺鵲橋(じゃくきょう)に昇り、重楼に降り、降宮を経て丹房を過ぎ、方寸に転じて尾閭(びりょ)に入り、夾脊関(きょうせきかん)から玉枕関(ぎょくちんかん)に通り、通天に透(とお)って七宝に落ち、宝蔵に入り、鉄鼓(てつこ)を穿(うが)ち、須弥(しゅみ)に通り、山林に進み、霊山に至る。』と達摩宝巻にあります。

小さい体内を大宇宙に準(たと)えて修煉する行者は、この長い里程を一歩ずつ辿る心構えを固めていました。

内功守玄の初歩として始めは坐して自性を観ずる所から心掛け、遂には行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の動静を問わず心性の統一集中ができるようにします。

限界は意識界に反応するので、意識界を無にするために眼膜を閉ざし、影像の映るのを遮断します。

もし意識界を常時、空寂に融合できるなら立ち上がり、手足を動かし、眼耳鼻舌を大いに動かして事物と接しても差し支えありません。

内の心の清静帰一を求めるがために、外の体に刺激と苦痛を与えてその加速を計ろうとしている荒行の所以は此処にあるのですが、我々には玄関という標準目標がありますから、此処に心神と呼吸を整えていれば難なく霊光の充実が得られます。

続く

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【Ray:古代から母なる源を求... | トップ | 性理題釋~十七、金鶏三唱(... »
最新の画像もっと見る

天道の淵源」カテゴリの最新記事